明け暮れ 我が家 お出かけ

余計な事をしてはいけない山中の出来事。

2019年12月22日(日曜日)

昨年11月末のこと、尾神地域の庚申塔を探すべく出かけ、ナビがあるにも拘わらず雪の山中で道に迷った事を書かせて頂いた。初めての山道で日が暮れてしまい誠に心細い思いをした。

妙なことをしてはいけない、と反省したつもりだったが、本日やはり心細い思いをした。
動機はそう無謀というほどでは無かったと思うが、ある行動できわどいことになった。

昼近く柿崎海岸を歩数計で4000少々歩いた後、高速道路での帰路、車中から雪を頂く妙高山がくっきり見えた。先週は県北の胎内市は村松浜へ出かけ、遠浅の海と風車の列に一種絶景を見た思いをした。
「絶景」。このまま車を1時間少々走らせれば野尻湖へ着き、湖畔の妙高山を見ることが出来る、、、。

野尻湖は昭和20年代中頃から高校時代までのおよそ10年、毎年親と一緒に訪れた場所だ。湖と妙高山は素晴らしい眺めとしていつまでも脳裡にある。そのうえ最近読み始めた中勘助の幼少時代を書いた自伝的小説「銀の匙」は、野尻湖で執筆されたというではないか。そのことで野尻湖との距離が急に縮まっていた。

上信越自動車道から北陸自動車道へ入ると、あの窮屈な対面通行部分が無くなり全四車線に整備されていた。ゆっくり走ってもせかされることなく気持ち良く走行した。
新井の道の駅へと下りになる坂に差し掛かった。そこから正面に見える妙高山は裾野の広がりまで良く見え誠にスケールの大きな眺めだ。だが以前写真を撮るべくSAの駐車場からカメラを向けてみたが、その感じは今一歩だった。高速道路のあの下り坂から俯瞰するような視界はそれだけ特別ではないのだろうか。

そこで新井インターを出て少し戻れば高速道路の坂道に類似するポイントがあるのではないか、と考え一般道へ出た。すると近くにそれらしい場所へ行けそうな交差点があり、左折して高速道路の下をくぐった。先は林道風の狭い山道となり、行けば良いポイントに出れそうな雰囲気もある。

しかし道は意に反してすぐ行き止まりとなり、車を降りた。

そこから先の林道?は川の如く水が流れている。

 

止めた車を振り返る。

 

右向こうに土砂崩れが見え、側溝からあふれた水が道路を流れている。

土砂崩れに出水。カメラを手にしていると人格が変わるのか、構わず先へ行った。

 

流れが終わると舗装も途切れる。
あの先から妙高山を俯瞰できるかもしれない。

 

期待に反してこんな眺め。

 

さらに歩みを進めたが、この程度。

 

諦めずにこのような所を通過して行く。

 

ついに道なき道となり、藪こぎの止む無し。

かまわず進む。

 

このような場所に出たが駄目である。
これ以上行っても森林がさらに深くなる気配があり、引き返すことにした。

引き返すのにまずAからDへ高い土手を降り、大きく曲がる道をカットした。

土手は枯れたススキが折り重なっていて、すべらないよう横向きになり手を着きながら慎重に下りた。
だが途中、上掲Bの所でクズのツルに足を絡ませ、つんのめって二回ほど横転した。幸い怪我せずに済んだものの、生じた問題を知るよしもなかった。

 

土手から下り立った場所。

 

さらに帰路、このような場所があり、妙高が見えるかとテッペンを目指した。
苦労して上まで行ったがヤブのため全く視界が得られなかった。
縦横無尽のクズは誠にたちが悪い。
左下にわずかに高速道路が見える。

さて、ここから本題です。
迂闊にも引き返した車のドアは施錠してなかった。乗ってスイッチボタンを押したものの、エンジンが掛からない。キーは持参しているか車内にあれば掛かる。しかし全く反応してくれない。
慌てて確かめた全てのポケットに鍵は無かった。
あの土手で転んだ時、ジャンバーのポケットから落ちたのか。戻って探そうと思案したが、深い枯れススキの広い土手ではまず見つかるまいと観念した。
諦めて妻に電話を掛けた。
場所を説明してスペアを頼んだ。

