明け暮れ 我が家 お出かけ

富山を訪ねてその1,遅まきながら棟方志功の福光。

2024年8月15日(木曜日)

夏本番前から今夏は暑いと言っているうち、いつしかその本番を迎えている。すると2日3日とブログを休みはじめ、つい休みグセがつき3日、4日と怠けるうちにまる1週間空けてしまった。

患者さんのご迷惑も顧みず11日から15日までお盆休みをもらっていたので、12日から一泊で富山県に出かけた。主な目的は一日目は福光町(現南砺市の)で棟方志功関連施設を、翌日富山市内で県立美術館を訪ねることだった。
棟方の足跡を福光に訪ねた方は少なからずいらっしゃると思われ、御地の話は皆さまから色々聞いていた。樹下美術館でも父譲りの志功の板画を数点収蔵しているにも拘わらず同地を訪ねるのは初めてだった(恥ずかしながら何事も人様の後から後からです)。

12日午後新幹線で高岡まで行き、福光へはそこからJR城端(じょうはな)線の赤い2両編成の電車だった。40分少々かけて11駅目が福光駅。
道中の窓外を楽しみ到着した駅前ではタクシーが見当たらず、駅の世話になり会社に連絡して車を待った。
やがて一台で動いているらしい車が帰って来て、帰り電車の時刻まで「福光美術館」「光徳寺」「愛染苑」を回ってもらうことにした。

福光駅天井の棟方志功作版画。
福光は地域全体が志功の町。

南砺市立福光美術館は棟方が親しんだ医王山の麓にある。人口4万6千の都市にしては大きくて立派な美術館だと思った。

広々したホール。

正面に「二菩薩釈迦十大弟子像」
夫人の機転により空襲直前に
当地へ移送された。

棟方は上記作品によって1955年サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展、1956年ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展で、それぞれ版画部門の最高賞およびグランプリを受賞し一躍世界の人となった。

「宿業者是本能
則感應道交」の襖屏風。

宿命は授かり物でありそれによって仏と感応し交わることが出来る、という意味らしい。絵画を諦めざるを得なかった棟方は重い視力障害を悔い悩んでいたが、福光でこの言葉に出会い全てを吹っ切り版画(板画)に没頭するようになった。
救いの言葉を伝えた浄土真宗の僧・仏教学者蘇我量深(りょうしん)は新潟の人だという。歎異抄から導かれた言葉のようだが真宗のわかりやすさ、自在さは宗旨替えをしたくなるほどだ。

花狩頌(はなかりしょう)。
弓矢でなく心で花を狩る。

大作、二菩薩十大弟子の両側の菩薩を文字で「普賢」と「文殊」と書いている。東京空襲で二菩薩の版木だけが焼失したため当座文字にされ、後に像として彫り足されている。

以下の「鐘渓(しょうけい)の柵」で言う鐘渓は敬愛する陶芸家河井寛次郎の窯の名で、シリーズ24作品は氏を称えて制作された。

鐘渓頌シリーズから
「瓢箪の柵」。
樹下美術館も収蔵している。

「沢瀉妃の柵(おもだかひのさく)」.
沢瀉は棟方が愛した草花。

四角い画面に女性を丸で囲み四隅に文字を配している。棟方流の曼荼羅を想像させる。

以下は同館で展示されていた福光出身の日本画家石崎光瑤の作品。石崎氏は棟方よりも年長で二人は特に親しく交わった。

石崎氏は高野山金剛峯寺の障壁画を手がけ、京都藝術大学教授も務められた。登山家として知られヒマラヤを登頂されている。福光に於ける棟方の住宅用に土地を提供するなど厚い手を差し伸べられた。

続いて光徳寺へ。

唐破風門と花頭窓が印象的。
境内に多数の大壺。

玄関脇のタカサゴユリが涼しい。

戦前文学青年で『白樺』を愛読していた同寺ご住職は柳宗悦の民芸運動に感銘を受け、その美と浄土真宗の他力の考えの根底が同じであると理解するに到った。
昭和13年、河井寬次郎を介して住職と知り合った棟方は福光訪問を重ね、昭和20年空襲の東京を避け、ついに一家6人福光へ移った。福光では同寺の世話になり宗教風土と風光に親しんだ。偶々過日ある方から、かって同寺が制作した志功板画の風呂敷を頂いていた。帰り際寺の女あるじにそのことを話すと、今ではとても珍しいことですと仰った。

