どどっと来た春 クリスマスローズの庭 大らかな新堀川の桜
連日の好天、春はどどっとやって来ました。
本日の樹下美術館は男性が沢山こられたそうです。
樹下美術館では男性がみな好男子に見えてくるといいますから、不思議なのです。
今年はセールで安くなったクリスマスローズを沢山買いました。
勉強して大株になるように育て、樹下美術館の名物にしたいと思っています。
本日、ボタニカルアートを描かれるY子さんがスケッチにこられました。
いつもほくほく線に乗って来られますが、今日はカフェで食事もされ5時間も滞在されたそうです。
スケッチの一枚を頂戴しました。
滑らかな線、安定した構図、詳細な観察、とても感心しています。
記念に館内のお声ノートに貼らせて頂きました。
さて本日ブログのヘッダーを春向きに替えました。
近くの新堀川公園の桜です。
一帯は雪が少ないため樹形が大らかでとても気持ちが良い花所です。
樹下美術館からゆっくり歩いて10分、一週間後ほどで開花でしょうか。
開花の具合を樹下美術館にお尋ね頂き、どうか一度ご覧下さい。
鉄ちゃんではないけれどその4 修学旅行で蒸気機関車に乗ってはいけなかった。
一昨日は小生の中学時代、1956年(昭和31年)の修学旅行中に級友と起こした騒動を書かせて頂いた。
当日私たちの列車を牽引していた蒸気機関車に乗った事をある種冒険のように書いた。
しかし二日経ってどこか違うのではないかと、気になってきてあらためて思いを巡らせた。
特に陸上競技に優れた明るいA君の「叱られてトラウマになった」という一言が重さを増した。
考えてみれば次のような疑問が浮かぶ。
疑問1.機関車の運転士は果たしてすんなり同乗させてくれたのだろうか。
疑問2・何故私はA君のことをすっかり忘れていたのだろう。
疑問3・何故A君だけ強いトラウマを生じたのだろう。
疑問1だが、二人で先頭の機関車を見に行ったのは良いとして、問題は乗車の経緯だ。
「乗せてほしい」と訊いた時点で、機関士は少なくとも「先生に聞いてきなさい」と言うのが普通ではないのか。
どうしても乗りたい私たちは(少なくとも私は)は、果たして先生にちゃんと相談したのだろうか。
これに関して、機関車から仲間たちが居る客車に向かって懸命に走るシーンがぼんやり浮かぶ。
走りながら「先生に言わなければいけない、でもどうしても乗りたい」という葛藤があってもおかしくない。
担任、特にB先生は機関車に乗ることなど絶対に許さないはずだ。
皆の所へ行き生徒だけにt告げ、機関車士には「先生に言ってきた」と(私が)嘘をついたのではないのか。
となれば事の善悪は明らかであり、冒険は罪に変わり気まずい空気が生まれた可能性がある。
生徒は担任に話し、厳しいB先生は特に怒りに燃えただろう。
列車は走り出し、私たちが乗った機関車には誰も近づけない。
楽しかるべき修学旅行列車は、
逸脱した二人の少年とやや困った機関士と、先生の怒りと生徒たちの緊張を乗せて、長い垰を走ったと思う。
ようやく停車して席に戻ると説教が待っていた。
私たちは愉快犯でなく、確信犯として扱われたに違いない。
A君がくしくもトラウマになったと言ったのは、人格まで攻撃されたからだろう。
行ったり来たりの反すうの結果、次の答は以下のようになった。
疑問2、何故私はA君のことをすっかり忘れていたのだろう。
→彼に掛けた迷惑や、彼の受けたひどい叱責ショックを早く忘れたい、と願い続けた。
疑問3.何故A君だけ強いトラウマを生じたのだろう。
→二人の鋭敏さの違いもあろうが、どうしても私には激しく叱責された記憶がよみがえらない。
学年は2クラスで担任が二人、A君が言ったように彼は厳しいB先生に、もしかしたら私は幾分温情のC先生の説教を受けた可能性がある。