時に私は突拍子もないことで妻を困らせる。
「何でまたそんな所へ、、、JAFに頼んだら?、でも時間がかかるし駄目か、、、行ってみるわ」
ということになった。
時間は午後2時前。本来なら野尻湖へ行き妙高山を撮って帰り、夕刻まで美術館の庭仕事が出来るはずだった。

果たして妻はこんな変わった所へすんなり来られるだろうか、鍵には色々なものが付いているし、、、心細い思いで車中、外を見ていた。

だが待てよ、まだ4,50分はある、ただ座って待っているだけでいいのか。
土手へ探しに行こう。

行った道を再び歩き現場に着いた。
恐る恐る土手を見上げ、登ろうとした時、

 

ああ何ということだろう、立っている目の前にあるではないか。
ここまで飛んだのか、ススキの中ではなかったのだ。
鍵に付けた小さなライトが引っかかって助かったらしい。
失敗をカバーしてくれて、何と利口な鍵だろう。

妻に電話すると、高速道路に入る直前だったという。

 

美術館に帰ると先に庭に来ていた妻に加わり、煉瓦で傾斜に段を付ける仕事をした。
そのあとは「妙高市」からの孫とその親たちと食事。

 

美味しい食事中、一件を説明するのに苦労した。
皆は怪訝な顔をして笑った。

ちなみに鍵を助けたあのライトは樹下美術館の名入りで、ささやかなショップの販売品だった。

出来事は「年寄りの冷や水」のほか言いようが無い。
また昨年の11月のことといい、手近な所でも「山」というのは恐ろしいと思った。
あるいは「坂」や「近道」は恐ろしいと言うべきでしょうか。
貴重な日曜日でしたが、名付けようの無い日でした。

頭の良い美しい人が亡くなった 70年前の月の砂漠。

2019年11月27日(水曜日)

年と共に少しずつ年賀欠礼が増えていく。
本日その一つを手に取りとても驚いた。
みまかりが知らされた人は小学校時代の近所の同級生。地元の高校から津田塾へ現役で飛び立った才媛だった。

6年ほど前、その人は樹下美術館を訪ねてくれて50年振りに会った。こども時代の頭の良さと美しさは全くそのまま、会うと長い年月など何も感じなかった。

中学校から学校が別々になったが、身体能力も高く中高時代はテニスの選手だったと聞いた。
受験は猛勉強をされたのだろう、高校時代に私が肺結核を患い家に居ると、勉強で疲れたので注射をしてと言って来られた。休学をしていた自分が恥ずかしく、目を合わせるだけで診察場の片付けなどを続け、父がビタミン注射をした。

その後私の病が癒えて二十歳の同級会でお会いしたが、文字通り溌剌とされていた。樹下美術館訪問はそれ以来だった。語学を活かした貴重な仕事に邁進された後は学長秘書を、お会いした時は同窓会の要職をされ才を発揮されていた。

ところでもう70年は経つのか、小学1年か2年の学芸会で、二人で月の砂漠を踊った。
ただただ恥ずかしかった踊り。叱られながら稽古したのをかすかに覚えているが、当日ちゃんと踊れたかは思い出せない。

 


偶々過日のSPレコードの会で掛けた「月の砂漠」。
川田孝子・安西愛子の歌。
何故選んだのだろう、多分私たちはこのレコードで踊ったはず。

 

今夜は何度でも月の砂漠を聴いてみたい。

何度か聴くうち涙が出てきた。

眩しそうな眼をした頭の良い人が亡くなり、余りに早くとても悲しい。
突然の重い脳梗塞だったという。

一昨日夕刻のお台場 年に一度の贅沢な食事 東京と地方 本日の異常高温 気象と人。 

2019年11月18日(月曜日)

若き日同じ医局で過ごした級友三人と、今ごろになると夫婦で集まるのを長年繰り返してきた。
土曜日に食事し翌日はどこかの美術館に行く。食事場所は適当に幹事を回して予約、近時ホテルはKが取ってくれるので有り難い。

