明け暮れ 我が家 お出かけ

信州は須坂で江戸時代の料理を食べる 満月、私達の奇跡。

2024年10月17日(木曜日)

本日木曜日は休診日。10月にしてはやや暑さが戻った空だった。この日はかねて予定の長野県は須坂市の田中本家博物館で催される「江戸料理再現の食事会」に参加した。

今年6月2日に同博物館と普願寺で行われた茶会に伺っていたので須坂は二回目となった。前回、思ったより近いと感じたがこの度はさらに、短時間で着いた。

優しく熱心な同本家12代ご当主に迎えられ11時から待合の間でお話を聴いた。
地名の由来などから始まり魚の話題へと進んだ。日本海の魚を飛脚のごとく信州へ運び継ぎ、山中の氷室にヌカ保存して年中魚を欠かさなかったことに驚かされた。
さらに代々の塗り物の金銀盛り上げの見事さに感心し、江戸末期の文人、亀田鵬斎の書体について良寛との会合前後の顕著な変化を示す床の双幅も興味深かった。

漆器について説明を受ける。
手袋が配られ皆で触れてみた。

お話の後は食事の間へ。参加者さんは各組ごとにテーブルが用意されている。
盃、壺、吸い物、刺身、焼き物、太平、蓋茶碗、飯、漬け物、汁、番茶の順に振る舞われた。各膳の食材は丁寧に吟味され、器は江戸趣味満点でおのずと美味しと珍しさがつのる。

途中厨房の前を通ったところ、廊下全体に濃厚なダシの香りが漂い、日本食の真髄を実感した。
以下はお品書きで初めて目にした献立の「壺」と「太平」の料理です。

「壺」で出された料理。
蛸にあずきが掛かり
菊と青菜が添えられる。

料理の順番と器の形状から「壺」とは、向こう付け、特に筒向(つつむこう)に相当するのではないかと思った。早速出された海の物があずきで甘みを含み、見た目も良くとても美味しくかった。

朱の大きな蓋付碗の「太平」。

「太平」は焼き物の次ぎに出された。慈姑(クワイ)、家鴨、婦久羅(ふくらげ)煮浸し、擬製豆腐、鱈切身霰柚子、巻卵、菊餡、焼き茄子、氷蒟蒻(ひごんにゃく)、青菜が賑やかに盛られている。
用いられた器の欄に皆朱太平とあった。朱で大きく平たい蓋付きの碗で出され、肉料理のメインディッシュと考えられた。

膳が進み茸ご飯と汁、それに須坂丸茄子の味噌漬けが運ばれ、最後はお番茶と塩落雁で締めくくられた。

お番茶と塩落雁。

少し堅めの塩落雁をかじるように味わいながら番茶を服し、盛大な食事が終了した。
この日の料理は嘉永元年(1848年)10月、上田藩奉行 大平多喜治様ご接待時の再現だった。客、献立、器の詳細は分厚い「萬賄帖(よろずまかないちょう)」などに記されているという。帳面はこの後巡った博物館に展示されていた。

相客された東京のご夫婦はこの食事会は8回目とお聞きし驚いた。多くの人が支える博物館。やはり継続は力なりなのだ。

食後、案内された館内は展示物がすっかり替わっていた。構造にも変化が見られ、当博物館の意欲と収蔵品の豊かさに圧倒される。

入ってすぐ大きな薩摩焼の壺一対。

染め付け大鉢と盛りつけ料理の写真。

京焼きの一つである、
交趾焼(こうちやき)の風炉。
鳳凰が大胆に描かれていた。

博物館から庭に出ると、秋の草花が優しかった。

ホトトギス。

手前にムラサキシキブ、
向こうはウメモドキ。

講、食事、博物館鑑賞、リンゴジュースの飲み物一式で19000円の会費だった。

充実の時間を過ごすと再びリンゴ畑を抜けて帰路高速道路に入った。

色づきはじめたリンゴ畑。

博物館周辺の景観は江戸時代の風趣があり旅情を感じる。そこの屋敷で昔の料理をその時の器で食べる。
秋好日の意義深い体験であり、御地と越後は密接であったことを改めて知った一日だった。

