聴老(お年寄り&昔の話)

こたつのホゾ 何かしらの役割

2011年12月3日(土曜日)

夕刻から雨風が強まったが、気温はさほど下がらない。それでも家々ではコタツが出たりストーブが出ている。

 

「忙しいですか」、日頃あえてお年寄りに尋ねてみる。すると一瞬エッと驚かれ、すかさず「アハハ、草取りくらいですわ」などと返る。この時、どこか嬉しそうなお顔になっているので張り合いだ。あるいは嫁が仕事をさせてくれない、と返ることも少なくない。それはそれで愚痴めいた話をしてもらう。

どうしてますか、に対してこれから以下の答えが多くなる。

「コタツのホゾですわ」

「コタツと相撲とっています」

「コタツにしがみついていますわ」

「コタツ番です」

 なるほどなるほどうまいな、と感心する。自分の立場や時間を笑ってみせるのは立派な文化だ。 

 

母が居た頃、出来ないと分かっていても外出には「留守番たのむよ」と言って出た。

すると寂しい顔もせず「はい行っておいで」、とかえって機嫌のいい返事になった。

人はいくつになっても、たとえうまく出来なくとも役割を喜ぶにちがいない。

 

母と飲んだ紅茶
今は懐かし、昨年5月に樹下美術館で母と飲んだ紅茶。

赤ちゃんに帰るお年寄り 手のひらを見せて笑顔

2011年9月19日(月曜日)

今日は敬老の日だった。普段から親と関わっている家族には、敬老の日って何だろうね、と考えてしまう日かもしれない。

 

やや奇異だが老人には年を取るにつれ、相手または世話をする人が限られてくる傾向が見られる。他の人ではダメ、あるいは手出しが出来なくなる一面が出てくる。こちらではなく、老人の側にそのような志向が現れるようだ。

 

このことは、加齢が赤ちゃんへの回帰だとするとある程度うなずける。かってお乳を含ませた母親が唯一の人であったことと、世話し見慣れた人が次第に唯一の人(あきらめも含まれているかもしれないが)となるのと重なる。

 

また世話を促すように、かって頑固だったお年寄りにもどこか可愛い反応が現れる。飾り気なさ、可愛い勘違い、見たことがなかった笑顔、聞いたことのなかった「ごめんね」、「かんべんね」、「ありがとう」。構わないでは居られない赤ちゃんとどこか似た変化だ。しかも主に世話する人に向けられ、その人たちだけが見得る反応の可能性がある。

 

拙い経験ながら、これらは曲がりなりにも(みな曲がりなり?)世話や介護が維持されている超高齢者とその家族に見られる様子だった。拙生の母の最後の一、二年そして数ヶ月は、ある意味別人、振り返れば赤ちゃんのそれが現れたように思われた。

 

自尊と安心。お年寄りが望むものは二つだけかもしれない。いくばくかの話をしてもらい、手のひらを見せ、笑顔を作る。赤ちゃんと同じ、お年寄りも最後は視聴覚だけを頼って生きるのだろう。

 

認知症には赤ちゃんに帰るもう一つの道を見る思いがしないでもない。

 

 長峰池
ある日の上越市吉川区の長峰池
アール・ヌーボーな夕刻

「指示が入る、入らない」を止めよう。

2011年9月13日(火曜日)

10年ちょっと前、介護保険が始まる頃、保健、介護、リハ、看護、と多様な職種の方たちと交わるようになった。いろいろ話が聞けてためになったが、認知症に関連した奇妙な言葉にも出会った。

 

「この方は指示が入りません」、「指示は入るのですが、すぐ忘れます」などという言い方だった。こんな言葉は病院にいた時も、20数年の開業でも聞いたことがなかった。

 

この地域だけの言葉だろうか、一部でかなり一般的に使われていたように思われた。  

 