このたび一昨日土曜日午後、夕暮れのお台場(海浜公園)を見るべく早めに上京した。一昨年にはじめて行ってみて、都会ならではの海辺の風景が気に入り、再度予定した次第。
時間に余裕がないのでホテルからタクシーに乗った。
タクシーは大きなレクサスで、5ナンバーに乗っている私は広さと静かさに驚いた。運転手さんに聞くと新潟から積算4万キロで出た車だという。私たちも新潟から来ました、と伝えると喜んでくれた。
車内にラテンの「LA BARCA(小舟)」と「WAVE(波)」がモダンなアレンジで偶々流れ、これから行くお台場にピッタリ。いいですねと褒めた。

先回の帰りにタクシーが掴まらず苦労したので、到着後出来ればメーターを倒して待っていてくれますか、とお願いしてみた。
すると、いいですよ、待っている時間の料金は要りません、本でも読んでいますのでゆっくりしてきて下さい、そこに居ますと仰った。ここまでの料金を支払って降りたが、多分こんなドライバーさんは珍しい。50才くらいの人でメガネを掛け、スッキリした感じの人だった。

夕暮れのお台場は一種別天地だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

湖のような浜辺に良い時間が流れ,
運転手さんは待っていてくれた。

ホテルへの帰路、道すがら見えるオリンピックの選手村、取り壊し中の旧築地市場、大きな豊洲市場を説明してもらった。
清潔なビル群、美しい東京を見てふと思った。
ここは何も東京の人だけの場所ではないだろう。同じように地方もまた地方の人だけの場所ではないはずだ、と。

 

暮れてホテルで浜松の級友と会い、六本木の店に行き、都内の友人と合流した。
毎年顔を合わせる夫婦6人、年は取ったが同じ顔ぶれで会えるのが嬉しい。

 

大分の胡椒もちをアレンジ

 

各地の香辛料や野菜を使った前菜が出る。

 

ぱりぱりとした愛知の海苔と青森の牡蠣に海水のジュレがあしらわれた皿。
ジュレはまさしく海の味がして、何とも言えぬ懐かしさが拡がった。

 

厚岸(あっけし)のウニ。

濃厚な味のオマール海老。ナイフの柄までおしゃれだった。
ワインは白が続いた。

メインのシャラン鴨料理。紫ニンジンなどの根菜、サツマイモとアンズのピューレ、あえ物は九州は陽田の梅を使ったという。産地の説明を聞いていると旅行をしている気分になる。

 

飲み物はいつもKが選ぶ。ジェニファーズのハートフォード・コートというカリフォルニアの赤ワインに変わった。よく香り、軽い甘みが美味しく、皆で褒めた。

メニューが進みチーズが出る。六種のチーズから特に
匂いが強い4種を取った。チーズは食事の楽しみの一つ。

熊本の栗とパッションフルーツのムースのデザート。
ほかに二種のデザートが出てエスプレッソでお終い。
手間を惜しまない料理は深い魅力を湛え、ことごとく美味しく親しめた。

 

デザートの途中で、シェフがデザインしタイの職人が作っているという鉄製のオルゴールを沢山見せてもらった。
赤いのがとても気に入り、樹下美術館のカフェに置こうと考え、お願いして買わせてもらった。

かってのシャンソンバー「銀パリ」や自由が丘にあったジャズ評論家いそノてるヲ氏のライブカフェ「ファイブ・スポット」、雨期になるとトラックで家を運ぶカンボジアの話、カルーソーを讃えたパヴァロッティの歌、酒を美味しく飲むための生活、映画は「静かなる男」「アフリカの女王」「Once Upon a Time」などが語られ、日本人が大好きだった女優ジェニファー・ジョーンズ、例によってローマの休日のオードリーヘップバーン、外国の女優達の社会奉仕、ふる里は高知県だが酒盗が嫌いで芋料理が好きと言う話、医局時代に通った床屋から当時の中華料理やロシア料理店のこと、今は亡きミッシェル・ルグラン、お気に入りのシャルル・アズナブール、いわしの美味しさ、日本のウイスキーに登場した第三潮流、飲んでいるサプリメントや級友の消息などを話した。
幸い個室だった事もあり延々4時間の食事だった。
不思議な事に例年健康の話を沢山するはずが、今年は殆どしなかった。
店は長くミシュラン二つ星を続けている「エディション・コウジ・シモムラ」。居心地よく楽しいひとときだった。