となるとこの件でA君と私では、受けて残ったものが少し違っていたのかもしれない。
私にトラウマらしきものがあったとしたら、
「彼を共犯者に引きずり込み傷つかせた事への恨悔」しかない。
半年後私たちは同じ高校へ進学し、クラスは別々になった。
それから2年経って私は結核に悩まされ、忘れたい事件は病に取って代わられた。
一年の留年と浪人の後、病が癒えて大学に進み、様々な時が過ぎ、願い通りに相手の名前を忘れていった。
これに対して正直なA君は健康的にトラウマと向き合い見事に克服したのではないのか。
人間は忘れたいことを忘れる、と聞いたことがある。
いずれにしても60年前のことなので風化はやむを得ない。
しかし芯ぐらいは残っているのではないか。
今夏の同級会で会ったらとにかくA君に謝ってみたい、彼はどんなことを述べるだろう。
鉄ちゃんというわけではないけれどその3 60年前の修学旅行の逸脱。
1956年(昭和31年)10月、中学二年生の私たちは関西旅行に行った。
行き高田発5:45→19:37京都着、帰り大阪発20:12→翌日9:08高田着と「修学旅行のしおり」にある。
当時の北陸本線は蒸気機関車で、片道13~14時間かかっている。
ところで、私が通った中学校は新潟大学教育学部付属高田中学校という長い名前の学校だった。
学業と品行、それに戦後らしい自由さの側面も重んじられていた。
品行で言えば、学内に「風紀委員会」が、さらに「懲罰委員会」まであった。
ある新任教師は着任の挨拶で「この学校に来て大変驚いたことがある、
懲罰委員会という恐ろしいものがあることだ」、と嘆くように語った。
そうかと思えば、「二十四の瞳」だったか映画鑑賞の時は、
映画館までの道のりを男女手をつないで歩くように言われた。
二年生秋の修学旅行は、何事も一生懸命な学校の最も重要な行事だったにちがいない。
今見る旅行のしおりには、詳しい見学先の説明と厳格な行動規律が沢山並んでいる。
「班ごとに行動せよ」は今でもどこでも変わりないことだろう。
その大事な旅行の車中で、私は早々にある級友と大目玉をくらう行動をした。
それなのに時が経ち、いつしか逸脱の相手が誰だったか、思い出せなくなっていた。
ところが2007年6月樹下美術館を開館して間もなく、高名な外科医になっていたA君が訪ねてきた。
「中学校の修学旅行の途中で機関車に乗ってしまい、物凄く怒られた。誰かと一緒だったと思うが君じゃなかった?」
と言った。
忘れもしない私も誰かと私たちの列車を牽引する蒸気機関車に乗った。
しかし誰とだったのか、すっかり忘れていたのだ。
まさかA君とだったとは。
「戻って延々と怒られたよな、その時の説教は後々までトラウマになったほどだ」とA君は言った。
修学旅行の列車は敦賀かその先の駅で長時間停車した。
退屈していた私と誰かはホームに降りて先頭の機関車を見に行った。
そこで乗っみたいと、機関士に訊いたのだろう。
機関士は乗せてくれ、あまつさえ発車後も同乗させてくれたのだ。
区間は険しい山中、思ったより広い室内で機関士たちは忙しかった。
そんな所へ生徒二人が入ってきて迷惑ではなかったのか。
それでも大きなシャベルで何度か石炭をくべさせてもらった。
トンネルをくぐって大いに煙を浴び、石炭ガラが目に入った。
ようやく停車した駅で降り、ある種ほうほうの体で席へ戻った。
顔はススだらけ、石炭ガラに悩まされた目は真っ赤だったと思う。
どうしたんだ、みんなで探していたんだぞ、級友たちの声が聞こえるようだ。
無理も無い、班が異なる生徒が二人車内から消えてしまったのだから。
事故や駅への置き去りなど真剣に心配されたことだろう。
