雨が降り、今度は梅雨に戻るのだろうか。

2022年7月12日(火曜日)

半ば諦めていた雨が昨夜から降り始め、綱渡りして命を繋いだ庭が息を吹き返した。

いっとき雨が止んだのを見て庭に出た

 

久し振りに雨に濡れたアプローチ。

 

 

いつしかキキョウが咲き、突然のようにムクゲが満開。

 

雨を喜ぶ風のテッポウユリ。

 

遅いアジサイ。

 

今の木と昔木だったベンチが雨を吸っている。

 

鳥まで活発だった。

降ったは良いが、予報は連日傘マークが並ぶ。せいぜい降ったり止んだりにとどめ、豪雨は避けて欲しい。

堀口すみれ子さんの講演会。

2022年7月11日(月曜日)

先週末9日午後3時から堀口すみれ子さんの講演会があった。2010年が1回目、2016年が4回目だった。これまで父であり詩人、フランス文学者、文化勲章の人堀口大學のひととなりと交友、上越市や葉山町の暮らしなど、時々でテーマを変えてお話し頂いた。

このたび樹下美術館開館15周年の記念講演の申し込みをお願いすると、5回目だから何を話したらよいやらと、すみれ子さんは逡巡された。
最後の講演から6年が経っています、初めての方も大勢さんいらっしゃいます。お話は繰り返し何度でもお聴きしたいと述べ、あらためて上越時代の堀口大學のこと、交友特に齋藤三郎とのことを折りまぜ「堀口大學と上越 そして齋藤三郎」の演題でお話頂くことになった。

当日みどり鮮やかなスーツで来館されたすみれ子さん。緑いっぱいの樹下美術館の庭に溶け込みながら、姿は美しく際立つ風にお見受けした。

45人の方が来場された当日の様子。
参加されたお客様が撮られたました。

これまではスライドをまじえての講演だったが、このたびは終始お話だけで進行した。静かに語られる妙高市のお母様のふる里から髙田へ。わずか1時間の講演だったが、雪国の疎開で激変する高潔な詩人の苦しい生活と心が、徐々に癒やされる様子が詩を交えながら語られた。
変えたものは上越の風土と人々の情けだったことが自然に浮かび立つ感動的な講演だった。

このたびすみれ子さんは以下2枚の大學先生自筆の貴重な書を持参され、私どもに与えてくださった。

母よ 僕は尋ねる 耳の奥に残る あなたの声を
あなたが世にあられた 最後の日 幼い僕を呼ばれたであろう
その最後の声を
三半規管よ 耳のおくに住む巻き貝よ 母のいまわの その声をかえせ
堀口大學 印

越にふる 雪の 深さか   越びとの あわれの 深さ  大學 印

 

一番目の詩「母の声」は詩集「人間の歌」に、二番目の詩「越びとに」は詩集「月かげの虹」に初出掲載されています。

「越びとに」は講演の最後に読まれ、お身内ならではの情愛がこもり、越びとの一人としてとても感動しました。
良い人の良い話は何度でも聴いてみたいし、聴く度に新たな発見があります。
文化や芸術は単に知ることではなく「感じること」だと、このたびも知らされました。

堀口すみれ子さん、ご来場の皆さま、本当に有り難うございました。
スタッフ共々感謝致しております。

齋藤三郎ゆかりの人々展 その12 サントリーの人々および齋藤尚明(二代陶齋)。

2022年7月8日(金曜日)

齋藤三郎ゆかりの人々展の展示紹介は本日のサントリーの人々およびご三郎氏の次男、二代陶齋齋藤尚明氏で一応の終わりになります。

齋藤三郎は戦前戦後、サントリーグループ分けても創業者の鳥井家と幾つかのエピソードで交わりがありました。
一つは戦前です。三郎は近藤悠三、富本憲吉の許で足かけ7年の修業を昭和12年に終えます。その後京都で一時活動した後、サントリーグループの創業者鳥井信治郎が寿屋社長時代に宝塚市雲雀丘(ひばりがおか)の自宅に開いていた陶房「壽山窯」で昭和13年から数年間活動しました。
同所には複数の陶芸家と画家が所属し「壽山荘同人」という名で作品発表が行われていました。阪急百貨店における作品展の案内には三郎の師である近藤悠三の名も見えます。