言葉は如何にも上から目線である。そもそも今どき「指示」はまずい。さらに「入る入らない」はなおさら問題だろう。あたかも動物かロボットを相手にしているようではないか、あるいは古い時代の看守など も浮かぶ。

 

「言ったことを理解出来る出来ない」、「助言を行える行えない」などの事だと思われた。治療者や介護者の言葉としては乱暴かつ冷酷であり何とも悲しかった。

 

かなり前、このことを地域の関係者の会議で述べた事があった。しばらく耳目にしなかったが一昨年の介護職の書類に使われていた。その頃ちょうど厚労省から人が来て上越市の担当者を交えた集まりがあったので改善を要望した。

 

そして今日の在宅訪問。同席したケアマネージャーが「指示が入らなくなっています」、と言った。ちゃんとした仕事をされる人だったので残念だった。相談ごとを済ませてから、言葉について皆さんで話し合ってみて下さいと告げた。

 

介護の現場は一定の洗練を続けている。しかし、いつか自分がお世話になる時に、この人は指示が入らない、などとは言われたくない、、、。

 

夜9時半を回った。先ほど痰が詰まって苦しそう、という方を往診した。最後までお願いします、と言われハイと答えた。何とかやってきたので何とかやっていけるだろう、というハイだった。満月を終えた月がむら雲とやりとりしていた。

 

 司修氏講演会

赤い月 高田高校の山崎先生

2011年7月15日(金曜日)

良く晴れた一日、少しく風が吹いて、日中は家より外が楽な時間もあった。いよいよお年寄りの脱水症(発熱、食欲途絶)が始まった。今日は三件の往診先で点滴をした。いずれも急で夏は本当に油断が出来ない。

さて今夕の満月を楽しみにしていた。月の出を家の前の道路から見ることが出来た。出たばかりの月は驚くほど赤く、家並みの真上だったので大きく見えた。あまりの赤さに、お向かいの奥さんがあれは何ですかと仰ったほどだった。

 

夕刻の月
ルナ・ロッサ(Luna Rossa) 赤い月はシャンソンにもある

ルナ・ロッサと言へば、テラ・ロッサも思い出す。双方ともイタリア語で、テラは土でロッサは赤。赤い土テラ・ロッサは地中海地方やブラジルに見られるぞ、と高校時代に山崎静雄先生の世界地理で教わった。

ロングさんとあだ名された先生は数学がメインだったが地理も教わった。アルゼンチンの首都ヴェノスアイレスはスペイン語で良い空気という意味なんだ、シュヴァルツ・ヴァルトはドイツ語で黒い森だとも習った。

先生が話をされるとそこへ行ってみたくなった。

一年生の時の担任でもあった先生。その年の後半、私の結核が分かった時に親身になって心配してくださった。背が高く山岳部の指導もされたと思う。
授業は常に熱心で思い出深い。

終わりは良く 

2011年6月24日(金曜日)

明け方前に、5年ほどみていたおばあさんが亡くなられた。

 

 6月24日の朝空
看取りから帰ると間もなく夜が明けてきた

 

家で大切にされ、つましくもよい介護を受けられた。10日前頃から食欲が落ちたが、逆に顔の浮腫がとれて目鼻がはっきりした。「お顔がきれいになりましたね」というと、痩せた顔をくしゃくしゃにして喜んでくださった。

 

その後も、きれいになったって言われてよかったね、と介護者が話すと、喜んだという。

 

いつ頃からか“終わり良ければ全てよし”を思っている。人生はまさに色々だ、しかし何かがあっても最後のどこかが良くあれば、それを持ってあの世へ行けるのでは、と。

 

反対に終わり悪し、の場合もある。そんな時は見かねて「まもなくこの世に居なくなる人ではないですか。もう少し優しくしてあげましょう」と家族に話した。はっとした顔をされ、それだけで変わることがあった。

草刈り 頭の張り替え

2011年6月20日(月曜日)

