聴老(お年寄り&昔の話)

安否確認は双方向。

2012年5月8日(火曜日)

多くの人が連休中に動いた。東京にいる知人も盆暮れのほかしばしば実家に帰ってこられる。連休にお話を聞いた。

 

郷里の実家で独居する老親を訪ねるのは、「親の顔を見ることと、自分の顔を見せること」の二つ意味がある、と仰った。確かにである。

 

訪ねなくとも普段から電話で安否を確認されている方もおおぜいいらっしゃる。実家のご近所さんやヘルパーさんとの連絡も有益だが、ご本人のお声が一番だ。その時、電話の向こうでお年寄りも子と家族の無事を案じている。

 

お年寄りは私たちが考える以上に敏感なようだ。どんなに年取っても多くの安否確認は確かに双方向であろう。

 

こぶしカット

 

 チェロとギターのコンサートバナー

軍隊の泉。

2012年3月13日(火曜日)

 2月に脳梗塞で長い在宅療養の男性Sさんが激しい痙攣を起こした。90才になった人で、以前は感染症による高熱で何度か発作を起こした。このたびは過剰な暖房で部屋は暑く、汗を掻いていて冬の脱水だった。

 

入院をせず点滴で快復され、今では鈍かった反応は戻っている。今日伺うとぼんやりされていたが、私が敬礼をすると蒲団から手を出して敬礼された。その後は満面の笑みだった。戦前のSさんは何度が中国へ出兵されていた。

 

「角度は30度です。海軍は15度」、入れ歯を取った口をモグモグされなが手の角度を仰っている。以前からすっきりしたお顔と体型で素直な気質の人だ。

 

何度か軍隊時代のことを聞いていたが、以下の話が印象に残っている。

●新潟県のN日赤の病院長だった軍医が居て、先生のお父さん(私の父)のことを知っている、と言われびっくりした。遠い外地で知らない上官から、自分が知っている人を知っている、と言われると嬉しかった。

 

●上級将校は柳行李(ヤナギゴウリ)というものを持って移動した。ある日、その将校が私に「緑の地平線を歌ってくれ」と言った。私はその唄を知っていたので歌おうと思った。すると将校はヤナギゴオリからバイオリンを取り出して前奏しはじめた。私は大声で歌ったが、とても感動した。
柳行李に何が入っているかいつも考えていたが、まさかバイオリンが出てくるとは思わなかった。

 

●T大尉は上越出身の軍医だった。戦争が終わると「英語を教えてやろう」といって虹やポストや道など、見えるものの単語を習った。とても良い発音だと思った。

 

軍隊にも泉のような人、泉のような時間があったらしい。 

 

大潟区の緑の地平線
頸城地方の緑の地平線 TPPなんかに負けるな。

 

すみれ子さん講演会バナー

70才、折々の後ろ向き 雪は一休みか

2012年2月2日(木曜日)

70才になり一日がより貴重に思われるようになった。本日は運転免許の更新申請に行った。受付で写真を撮り、簡単な書類に記入するだけで実にあっさり終了した。

 

「講習など何もないのですか」と尋ねると「高齢者講習をしっかりやっていただきましたから」と言われた。確かに何ヶ月か前に実技も行ってしっかり済ませた。

 

ところで70才は聞いていたようにあらためて重い。何かぬかるみや風圧に似た抵抗感を覚える。

 

昨年12月に初めてドッグを受けて多少ショックを受けた。かくなる上はさらに食事に気を付け体操を心がけたい。身辺などを単純にして身軽になろう。できればぬかるみは子どものように楽しみ、風が吹けば力を抜いて背を向け、来た道などを眺めながら進んでみよう。

 

折々後ろ向きになるのはいい考えだ。必要な前の様子は、過ぎていく後ろを見れば大体分かる。自然とそんな風になってきたような気もする。

 

今日の潟町午後から晴れた仕事場界隈。
内陸・山間は豪雪なのに、幸い大潟区は平年並みかという程度で推移している。

 

予断は許されないが雪は一休みと予報された。

神田の製図学校とは? 災害的な豪雪

2012年1月27日(金曜日)

さて昨日書かせていただいた花札を制作された方が仰った製図学校(図面学校→製図学校)については全く知りませんでした。インターネットを調べてみると中央工学校という学校が出ていました。

場所が神田だったこと、女子製図科が設置されていたことから、同校ではないかと思いました。

 

ちなみに以下学校の沿革の一部です。

●1909年(明治42年): 即戦力工業技術者育成を目的として、東京市神田区一ツ橋通町20番地に「中央工学校」を創立。建築・機械・電工の3学科を設置。

●1918年(大正7年): 女子工業技術者育成を目的に女子製図科を設置。実践的な技術者を輩出して教育界・産業界から注目と期待を集める。

田中角栄は1936年(昭和11年)、同校土木科の卒業生のようです。。

 