A君は特にB先生から激しく叱責されたという。
不思議なことだが、私はそれほど強い叱責の記憶がない。
鈍感だったのか、あるいは幾分優しいC先生の説教だったのか。
A君がトラウマになるほど叱られたと聞いて、非常に気の毒に思った。
もしかして全て私が言い出したのではと、自責の念まで交錯した。
不思議なのは、あれだけのことをしたのに相手のことを忘れてしまっていたことだ。
「君と一緒に機関車に乗ったような気がする」
懐かしい級友の突然の一言は、疑問を一瞬に晴らした。
60年前の共犯者がA君で良かった。しかも名医になったのは見事なトラウマ返しではないか。
「同級生が美術館をやるのを誇りに思う」と彼は言った。
今夏久し振りに開催される同級会の知らせが届いている。
今から楽しみだ。
ちなみに、「修学旅行のしおり」に、一升五合の米の持参、お小遣い800円などとあった。
〝出来るだけ標準語を使うように努力しよう〟
〝ニックネームは言わないこと〟などがしおりに書かれている。
硬い八つ橋と抹茶の修学旅行みやげ。
先日京都へ修学旅行に行った中学二年生の孫がお土産を持って来てくれた。
八ッ橋と小山園のお抹茶だった。
八ッ橋は私の好きな硬い方で、なんていい娘なんだろう。
ちゃんとした抹茶といい、今の生徒さん達のお小遣いはいくら位なのかな。
その昔私の中学二年生の秋に就学旅行に行った。
帰路の夜行列車泊も入れて4泊5日、関西の十数カ所の社寺を回った。
レポートもあり、一応真剣に見たので思い出は疲れの中でぼんやりしている。
京都の宿「高田屋旅館」に舞妓さんが来て祇園小唄を舞った。
その唄をいいなあ、と思って2番まで覚えた。
ニッキが香るパリパリした八つ橋は今でも好物。
次回は60年前の私たちの修学旅行に触れてみたいと思います。
潟町小学校分校のクラス会 同級生たちはみなきれいな字を書いていた。
本日二日続きの好天に小三まで一緒だった1948年入学、潟町小学校分校のクラス会があった。
地元に残った少人数が集まっているので、何とか毎年続いている。
ことしは15人が潟町駅に集合して送迎バスに乗り、日本スキー発祥の地・金谷山の「対米館」へ向かった。
すっかりきれいになっていた潟町駅の待合室にあったステンドグラス。
人魚伝説の駅に合っている。
対米館到着後、短時間の金谷山は早春散策。
日本にスキーを伝えたオーストリアの軍人レルヒ少佐の像。
私も含め皆初めて見たと思われる。
部屋にあった上越市出身、1936年・第三回芥川賞受賞作家小田嶽夫の色紙。
帳場にあったレルヒ少佐自筆の油彩。
故国の冬であろう、雪山の輝きが大変美しく、ふる里への愛情が伝わる。
途中でこの度の出欠通知ハガキが回された。
伝言の記入もあったが何より驚いたのは、みな字が上手だということだった。
上手な書字は社会で如何に懸命に頑張られたかを物語るようでじんと来た。
毎年のささやかな集まりは本当に何気なくて良い。
新幹線は〝第三潮流〟 観光客と旅人 そして樹下美術館。
北陸新幹線が開業して一週間、一昨日は上越妙高駅とはくたか号を見た。
列車外観と駅はかつて見た新幹線のどれよりもはるかに洗練されていた。
そのため輸出用のモデルにもなっているのでは、とまで思った。
あまりに立派で自分が恥ずかしくなったほどだった。
これで好むと好まざるを問わず当地も文化、文明の最先端と関わることになった。
乗るのも、迎えるのも相応の理解と認識が求められよう。
間違いなく信越、北陸地方に〝第三潮流〟(最後ののうねりが)が来たのだ。
(※最終潮流→第三潮流 3月22日に変更。新幹線の延伸を、戦後復興→高度経済成長期に次ぐ第三の文化経済潮流としました)