蒸し暑くなって草(いわゆる雑草)の伸びが目立つ。春以後、一見そそとして涼しげに見えていた細い草などが、穂を出し膝までのびていて驚かされる。別人のようになる急で荒々しい変化はちょっとしたモンスターだ。

 

草刈り機 
草刈り

 

このところ農道で草刈りの車を見る。刈り跡は風物のごとく清々しい。上だけ刈って根を残すのは畦を締めるために必要なことなのだろう。大変だろうが農業は無駄なく洗練されている。

 

ところで、再三母ネタで恐縮です、草刈りを見て思い出しました。私は外出前によく「これからどこへ行くと思う?」と母の所へ行って尋ねた。あまり当たらなかったが、持ち物や服装をじっと眺めては会議、買い物、ゴルフ、などと答えた。あるいは外から帰ったときに、何処へ行ってきたか?と訊くこともあった。
それなりに一生懸命考えるので、高齢者には、簡単で便利なコミュニケーションかつリハビリだったかもしれない。

 

床屋に行った時のこと、何処へ行ってきたか?と尋ねた。すると即座に「頭の張り替え」と答えたことがあった。なるほどなるほど、形も気分も言葉どおりで感心した。昔のことが蘇るのだろう、佐賀県の生地などではそう言っていたのかもしれない。

 

以前から母は室温をほぼ当てていたが、最近はしばしば朝夕の区別もはっきりしない。それはそれで、時計を示し窓を指さし、時刻を説明するのは案外楽しい。

 

96才の母の蘇生 胸骨圧迫(心マッサージ)の大切

2011年6月19日(日曜日)

第何?の人生 また生きてしまった母。こうしているのがつらくないようにしないと。

 

今年2月に小学校の分校時代の同級会があった。そこでT君と米山を登山し、シラネアオイを見ようと約束をした。その後6月5日と日も決まった。

 
ところが5月27日の午後、母が心臓発作を起こして一時心肺停止となった。発作は昼寝の後、私の目の前で車椅子へ移ろうと力んだ途端に起きた。突然蒼白となり身をのけぞらせると同時に呼吸が止まり、首を投げ出した。すぐに母にかぶさるように心肺蘇生を始めた。同時に妻を呼びAEDも用意し看護師にきてもらった。

 

胸骨へ渾身の連続圧迫を続けておよそ一分少々、母の喉がけーっ、と鳴った。これで終わることもある、助かるかどうかの瀬戸際だ。一段と手に力を入れると、はー、と深い一息の後、不規則な自発呼吸を始めた。

 
腕に僅かに出ている静脈に強心剤を注射して、さらに蘇生アクションを続けた。戻っては止まる呼吸が次第に規則的になって弱々しく眼が開かれた。

顔色が出て酸素飽和度(SPO2)が上がり、30分もすると問いにうなずく事ができるようになった。あとで妻があなた、珍しく汗びっしょりになっていた、と言った。すべて冷や汗だろうと思う。

 

一旦、容態安定として迫っている往診へ向かった。

 

私が居ない間に妻が“苦しかった?”と母に尋ねている。
「産みの苦しみより死ぬときの方が苦しいと思う」と言ったそうな。
私からみれば今回に限っては、生きる方がはるかに苦しく見えた。なにはともあれ、それ以後に現れる時折の笑顔は以前に増して嬉しい。

 

 振り返れば今春、母は食が進み、特にお菓子を好むようになっていた。見た目の体重も増えたが、動作に際してはあはあ、と息切れをみることがあった。現在は、僅かな食事とおやつに戻し、お陰様で微妙な小康を得ている。

 

 まだ安心は出来ないがこの件で二つのことを確認した。
①元気で居てもらいたければ、超高齢者は小食を保ち肥らせてはいけない。

②近年、大人に対する救急蘇生法では胸骨圧迫を繰り返すこと(心臓マッサージ)がいっそう重要視されるようになった。そのことを痛烈に実感した。
 http://www.j-circ.or.jp/shinpaisosei/call.html。
結局今回はAEDは使わずに済んだ。