早くから女性に開かれた技術教育。そこへ飛び込んで行った人が当地にもおられたとすると何か元気づけられます。次回の訪問でまた続きをお聞きしてみたいと思います。
 

さて当地上越市大潟区の昨晩の積雪は、庭で46㎝でした。本日は小雪が降ったり止んだりしましたが、積雪の高さは昨日とほとんど変わりなく見えます。

ニュースが伝える内陸の豪雪はすでに深刻な災害レベルです。昨年から見られる季節進行の遅れを考えると、心配です。

 

週末の雪は一休みしてくれますように。インフルエンザが流行してきました。

手作りの花札 製図学校 お前も運転してみろ

2012年1月27日(金曜日)

下の写真は、過日紹介させていただいた患者さんの手作り花札です。作ったのは80才代後半のお年寄り(おばあさん)でした(いつ頃使ったのかはまだ聞いていません)。

活発な方でしたので、昨年夏、圧迫骨折の痛みで寝たきりになりかかた際のショックと悲観は、見ていられないほどでした。訪問診療によって骨粗鬆症の注射を続け、幸い今ではなんとか居間へと歩かれるようになりました。

花札古くなってはいますが大変よく出来ています。

そんな折りに見せていただいたのがご本人手作りの花札です。絵や厚さなどの形態があまりに良くできていて驚くと同時に、如何に作ったかに大変興味がありました。

一ヶ月前の訪問ではケント紙にピースの中箱の紙を貼り、絵は自分で描いたとお聞きしていました。しかしそれにしてもである。

本日訪問すると傍らに製図道具と材料が置かれていました。コンパス、からす口、雲形定規、そして切り紙などです。これは一般におばあさんが持つ物とは違います。

制作道具IMG_8308
おばあさんの持ち物!

お聞きしたのは花札の作り方の続きでした。今回は紙は一般のケント紙三枚では厚すぎるので、二枚を貼りその上にピースの中箱の紙を貼るとほど良い堅さになる。曲線は出来るだけ雲形定規を用いた。線はペンとからす口で引いたなどと伺いました。

道具も方法も素人の域には思われませんでした。どうしてこんなことが出来るのですか、とお聞きした所、以下のようなお話をされました。

 

自分の父はこの土地の自動車屋だった。私が高等小学校を出ると父は自分を東京の製図学校へ進学させた。高等女学校は時間の無駄、花嫁学校みたいなものだからという理由だった。

神田の図面学校で教えてもらった方法で、後年子どものためにこんな花札も作った。父は比較的若く亡くなったが、学校時代に自動車に乗せてもらったことがある。その時父はいきなり私に、お前も運転してみろと言い出し、びっくりしたことあった。父は進んだ人だった。

以上がお話の概要です。私自身、からす口も実際使ったことがありません。もっと詳しくお聞きしたいが時間がありませんでした。しかし製図学校といい何もかも驚きです。もしかしたら花札のことでは、お父様のことをお話したかったのかな、とも思いました。

普段お互いに黙っていればただすれ違うだけ。しかし話をお聞きした場合、驚くようなことを耳にすることがあります。かって傍らで聞いているお嫁さんが「知らなかった」と仰ることもありました。

お年寄りは繰り返し同じ話されることが多い。しかし最も大事な事は胸にしまっているのかもしれません。私たちと同じように。

モノクロの冬を少しでも鮮やかに。

2012年1月11日(水曜日)

今朝から上越市大潟区も一面の雪世界となった。風景は魔法がかけられたようにモノクロとなり、降ったり吹雪いたりすれば視界もままならない。

 

潟田への道そろそろ1月中旬、これから少なくとも一ヶ月は最も厳しい。

水田の県道は除雪がよいので助かるが、吹雪けば地獄。

今日は4カ所の往診や訪問。

 

心臓が悪い94才のおばあさんが「雪んなか大ご苦労さんです、起きますかね」と仰った。ああお元気だ、と思った途端、おばあさんの言葉に鮮やかな色彩を感じた

 

元気とは色彩を帯びていることなのだ、モノクロの冬を少しでも鮮やかに生きなければ。

奉公 その3:私は自分の名前が好きです。

2012年1月3日(火曜日)

年末からその1、その2と奉公のことを書かせていただいた。普段から、おばあさん達にはお生まれはどちらですかと尋ね、おじいさんには兵隊や杜氏に行きましたかなどと尋ねている。
お話を聞くとその方がぐんと近づくようで理解が深まる。また何かとウブな自分には視界が広がってためになる。

 

以前あるおばあさんに奉公をお尋ねした所、淡々と話されたのは以下のような事だった。

 