案内で齋藤三郎の紹介は「斯界(しかい)の大家富本憲吉につき作陶法を修められ、毎年の国展に出品される方。壽山窯現在の責任者でゐられます。」とあり、高い評価と信頼を受けていたようです。
※斯界:その道の専門家の人々。

その後のエピソードは後に述べさせてください。

昭和15年前後、寿山荘同人による陶器、絵画作品展の案内。

 

壽山窯で焼いた「染附竹林菓子器」。
とても慎ましい。

壽山窯時代の三郎は信治郎社長はじめご家族とも親密だったようだと、次男尚明氏が述べられています。戦後三郎が髙田で開窯した後、大阪の阪急デパートで作品展を行いますがこの催事でも鳥井家のお世話になっていることが伺われます。

鳥井信治郎の次男でサントリー(株)の前専務取締鳥井道夫氏はかって岩の原葡萄園の社長として髙田を訪ねては三郎の窯に寄りました。陶房における二人の写真を展示ボックスに掲げています。

このたび「齋藤三郎ゆかりの人々展」で、サントリーの人々の展示の相談をさせて頂いた取締役副会長の鳥井信吾氏(道夫氏のご子息)と通信する機会がありました。
その折、「齋藤さんから食べ方の図と共に送られてくる空豆がとても美味しかった」と述べられていて、温かな交流の一端を伺うことが出来ました。

2010年樹下美術館を訪ねられた鳥井信吾氏(前列中央)。
美術館スタッフとともに、左は当時の岩の原葡萄園坂田敏社長。
この写真も展示中であり、小さなボックスは一杯です。

サントリーグループの岩の原葡萄園のワイン「深雪花」。
1991年(H3年)同葡萄園創業100周年記念として販売開始された。
齋藤三郎の雪椿図色紙がラベルに用いられている。

さて最後のゆかりの人々紹介は“ゆかり”どころか、齋藤三郎の次男二代陶齋齋藤尚明さんです。
1950年(S25年)年上越市生まれ。1973年京都の白磁の第一人者竹中浩に足かけ7年間師事。ちなみに竹中氏の師は三郎の師でもある近藤悠三でした。
1979年修業を終え帰郷、晩年の父と共に作陶。栃尾美術館などの親子展や銀座松屋デパート始め県内外で発表のかたわら中国景徳鎮を訪ねて研鑽、2000年父の窯を継承し二代陶齋を襲名。師から修得した発色の美しい白磁、丹精込めた色絵磁器を鋭意発表しています。
氏の幼いころ、三郎氏とともに私どもを訪れ海で遊び、夕食は母が焼く餃子を皆で腹一杯食べました。あの餃子は美味しかった、と今でも口にされます。

岩の原葡萄園で展示される尚明氏の色絵椿文大皿とワイン「雪椿」と「善」。
15年の同園リニューアルを記念して発売された「善」には尚明氏の椿が
ラベルに描かれている。

そしてこの度のゆかり展の展示です。

氏が修業した京都風に言えば“はんなりした”風合いの「色絵市松文水指」。
とても目を惹きます。

 

父三郎氏の「色絵どくだみ文水指」と一緒に親子一つのボックスに展示しました。

現在週末に行われている薄茶の茶会で用いられる同水指。
展示中ですが、茶会の午後だけ茶席に移動します。
棚の上に父親三郎氏の薄茶器が置かれています。

今後のゆかり展記念茶会は7月16日(土)、24日(日)、30日(土)および8月7日(日)です。
1席目は午後1時から、2席目は午後2時30分からです。
コロナに配慮し1席6名様まで。茶室は雨天以外窓を開け、お飲み頂く以外はマスク着用をお願いしています。