 
以上のようなことで楽しみにしていた登山を中止していました。また当初、コンサートも危ぶまれましたが、無事終了できてほっとしています。

煙突女学校 世が世なら

2011年6月10日(金曜日)

この人は輪ゴムが好きで、ゴムをはめたままだったのでうっ血したんでしょうか?嫁ぎ先で100才近い実母をみている奥さんが言った。
ゴムの跡から先のお年寄りの手が赤く腫れていた。症状はさほど問題ないが、うっ血の言葉を正確に使われたので少し驚いた。

 

看護師さんをしていたのですか?と訊いた。
 「ああ恥ずかしい全然です。私は煙突女学校ですワ」と仰った。うっ血はテレビで聞いたかもしれない、ということ。それにしても煙突女学校とは。

 

「私ら中学校を出てすぐ富山の紡績工場へ就職しました。高い煙突がある大きな工場で、学校みたいに見えるので、煙突女学校と言ってました」。工場の寮生活ではお花や裁縫を習い、ある種学校の雰囲気もあったという。

 

「家に金が無かったから高校へ行ってません、そのかわりの女学校ですね。みんなもそう言ってました」。
富山の紡績工場、、、呉羽かな、、、高校の地理で習った。この人はそれを実際経験している。聞いたことがない言葉も、、、。

私より二つ上の彼女は常におおらかで明るく、介護の要点を把握し、質問なども要領を得ていた。
「こんな年まで世話かけて悪いね」
ある日、一緒に入浴した母親が言ったという。彼女は“そんなことはない、長生きはいいことだって新聞に書いてあったよ”と答えた。新聞に書いてあった、の一言が効いたのか親は安心していました、と笑って話してくださった。
なるほど確かにそうだ、賢い人だなあと感心した。

 

F子さんは、高校や大学へ行かなくとも、何かと適切に振る舞う代表選手のようだ。もしかしたら富山では周囲や上司の信頼は厚かったかもしれない。明るくはっきりしている言葉からそう思った。

 

お顔もどことなく上品で、職人あがりの静かな旦那さんはいつも幸せそうに日曜大工に勤しんでる。

 

彼女もまた「世が世なら」の一人なのか。少なくとも余計なことを考えないで、現実に直面できる望ましい性格の人なのだろう。うっ血からそんなことまで考えてしまった。

 ブラッシングノックアウト 
ブラッシング・ノックアウト:清楚で強く美しい
 

早く逝きたい 自然な長生きを

2011年5月29日(日曜日)

「先生、早く逝かせて」。初めて訪ねるころの超高齢者が口にされることは希ではない。この場面にはいつも悩まされ、「また言っている」、とそばのご家族が叱るように仰る。

 

前なら、“二十歳で戦死した兵隊さんたちのことを思えばもったいないですよ” “事故や病気で若く亡くなった方もいるじゃないですか” “仏様がもう少しそっちに居てと仰ってますよ”などと言っていた。

 

その後理屈はダメだと思い、がらっと変えた。まずは「そうですよね、長生きも退屈なんですよね」など同情から始めて見る。それから伺う度に、

「子どもの頃はどんな風に遊びましたか」、「子どもも田んぼを手伝ったのですか」、「昔の浜はイワシやカレイが沢山とれたそうですね」、「奉公に行ったことがありますか」、「新婚旅行はどこでしたか」、「東京へ行ったことがありますか」、「寒くないですか」、など答えやすい質問を試みる。

 

すると死にたいと仰った人が色々話しだす。新婚旅行は無かったと大抵否定されるが、否定は元気な証拠だ。東京が無ければ善光寺は?と聞いてみる。おばあさんなら、実家のこともいい。さて帰ろうかというころ「また来ますよ」と言うとしばしば「ありがと、また来てくんない」が返る。
お年寄りのスイッチは比較的簡単に切り変わる。ご家族が少しでも真似るようになると、落ち着く傾向がみられて前進する。