それに付いて行けるか押し流されて終わるか、北陸新幹線の第2ラウンドが始まる。
通勤のほかに新たな人の出入りも考えられる。
旅行者と言えば観光客と旅人の二つのニュアンスがあろう。
観光客は大小のツアーでメジャーなスポットを回る。
旅人はおもに一人旅、あるいは二人などで旅情に任せて気ままに歩く。
観光客は目立つが旅人も無視できないカテゴリーにちがいない。
当地においても場所によって訪ね方に違いを生じるような気がする。
妙高市の山並みの風光は旅人、巨大リゾートやスキーは観光。
上越市の町並みと里は旅人、花見・蓮・謙信公・佐渡は観光と言う風に。
当然これらは一概に分けられるものではないし、ミックスもあろう。
それでも伝え方や迎え方に違いと工夫が必要ではないだろうか。
ちなみに樹下美術館は上越妙高駅から遠隔の田園に位置している。
越後トキメキ鉄道やほくほく線、あるいは在来の信越線の乗り継ぎは旅人向きだ。
いつかそれらを利用してやって来られる人を迎えることが出来れば、とても嬉しい。
北陸新幹線の上越妙高駅で「はくたか」を見た。
午後休診日の本日、夕刻近くに北陸新幹線の上越妙高駅を見に行った。
出来たての駅は汚れ一つ無い。
ホームは清潔なホワイト系、通路や広場、待合室や売店などはウッディにコントラストされている。
上下のはくたかを見たが、ピカピカスベスベで魅力的だった。
入線してきた上り(東京方面)はくたか.。
ほくほく線(北越急行)では越後湯沢方面の「はくたか」は下りと呼ばれていた。
運営会社の拠点が金沢市のため一般に考えられる上り下りが逆だった(途中で知りびっくりしました)。
あの「はくたか」が今ここに。
はくたかに付いていたシンボルマーク「JR EAST JAPAN RAILWAY COMPANY」はJR東でE7系。
「JR WEST JAPAN RAILWAY COMPANY」ならJR.西でE7系
形式のE7、W7両系は所有する東西JRの違いだけで、実際の様式は同じ。
下り金沢行きはくたかの最後尾から(北越急行では上り)。
あまり考えつかない配色だが、ブルーとカッパー(銅色)は意外な好印象を受けた。
雪国のさわやかな青空と銅色の和(なごみ)感が確かに伝わる。
ただ期待していた出発メロディ「夏は来ぬ」は、列車の動力音に消されてしっかりと聞こえなかった。
とても残念である。
さてふんだんに使われている駅舎のガラスは手入れを怠るとすぐに汚れる。
手抜きはすぐガラスに現れるので、大変だと思うがどうか根気よく磨き続けてほしい。
もう一つ、駐車場は拡張されるのだろうか、ぎりぎりだったので週末が心配される。
ほかに工事中の場所があればいいのだが。
本日来てみてまだ異国の錯覚を受ける。
速達でなくても構わないが、出来れば早く乗ってみたいと思った。
(旧はくたかと涙ながらにお別れしたばかりなのに)
これからが本番、もう3回目の出張という知り合いに出会った。
早春の庭 上越に新幹線が走るとは未だ信じられない。
うっかりストーブを消したままで急に寒さに気づく。
風邪に気を付けなくては。
そんな寒暖の季節、以下のような樹下美術館の花はみなけなげです。
先日は庭だけご覧になった方がいらっしゃいました。
歓迎です、是非可愛いクリスマスローズやトサミズキを見てやってください。
さて、まったく追いつけない我が家の北陸新幹線ブーム。
先日電気屋さんから頂いた富山のお菓子屋さんのパッケージは良く出来ていました。
実は開業の日に、発車チャイムくらい聞こうと新駅に向かってみたのですが駐車場にも入れずに帰って来ました。
本来の目的と少々違うような気もしましたが、イベントというのは凄いものですね。