以下は良寛による「花無心招蝶」の詩。自然界の美しい摂理を歌い人間もまた然りとしている。

樹下美術館の人齋藤三郎もこの詩の一節を好んで焼き物や絵画に書いた。

齋藤三郎作品の「花開時蝶来」
(樹下美術館収蔵)

民藝運動のパイオニア
柳宗悦の掛け軸。
廊下で見て心打たれた。

色紙(無盡藏」。

 

「光徳」の掛け軸。
「華厳」と一対らしい。

以上光徳寺の略略でした。次の訪問先は「愛染苑」です。

福光の生活が始まった頃の
棟方一家。

ささやかな仮寓とはいえ住まいを得た夫婦と子らの安堵は如何ばかりだっただろう。

上に記した石崎氏が“福光の町を歩き歩き(福満之魔智於阿留機阿留機、、、云々)、ヒヤシンスを求め、それを大切にしても道に落としたりと書かれているようだ。文末の「飛矢志武壽」もヒヤシンスと読むらしい。私には難読だが絵から花への感謝が伝わる。

福光の風光をを呉須で描いた
陶板。マチス風でとても良い。
こんな作品を持てたら、、、。

女人観世音版画巻(全12柵)

愛染苑を出てすぐ向かいにある6年を過ごした住居「鯉雨画斎(りうがさい)」へ。

 

茶の間

アトリエ鯉雨画斎
黒い雨が降りしきる中
赤い鯉が昇っていく。

トイレ。
喜びの仏などが
天井まで描かれている。

以下は新居(鯉雨画斎:りうがさい)完成祝いの寄せ書き。大原美術館館長・大原 總一郎、民芸運動で陶芸の巨匠河井寛次郎、濱田庄司の名が見える。

屏風の右側部分。齋藤三郎の
署名があった(斜めの青丸沿いです)。

以上福光の棟方志功関連の施設回りの略々でした。いつものように昼食抜きの急ぎ足で、3時間弱のタクシー貸し切り代は11850円だった。
もう少ししっかり見て来れば良かったと反省点が多い。タクシーは見学時間の予定を告げその都度迎えに来てもらう方が安く済むかもしれない。
富山に戻ると駅前に
ミストの煙。

富山の宿泊は5年前訪問と同じクラウンプラザホテルでした。

夕食はホテルの洋食。
クレープを重ねたケーキの
美味しかったこと。

令和元年、同ホテルでの朝食時、新元号の名付け親である中西進さんにお会いし写真をご一緒して頂いた懐かしい思い出がある。

夜の市電
「国際会議場前」停留所で。

夜の電車を撮るためホテルのすぐ近くの停留所「国際会議場前」で待っているとやって来た。新幹線に備え市内交通網整備の一環として導入されたという路面電車。今どきの時勢とは真反対だが成功し充実、市民に愛されているという。
この時も、待っているとポツリポツリと人影があらわれ間もなく電車がやってきた。都会だなと思った。

路面電車が走る町は旅情と活気があって楽しい。かっての東京のほか後年は長崎や熊本の市電にも乗ってみた。このたびは撮るだけだったが次は乗車したい。

非常に長くなりましたが、翌日の富山県立美術館と富岩冠水公園観光を次に掲載させてください。

本日は太平洋戦争の終戦(敗戦)記念日。偉そうに言うわけではないが、うぬぼれた勘違いだけはストレスレベルまで謹みたいと思う。

先週末の種々。

2024年8月5日(月曜日)

昨日は初めて行く長野市の京急カントリークラブでゴルフがあった。7時20分に車で出たが、一時間少々で着いた。いつもの常で初めての所はどこも外国で、町並み村落、自然みな新鮮で楽しい。ゴルフ場は900メートル以上あり飯綱山が見える良いコースだった。プレイはほかは良いのだがグリーン回りになるとシャンクばかりして成績はだめだった。また課題が出来たとして頑張ろう。

