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樹下美術館にやってきた賀川孝と水島清および倉石隆各氏の作品。

2020年9月26日(土曜日)

過日遠方から来館された方が2点の油絵と4枚の版画を持参されました。
油彩の1点は賀川孝、もう1点は水島清各画伯の作品です。版画は倉石隆の「罪と罰」の挿絵原画からでした。

以下作品を紹介させて頂きます。
●最初に賀川孝作品です。

賀川孝「牛」1965年 32,0×41,8㎝。

全面に赤を用いた熱っぽい作品です。躍動する牛が古代の洞窟画を彷彿とさせます。倉石隆の画友として、話に聞いていた賀川作品を初めて見て胸踊りました。後に記しますが、左上の同心円は賀川作品独特のモチーフです。

○賀川孝と倉石隆
1917年上越市寺町善導寺に生まれた賀川孝は、髙田中学校(現髙田高等学校)時代から倉石隆と美術を共にしました。上京後二人は駅前で殴り合いの喧嘩をするほどの親しい仲だったといいます。 自由美術協会から主体美術協会へ、これも二人一緒でした。
1975年1月享年58才で没した賀川氏。京橋の「ギャラリーくぼた」で催された遺作展の図録に、芥川賞作家小田嶽夫氏とともに倉石隆が長い送る言葉をしたためています。

 

賀川孝遺作展図録。

 

掲載作品。
いずれも同心円が眼あるいは記号として描かれている。

胎内で早々に形成される眼。賀川氏にとって原初の生命と文化・文明の根源的な表象なのでしょうか。氏の作品では、その眼がいつも私たちを睨んでいたと言われています。

 

右ページは、賀川氏が生まれ育った善導寺に仮寓した小田嶽夫氏の追悼文。

 

昭和21年、髙田で二人展の一コマ。(遺作展図録から右賀川氏、左倉石氏)

 

昭和40年4月髙田における「矢島甲子夫、賀川孝、倉石隆 三人展」
左から倉石隆、矢島甲子夫、齋藤三郎、賀川孝の各氏(髙田信用金庫ホールで)。

故郷を離れ、保証もなく東京で切磋琢磨した芸術家たち。確かなものは熱い魂とふる里を同じくする仲間たちの存在だったのでしょう。当時の写真をみていると、自分が恵まれている事とともに、恵まれていない事にも気づかされます。

○水島清について
明治40(1907)年7月新潟県旧水原町生まれ。若くして上京し林武に師事、東京美術学校を卒業しました。二科展、後に独立展で活躍。構図、色彩、タッチとも独特の力強さがあります。発表を重ね1991年12月17日横浜で没しました。享年84才でした。

以下はこのたびご持参頂いた作品です。

水島清「パリ サンジャックの塔」1963年 37,7×46,6㎝。
パリで二番目に高い建物がキャンバス一杯反るように描かれています。
白い塔を浮き立たせている空も青く強く塗り込められました。
所によって触ると痛いほど絵の具が盛り上げられていました。

さて齋藤尚明氏にお借りしているアルバムの中に、水島清氏と収まる齋藤三郎の写真がありました。

「水島清展」で前列中央に水島清氏、その後ろ齋藤三郎。
髙田の人がほかにおられますので同地での展覧会でしょうか。

 

●最後に倉石隆による挿絵原画の版画です。

「罪と罰」の原画4点 各サイズは7,3×9,5㎝。
(ドストエフスキー著 中村融訳 1969年 偕成社発行)
現在この書物は「倉石隆の本展」として展示されています

以上いずれの作品も、かって上越市で医業を営まれた亡きおばあ様のコレクションの中からお持ちくださいました。
作品の良さとともに、かって当地の同業者に熱心なコレクターがおられた事に深く感銘を受けました。

遠路作品をご持参くださったSさん、本当に有り難うございました。

 

本日はお若い女性お二人に「森のトマト畑」をお買い頂きました。
おうちへ帰って読むということ、如何だったでしょうか。

昨日のうろこ雲 11月に小島正芳先生の講演会「齋藤三郎と良寛さん」。

2020年9月24日(木曜日)

昨日はうろこ雲に目を奪われた。
寝不足解消の昼寝の後見た空は、まことに爽快で一遍に目が覚めた。

 

午後二時過ぎの西ノ空。

 

二時半過ぎの西空。

 

同時刻美術館ごしの空。

雲は想像以上に明るく、レンズを向けると空以外の景色が暗くなる。特に逆光ぎみのケースは著しい。
フィルターやpc上の加工など、調整可能なようだが、私には無理でいつも悩ましい。

 

仕事後駆けつけた夕陽の森公園の空。
不思議にも二色に分かれた。

 

 