 

それにしても本日日中の天気は凄かった。
上越市髙田で25,9度とは、まったく理解に苦しむ。

気象(自然)は私たちには手に負えないモンスターと言ってもいい。
生命を、人類を、たぶん社会まで作りだしたのは自然にほかならない。
信心深い方に叱られるが、私たちが作ったのなら少しはコントロールできるはず。
それが出来ないのは、手に負えない者が作ったからであろう。
なにがしか調和に必要なのは、謙虚に徹する以外見当たらないと思うが、どうだろう。

翌日曜日のことは後で書くつもりです。

去る日曜日の柏崎行き。

2019年11月12日(火曜日)

私の庚申塔探訪は言葉は悪いが、近郊ドライブの「眼なぐさみ」、あるいは一種気まぐれとして、細々と続いている。
先々で出合った石塔周辺の自然や社寺あるいは集落の印象などから、そこの風土や暮らしぶり、あるいは昔人の願いなどを思ったり、気づかされたりして楽しむという風で、研究などの上等なものでは全くない。

さて昭和41年発行の「越後の庚申信仰」には以下の丸い庚申塔が掲載されている。

越後の庚申信仰:尾身榮一 大竹信雄 共著 庚申懇話会 昭和41年10月28日発行

「越後の庚申信仰」にある写真。
何かとても可愛い印象。
下の基壇から上へ、構成している各部分のバランスが良い。

青面金剛が円形の石に掘り出されている一見和やかな石像だ。様々な様式がある中で、本尊が円いふち取りに収まるのは珍しく、是非とも見たいと念願していた。
くだんの本には柏崎市四谷2とあり、実は今年1月妻と車で周辺を巡ったものの見つからなかった。

このたびは去る11月3日日曜日、新潟市に用事があり、途中再度の柏崎行きを試みた。
目的の同市四谷の通りは隅々まで家が建つ。村落の庚申塔ならば集落の境や社寺の門前などでよく見るが、街中ではよほど目立つ場所か、所番地が明瞭でない限り中々見つけ難い。
この日も道を変えながら色々回ったが、駄目だった。最後に近くの柏崎警察署で聞いてみて、駄目なら諦めようと決めた所で、とある庭から婦人が出てこられた。

その方にお声を掛け、本の写真を見てもらい、近くにありませんか、と尋ねた。
「庚申塔ですね、多分あそこでしょう」
「え、あるのですか!」
「すぐそこですよ、主人は今出ていますが、この方面の専門家です」
ああ、こんなことがあるのだろうか、偶々遭った人のお身内が探しあぐねていたものの専門家とは。
女性は私たちがその前に立っている「三忠呉服店」の女主人だった。

利発そうなその方は道を挟んだ向かいの路地に入って行かれ、私は後に付いた。30メートルほど歩くと、傍らに以下のような石仏・石塔が突然固まって現れ、大変驚いた。
本当にすぐ近くだった。

 

右の奥まった場所(白矢印)に、ああ、ひっそりと円形の石塔が見える。
そこには庚申塔に石仏、墓碑、、、。
昔人の真摯な魂が宿るここはパワースポットでは。

 

 

三猿はデザイン化され、金剛の顔は横にらみ風に見え、どこかユーモラス。
本よりも一段と白カビが生え、持物などはっきりしない。
見える二臂のうち左手はショケラ、右手は羂索?あるいは剣を握っているようだ。
本尊はやや稚拙だが、このように変わった庚申塔を彫り上げた石工(いしく)は
一体どんな人だったのだろう。
若い人なのか、こんなに丸く円を切ったり彫ったり、素晴らしい。