さて本日は満月。しかし日中空は曇り、夕刻の雲は厚く、月は無理だろうと思っていた。だが帰って寄った美術館が終了し表に出ると東の雲間が輝き月が上った。

巨大な月が上る。
夜明けのような光景だった。

間もなく隠れた満月。

数時間後には真円になるはずだった大きな月。こんな月をこの目で見られるとは、私達と地球の出来事はまったく貴い奇跡にちがいない。本当に勿体ないことで、そろそろ軽々しく戦争などをするのを止めたらどうだろう。

失った1枚 栗。

2024年10月16日(水曜日)

本日日中ほぼ雨に降られたが夕方から上がった。稲刈りが終わった周囲の田はひっそりと静まり10月は中ば、秋真っ盛りになった。

午後のお茶に頂いた栗を茹でていたので食べた。肥後の小刀で皮をむいた。そうすると食べるまでに時間が掛かるがきれいに剥けばより美味しくなろう。

 紅茶で食べました。

一番最初に剥いた栗はかなり弾けていて特別大きく、とても剥きやすかった。しかしながらカメラにフィルム(SDカード)が入っていなかったのだ。
失った写真は本当に大きい。あれほど見事な栗にまたお目に掛かれるだろうか。機会があれば今度は是非落ち着いて撮ってみたい。

カードを入れずに取ることは以前からよくあり、妻には呆れられている。実はその時に備え、カメラの肩掛けバンドには予備のカードを入れた小さなケースを紐で付けている。本日はそれを使えたのだが、肝心な栗を食べてしまっていた。
上掲はその後剥いた三つの栗で、残念ながら最初のに比べるべくもない。

気を取り直して明日は満月、スーパームーンということ。晴の予報で大きな満月が観られそうだ。ちゃんとカードを入れなくては。

二泊二日の大旅行。

2024年10月15日(火曜日)

去る10日、「この先も頑張らなければ」と書いた後からブログを4日も空けては、また倒れたかと言われても仕方がありません。

実は12日土曜日から上京、二泊して昨日14日夕刻帰りました。先回大切な人たちに会うと書き、みんなの幸せをと願って出かけたのが、私の方が幸せになって帰ってくる、という東京行きでした。

現に“そうでもない”という人もいますが、“兎に角元気で長生きすれば良い事がある”と何度かここで書き、診療でも多くの方にそうお話してきました。このたびの旅行で自分自身がそれを確認した次第です。

二日間はに二組の人達と渾身の食事をし、それぞれの食事はことさら美味しく、身体に優しいもので大満足でした。
一緒した人々は食事と同じく、あるいはそれ以上に優しく、この先ますます元気に生きようと心洗われました。

13日の昼食後、通りへ出ると向こうに50年以上も前、駆け出しの頃バイトをした東京交通会館が見えました。止めてから50数年はゆうに経っていますがよくもまあ相手も自分も立っているものだと感慨を覚えました。

13日は昼食後ホテルに着くとあたりに太鼓の音までして、目の前は大変な賑やかさ。外食が続いたので夕食はホテルでコンビニ食にしようと出て見ると「第43回みなと区民まつり」というのをやっていました。初めて耳にするような国も入れた各国大使館ほか各県から食べ物などのブースが出ての大イベントでした。

ステージがありウクライナ大使館主催というコーラスとダンスの時間で大勢の人がみていました。

さすが東京の祭。

ファミリーマートで買った夕食。
出来るだけ加工の少ないものを。
ホテルの部屋で有り難く食べました。

最終日の昨日14日は予定通り東京都美術館で開催中の「田中一村 展」を観ました。入れたスマホの入場券も無事現れて入場。

上野公園

田中一村展の大看板

東京都美術館の田中一村展は二期にに分け以下の開催です。
・前期展示:9月19日(木)〜10月24日(木)
・後期展示:10月25日(金)〜12月1日(日)
予約が必要な曜日もありますので確かめてお出かけください。