長々となりましたが、これで「齋藤三郎ゆかりの人々展」で展示される人々の紹介を終わります。途中からスペースの関係で黒田辰秋の展示を取り止めましたことをご報告しお詫び申し上げます。

ほくほく線の夕暮れ電車 どうしても撮影と言えない その昔父母の呼び方を変えた。

2022年7月5日(火曜日)

 

夕方の空が良さそうな時は海岸かほくほく線、あるいは上下浜のホテルを写しに行く。本日はほくほく線だった。

ところで私には中々「撮影」という言葉が使えない「性」がある。
若い頃から「撮影」は映画かプロのカメラマンのようにお金をもらってする専門家の「仕事」だという観念が染みこんでいる。だからヘタでもあり、素人の自分がやっていることを「撮影」と呼べないのだ。
ならば「写真を撮る」、あるいは「写真を写す」、と言うことになるが、これは「頭痛が痛い」クラスの重複語(重言)となりダメである。

カメラの説明書やネットはもっぱら撮影と述べられているので読み聞きするのは平気だが、自分の事として使うとなると言えないから不思議だ。

思い切って「撮影」と言ってしまえば直ぐに慣れるようにも思われるが果たしてどうだろうか。
学童時代、父母のことを「とうちゃん、かあちゃん」と呼んでいた。周囲もそうだったので全く平気だった。
ところが姉が東京の私立高校へ入った夏休み、帰省するなり「おとうさん、おかあさん」に変えよう、と強く提案した。家族は戸惑い、呼び合うたびに顔を見合わせ、照れ笑いを隠せなかったが、かなり早々に慣れてしまった。

呼び名を変えた前後で父母への敬慕に変化はなく単に見た目の悪さを直しただけだったが、それで良かったと思う。果たして「撮影」はどうだろうか(どうしても変えられない気がする、、、)。

上り電車。

しばらくして下りが行く。

電車の何がどうと言うわけではないが、待ったり見たりしていると何となく一日の緊張をほぐせるので空が良いと来てみる。もしかしたら「子どもの時間」かなと思う。

以下は何気なく歌われる「Twilight Time」。

 


ジャネット サイデルの「Twilight Time」
初めて聴く歌手だが、
私が知っている曲をよく歌っているようなので
かなり古い人ではないだろうか。

この曲のようなのをよくスタンダード曲と呼んでいる。ジャズの演奏で頻繁に使われ、大昔、大橋巨泉氏がジャズの「歌」は深刻に歌うのではなく、鼻歌のように軽く歌うのが好きだ、というのを聞いた事がある。ジャネットさんはそのように歌う人のようだ。

恵みの雨 海と畑の恵み。

2022年7月3日(日曜日)

曇り空が続いた日曜日、午後半ばからポツポツと当たり始めると本格的な振りになった。
夜遅くも降り続いていて、これなら畑や庭を丹精する人はホットしているのでは。

何しろ畑はすっかり乾いていて、水を遣っても吸ってくれないと嘆く声を聴いていた。何らかの湿り気があれば水は地面に染みこむ。がカラカラに乾いてしまうと水は表面に浮くだけになってしまう。こうなると、少々の雨では「上っ面だけ、中はホコリのように乾いています」ということだが、今夕からの雨は浮いた水滴を押し込み染みこませる「恵みの雨」だったと思われる。

雨が上がった僅かな時間、四谷の海に光芒が射していた。

いっときの雨上がり。

今夕の食卓はいずれも頂き物中心だった。

キスは近隣の方が釣って開いたものを下さった。
ジャガイモは山間の方の新じゃが。

スタッフのご主人の菜園の茄子。

本当に良い雨だったに違いない。

減っていると思っていたコロナがじわっと増加している。せっかく決めたイベントを中止された福祉施設もある。やはり4回目のワクチンは年令や疾病を限定してでも行うべき方向が正解になった。

齋藤三郎ゆかりの人々 その11 松林桂月。

2022年7月2日(土曜日)