あたりを見ると、石塔群の先に遺構があり、尼寺の跡だという。案内された方も尼寺の往時を知っておられ、後からお二人の女性(お店のお客さんということ)が加わり、ひとしきり尼さん(安寿さん)の話になった。
小生の近くにもかって尼寺があり、早春に涅槃図の前で説話を聞き、撒かれたダンゴを木の枝に刺して持ち帰ると、長火鉢であぶって食べた。柏崎の尼寺の跡で昔を偲ぶとは、この日は色々お土産が付く。

 

尼寺跡。

石塔群には多数の庚申塔があり、地蔵菩薩のほか僧侶のものと思われる先端が尖った丸い墓碑(卵塔、無縫塔というらしい)が数多く見られ、二十三夜塔もしっかり認められた。

 

青面金剛と二十三夜塔。

 

石祠も置かれている。

路地を挟んだ向こうにお堂があり、以下のように地蔵尊が三体安置されていた。

 

真ん中の像は中越沖地震で倒壊し、後に継ぎ合わせて復元されている。
痛ましい姿だが地元の方達の温かい信心が伝わる。
脇の二体はほかから運ばれたものとお聞きした。
新しい花が日射しを受けて幸せな光景だった。

ご近所さんも加わり、良いひと時。

 

お尋ねした方のお店「三忠呉服店」
後日の調べでご主人は元柏崎市博物館館長さんだった。
奥様は地域の故事風習に触れる活動をリードされておられる。
あこがれの庚申塔を探すに、これ以上ない家の人に尋ねたことになる。
こんな幸運があろうとは。

さて柏崎市では、古来大晦日から1月下旬まで学問の神様である天神様の掛け軸や人形を祀る習わしがある。また9年前から地震による中断を挟んで「天神街道 天神さまめぐり」が行われている。お店はその幹事をされているらしく、市内30カ所の参加店舗・家庭の中で要のひとつとして展示をされる

ところでこの日、嬉しい事に、最初に名刺をお渡しすると、“樹下美術館なら私たちは良く行きますよ、とても気に入っています”と仰って頂いた。樹下美術館にはドナルド・キーンセンターや木村茶道美術館、地域活動のグループの方々ほか、柏崎の皆様にお寄り頂いていて、普段から感謝に堪えない。

同市は、庚申塔はじめ道祖神から風神まで石塔が多い。市のもとはといえば柏崎長勝と能「柏崎」の物語、桑名藩領としての歴史、貞心尼の足跡、幾本もの谷筋ごとの文化と産物、、米山信仰、番神岬の日蓮、由緒ある寺々、焔魔堂、随所の木喰仏保存、魅力的な綾子舞や大和舞、そして越後ちぢみの商いによって輩出された趣味家、文人に名コレクターなど、文化は鮮やかで深く、一方でポンツーンを連ねた海辺のハーバーは清々しい。
このたび思ってもみない出会いのお陰で余計柏崎が好きになった。来る1月には天神さまめぐりをするため、是非とも伺わせていただきたい。
(そういえば、私のところでも昭和20年代のある時まで、父が正月に天神様の軸を掛けた淡い記憶があります)

思えば2007年6月10日に樹下美術館が開館してほぼひと月余、中越沖地震に見舞われた。館内で台に立てかけた皿が一枚倒れたものの無傷で済んだ。しかしお客様として開館早々お尋ね頂いた柏崎市のあるコレクターさんが、まともに被災され悲しいお手紙を受け取った。
地震の際、直後から柏崎市医師会長とコンタクトを取り、夜間に同市米山の避難所を巡回したことも今は懐かしい。
いずれにしても民家、社寺の損壊、あまたある石塔石仏の倒壊などは如何ばかりだったか。まだ課題が残るかもしれないが、よくも立ち直ったと、あらためて感心させられる。

追加:当館の開館直後、同市の湿原の展開に合わせ、拙生の植物画の絵はがきをショップで販売させて、と博物館から申し出を受けた。大変恐縮し、お願いすると沢山売って頂いた。
御地の皆様、これからもどうか宜しくお願い致します。
ついつい長くなりました。

台風19号のこと 丁度良いのは奇跡の連続?