一村は南画でしたが公募展をことごとく落選が続きました。亡くなってから人気がでる芸術家の一人ですが、今では一村美術館が出来、この度の展覧会は作品の前に何重にも列が出来るほどの人気でした。
花鳥と山水中心の日本画の世界で、晩年の奄美大島時代のビンロウジュやソテツを大胆にあしらった光りと影の作品には南国の空気と時間が流れていてエキゾチックな気持にさせられなした。

300余点、全館挙げての展覧会は年令のせいもありますが疲れました。無理して言えば疲れるほど堪能したといえるかもしれません。
それにしてもこれだけ膨大な品を、あしらい良く展示する作業はどんなに大変なことか。張り合いもあるでしょうが、本当に立派と思いました。

東京の混雑はやはり堪えます。帰路の切符を買い直し1時間半列車を早めると明るいうちに帰ってきました。
樹下美術館の開館中に着き、一段と赤くなった柿をもぐと雲が良さそうな上下浜の海へ行きました。

夕暮れの海。

以下は一日目の食事で話題になった上下浜のアンドリュ・ーワイエス風の景色。マリンホテル ハマナスの東側を歩きました。

2007年美術館が開館した年、東京から来られた方がここを見てワイエス風と仰り、その後10年ほどして別の東京の方を案内すると、またワイエスだと仰った。それは敢えて言えば“嬉し寂しい風景”なのです。


ワイエスの紹介動画。

さて柿です。美術館の甘柿は終盤にかかりました。

夕刻もいだ柿。
一段とサイズが大きくなり、
甘みを増しました。

現在柿は出来るだけ美術館のお客様にお出ししていますので、宜しければ「柿ありますか」とお尋ね下さい。

話を東京行きに戻して、
普段の旅行では密かに何かと妻を頼りにしていますが、この度は一人でした。
切符を失くさない、駅の階段で転ばない、ホテルのキーを失くさない、スマホで田村一村展の予約をする、帰路の切符を買い替える、あまりのろのろ歩かない、駐車場の車の場所を忘れない、二つの初めてのレストランへそれぞれちゃんと着く、トイレは早めにetc。

多くの関門が続いた二泊二日はもやは冒険的大旅行でした。

帰ってきた樹下美術館と夕暮れの海辺、美術館周辺の田んぼは、いずれも「我がふる里」の実感がして疲れが取れた次第です。それでも大切な人達に会える心から幸せな旅でした。

この先も頑張らなければ。

2024年10月10日(木曜日)

好評の「高宮あけみ 水彩画展」。お弟子さん方が横浜から次々来館されます。本日は4人様がお見えになりました。
午後お茶をご一緒しましたが、「鎌倉よりよほど素敵な場所です」と仰るではありませんか。横浜の皆さまから、あの鎌倉より素敵とは、何と嬉しい事でしょう。

新幹線、あるいはほくほく線でまだ何組か来られるということ、本当に有り難いことです。「だって日帰りができますから」という言葉も心強いことでした。

本日のベンチ。

 今日の樹下美術館産甘柿。
明日からお客様に尋ねて
宜しければお食べください。

本日の夕陽。

コロナのせいもありましたが、今になってしばらく会わなかった大切な人達に会えることになりました。こうなればいっそう身体をいたわり頑張らなければと心を新たにした次第です。

A氏を亡くして。

2024年10月7日(月曜日)

去る日ある方A氏が亡くなられた。親しくして頂き世話にもなった。昨日お通夜でお線香を上げた。お顔を拝見させてい頂いたが静かに瞑目しているだけの表情だったので、声を掛ければ返事をしそうだった。