「私は山の生まれです。そこはイワナやカジカが獲れる良い所でした。ただ家では自分が生まれる前に5人も子どもが死んだようです。昔はよほど具合が悪くならないと医者にみせませんでしたし、医者のいる町も遠かったんです。

 

父によると、容態が悪るくなった子どもを背負って町まで歩いても、医者に着く前にみな背中で死んでしまったそうです。

 
ところで親戚に90才まで生きたクマという人がいたようでした。それで私が生まれると、もう死なないようにと父がクマという名前を付けたと聞きました。

 

私は父親に可愛がられたと思っています。雪が降ると父は学校まで背負って歩いてくれました。頭からツットをかぶせられ、父の背中にしがみついていたことを覚えています。

 

小学校を終えると奉公が話題になりました。親は反対しましたが、奉公に行った近所の人がみなきれいになって帰るので私も行ってみたいと思いました。東京へいきましたが、ひと冬で止めさせられました。言葉が悪く、オレオレなんて言ってたせいでしょう。

 

後に結婚すると夫は私の名前を嫌って、変えろと何度も言いました。でも変えませんでした。私はクマという名前が好きなんです」

 

以上切なくも胸打つ話でした。それにしても次々と背中で亡くなる子ども。親はどんなに悲しかったことでしょう。背負って医者まで歩くのは弱った子どもと過ごす最後の別れの時間なのでしょうか。あるいは助けられないことを詫びる道中だったかもしれません。

 

途中で家へと引き返す父の気持ちはいかばかりか、考えただけで胸が締め付けられます。

 

一家は30年近く前に町場へ越したといいます。来て良かったと何度も仰いました。今は昔の物語でとうに便利な車の社会になりました。

 

私はクマさんのお父さんが歩いた道を知っています。雪が消えたら行ってみようと思います。

 

タニウツギ

奉公 その2:東京や名古屋で 

2011年12月30日(金曜日)

普段お年寄りには「生まれはどちらですか」などとよく聞くことにしている。するとお話の中で奉公のことに出会う。

 

当地域では現在80才を過ぎているおばあさん達お年寄りの戦前のこと。尋常小学校(6年制)や高等小学校(2年制)終えると都会への奉公はかなり一般的だった。奉公はとくに尋常小学校を終えて出たようであり、当地上越市の頸北地域では主に冬期間ごとに行った模様だ。そのほかの時期は家で田んぼや漁を手伝い、獲れた魚やサツマイモの行商も手伝った。

小さな子どもたちも何かと家のために頑張ったのだ。

 

もちろん高等女学校へ進む人もいたが、裕福な家庭などで一部だったと聞いている。

 

ところで製糸工場に関して悲惨な話を聞く。しかし奉公を話す老人達は、わずかながらもお小遣い、嫁入り修行、きれいになれるなどと言われ、あまり悪印象を話す人はいなかった。

 

以下わずかですが、皆さんからお聞きした奉公のことを記してみました。 

このあたりでは名古屋へ奉公に行った人が多い。名古屋には当地出身で信用できる人が居たのでその人の世話になったと聞いている。
奉公はもっぱら子守だった。子どもをおぶってよく近くの神社で過ごした。神社には子守をする仲間が集まり、お互いのお屋敷や故郷の話をした。お小遣いが出るともんじゃ焼きを食べに行った。もんじゃやきはとても美味しかった。

最初長野県の製糸工場へ行ったが、途中で東京の女中奉公に変わった。顔や言葉が良かったので選ばれたと思った。子守はしなかったが、掃除洗濯から次第に来客の仕度、奥さんのお伴で外出するようになった(子守などの下女中(しもじょちゅう)と奥さんに付く上女中には厳格な区別があったらしい)。

直江津のお菓子屋で女中をしたあと、東京の大森(特に昔の大森はお屋敷街)へ奉公に行った。引退した社長さんの大きなお屋敷だった。女中さんが5,6人もいて驚いたが、どうして沢山いるのか分からなかった。
よくお客さんが来たので言葉遣いがやかましかった。奥様、旦那様、お嬢様、左様でございます、などと盛んに仕込まれた。

名古屋に行った。仕事のほとんどは子守であとは家事のお手伝いだった。他の家の子守の人と友達になった。「この子の在所は山ではないらしいね」と言われたことを覚えている。何のことか分からなかったが、訛りがひどくなかったのかもしれない。

 

さて、10代半ばで親元を離れ遠い都会の他人の家へ行く。人も地域も全く異なる環境で使われながら生活された娘さんたち。その度胸や忍耐に深く感心させられる。無事に生きてこられ、今日お会いできるのはある種物語だ。

 