2019年10月14日(月曜日)

19号台風では診療所住宅部分のガラスが一枚破損した程度で済んだ。樹木の状態や戸外の散乱状況から。、周囲ではむしろ冬期の季節風の方がひどい場合がある印象を受けた。

前回ノートの記載で、800㎜を越える雨が降った箱根が心配だった。やはり芦ノ湖の氾濫ほか各所で深刻な土砂災害があった模様だった。

 

箱根芦ノ湖の様子。溢水する海賊船の桟橋(10/13NHK NEWS WEBから)。

このたび親しみ深い隣の長野県における上田市、千曲市、長野市、小布施町、須坂市、中野市など、千曲川を主とした水害は想像を超えていた。
隣県だけあって当地も直接間接的に影響を受けるはず。宅地やリンゴ畑の惨状は痛ましく、新幹線センターの車輌水没などもにわかに信じがたかった。

水没する車輌群はまるで合成写真のようだった(10/13日経新聞ウエブサイトから)。

12日夜、上越市における関川に一時危険が迫ったと報じられ心配した。
「金(かね)の雨」とは農家の方から聞いた言葉で、日照りを救う雨を指している。しかしその雨も一線を越えれば途方もない災禍に繋がってくる。
考えてみれば「ちょうど良い」などという日常は一種奇跡の連続みたいなもので、生活とは、致命的な危うさと紙一重のものかもしれない。

肝を冷やした台風19号。

2019年10月12日(土曜日)

先週に続く台風19号の一日目。
昼前から風が吹き始め、美術館を閉めようとしたところ、スタッフから午後1時にお二人の予約があると聞いた。まさかと思ったが閉めましょうと話していた時に、そのお二人がお見えになった。
一時間だけで、とお話しして入って頂いた。展示をご覧になりカフェに座られた。まだそれほど荒れていない時間に無事お帰りになりほっとした。

その後風が心配なため海に近い診療所で過ごすことにした。台風情報を伝えるテレビは点けたまま過ごした。ところが17 時15分頃に突然まさかの停電。まだ本体が伊豆半島に上陸した時刻だったので慌てた。

 

テレビがないと如何にも不便、以後電池切れに備えて、そーっとスマホを覗く程度で利用にした。

灯りは寝て待てと思い、横になっていると1時間ほどでぱっと点いた。
停電の中、こわごわ食を摂る覚悟していたが、有り難くも電灯のもとで食べることになった。

 

ある種非常食。

 

念のため用意したガスボンベを使い、弟の豚肉で豆乳鍋になった。
一日中ひやひやして過ごしたせいかお腹が空いていた。

 

ほっとして食後にお抹茶も服した。
お菓子は、一昨日東京からお見えになったお客様から頂戴したお干菓子をお伴にした。
茶碗は抹茶茶碗風ですが、ネットで買った4300円の洋食器。

今の所無事だが、色々考えさせられた。
危ないから外出は絶対しないで、と終日伝えたテレビ。一つの規範であろう、最近は「ただいま安全な室内から中継しています」と、ガラス越しに外の状況を伝える局が時々見られ、安全で良いことだと思った。

 室内からのリポート。

ところが遅くなるにつれて現場中継が多くなる。

 

危険な夜間に増えた現場中継。

危ないから絶対に近づかないで、と伝えながら危険地域に近づく報道。これでは折角の規範が薄れる。
各地の河川整備局には流域を監視するシステムが映像とともに整えられているという。当該の詳細情報の方が特定カ所の映像よりも遙かに現実的ではないか、と思った。

もう一つ、当地で絶え間なく防災無線スピーカーによる放送が行われた。台風に備えて窓は締め切られ、風がゴーゴーと鳴っているため、それが何を伝えているのかさっぱり分からない。重大なことを聞き漏らしてはと思い、しばしば窓を少し開けて耳を傾けたが、よく聞き取れない。担当部署は大変だと思うが、一方スマホで緊急エリア情報が流れる。このことで上手い方法は無いものだろうか。

ダムの緊急放流はまことに危険。近時、台風情報は少なくとも一週間前には十分な精度に達しているはず。予め一定の放流を続けることによって緊急放流を避けることが出来ないものかと、まことに疑問に思った。
いずれにしても未曾有の台風のこと、一夜明けた明日は本日接しなかった深刻な状況を知るに違いなく、恐ろしい。
特に700㎜を越えたという箱根の河川や土砂災害が気になる。