海山と音楽を愛し、ある団体で社会奉仕をされ、長年日本と海外の高校生を交換留学させる事業に取り組まれた。
数十年前、交換留学のお手伝いをさせてもらった時、“世界はテーブルの上でそれらしく話し合いをするが、下では足の蹴飛ばしあいをしている。せめて私達だけでも地道に交流し合わないと”と仰った。

クラシック音楽に造詣深かったA氏。樹下美術館は貴重な蓄音機をお借りしていた。その蓄音機を回しよくカフェでレコードを聴き、何度もお客様を招いてSPレコード鑑賞会を行った。

お考えと構えに貴重な品格を隠し持たれ、先人を尊び地域を大切にされた。負っている責任に対する熱意と周到な実行力は忘れることは出来ない。

以下は1971年10月24日、94歳で国連でスピーチをし演奏した時のパブロカザルスの映像です。当館でレコードを聴く際、よくカザルスの「鳥の歌」が最後に掛かりました。

 

カザルスは演奏に先立ち、
“私は40年も人前で弾いていませんが、今日は演奏しなければなりません。曲は小曲で「鳥の歌」です。鳥たちは大空でピース、ピース、ピースと鳴きます。音楽とはバッハやベートーベンほかの全ての偉大な音楽家たちが愛し尊んだものであり、それはとても美しく、私の国の魂とも同じなのです、カタロニアの。」”とメッセージを述べています。

本日はA氏のお葬式でした。私は急な胃カメラのため参列できませんでした。お葬式は悲しくも非情であり、昨日まだ体温が残り返事をしそうだった人があの遠い次元へ去り、完全に訣別しなければならない日です。

病は本当に残酷です、、、まだ若い人ならなおさらです。

明日から誰と話し、誰に聞けば良いのでしょう。

潟町村村立小学校の同級生。

2024年10月5日(土曜日)

本日土曜日、少々肌寒く雨交じりの曇空の日。
午前の診療で5人の小学時代の同級生がほぼ同じ時間帯に見えた。お一人が「待合室は同級会になっていた」と仰った。
さもありなん、昭和16年と17年生まれのクラスが偶々5人も同じ場所に居るなど、普段あり得ないことです。何かしらそれぞれ医療用件があり、決して暇つぶしに集まっているわけではありません。
他の日に来られる方を入れれば今や10数人が拙院に通ってこられるようになりました。不思議とも自然にも思われますが、和やかだけでは無く慎重に対応を続けたいと考えています。

私は中学校から髙田へ通いましたので皆さんとは12才でお別れしたはずでした。その後私でも参加できるクラス会があり、そうこうするうちに五人、六人、80才前後から九人、十人と見えるようになったのです。

そんな日の午後美術館へもう一人小学時代の同級生が見えました。彼は「これを貰いました」と言って、現在展示中の高宮あけみ展の販売作品が入った紙袋を見せてくれました。

 

求められた樹下美術館を
描いた作品。

実は彼こそ樹下美術館を施工された久保田建築の社長さんA氏です。駐車場からレベルの高さで入館、湾曲壁の絵画ホールから40度屈曲して陶芸ホールへ、途中のカフェへは60㎝を下りる。美しい漆喰の壁、爽やかな採光、、、。小さくても同じく大潟出身の大橋秀三さん設計の鉄筋コンクリート一体構造の、冬をまたぐ施工は容易ではなかったはずです。
竣工から18年、氏は折に触れ来館され館内を眺めカフェに座られます。

ひととき一緒に庭を見ながらお茶を飲み、もいだばかりの柿を食べました。

本日収穫した柿。

さて昨年15個ばかり獲った柿は今年40個ほど実りました。まだ早いかなと思ったのですが、この甘柿はヘタ近くに少々青みが残る今ごろ食べても全く渋みが無いばかりか、爽やかな甘みがありくサクサク、パリパリ、美味しいのです。
赤味を増すと蜂などの昆虫や鳥たちが食べに来ますので、もう少し様子を見てから残りを獲ってみます。

今日は幼い時代の同級生のことを書かせて頂きました。

水盤は「お鳥さまの公衆浴場」 敬老の日の花束。

2024年9月16日(月曜日)