 

ところで、この2月末頃から不整脈を悪化させ、連日苦しまれた方がいた。昼夜の往診を続けたあと、一両日かもしれません、とご家族に告げた。まもなく100才になられる方だった。お嫁さんは、薬や飲食のことを心配され、せがれさんは涙をいっぱいためて、お世話になりました、と仰った。

 

それが、その日を境にゆっくりと回復に向かわれた。往診の日など「先生の前で粗相するといけない。トイレに行く」と這っていって用を足されるという。無口で黙々と自立され、散歩も欠かさない方だった。長生きと気丈をあらためて振り返った。

 

上越市は介護保険料や重度の要介護者率は全国でもトップクラスという報告がある。財政への重圧は事実だろうし、大震災以後なおさらかもしれない。
しかし、私たちは目の前で苦しむ人や、死にたいと言う人をみると何とか助けたいと思う。苦しむ人を見るご家族の心配も自然に感じる。

 

今日、心身への気遣いや医療・保健・介護によって、元気に90、100へ長生きが可能になった。ただ超高齢における安易な管類挿入は避けたいし、戸外を促し、事情によって良心的な施設が選べるようになればもっと安心にちがいない。

乙女百合 

 

上越市は合併で日本一人口の多い過疎地になったと聞いていた。介護費用がかさむのもやむを得ない。いっそうの疾病予防と、国費の支援は当然ではないだろうか。

 

最後の介護保険審査会 シェルブール  網膜剥離

2011年3月24日(木曜日)

資料が送られてきて、今年最後の介護保険審査会が来週で終わる。次年度中に70才になるので規定に甘えて今回を最後に委員を下ろさせていただくことにした。介護保険にはよく付き合ってきたと思う。

介護保険が産声を上げたのは平成12年度。その5年ほど前に突然、新潟県庁から何人かの役人さんが尋ねて来た。在宅医療や介護についてのヒアリングだった。色々聞かれた中で、保健婦さんの福祉マインドと介護技術を尋ねられた。あまりの急所に正直びっくりした。

来られた人達はみな若くよく勉強していた。何かが始まる気配を感じたが、まさか介護保険という壮大なシステムが想定されているとは思ってもみなかった。

昭和50年から総合病院の無い町での開業。忙しい外来のほかに往診用件が多く、在宅の看取りは当たり前だった。寒い部屋で糞尿にまみれ息子さんを待っていたおかあさん。一日中おかゆの手ナベ一個が枕元に置かれているだけのおじいさん。窓を開けて、お嫁さんの悪口を毎日叫ぶおばあさん、、、、。これでいいとはとても思われなかった。

欲を言ったらきりがないが、介護保険は世界に誇れる制度だと思っている。まがりなりにも理想が論じられた結果ではなかっただろうか。

 

シェルブールの雨傘:ピアノ・山田紗耶加さん

映画シェルブールの雨傘は

雪のガソリンスタンドと子どもの名前が切ない物語だった。

 今シェルブール一帯は原子力関連の施設を多く抱えていて、

別の意味で悲しい。

 ところで介護保険の前夜、福祉の事になると、以下のような話をよく耳にした。

 「福祉、福祉というけど、その前にまず経済をよくしないと」
「昔から地域には必ず気の毒な人たちが居たもんです、今さら騒がなくても」
「体を鍛えて介護保険などの世話にならないようにすることが大事です」

地域の慈善団体の長と、町の要人の話だった。
一番目の人は景気が良くても同じ事を言う。
奇異かもしれないが原子力発電のマターと福祉はどこか似ている。

不景気のアゲインストの中、ケアマネを育て社会のマインドを上げて
介護保険は頑張った。

数日前から右眼に網膜剥離の症状が出ている。

本日午後の眼科を予約した。

100発前後のレザーは覚悟しているが、手術だけは勘弁してもらいたい。

丈夫でもないのに、35年間病気を理由に仕事を休んだことがなかったので。

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