柿崎海岸 落ち着かない夕暮れ。

2019年10月6日(日曜日)

疲れが溜まっていたせいか、昼まで寝た。
起きてから用意されていた果物とサンドウィッチを食べ、テレビでワールドカップNZL-NAMと日本女子ゴルフ選手権の放映を行ったり来たりして観た。

ラグビーは開始直後だけ互角に見えたナミビアだったがニュージーランドには全く歯が立たなかった。ゴルフは期待された渋野選手が伸びず、畑岡選手が追いすがる選手たちを次々に追い払って優勝した。いずれも格の違いを見せつけられた試合で、さすがと言うほかない。

曇り空の午後遅く柿崎海岸を歩いた。
海は程よく荒れて雲も良かったのでカメラを向けながら1時間半ほど歩いた。

 

西の方角

 

東の方角14:10

 

北の方角

 

 

 

17:42西の方角

日が沈んだ後も白い波を眺めながら歩いた。

その昔、かって勤め人だった80才半ばの男性が徘徊された。夕方近くになるとそわそわし始め、奥さんの制止を振り切って出るようになった。向かうのは母親の実家だったという。

人によって、かって場所を変えて家を新築し、老後に前の家を探すように徘徊される人がいる。この男性の住まいにもそのような経緯があったが、向かったのは母の実家。
早く父を亡くした男性にとって、幼少に連れられて訪ねたその家こそ、温かく安心な場所だったのか。そこで見た母の笑顔や上機嫌な振る舞いが幼い脳裡に焼き付けられていたのもしれない。

 

 

私はよく柿崎海岸を歩く。海岸はちゃんとした砂浜が残り、波や雲を見たりシーグラスを見つける楽しみがある。ほかに、行く手でチチチと鳴く千鳥に会えるかもという期待もある。
これまで何度か書いたように、ある時から柿崎の千鳥を母の生まれ変わりかなと思うようになった。
近付くと千鳥は一斉に海へと飛び立つ。
母の生まれ変わりならば、一羽くらい待ってくれてもよさそうなものだが、みな飛ぶ。
海に出た後の素早く無心な飛翔をみるにつけ、ああ本当に鳥になってしまったんだ、としみじみする。
実は拙母の実家は徘徊が叶わぬ佐賀県だ。
柿崎行きは母を慕う徘徊の始まりなのかと、ドキッとすることがある。

ところでおよそ夕方にそわそわするのは、認知症の症状の一つで、夕暮れ症候群などと呼ばれる。
夕方とは、家に居てもどこかへ帰りたくなる時間らしい。
これは幼少や後年の習慣の記憶が導いているのではと考えられる。
特に幼少の温かな夕餉(ゆうげ)は懐かしくも遠い幸福の時間である。外で遊び呆け、日暮れて母の「ご飯よー」と呼ぶ声にまっしぐらに家に帰ったことなどは、年配者に共通の体験ではなかろうか。
一般に後年、仕事帰りにママやお母さんと呼ばれる人がいる店に寄りたくなるのも、どこかで母が誘っているのかもしれない。

話変わって、かって夕方になると風呂敷包みを抱えて長時間歩き回るおばあさんがいた。この方は商売の集金のつもりで出歩くらしいと聞いた。
だが落ち着かないのは夕方ばかりではない。
真面目なサラリーマンだった男性が老後の朝、突然勤めに行かねば、とカバンを抱えて出ようとするようになった、
困った奥さんが「あなた、後進に道を譲るのも大事ではないですか」と言って諭したが聞いて貰えなかったと仰った。
集金のおばあさんは数年歩かれ、おじいさんの出勤は比較的短期間で終わった。
人生は夕方に限らず朝もまた落ちつかない。
そそっかしく一日中落ち着かない私は朝な夕なに徘徊するようになるのだろうか。

今年の庭の萩 立派な後輩の方々と食事 有り難い連休。

2019年9月22日(日曜日)