祝日の本日思いのほか晴天に恵まれたが暑さは相変わらずだった。カフェから見える水盤は鳥たちに大人気で、あたかも「お鳥様の公衆浴場」と化した感がある。それというのも毎朝スタッフが水を替えているのが人気の理由らしい。

何度もやって来るヒヨドリは
水浴びが大好き。

大きいのが来ました。

 カラスです。
カラスの行水の通り
すぐに出ます。

一方何度もやって来ては
大騒ぎのヒヨドリたち。

右の三羽がやっていたようです。
直後回りを向いて警戒?
上で雀が待っている。

向こうはシジュウカラ、
手前はヒヨドリ。

鳥たちの水浴びはある種必死の様相がある。上品にポチャポチャでなくバシャバシャと激しくやって慌てて上がる。普段用心深い彼らにすれば水浴びはスキだらけの時間である。なので瞬間的にアドレナリンを出し、エイヤッ!とばかり決死の覚悟で行うのではないか。

その昔、怪我した雀のヒナを育てていたある日、突然水の器の中に飛び込みバシャバシャやったのを見てそう感じた。夢中の羽ばたきの後、いかにも慌てて水から出るや何事も無かったような表情で周囲を見る。5枚目の写真にそれが現れていないだろうか。

敬老の日の花束。
花の難しい時期にセンス良く
とてもすっきり選ばれていました。

本日敬老の日だったとは。お目出度うと言うのも、、、という親族。でも心こもったお花でした。
有り難うございました。

一昨日の雨、山は秋へ。

2024年8月27日(火曜日)

昨日は小林古径記念美術館の「玉井力三展」を書き、文末に前日に降った雨のことを米山と田んぼの写真でコメントさせて頂いた。

ところでその25日日曜日、私はゴルフで赤倉だった。美術館一帯などの平場では昼から川が増水するほど激しく降ったと聞いた。一方赤倉はさほどでもなく、午後いっとき傘を差したほか支障なくプレーが出来た。それが終わって帰ると、よくゴルフができたね、と言われるほど平場はひどく降ったらしい。その日の山と平地の降り方は奇異でキツネに包まれた感じがした。

いずれにしても雨のお陰で熱中症気味だった庭は息を吹き返たのが嬉しい。

ところで私のゴルフはひどく波があり90なかばのことがあればこの度は106と、まったく安定しない。私と同年齢でもいつも上手な人がいて、かといってもう練習すれば良いというものでも無く、長く楽しむことにしたい。

ゴルフ場は標高800メートル近い高原。コースは涼しく草花は秋へと衣替えを始めていた。

初々しいススキ。

処々のツリフネソウ。

何かとお世話になっているSさん、また横浜市からお寄りのご夫婦さん、昨日のご来館まことに有り難うございました。

週末の玉井力三展。

2024年8月26日(月曜日)

一昨日24日土曜日午後は上越市髙田の小林古径記念美術館へ行った。同館で好評開催中の「玉井力三 展」を観るためだった。
玉井力三:上越市柿崎区出身、明治41年(1908年)8月14日~昭和57年7月23日、享年74才の人。
後の太平洋美術学校に学び、終戦まで満州で制作、戦後まず月刊讀賣、ユーモア、オール讀物、少年讀賣などの表紙絵を担当。
昭和29年(1954年)、46才から長きに亘り小学館発行の学年雑誌を中心に他社の学年誌はじめ婦人雑誌、学習ノート、大人向け月刊誌など多数の表紙を描いた。小林古径記念美術館入り口の看板「玉井力三展」。

美術館で購入した書籍「玉井力三の世界」
から裏表紙。
初めて手がけた昭和29年四月号。
まだ表情はあっさりしていた。

本展覧会は氏が筆を執った小学館発行の学年誌からおびただしい表紙原画が展示され、ほかに一般の油彩作品もあった。表紙以外では美しい光の中の裸婦像が非常に魅力的だった。みな個人蔵と記してあったがどんな人が所有したのだろう。