ゆかり展のご紹介が残り僅かになり本日は日本画家松林桂月です。

松林桂月:1876年(M11年 – 1963(S38年) 86才没、山口県萩市生まれの日本画家。
雰囲気とともに良く観察され描写される花鳥風月は、幕府や大寺院のお抱え絵師である狩野派に対して南画(南宗画・文人画)と呼ばれる。桂月は近代南画の重鎮であり、「日本最後の文人画家」と称され、文化勲章を受章している。

 

齋藤三郎窯を訪ねて描いた「染め付け蟹文皿」
30㎝近くある大きな皿。
同じ時に蘭を描いた皿があると言われている。

画家が焼き物に絵付けをするのは易しくはないと聞いた。この皿の桂月は中心部の濃淡によって作品を整えたのかな、と想像した。

 

鶏の親子を描いた「鶏図」
右上から左下への動きは桂月得意の構図と言われている。
情愛あふれる柔らかな作品。

青春時代に結核を病み、闘病し治癒した桂月。別格だが同じ結核で高校を一年余計に通った私はこの病を経験した人にシンパシーを感じる。

梅雨明け鵜の浜温泉の夕暮れ。

2022年6月30日(木曜日)

梅雨が開けて連日夕焼け空がきれいになる。本日は日没前の鵜の浜温泉海岸へ行った。

人形像の夕暮れ。影でよく分かりませんが像はこちらを向いています。
しみじみとふる里の海を見ているよう今から向きを変えれないのだろうか。

三々五々海岸を歩く人達がいる。夕食前か後か、どっちだろうと、海辺の温泉の食卓を想像する。

 


日没後も茜がのこる。
人魚像の手前に大きなバイク。東京から菅平を経て来た、とあるじが仰った。

減少しつつあるコロナ感染報告。地元日本海の小さな温泉、鵜の浜がお客様に恵まれることを願っている。
いよいよ私にも4回目のワクチン接種券が送られてきた。接種日も決まり、これで最後というわけにはいかないだろうか。

齋藤三郎ゆかりの人々展 その10 坂口謹一郎 すでに酷暑。

2022年6月29日(水曜日)

「齋藤三郎ゆかりの人々展」の紹介は農化学者、発酵微生物学の坂口謹一郎です。

坂口謹一郎:1897年(M30年) – 1994年(H6年)上越市生まれ 97才没
東京帝国大学農学部卒業、同大学で発酵を研究。後に沖縄戦で絶滅の危機に瀕した焼酎の発酵菌(黒黴)を救済、岩の原葡萄園における日本初ワイン醸造の成功ほか内外の発酵化学に尽力。多くの著作と映像を残し文化勲章を受章。歌に優れ歌集を著し陶芸の造詣も深く、後年は齋藤三郎を支援し氏の葬儀では弔辞を読んだ。上越市頸城区に杜氏技術の展示場と椿の庭を有し資料を展示する坂口記念館がある。

以下は坂口謹一郎の展示品です。

齋藤三郎(初代陶齋)の窯で書き入れ焼かれた抹茶茶碗。

齋藤尚明(二代陶齋)が成形した器に書き入れた染め付けの湯呑。

 以下は坂口氏の色紙です。

 

椿と雪のふる里を愛した色紙。

 

齋藤三郎ゆかりの人々展の展示紹介は今後サントリーの人々および松林桂月、そしてご子息の尚明氏(二代陶齋)を予定しております。

おしるし程度の梅雨が終わるや、厳しい暑さが始まりました。すでに熱中症の方が来られます。
「強いだるさ」「急な吐き気や食欲不振」「足などの突っ張り」「頭痛時に発熱」。このうち二つがあれば該当するかもしれません。急に来ますので、あらかじめの水やミネラルウオーターの用意そして補給は本当に大切です。

東京からの人を交えて。

2022年6月27日(月曜日)

東京から久し振りの方が来られた。諸事万端に造詣深く良い人づきあいをされている。

地元の相客は性格が全く異なるものの、好ましいものへ眼が利いているところ、良いお仲間を持っておられる所が共通している。
狭い世間しか無い私にはいずれも羨ましいお二人なのでご一緒は楽しかった。