帰路黒姫童話館へ寄った。遅い時間のため入館は出来ないが、去る日同館を訪ねたA氏から同地の素晴らしいオオウバユリの写真が届き、ぜひこの目で観たいと思い寄り道した次第。

以下童話館の駐車場から。高原の風景に心洗われる思いがした。

駐車場から見る同館の花畑。
高原は草花が新鮮で羨ましい。

公道から童話館の道に入るところに3本のオオウバユリが咲いている。行きは山側ばかりみていたので、帰路はじめて気がついた。A氏が送ってくれた花は恐らくこれだろう。確かにY字路で案内目印のように咲いていた。涼しいため花期も長いのか。

さて昨晩遅くのオリンピック中継でゴルフで松山秀樹選手が銅メダルに輝いた。最初から首位争いにからみ、後半で激しく順位が変動した。
あのマキュロイ選手と同組ながら彼の上を保ち続け、最後まで崩れず三位を死守した。18番でバーディパットが入れば二位を掛けたサドンデスに進めるところだった。

バンカーショットを放つマキュロイ。

池が入り組む緊張の最終18番の難ホール。果敢にグリーンを狙う松山選手。ホール全体を大観衆が取り巻いている。フランスはそうゴルフが盛んではない。しかしオリンピックの観客数は驚くばかりで、某有名選手がこんなに多くの観客を見たことが無いと述べたという。やはりオリンピックはケタ違いの競技なのだろう。

それにしてもゴルフは変わったスポーツだ。多くの球技は一つのボールを誰かと投げたり打ったり蹴ったりし合うが、ゴルフは最後まで一人で自分のボールを打ち続ける。4日間もの競技中、成功も失敗も全て自分が行った結果である。面白いのはナイスプレーをして次のホールへ歩く時、歓喜する観衆の中を選手が戦略で頭をいっぱいにしながらうつむいて歩くことである。
選手一人が葬列の人のようになり、気がついては顔を上げ笑顔で応える。昨日最終日の後半はめまぐるしく順位が変わり、そのような場面が何度もテレビに映しだされた。
熱狂が連続するものも良いが広大な場所で繰り広げられる神経がひりひりするようなゴルフを観るのが好きで、続いて始まる女子ゴルフの日本勢には大活躍を期待したい。二人の選手は実力十分なので楽しむようにプレーしてもらいたい。

本日当院脇脇から
見えた積乱雲。

暑い季節だが雲は見る値打ちがある。

暑い日のゴルフ うなぎパワー。

2024年7月18日(木曜日)

本日休診の木曜日、眼の手術などで二ヶ月ご無沙汰したゴルフに行った。前からこの日の晴天が予報され、その通りの空となった。

私のゴルフは20才過ぎてすぐ始まっているので60年は経っている。この間ずっと親しみ続け、趣味としては庭いじりと同等、いや長い分、それより上かもというくらい好きが続いている。

本日の朝食。

午前の9ホールは54だったが自分としては悪くないと感じていた。昼食はメニューにあった「うな重」の写真が誠に美味しそう。いつもなら「カレーの小」などで済ませているものを、同行のA氏に「おごるから一緒に食べよう」と言ってうなぎにした。
しかしいつまで待っても注文を取りに来ない。普段なら手を挙げればすぐ人が来るのに行ってしまう。10分も待っただろうか、ようやく来た人がテーブルのパネルで注文してください、と手順を説明してくれた。

運ばれたうなぎはふっくらこってり、てらりとタレが掛かりメニュー写真の通りだった。錦糸玉子の上のうなぎをダシが滲みたご飯と一緒に箸で四角に切り、重箱の隅に寄せてすくうように取って食べる。日頃昼食を抜いているので最初は残そうと思っていたが箸が進み、一粒残さず食べてしまった。

空きっ腹に普段食べない昼食、それもうな重。体は大丈夫か、と心配しつつ午後の9ホールに臨んだ。すると気持ち良くボールが当たり、およそ真っ直ぐ飛ぶ。「うなぎパワーですね」と言うA氏も調子が良い。最後の1ホールを残して39という数字だったが、ついにうなぎパワーが切れ、最終で8を叩いて47で終わった。