表紙絵は自宅柿崎のアトリエで制作され、本人が作品を携えて上京。東京では次に備えて季節に相応しい状況が設定され、モデルの子ども達を配した丹念な撮影を行うという一連の周到な過程が繰り返されている。

作品は編集者から印刷所へ回されたが、付けられたメモが展示場内に掲示されていた。そこには、
○顔の色はなめらかに、健康色を出す。
○歯と白目部分を出来るだけ白く。
○運動着は純白に、但しシャドーは飛ばないよう。
○唇は赤すぎないよう。
○絵とまわりのイラストなどが全体に調和するよう。
○歯の間は原画どおりに。
などと玉井氏のこだわりが記され、特に肌の色(健康色)、歯と白目の白が強調されているのが目を惹いた。
赤い頬のほか、個人的にはくっきりした二重まぶた、明瞭なほうれい線、および笑顔でのぞく歯ぐきと舌は玉井の児童表紙絵の特徴として印象的だった。

季節ごとのテーマや万博、スポーツイベントなどがモデルの子どもとの関わりで取り上げられるが、読者は幸福な表紙に大いに元気づけられ、将来を夢見たにちがいない。
一貫した具象の商業画家、玉井力三。希な氏の業績はさらに評価、顕彰されるべきではないかと思った。

本日の米山。
昨日しっかり雨が降り、稲には
良いタイミングだったのでは。

富山県を訪ねてその2 ,先ず大和、遅まきながら富山美術館と運河。

2024年8月17日(土曜日)

さて8月12日分が長くなりました。本日は翌13の分です。
当日午前は開店早々の大和デパートへ。5年前もそうでしが富山市に来たらまず大和デパートでした。

懐かしや、
上越大和と似た外観。

1F
スーパーと違いデパートはきれいだ。

ギャラリーの彫金作品。
下地から浮いた
繊細な分岐模パターン。

新潟県の三店が閉鎖されて久しいが金沢市、富山市では構え良く営業されている。開店早々の店内を眺め美術部のギャラリーでモダンな彫金を観た。大和が健全なことは嬉しい。

続いて本日メインの富山県立「富山美術館」へ。炎天下で辻に立ってタクシーを待ったが中々来ない。近くに営業所はあるが人はいない。看板の電話番号に電話すると待っていて欲しいと言われた。待つ事しばし、現れた女性ドライバーさんのタクシーに乗ると、富山では流しのタクシーは無いのですかと尋ねてみた。
はい、人手不足もありますが、そもそも富山の人は普段よほどでないとタクシーに乗りません、という。富山の人は堅実なのだ。そもそも一帯はバス、ローカル電車、市電、私鉄など交通の便が良さそうである、、。聞いていて、すぐタクシーに乗りたがる自分たちを恥ずかしく思った。

さて富山美術館に着きました。

企画がいっぱい詰まった美術館。

先ず西洋画のコレクション展から。

ロートレック薄描きの油彩肖像作品。
安定のデッサン。

ピカソ「肘掛け椅子の女」
壮大な展開はやはり
デッサン確立から始まっている。

岡本太郎「赤兎」
とてもきれいだ。

若者が多い館内は頼もしい。

今期は「民藝MINNGEI-美は暮らしの中にある」」の特別展中。昨年から日本各地を巡廻中の木工、金属、陶芸、ファブリック(繊維)、絵画、染色、ガラスなどの各分野ごとの民藝作品が丁寧に続く。あらためて名もなき職人がもたらした生活の美の力を知らされる。
美術館のコレクションではないため撮影は導入部の環境的展示に限定されていた。
民藝に着目し概念を確立した柳宗悦(むねよし)と氏と同士の工芸、美術の巨人達。導かれるように広い裾野を形成したファン。民藝は戦前戦後を通し一貫して起こった「健康で日常的な」美の革命にちがいない。