本日美術館で一回目を読み終えた「若き良寛の肖像」
著者 小島正芳 考古堂書店 2015年12月発行

著者の小島先生は今夏全国良寛会会長に就かれました。先生により樹下美術館収蔵の軸「秋夜月弄」の詩が良寛の真蹟であることが分かり、先生とご縁が生まれました。

先生は新潟大学時代に書道を専攻され、髙田分校芸能科で齋藤三郎の講義を受講し感銘を受けられ、今日まで三郎を深く敬愛されておられます。

来る11月7日(土曜日)午後2時から樹下美術館において「齋藤三郎と良寛さん」の講演をして頂くことになりました。
数日後、フォーマルなお知らせを致しますが、コロナの状況から入場は40~45人様程度の見通しと考えています。

その折はどうか宜しくお願い申し上げます。

森のトマト畑の製本。

2020年9月16日(水曜日)

コメント

かつて紹介させて頂いた小生の昭和時代のつたない絵本「森のトマト畑」。
30冊ほど樹下美術館の窓口に置きましたところお陰様でなんとか全て売れました。

B5のやや厚紙にコピーしてホッチキス止め、それを製本テープで背当てする昭和もいいとこの手作りぶりです。
これまでの黄色の製本テープを赤にして本日8部作りました。

一冊24ページ 700円です。
宜しければお手にとってご覧いただければ幸いです。

日中随分過ごしやすくなりました。まだ暑気がぶり返す日もあるようですが、しばらく着る物、掛ける物に気を使います。

雨でも霧でもゴルフは幸せの時間。

2020年9月13日(日曜日)

本日妙高市は妙高カントリークラブでゴルフだった。

曇りのち雨の天気予報が、雨で始まり霧で終わった。天候に不満を述べる人も時にはいるが、びしょ濡れになっても霧でボールがよく見えなくても、私なりにゴルフは幸せな時間。

 

これから晴れと時雨を交えながら高原は美しい紅葉に向かう。
一度見晴らしの良い妙高高原から、東方の米山、尾神岳から昇る満月を見てみたい。
晴れれば素晴らしい眺めになるのではないだろうか。

新潟市や県央のお客様、お葉書の方、取材された若いお二人 夕刻はみんなで聴いたSPレコード。

2020年9月5日(土曜日)

やや気温が下がり33度でとどまった当地。終始一定の風が吹いたため、暑さ和らぐように感じられた。
フェーン現象による熱波をもたらした台風9号が去ると、〝未経験〟とされる強さの10号が九州を狙っている。

昨日からニュースのトップで伝えられるようになった台風は現在920hPa。
こんな気圧で接近、上陸されたら正直大変なことになる。場所によっては70メートルの風になるという。
今後、新たな国のリーダーはコロナの前にこの台風が初仕事になるかもしれない。

本日樹下美術館は新潟市、長岡市、あるいは三条市からお客様がお見えになった。
また以前名を伏せて好意的なお葉書を下さった方にお会いした。
あるいは病癒えられたご夫婦と、SP盤ご持参のA氏とも久し振り。カフェのお客様たちと一緒に1951年の以下のようなSPを聴いた。

 


レコードはフォーレのエレジー、チェロはピエール・フルニエ。
しばしば耳にしたフルニエが写真のように端整な人だった、とは。
なんとも良い夕刻でした。

閉館近づくころ、居あわせた若い女性お二人が、たまたま取材に来られた上越タイムス記者のインタビューを受け、とても微笑ましかった。
現在コロナの対応でカフェの椅子を半分にしていますので、何組か入られるとすぐにいっぱいの感じになります。
館内は三カ所で窓を開けていますので例年より暑いのですが、風に気づくことがあり、一瞬の涼味になっています。

閉館後、庭の処理をしていると雲がもくもくとしていました。

暗いオレンジの空。

庭を終えてほくほく線の場所へ寄りました。
雲さえ面白ければ電車を見ずにはいられない。

下り電車。

いつも子供のように、ここで撮っているので、運転士さんは私のことを知っているのだろうか。
時々、ぱーん、と警笛をならしてくださる。運転手さん、有り難うございます。

新潟日報「Otona+」に載った倉石隆の版画「夜の唄」。

2020年9月1日(火曜日)

新潟日報のユニークな夕刊「Otonaプラス」。
内外のニュースほか、県内の生活・文化に関係した記事が凝縮されています。
中でも12面紙面の表紙から3ページを占める特集の充実ぶりには驚かされます。
2017年5月には樹下美術館が特集され、熱心なライターさんに詳しく取材と紹介をして頂き、沢山反応がありました。

このたび去る8月28日号の〝たずねるつながる〝は「画家が見つめた花火」という芸術ジャンルの特集でした。今年コロナ禍のため各地の花火大会は中止の止む無しです。
そこでせめて紙面を用い、花火をモチーフにした県内の美術館収蔵作品を見て廻る企画がありました。
2017年と同じライターさんから事前に連絡があり、意外に該当作品が少ない、ちなみに当館図録収載、倉石隆作品の版画「夜の唄」に花火が描かれていたように思うが、と問い合わせがありました。