本日午後のコースの眺め。
車で7分米山水源カントリークラブ。

A氏とのゴルフは「良いゴルフをしたかどうか」だけで、勝ち負けのこだわりは全く無い。普段色々と背負いあう多様な人間関係の中で過ごしていると、6時間のゴルフは終始自由で、他に代えがたい生活蘇生になる。

34℃に迫る熱さだったが風は気持ち良く沢山汗を掻き、スポーツドリンクを3本飲んだ。

注文までの時間が掛かり、かなり急いで食べましたのでうな重の写真は撮れませんでした。

楽しめた第20回卯の花音楽祭。

2024年7月16日(火曜日)

近頃珍しくブログを中3日空けてしまいました。13、14日と一泊で旧友夫婦に会うために出かけ、15日は頸城区希望館で「第20回卯の花音楽祭」に出かけたため慌ただしさほかもあり、休ませて頂きました。

本日は20回目となった卯の花音楽祭です。海の日の祭日午後、雨は上がり会場ホールはほぼ満席でした。不肖親族として来賓席が指定され、お隣は音楽研究と地域の音楽振興なかんずく作之助研究に長年尽力された元上教大教授後藤丹先生でした。新潟市から駆けつけられた先生はかっての病を越えられて全くお変わりなく元気で嬉しい限りでした。

始まると大潟町小学校の9人の児童たちが列を作り場内を「夏は来ぬ」をアカペラで歌いながら入場し、ステージで「いま、地球(ふるさと)は美しい」を歌いました。子ども達の歌声は自然で爽やか、良いオープニングでした。
以下大潟区のオカリナアンサンブルのスタンド・アローンのアンサンブル、吉川区のコーラス「ゆりかご」の夜明けのうたの情感、頸城区の合唱団「火曜会」の信長貴富作曲の二曲は一種ドビュッシー風でリリカル、大潟町中学校吹奏楽部の「秘技Ⅱ」は難解だったが懸命な演奏から宗教的な神秘性が深く伝わり、大潟区のシニアコーラス「さざなみ」の「青田川のうた」は後藤丹先生の作曲で何とも爽やかな親しみにあふれ、前半の最後は大潟区のコーラスおおがたによる作之助作曲「漁業の歌」のヨナ抜き調は在りし日の地域を彷彿とさせました。

帰路の芙容の花
一日花だがその日を明るく彩っている。

休憩を挟んで後半はアンサンブル・オビリーによる弦楽四重奏のゲスト演奏、最後は卯の花合唱団による作之助の「吉野山」と「夏は来ぬ」でした。

地域にいると弦楽四重奏を聴く機会は少なく、バッハとモーツアルトのほかタイトルに「愛」が付く四曲のメドレー、サウンド・オブ・ミュージックメドレー、ラストは夏は来ぬでした。クラシックの演奏家はしばしばその楽しみと裾野を広げる貴い役目を負っていますが、それを遺憾なく発揮される熱演でした。

最後は混声四部合唱の「卯の花合唱団」による作之助作曲「吉野山」」および「夏は来ぬ」の演奏でした。前半でコーラスおおがたが歌った「漁業の歌」は在りし日の漁村の姿で、吉野山は南朝の吉野山における王朝の悲しみです。慌ただしい現代のひととき、佐佐木信綱の詩と作之助の曲によってやまと心に触れたひとときでした。

3時間余、児童を含めて4回の「夏は来ぬ」を聞きましたがみな素晴らしかったです。特にアンサンブル・オビリーの演奏、わけても後藤丹先生編曲の『夏は来ぬ」を歌うために生まれている卯の花合唱団のコーラスは涙がこぼれそうになるほど素晴らしかったのです。

エンディングで高らかに終わる夏はきぬの曲調はドボルザークの「新世界より」の「家路」とダブりました。「夏は来ぬ」は5番まである故自在な変化が可能で、一生懸命演奏される限り何度でも聴ける文字通りの名曲だとしみじみ感じました。