 

昨日のお道具を出し普段着の妻がお点前をして
気楽なお茶を飲んだ。

左:前田正博さん、右:鈴木秀昭さんのお茶碗。
素晴らしくて、近いうちにバチが当たりそうな気がしてくる。

 

齋藤三郎の小壺を薄茶器に見立てた器。
お茶に親しまれる人は自ずと手付きが違う。

夕刻は皆でお寿司を食べた。

お造り。

茄子の味噌田楽。

カッパ巻き。

美味しそうな魚を尻目に私の体は茄子、胡瓜の野菜を喜んだ。文学、映画、音楽、食べ物、青春時代、人間、、、私が知らない楽しい話を沢山聴けた良い時間だった。酒を飲まないので妻を乗せて帰ることが何となく張り合い。

昨午後2席の15周年記念茶会。

2022年6月27日(月曜日)

昨日おおむね晴れた間午後、お客様をお迎えして開館15周年記念の呈茶を2席行いました。

玄関
額:齋藤三郎筆 寒山詩から「忘却来時道(来た時の道を忘却す)と水注図」
花:半夏生、撫子、紫陽花、茗荷、蓮玉草 花生:辻村史郎 信楽

待合:軸 「竹林小倉」 富本憲吉筆

風炉:深草焼き四方 窯:浄汲 口四方 棚:淡々斉好み寿棚
薄茶器:齋藤三郎作赤絵十薬(どくだみ)文小壺
水指:齋藤尚明作色絵市松文水指
風炉先屏風:薬師寺薬師三尊像台座拓本 白虎と青竜


軸:小林古径筆「壽」 花生:榊原家伝来竹籠

 香合:新井野正直作かわせみ香合

お菓子:竹内泰祥堂 あじさい

主茶碗:鈴木秀昭作 色絵金銀彩天空茶碗

 

呈茶を終えた庭でテッポウユリが陽を浴びていた。
例年雨に打たれて傷むが、空梅雨ぎみの空の下安心している風だった。

今後の会は次のように致します。
日時:7月2日(土曜)、7月16日(土曜)、24日(日曜日)、30日(土曜日)
時刻:1回目午後1時から  2回目午後2時30分から
1回6名様までにさせていただいています。

齋藤三郎とゆかりの人々展 その9 深田久弥。

2022年6月26日(日曜日)

「齋藤三郎ゆかりの人々展」で展示されているゆかりの人々について、これまで富本憲吉から黒田辰秋まで13名の方々を紹介させて頂きました。7名の方がのこっていますが、本日は文学者、登山家深田久弥です。

深田久弥:1903年(明治36年) – 1971年(昭和46年) 石川県生まれ 文学者、登山家 68才没。
1935年(S10年)日本山岳会に入会。多くの登山を行った。1959年から足かけ5年をかけ『山と高原』に山行の掲載を100回行い、1964年新潮社から『日本百名山』を出版、翌年第16回読売文学賞を受賞。1966年隊長として4ヶ月間シルクロード踏査隊を率いる。国民に広く影響を与えた「日本百名山」の名付け親。終焉の地も登山中の山だった。

深田久弥の展示ボックス。
本「日本百名山」 新潮社昭和39年7月20日発行。
齋藤三郎の染め付け妙高山文皿(裏面にの妙高山の文)

皿の表です。

深田久弥と齋藤三郎:1960年に「髙田山の会」が発足、齋藤三郎が初代会長となっている。妙高山麓の赤倉温泉に齋藤三郎が懇意にしていた「和田屋旅館」があり、深田久弥は妙高連山の登山で投宿し、齋藤と登山を共にすることがあった。
※日本百名山の基となった著書「我が愛する山々」(山と渓谷社)の火打山の章に三郎のことが書かれているそうです(齋藤尚明氏談)。本を注文しましたので到着したらご紹介させてください。