明日午後の休診を利用して駅と列車を見て、ぜひとも「夏は来ぬ」のチャイムを聴いてみたいと思っています。
その前に、ちゃんとホームまで行けるか心配です。
出来れば轟音と共に通過するであろう「かがやき」の迫力とスピード感も期待しています。
新幹線が、それもピカピカの最新型が上越を走るとはいまだに信じられない感じです。
何気ない夕暮れの贈り物 佐々木忠さんのギター演奏会。
本日火曜日は樹下美術館の休館日。
晴天、無風、20℃にもなった暖かさ、三拍子揃った良い日の休館は勿体なかった。
すっかり日が長くなり夕陽が楽しめるようになった。
一見何もない夕暮れの四ツ屋浜。
しかし、夕もやの光があり、果てしない大気があり、ゆっくり過ぎる時間があり、
なんだかんだといいながら自分がいる。
ふとした時間でも中身は十分だ。
ルネッサンス、バッハ、佐々木氏への献呈曲、そして浜辺の歌まで。
ドイツの音楽大学教授として多くの演奏者を育てられた佐々木氏。
ギター本場の音色が樹下美術館のすみずみまで美しく響くことでしょう。
〝お申し込みはお電話 025-530-4155 でお待ち致しています〟
どうか良い明日でありますように。
鉄ちゃんというわけではないけれどその2 昭和34年9月8日の三等寝台券。
私の切手帳に二枚の寝台券が残っている。
昭和34年(1959年)9月、高校三年生の夏休みが終わったばかりという時期、父と上京した時のものだ。
上京の目的は、父の母校の大学病院へ行き、前年の春に見つかった私の肺結核を手術するか否かの判断を仰ぐためだった。
続けていた服薬と切り替えた注射薬カナマイシンの効果を問うことでもあった。
昭和34年9月8日、21時42分直江津発の三等寝台105、106番下段の特殊補充券。
父とは向かい合っていたと思う。
よく眠れずに上野に到着したのではなかったか。
非常に苦手だった父と一緒の上京。しかしそれが苦痛だった記憶が無く、道中の父は優しかったのかもしれない。
早朝上野からの国電は空いていてパラパラと居る通勤客はとても疲れているように見えた。
目黒で目蒲線に乗り換え、大岡山で降りた。
姉が居る石川町の小さな家に向かったが、朝日の道を歩きながら「9月になっても暑い」というような会話をしたように思う。
翌日だったか、信濃町の病院で断層X線撮影などの検査をした。
仕事がある父は早く帰った。
検査の結果は手術の必要は無く、現行の治療続行で良いという結論だった。
日本が世界に誇ることになる新薬カナマイシンの効果が出ていたのだ。
この時私は一才年上の従兄弟と後楽園球場で王、長島の試合を見るなどして一週間も滞在した。
決定の経緯はよく分からないが、残りの2,3学期を休学して治療に専念、来春もう一度三年生をやり直すことになった。
このことで焦るばかりだった気持ちが落ち着くのを感じた。
一才年下の弟と同学年になることなどの我慢は仕方が無かった。
ただ美しい英語教師A先生の許へさらに一年通えることだけは嬉しかった。
今年の始まりは晴天に恵まれた。
今日今年の開館日は良く晴れました。
およそ閑散で始まる樹下美術館ですが、本日30数名のお客様は近年の記録でした。
窓外の水盤には雀の群も飛来して遊んで行きました。
展示やお渡ししている短い作品解説も好評で、皆様には賑やかにして頂きました。
明日、樹下美術館は本年の開館です。
長らくお待たせ致してましたが、樹下美術館は明日から今年の開館です。
今年の倉石隆は「倉石隆の男性」、齋藤三郎(陶齋)は「陶齋の鉄絵と色絵」の展示です。
●「倉石隆の男性」:氏の描く男性は老人や子ども以外はおよそもじもじしたり、沈黙したり、寂しそうだったり、ともすれば滑稽です。美しく描くより本物を描きたい、という倉石氏。このような描き方は氏の骨頂でありましょう。「自画自賛」を嫌った氏独特のダンディズムを感じますが、如何でしょうか。