それにしても入場料無しでこれだけ楽しめる音楽会は本当に貴重です。

そういえば前日夕刻は新幹線「上越妙高」駅でキンコンカンと鳴る駅メロ「夏は来ぬ」を聴いてきたばかりでした。

今のところちょうど良い梅雨 胃腸に悪い世界。

2024年7月3日(水曜日)

梅雨に降られ出水する地域があるが当地は降っては晴れるを繰り返し、田畑や庭に都合の良い空模様が続いている。農家の方が今のところ良い具合で、出穂を促す「穂肥え」という作業の時期だと仰った。色々な段取りがあるものだと聴く度に思う。

本日昼、青々とした水田。
雨雲が山へ退いている風。

 日陰を作る大きな枝を伐採。
明るくなった庭。

かって枝の伐採は主に風通しを考えて行っていた。今年はそれもあるがあらためて花の陽当たりを考えるようになった。奥の方にあった花も色々掘って前に出してやっている。

話変わって本日外来に来られた若い方が最近胃腸が調子悪いと仰り、近頃のニュースや動画が恐ろしい事や荒々しい事ばかりで気持が落ち込むとも述べられた。まさにその通りですねと彼をしっかり見て全同意した。
終わらぬ戦争、絶えない陰惨な事件、狭く荒々しい自己主張、長い間肝心な政治や選挙からも真心が伝わらない。

しばらくSNSはじめニュースや動画などは観ないようにしましょう、私もそうしますとはっきりお伝えして薬をお出しした。

飛躍的に生活は便利になっているが、僭越を許して頂ければ、主だった世界は自画自賛ばかり、外見重視、内実希薄、胡散臭くて恥ずかしい。庭や生きものに余計眼が行くようになり、身近な人や美術館や診療所に見える人に安堵を覚えるようになっている。

眼が良く見えるようになってから不思議な事に匂いまで敏感になった。

白内障を手術して 倉石隆を大評価される村上市のお客様。

2024年6月27日(木曜日)

本日左眼白内障の一泊入院手術を受けて帰ってきた。去る12日に右を終えていたので両眼無事済んだ事になる。デリケートな場所なので安定まで気を付けなければならないと念を押された。

それにしても良く見える。
帰宅の車中で思った。“今までぼんやりしか見えないので、脇見も振らず前を見て運転をしていた。しかし今度はよそ見に気を付けなければならない”と。

そしてもう一つ、鏡を見て思った。“ああ自分はこんな顔をしていたのか”とひどくがっかりした。たるみやシワがくっきり、ヒゲはもっと丁寧に剃らなければならない、いや色々服装も気を付けよう”と真剣に思った。

本、新聞、パソコン、スマホ、、、眼を細めなくても拡大鏡の世話も要らずありありと見えるのは何よりだ。ブログの制作画面もしかりで、誤字脱字、変換ミスなど長年皆さまにお掛けした恥ずかしいご迷惑も減りそうである。

昨日手術後の病室から見た雲。
(眼帯のまま撮りました)

本日樹下美術館のナツツバキ。

この年でこんなに良く見えてバチが当たりそうであるが、早くも自らの老残を目の当たりにした。もっとご不自由な人もいらっしゃるのだから、あらためて親に幸運を感謝しなければと思う。
二度の手術をされた先生、様々で真摯なスタッフの皆さん、大変お世話になりました、感謝しています。

 

私の留守中村上市からいらしたお客様。倉石隆を大評価され、ご自分も持っておられると聞きしました。嬉しい限りです。

本日髙田から中高の同級A君夫婦が見えた。年取ると何度お会いしても初めて会うようで楽しい。

患者さんたちには大変ご迷惑をお掛けし申し分けありませんでした。良く見えるようになりましたのでまた頑張ります。

雨の日曜日、北海道の話、車の昔話。

2024年6月23日(日曜日)

よく雨が降った日曜日、午後は美術館でお顔馴染みの二人からそれぞれ北海道旅行(還暦祝い)の話と昔話などを聴いてくつろいだ。運河の街のお菓子やガラスの店、エスコンフィールドの楽しさなど北海道は外国の話のようだった。幸せにも夫婦でイタリア貴族のコスプレをされ、写真で初めて見るご主人の男前ぶりに驚かされた。