本日は予定を変更して深田久弥お一人の紹介でした。次回微生物学者・坂口謹一郎を予定しています。

「齋藤三郎ゆかりの人々展」 70余年振りの再会? 今日の庭。

2022年6月23日(木曜日)

本日初日の15周年記念企画展「齋藤三郎ゆかりの人々展」。直前の不具合を修正して慌ただしくスタートした。

常連さんやお茶人たちに寄って頂き丁寧にご覧頂き有り難かった。樹下美術館は何事も少しずつ良くなる流れがあるので順調な出だしだと思っている。

展示ケースを三つ増やし、列を中央に寄せ壁にも展示、その間を通路とした。 照明が上手く当たるようになったせいか、広く感じられると仰った方がいらした。

小館の陶芸ホール1室を使った17組、ご家族を入れると19名という賑やかさ。予定展示品を減らし、キャプションと案内は最小限にしてゆっくり眺めて頂くことを心がけた。
考えてみれば展示の人々は、地方小都市の苦しい疎開生活などで知り合い、助け合った間柄でもあったのでは。昨夜半ひとまず作業を終えると、70余年を経て皆で再会を喜び合っているような錯覚をおぼえた。

梅雨入りとは言え本日もほぼ晴天。庭はもたもたする私を追い抜いて夏の歩みを進めている。

「くれないアジサイ」がルビー色に近づいた。

アスチルベ咲く水盤でヒヨドリが水浴び。

三年目のオカトラノオが開花を始めた。

夕陽を浴びているミゾハギ。真夏の開花が楽しみ。
※以前ミソハギとしていましたのを訂正させて下さい。

堀口すみれ子さん講演会のお知らせ。

2022年6月21日(火曜日)

「齋藤三郎ゆかりの人々展」が明後日6月23日から始まります。10周年では記念の小誌を発行し、式典を行いましたが、15周年は「齋藤三郎ゆかりの人々展」および「ゆかり上越主体美術協会の人々展」ほか1展をもって記念行事とすることに致しました。

本日は記念行事の一つ「父堀口大學と上越、そして齋藤三郎」の題で以下のようにご長女・堀口すみれ子さんの講演会を開催致します。

このたびは2014年以来のお話です。8年ぶりですが、皆で年を取り、再びすみれ子さんのご講演を聴くことは新たな幸せではないでしょうか。

会場が狭小のうえコロナも判然としませんので、入場者を40~50名様に予定させて頂くことになりました。どうか振るってお申し込みください。

齋藤三郎ゆかりの人々展 その8 小杉放菴、黒田辰秋(たつあき)。

2022年6月20日(月曜日)

小杉放菴:1881年(明治14年)12月30日栃木県生まれ 82才没。洋画家で出発し大正時代に日本画を描き始め東洋へ傾倒し東大安田講堂壁画「泉」を制作。歌人・随筆家としても高く評価され、大正時代末に未醒から放菴へ号を変える。
1932年(昭和7年)現妙高市赤倉に安明荘と名付けられた別荘を建て、昭和20年東京の家が空襲で焼失するとそこを家とし終生居住した。上越文化懇話会の発会に際し濱谷浩、堀口大学らと共に顧問となっている。
洋画日本画を問わず広く画壇や文化界に人望があり、また恵まれた体躯を活かしスポーツに優れ特にテニスは有名だった。

以下展示物の一部です。

短歌と随筆の「山居」。昭和17年3月30日 中央公論社発行。
花鳥風月、戦争、内外の旅行記、確かな眼差し。
しばしば妙高連峰が取り上げられ、特に妙高山を讃えている。

掛け軸「水閣」
悠久の自然と人間が触れあう場所の安寧。
どっしりと丸みをもって自然を描いている。

雪をかぶった「白椿」
以前取り上げた上品な短冊。

舟で笛を吹く色紙「風月」。
風も波も音色も、人の心も心地良く揺れる。
金の地色は月の光なのでしょう。

良寛禅師を敬愛し多く師を描いた。齋藤三郎は赤倉の放庵を訪ねて交流した。

続いて工芸の黒田辰秋です。
1904年(明治37年)9月21日京都市生まれ 77才没。漆芸および木工家。斬新なデザインと力強い作品は広く愛され、昭和45年に人間国宝に指定された。