●「陶齋の鉄絵と色絵」:鉄を主成分とするうわぐすりや顔料を用いて製作されるのが鉄絵です。窯炊きの条件や鉄の濃度などで黒、茶、緑、黄色、赤などに発色します。一見地味ですが、器は落ち着いた風合いを見せます。一方色絵は多色を用いて絵付けをしますが、陶齋の色絵は華美に走らず上品です。氏は様々な技法を自在に駆使しました。
展示作業を終え皆様に差し上げる資料を刷り、カフェや庭はすっかり整いました。
カフェだけのご利用もOKです。
クリスマスローズの「ニゲル」という種類です。初めは真っ白ですが、次第に赤っぽく色が変わります。
この種類だけの庭もいいだろうなあ、と思っています。
雪が溶けたばかりですが早くも庭のヤブコウジの端でイチゲが咲き始めました。
カフェの正面の木立の中にクリスマスローズを移植したり新たに植えたりしました。
まだ寒い庭ながら、きっと目を楽しませてくれることでしょう。
どうか本年もお楽しみに。
何卒宜しくお願い申し上げます。
はくたかは雨降る夜に立ち去りぬ 渡り鳥なら帰れるものを。
ラストランとなる22時7分着発金沢行きほくほく線(北越急行)特急「はくたか26号」を直江津駅で見送って来た。
昨日まで何をすればいいか決めてなかったがやはり行った。
大勢のファンが集まり、ありがとう、さよならの声の中、混乱もなく静かな別れだった。
現場では、任務を終了しJR西日本側と交替して降りた乗務員さんたちを撮ろうと決めた。
出発の時、皆さんは敬礼し、走り出した最後のはくたかに手を振った。
白い手袋が悲しく見えて目頭が熱くなった。
〝皆さん、何度も何度もお世話になりました〟
拙歌) はくたかは雨降る夜に立ち去りぬ 渡り鳥なら帰れるものを
ああ、そして伝統と栄光のJR(旧国鉄)直江津駅は本日で終了してしまった。構内のモニターに出ていた知らせ。子供の頃から思い出がありすぎて悲しい。
人との別れ以外こんな別れがあろうとは。
これからは元気を出して夕雲、夏雲、秋雲のほくほく線電車を撮ってみたり、
新しいえちごトキメキ鉄道や北陸新幹線に馴染めるようにしたい。
ほくほく線「はくたか」さよならの前日お弁当をもって見に行った。
明日で特急「はくたか」は、ほくほく線(北越急行)の運行を終える。
午後休診日の夕刻、ラストランを翌日に控え、お弁当を持って(本日は妻が積極的)沿線の田んぼへ出かけた。
三日続きの寒波で外は寒く、いずれも列車通過の度に窓を開けて撮った。
お店で買ったお弁当などを手作りの簡単な専用プレートに広げて列車を待つ。
およそ10分後、くびき駅方面がらはくたか18号金沢行きが現れる。
みるみる近づいて通過するはくたか18号。
寒波の為積雪があり、極地のような写真になりました。
高架橋の反対側へ出て18時半ころに下り21号を撮る。かろうじて車窓の灯が写った。
夕刻の1時間半、普通電車も見ながら3本のはくたかを楽しんだ。
遠くに列車の灯が見えた時、妻は涙が出そうになったと言った。
以下は過去のほくほく線を見ながらのお弁当。こんなことをしていたのは貧乏ヒマなしの私たちくらいなものでしょう。
しかしながら身近に味わえた楽しい旅行気分でした。
●一回目 2012年7月16日
●二回目 2013年6月4日
●三回目 2014年6月2日
いよいよ明日は、在来線日本最速特急「ほくほく線はくたか」さよならの日です。
どうすればいいのか、考えが浮かびません。
自然対人、人対人の災害 あと二日の「はくたか」は雪の中。
昨日この場に〝人間はあらゆる面で自然に依存しているが、自然は人間を相手にしていない〟と書かせて頂いた。