雨に濡れるアオハダの木。
雨の日の木肌が美しい。

もう一人のご主人は私が髙田に下宿していた中高時代、ご近所のとある集合住宅で過ごされたことがあったという。鮮明に記憶している大きく頑丈な住宅で、同級生の女子も住んでいた。
こちらは車の話だった。多分昭和30年前後、バス以外まだ自動車というものに乗る機会が無かったころ、学童たちは自動車に乗りたくて仕方が無かった。
そんな時代ご主人の身内がタクシーで退院することになったという。当日子供たちも病院へ行き、皆で一緒に退院の車に乗ったという。退院記念日が自動車記念日だったと言う出来事であろう。

ちなみに私の自動車記念日は小学校の帰り道、念願かなってあるアイスキャンディー屋さんの小さな丸い窓がある一種不思議な車に乗せてもらった。車は速く走ったが床に大きな穴が空いていて怖かったことの方を覚えいる。

後年床に穴が空いている車にもう1回乗った。昭和50年代初めのころ、ある二次会の帰りに代行を頼んだ。雪が降り始めた夜、後を走る代行の車がスリップして動けなくなり、頼まれて私はその車に移ってハンドルを握った。二人のスタッフが押して無事脱出したが代行の車の床、ペダルの手前に穴が空いていて雪の道が見えた。
晴れやかにも身内の退院日に皆と初めて乗った黒塗りであろう車に比べれば、私のは惨めなものであり、“さすが髙田育ち”の一語に尽きる。こちらのご主人も本物の侍の如き男前の人。

閉館して静かになった庭。
カフェのガラス越しです。

梅雨入りは例年より遅いと聞いている。晴れ間の庭はどんなだろう。

昨日今日の写真。

2024年6月7日(金曜日)

肌寒く感じていたのが本日急に蒸し暑くなった。この数日の写真からです。

去る日の在宅回り。
猫ちゃんの優雅な昼休み。

庭の柿の花が沢山付いて
秋に期待出来そう。

田んぼに面した場所の
青いホタルブクロ。

普段寒がっていたのに本日は何故かとても蒸し暑く感じ、肌着を着ずに直接半袖の白衣を着た。在宅回りの時、看護師に直接着ていると話すと、エーッと言ってびっくりしていた。

昨日休みだったせいで本日は胃カメラも入り、込み入った入院折衝もあって私にしては忙しい外来だった。

仕事後また芝生の奴隷となり、
ツメクサと闘った。

除草は計11回目。この数日、道具を使った取り方が分かり、能率が上がった。90%は除草出来ている。取り終えてから一部に用土を撒き撒水した。終わると7時を過ぎていた。庭の樹木の茂りが激しく、いくらでもやりたいことがあるが時間が足りない。

須坂市の田中本家博物館、脈々たる意識。

2024年6月4日(火曜日)

一昨日「緑陰茶会」が開催された須坂市。本日は前回の続きとして同市の田中本家博物館の展示について掲載させて頂きます。

かっての長大な蔵が素晴らしい展示室になっている。次々現れる貴重な美術品および生活用品は非常に見応えがあった。
一般に博物館といえば文書資料や説明が多くて疲れる。しかし同館は極力そうしたものが抑えられ「兎に角観てもらう」に徹し、成功していると思う。

刀剣をこれほど魅力的だと思った事がなかった。江戸時代は武士のほかにも一定の人々は帯刀を許されていたという。

九谷、伊万里、明時代の赤絵や呉須など、田中家の磨かれた美意識と鑑識眼はさずが。

以下は子供たちの為に揃えられた品々。

武者人形は端午の節句用。
他にもたくさんありました。

玩具。

いずれも夢のような高級玩具。
完璧な保存。

ままごと用の品々。子ども達は幸せだったろう。

着せ替え人形の数!