今年は例年以上に家の萩が元気だ。
手前味噌は否めないが、枝の茂りも花のつきも見応えがある。
この盛況は一体どうしたものか、いずれにしても喜ばせてもらっている。

 

昨日の眺め。

 

反対側から。

一休みをしていた庭に間もなくリンドウとホトトギスが咲くことでしょう。

昨夕は高等学校の後輩の方々と食事をご一緒して、二次会にまでお邪魔した。
皆さんはとても立派な方で、久し振りにカラオケも参加させてもらい楽しい夕べを過ごした。

連休ということで身体は休まるので本当にありがたい。接近中の台風はどんな風に振る舞うのだろう。

周辺の秋 弟と。

2019年8月27日(火曜日)

周辺の水田は色づき、辺りで秋が進んでいる。

 

2017大洞原で初めて見た鳥追いのカイトが近隣で盛んに活躍している。

 

大風11号以後、程よい雨に恵まれ、素人の私がみても豊作の予感。

 

樹下美術館の前庭にある3本のアオハダの実が色づいている。

 

赤く可憐な実だが、鳥が食べるのを見た事がない。

 

一昨日宮城県から豚飼いの弟が来た。家ご飯の所望があり妻が腕を振るった。

 

イチジクに生ハムが巻かれている。

 

弟の豚肉は絶品だが、あえて当夜は牛。

 

 

スタッフのご主人の菜園から届いた野菜。
茄子は小さい時期の収穫が流儀という。確かに美味しかった。

 

牧区のご飯にタラコの麹づけ。縁者が届けて下さる牧区のお米は大変美味しい。新米の時期を迎えても前年のお米はまだ香り高く膨らむ。水が良いのと、天日干しが効いているからと聞いたことがある。

 

若き日に韓国、スペイン、イタリアを訪ね、あるいは生活をしたわずか一才違いの弟。いつものように国と風土、風土と自然そして営み、さらに文化のことなどを話した。何故、何故を問うて生きてきた弟には体を大切にして貰いたい(話をしていると、どっちが兄だか分からなくなる瞬間がある、、、)。

雨が続きそう 便利な机上の白紙メモ。

2019年8月19日(月曜日)

三日前の台風は雨を運び、庭は一息ついた。
だが畑をしている方達は口を揃えてこれでは足りない、と仰った。そうこうしているうち、本日午後からかなりしっかり降った。
向こう一週間の予報はほとんどの日に雨マークが付き、急に様子が変わった。これで焼けた庭の草木は助かり、長時間を要した撒水もしないで済む。

午後在宅回りで見た水溜まりの波紋。

ところで、少し前から卓上に大き目の紙を置き、メモとして使いはじめた。紙は終わったカレンダーの裏を二つ折りして使っているが、大変便利だ。
当座あるいは近日や当日の予定、電話番号、調べた事柄や気づいた事の要点などを向こうからこちらへランダムに書いている。特に重要なものは蛍光ペンで印をつけたり、マーカーを用いて目立つようにしている。
手帖や帳面も便利だが、取り出したりめくる手間があるうえ行は小さい。だが机上の紙は座ればすぐ目に入るし広い。項目を自由に線で結び関連づけるのも可能。一枚の紙だが、一目で用件の全体が見え、ある意味脳の1部を拡げたように映る。

 

向こうにキーボード、手前にメモ。この上に手を置いてPCを使う。
始めて10日目ほど経ち、全体に書き終わるころの写真。
両面が終了した時点で未決の大事なものは次ぎの用紙に書き写すつもり。

気づいたらすぐ書けるので、便利な方法だと思う。一杯になった時点で裏返して使う。利用しているカレンダーは自宅、仕事場、美術館などにあるので多分不自由なさそう。滑らかなこの紙にも困ったらスタッフたちから貰おうと思っている。

 

表が終わり、現在裏返して使っているところ。裏表書き終わったら日付を書いてすべて取っておこうと考えています。

さてどうなりますか、しばらく経ったらその後のことをお伝えしてみます。
年取るほど直近の事を忘れがちになるため、便利な方法に思われます(すでに皆さんが行っていることかもしれませんが)。

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