今日の四ツ屋浜

 今日の四ツ屋浜

年末に奉公を思ってみる その1:言葉と行儀 尚明さんの来訪

2011年12月25日(日曜日)

父を継いで上越市大潟区で開業していつしか36年が経っている。一つ急患を振り返れば、当初は入院よりまず往診だった。自家用車も救急車も一般的ではなかったせいでもあろう。そのことは当地だけでなく、時代の事情はいずれも同じではなかったかと考えている。

お陰で沢山の急場を経験させていただき、ためになった。今回は疾病でなく家の様子などを綴ってみたい。

 

例えば夜10時すぎにこんな電話が掛かる。

「ああ先生かね、オラチのオッカが寝るセッたら心臓がコワイセッてるんだわ、来てくんないかね」。

 

それまで過ごした東京だったら多分こうだ。

「夜分申し分けありません、先生ですか。○○の▽▽ですが、妻が寝ようとしたら心臓がつらいと言っています。恐れ入りますが来ていただけませんか」

 

奇妙なことに電話は何処の誰だれも言わずに始まることが少なくなかった。急患とはいえこれは一体何だろう。

ところが家に伺ってみると様子が違うのである。

家族の誰かが家の前に出ていて、「夜分お疲れさんです」と言って鞄を持って歩こうとする。

診察が終わると「有り難うございました」と言って、先を歩き、雨ならばカサ差そうとされた。特に在(田んぼのある地域、山に近い地域)に行くほど丁寧を感じた。

 

電話と現場のあまりの違いが不思議だった。電話のぶっきらぼうは急用だからか、あるいは電話に不慣れなのか、それとも料金がかさむので短いのか、などと考えたがよく分からなかった。

ところで、今ではさすがに少なくなったが一部ご主人の無関心も考えさせられた。夜間に往診をしても居間でタバコを吹かしてテレビを見ているだけ。親のことなのに顔も出さなければ挨拶もせず、みな奥さん任せという家も珍しくなかった。

 

そんな中で言葉も行儀も良い奥さんやお婆さんとたびたび出会った。不思議だな、と思っていたが、後で彼女たちには奉公に出た人が少なからずいる事を知った。

 

「はい」、「いいえ」、「わかりました」、中には、「左様でございます」etc。これらを聞いて、奉公に行きましたか、と尋ねると「行きました」と仰る人が多かった。

 

行儀でも目を見張ることがあった。玄関に伺うと小走りで出て座り、手の先をきれいに合わせてお辞儀をされる。帰り際も、ススと先を歩き、「履き物も揃えませんで」と言いながらひざまづいて靴を揃えてくれるのである。

知らなかった世界、奉公。時間をみて皆様からいくつかお聞きした。知らなかったのは自分だけかもしれませんが、機会をみてまた書かせていただきたいと思います。

本日午後から陶芸家、二代陶齋・齋藤尚明さんが母の弔問にこられた。50年以上も経つが尚明さんたち陶齋のお子や甥姪の皆さんは陶齋とともに何度か我が家に来られた。
本日は家で食べた母の餃子のことを仰り、庭の起伏や海への道なども覚えておられた。わずかに残ったシュトーレンをごいっしょした。

 

最後の一切れ 長い間楽しみました、とても美味しかったです、ごちそうさまでした。

現在22:30をまわった。風強くごーごーと海鳴りが聞こえる。明日の予報も悪いが風雪は弱めにしていただきたい。当院は紹介状をよく書く。本日はこれから二通だ。

お年寄りから頂いた手作りの花札 

2011年12月20日(火曜日)

毎月訪問するお年寄りから花札を3枚頂いてきた。

花札
「足腰も頭も回らなくなって何も出来なくなりました」とおっしゃる。 

 

 恥ずかしいけど花札を見ますか、と言って用意した袋を開いてくださった。古びた花札が入っていた。驚いたことに、若い時に自分で作りましたと言われた。

 

台紙は厚いケント紙にタバコのピースの箱紙を貼り合わせる。黒インクのペンで輪郭を描き、墨と色絵の具で塗ったという。裏表に蝋を使って仕上げてあった。

 

上手な絵、丸く取ったかど、ふちの折り込み、作りはまことに丁寧で堅牢だ。売っている物に見劣りしないばかりか、オリジナルの価値も感じられる。

 
一組48枚、何組も作って人様にも上げました、と。もうじきお正月、これで遊んだ子ども達や家族の楽しげな様子が目に浮かぶ。

 

何て素晴らしい、本当にお上手だ、見たことがありません、と感嘆した。ああ恥ずかしい、でもそんなに褒められて嬉しい、と沈んでいたお顔に笑みが現れた。

 

ずっと短歌も詠み続けたということだった。昔をあなどるなかれ、昔の人をあなどるなかれである。

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