「唐物写し替え茶器」

齋藤三郎は1932年(昭和7年)、22才から始めた富本憲吉への師事を終えると25才からサントリーの創業者鳥井信治郎が神戸市雲雀丘(ひばりがおか)で営む壽山窯(じゅざんがま)の同人となり制作。その後28才で藤沢市鵠沼の陶房に入り活動。この時近隣で仕事をする黒田辰秋と親交した。仕事場一帯は一種文化村の趣きがあり画家・麻生三郎のアトリエも近かったという。鵠沼で応召されるまで活動し、爽やかな呉須掻き落とし草文瓶が残っている。

次回は登山文学者・深田久弥と微生物学者・坂口謹一郎です。
本日展示をお休みとして開催準備をしました。狭い場所をがらりと変えてかなり大変でした。中2日さらに準備をして23日開催初日です。少しでも皆さまに楽しんで頂ければと願っています。

齋藤三郎ゆかりの人々展 その7 會津八一。

2022年6月17日(金曜日)

會津八一 1881年〈明治14年〉8月1日 新潟市生まれ 84才没。歌人、書家,、美術家 秋艸道人(しゅうそうどうじん)と号した。青春時代から万葉集や良寛に親しみ、2006年早稲田大学へ進み、卒業すると現上越市板倉区の旧有恒学舎で英語教師をする。かたわら奈良の仏教美術を研究、仏への讃歌を詠み1924年(大正13年)初の歌集「南京新唱(なんきょうしんしょう)を著す。
後に早稲田大学で文学部ついで芸術学部の教授を経て晩年は新潟市で終生過ごした。奈良、仏の歌は広く愛され、書は平明さの中に心を打つ特有の味わいがあり、常に高い人気がある。
大正時代に奈良県の富本憲吉を訪ねて以来親交した。富本の許で足かけ3年学んだ齋藤三郎は満州から復員後、髙田に窯を築く昭和20年代前半から交流を始めている。昭和27年に三郎は八一から「泥裏珠光(でいりじゅこう)」の号を与えられた。

會津八一書「天半朱霞(てんぱんしゅか)」。
天空の半分が淡く茜に染まっている様の四文字。
湿気を含んだ朱色にかすむ空は吉兆らしい。
こまやかな気宇が漂う50×50㎝の書は壮大で素晴らしい。

「あせたるを ひとはよしとふ びんばかの ほとけのくちは もゆべきものを」
あせたるを、、、の短冊は優品が多いという。

色あせているから良いんだ、と人は言うけれど、もとの仏の唇は頻婆果(びんばか)の果物のように赤く燃えていたんだよ、と詠っている。

齋藤三郎の窯で焼いた八一揮毫の「養成大拙学到如愚 皿」。
“大拙を養成すれば学は到りて愚の如し”
拙さを大いに心して学べば愚の如く解放された境地に到る、という意味なのか。
大愚と称した良寛への道をあらわしていると考えられる。

1924年(大正13年)刊行の最初の歌集「南京新唱」の復刻版
中央公論美術出版昭和39年12月1日発行。
挿絵は齋藤三郎の師、富本憲吉によるふる里の民家(「大和の百姓屋」)。

展示は以上の作品と、出来れば齋藤三郎陶房で焼き物に書き入れを行う八一の写真(濱谷浩撮影)などをボックスおよびボックス脇の有孔ボードに掛けたいと思います。

これで「齋藤三郎ゆかりの人々展」のお知らせは11人になりました。
展示は18名の予定ですので、あと小杉放菴、サントリーの人々、坂口謹一郎、黒田辰秋、小田嶽夫、深田久弥、松林桂月、の諸氏7名が残ります。次回は画家小杉放菴と木工の黒田辰秋を予定しています。

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