着物。

何故か男児ものの方が
女児より上等に感じられた。

大人の着物。

一目見て気に入った帯。

お揃いの真綿入れの半襦袢、長襦袢(最後方)、艶やかな帯、息を飲むような水仙と藪柑子(やぶこうじ)柄の留袖ひと揃え。

最後に展示場を出た庭の一角にあった納屋のような場所。

高い棚に積まれていた鳥籠、虫籠。自然豊かな信州の春秋、入れ替わり立ち替わりの鳥や虫に籠は休む暇が無かったのでは。

さて沢山載せましたが、この何倍も展示されていて美しい書画もあった。客観の徹底、多岐で豊かな品々と原状管理の努力など田中本家の人々の意識の高さに尊崇を禁じ得なかった。
長き亘り質素倹約を家訓とし、ものと人を大切にして藩を支えきる。そうで無ければこれほど良い品は集まらず維持も叶わなかったことだろう。

子供たちの玩具や着物を見ているうちに目頭が熱くなり、同家の亡き人々のことを思わずにはいられなかった。

何か落ち込むようなことがあったら、あるいはそうでなくても、また来てみたいと思った。

同館は維持管理に費用が掛かりクラウドファンディングまで企画している。規模に雲泥の差はあるけれど、樹下美術館も決して楽ではない。12代御当主にはその点でもシンパシーを覚える。

昨日日曜日、長野県は須坂市の茶会に。

2024年6月3日(月曜日)

昨日2日、日曜日は上越市のフカミ美術さんが主催する長野県須坂市の「緑陰茶会」に出かけた。隣県とはいえ須坂までは車で一時間半ほどで到着する。通過するばかりだった同市を訪ねるのは初めて。他県となれば大旅行の気分で雨降りのなか妻を乗せて車を走らせた。

ナビを頼りに最後にリンゴ畑を抜けて古い通りが残る須坂市に着いた。

城下町須坂市の
会場界隈。

会場は浄土真宗本願寺派普願寺で濃茶席、田中本家博物館で薄茶だった。両場所は隣接し同市の風致地区を形成している。
予定の時間まで博物館の展示室を回った。展示作品については後日掲載させてください。


さて田中本家の12代ご当主、田中宏和氏とは今年3月、「お話と茶会」の催事で講演された折お会いしていた。その後お手紙まで頂戴し、このたび小島正芳氏近書「良寛の生涯と芸術」を持参し、会場入り口でお待ちくださった氏と再会を喜んだ。

最初は濃茶だった。

格調と清々しさの参道を歩く。

左右に台杉がある門をくぐって
会場へ。

 濃茶の席主は裏千家折井宗智先生。
市松模様にあしらわれた紫檀の風炉先屏風と点前座のしつらえ。特に目を惹いたのが座瓢釜だった。普通なら上下二段に膨らむ瓢だが、この釜は下段が大きく平たに張っている。鐶付きが無く代わりに大きな取り手が付いていた。大西浄林作で大胆な意匠に驚き、他で二度と見ることがないだろうと思った。
全体が黒い色合いの点前座の中で赤く映える了入の水指の調和がとても良かった。

糸巻きの蓋置きはじめ丹波肩衝(かたつき)の茶入れはじめ拝見のお道具はみな独自の存在感があった。光沢ある美味しいお茶だった。

続けて裏千家小布施宗節先生の薄茶席。お席は立礼で行われ、艶やかなお道具類で美味しいお薄を服した。

琵琶の蒔絵の大棗と
坐忘斎宗匠の茶杓。

紫紺交趾(こうち)袋形の水指。

 鶴首の花入れは籠。葉を伸ばし始めた矢筈薄と夏蝋梅が清々しかった。

不慣れな信州の地。私は少し離れた所へ行くと外国に来ているような気持になる。だた見知らぬ方々と一緒に座れば一座建立。心づくしのお道具を愛でながら美味しいお菓子を食べお茶を服せば文字通り一期一会の心地が漂うのである。帰り際長野の方で樹下美術館へ行った事がある、あまつさえ茶会に座ったと仰る方とお会いし嬉しかった。

お薄では正客の指名を受けた。あれを聞けば良かった、これを尋ねれば良かったということに終始し、恥ずかしかった。

次回は田中本家博物館の展示などに触れさせて下さい。

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