現代は若者中心にユニクロ、ニトリ、百均が生活を席巻している。品質が良くリーズナブルなので広がりからいうと文化としか言いようがない。これらからみると明らかに民藝は異質で、今後生活文化に於いて両立するか重要なテーマになりそうだ。

以下はさらに続く展示「20世紀の椅子コレクション」。

フリッツハンセン社のモンローチェア(左)、マッキントッシュ氏デザインのウイロー1チェア(中)およびとヒルハウスラダーチェア(右)。これらは上越市直江津駅前、ホテルイカヤのロビーなどで以前から観ることが出来る。

世界の名椅子がズラリズラリ。
上越市歴史博物館にあるものも
あった。

ありました、堂々の「柏戸」。

2007年樹下美術館開館を前に館内の椅子を選ぶのに楽しい時期があった。その折カタログなどで山形県の天童木工の椅子を検討したがひときわ目を奪われたのが「柏戸」だった(小さな樹下美術館では使えませんでしたが)。
今回会場で座ってみたところ当然硬く、座り心地はいまいちだった。だがこれを歓迎を表すオブジェとしてロビーなど置くなら誠に良い感じになろうと思った。まさかこの日「柏戸」の実物と出会い座れるとは思ってもみなかった。
※樹下美術館絵画ホールの山中グループの「マッシュルームスツール」やカフェのアルネヤコブセンの「セブンチェア」も20世紀デザインの名椅子です。

以下は富山県出身の美術家、詩人、評論家・瀧口修造氏コーナーからです。

瀧口氏のコレクションが並ぶ。

氏の書斎。
おびただしい書物と資料。

ジョアン・ミロが来日した際ミロが絵を
瀧口氏が詩を書いている。

戦前特高に捕まってまで前衛芸術に身を捧げた富山県出身の瀧口氏。戦後堰をを切ったように沸騰するその世界で絶大なインフルエンサーの役割を自ら負われた。
どれだけ多くの人が氏に会い、作品を送り、評価を請うたことだろう。かって何気なく求めた美術の古書が瀧口氏への献呈本だったことがあり、氏の仕事が如何に多忙だったかを垣間見た気がした。

最後は現代美術のコレクション。

袴田京太郎作「本保裸婦像-複製」
広い会場でひときわ目立っていた。
妻撮影です。

本保義太郎作の裸婦像。

袴田作品の原型となった高岡市出身、夭折の彫刻家、本保義太郎作「裸婦像」が傍らに展示されていた。本保氏へのオマージュで、何故日本髪なのかが理解出来た。

最後にこれも懐かしい久保田成子作品「階段を降りる裸体」。久保田さんは直江津の出身。ニューヨークで活躍され世界で認められた人。
小学時代一時彼女のお母さんにピアノを習った。お父さんは高田高等学校の校長をされた久保田隆円先生です。

さて広大な美術館で膨大な作品を観た。とても楽しかったしまだ観足りない。こうなれば再訪であろう。
ひごろ様々なジャンルの展覧会が地方を回る。新潟県には上越市はじめ新潟市、長岡市ほか立派な美術館がある。もう年だから遠くへ足を伸ばせない。それで北陸と新潟県をぐるぐる回っていれば十分に楽しめるのではないかと思った。

富山美術館の前に富岩(ふがん)運河環水公園の船着き場がある。電車でも船でもいい、出かけた先で乗り物に乗るのは楽しい事だ。20分の短いコースだったが今度は海が見える長いコースに乗りたい。

良寛研究家の小島正芳先生にお聞きしていた富山県は浄土真宗王国の事実。この度棟方志功で実感したが、真宗は時に芸術家や思想家に決定的とも言える影響を与えている。
無駄を省き質と実を重んじる県民性も伝わった。一泊だったが、隣の芝生でないけれど魅力的な隣県に恵まれることは幸せなことだと実感した。

この度の写真は全てスマホで撮り多くはトリミングしました。

2025年8月
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31  

▲ このページのTOPへ