災害をもたらす地殻や気象変動の無慈悲な一面は、一方的な関係を完膚なきまで知らしめる。
だがどんな仕打ちがあろうとも、
自然(地球環境)は私たちを誕生させ糧を与え楽しませてくれる親のごときものだ。
私たちはその膝に乗り背中に抱きつき髪を嗅ぎ母のごとく慕い親しむ。
そんな親同然のものが突如私たち向けて圧倒的な力で攻撃に転じることがある。
まさか〝これを越えよ〟という試練の親心ではあるまい。
〝慢心をいさめよ〟という教訓でもあるまい。
厳しさと強大さに対してただ畏怖し、できればそこに学び懐かしむほかないのである。
3/11から5年目となった。あらためて地震津波と原発事故の違いを感じる。
前者は自然対人の関係だが、後者の因果は人の所業が関わっている。
放射線災害の特殊事情から、今もって10万もの人が4年経っても郷里を追われたままだ。
慕わしい親である海山を汚染させ人を蹴散らした。
歴史上恥ずべき事実である。
さらに、この程度の放射線などは怖くないから早く戻ればいい、と言う一群の人々。
冷酷な上から目線と他人ごと感覚には被災同胞への洞察も何もない。
利害が絡む人為災害のこのような側面もまことに悲しいのである。
ところで事故後の「避難計画」が原発再開の条件の一つらしいが、本気なのだろうか。
「さしあたりの逃げ方」の事のようだが、検討するほどに複雑膨大で幻と闘っているように見える。
しかも逃げた後からが大変なのに、「生活再建計画」や「帰還計画]、同時に一帯の「処理や復旧計画」などについて基本的な考えも出ていない。
重い責任当事者の異様な安易さである。
そもそも原発を稼働させるために「逃げる計画」が必要だという事自体、悪夢に近い。
近くの避難場所でなく、何十キロも遠くへ、ともすればふる里を捨てて逃げなければならないのである。
地域の将来にこんな惨めで愚かなことを想定しなければならないとは、
一体何のために生きて税を払ってきたのだろう。
もう根本から考え直すべきであろう。
この國の知恵と力の全てを出して舵を切れば、真に安心な将来はきっと実現出来ると思う。
あと二日のほくほく線「はくたか15号」。
施設の帰り道、強風と雪で遅れたがしっかり現れた。
- 仏像、社寺、二十三夜塔、庚申塔
- 樹下だより
- 齋藤三郎(陶齋)
- 倉石隆
- 小山作之助・夏は来ぬ
- 聴老(お年寄り&昔の話)
- 医療・保健・福祉・新型コロナウイルス
- 花鳥・庭・生き物
- 空・海・気象
- 頸城野点景
- ほくほく線電車&乗り物
- 社会・政治・環境
- 明け暮れ 我が家 お出かけ
- 文化・美術・音楽・本・映画・スポーツ・テレビ
- 食・飲・茶・器
- 拙(歌、句、文)
- こども
- 館長の作品。
- 暑い昼、会場の「ゑしんの里記念館」へ下見に。
- 穂高のオアシス「岳沢(だけさわ)小屋」の姪 山が好きなS氏 宮城県を経由した「お乳盲腸」。
- 野イチゴの赤い実 「ゑしんの里茶会」。
- 本日の蝶とカエルと雲そしてピアノ。
- 「お乳盲腸」とは何だったのか。
- 夏らしくなってきました。
- 36度にも届く暑さ アゲハと庭と薄茶で落ち着く。
- 保育園時代の記憶その1、巡幸列車のお迎え。
- 私の幼少 自他の個性が気になる。
- 糸魚川のゴルフ お孫さんの宿題から始まった花。
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- 開館の日 世界にまだまだある欠陥。
- 小津安二郎監督映画「晩春」を観て。
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