「夜の唄」は縦横5,5×10,9㎝の小さな作品です。タイトルは「夜の唄」とありますが、描かれているのは花火だと思っていました。そのことなど、主観をまじえてお話のやり取りをした結果、紙面では以下のような記事として特集の最後を飾っていました。

 

以下は収蔵している原画です。左下端のエディションナンバーが、a、p(アーティスト・プルーフ)と書かれていますので、作品は作家保存分ということになります。

「夜の唄」
円(花火)をわずに中心を外して描くのも作家のセンス。

問われてお答えしたのは、倉石隆は詩的な人だったこと、夜空の円を花火だと思っていたこと、明瞭な形状から、花火はかって存在した確かな愛ではないかということ、そして車輪のような円は愛の強さかもしれない、と勝手な印象をお伝えしました。

また、物故により作家に尋ねることが叶わない作品の解釈を、鑑賞者が想像してみるのも、楽しみの一つでは、と追加させてもらいました。

ライターさんはとても上手くまとめてくださり、感心しています。
さらに氏は下に描かれた花園風のあしらいに注目され、〝そこからささやかな愛の唄が聞こえてくるように感じた〟と綴られました。
それによって「花火」と「愛」と「唄」が繋がりました。
私はともかく、ライターさんはさすがです。

小さな版画から、倉石氏の作意や秘めたる物語まで勝手にイメージをふくらませ、それを許して頂いた企画の大らかさに敬服しました。
関係者の皆様、ご取材とご掲載まことに有り難うございました。

特集には富岡惣一郎、草間彌生、岡本唐貴、蕗谷虹児、倉石隆の作品が掲載されていました。

賑わい創出は第一の目標だろうか 暑さ慣れ?はあるのだろうか。

2020年8月25日(火曜日)

公民を問わず新しい事業に〝賑わい創出〟の冠がつくものによく出合う。
あるいはそれらを知らせるメディアの見出しに、この文言が見られる。

本日の新聞でオーレンプラザのエントランスにピアノが置かれ、ストリートピアノ風に市民に解放するこころみが紹介されていた。
原則予約だが、空いていればその場で申し込みが出来るという。
公共の場にグランドピアノがあり、市民が演奏できることはとても良いことだと思った。

その素敵な記事の見出しに「賑わい創出」の文言が付されていた。
だが一旦この言葉が用いられると、こころみの印象が重くなり堅さが加わる。
ピアノ演奏もそれを聴くのも「楽しみ」や「挑戦」であり、それだけで十分ではないのかな、と思うのである。

「活性化」も同じ、賑わいとともに地域の悲願であることはよく分かる。
だが多くの事業や試みは、本来人が楽しんだり、憩ったり、交流し、利便を感じたり、元気になる、などのためのものであろう。
内容こそ唯一無二であり、地域活性化や賑わい創出はむしろ副産物で良くはないだろうか。

小さな個人施設、樹下美術館はそれら重苦しい見出しを付けられることはなかった。
おかげで、大変ですが一方で楽しみながら営むこともできるので幸運だと思っている次第です。

昨夕の入道雲。
高さを想像したらちょっぴり涼しくなりました。

台風の影響もなく日照りが続くようです。

さて高温続きのため血液濃縮を生じ、薬剤によっては血中濃度が過度に上がり、対応が必要な症状が現れることがあるようです。
それほど高齢でない方でも、水が不足しているのに渇きを感じない場合があり、怖いなあと思います。
「暑さ慣れ」などということがあるのでしょうか、気を付けなければと、自ら言い聞かせています。

水の摂りすぎも問題になりますので難しいところですが、
この方は水気の少ない、明らかに乾いた舌をされていました。
舌の濡れ方、乾き方に水分の過不足が現れますので、普段から時々観察し、気になったらほかの人と比べてみて下さい。

前髪のこと、おでこを見せる見せない。

2020年8月17日(月曜日)

何か観たり読んだりすると、それを長くネタに使う。私の良くない癖であるが、狭い日常を生きているためどうしてもそうなる。
本日は連日の材料であるDVD「にごりえ」から、三作品それぞれに主演した女優さんの髪に興味を持ち、そのことを書いてみたい。

まず場面写真から。

十三夜の若奥様おせき、丹阿弥谷津子。
丸いおでこがとても可愛い。

 

「大つごもり」の女中おみね、久我美子。
病気の叔父一家のために借金をしたいが、その工面が出来ない。

 

 

「にごりえ」の酌婦お力(りき)、淡島千景。

 

それぞれヒロインの立場は異なり、詳しくはないがしきたりに準じて髪型も異なっていた。
日本髪は非常に装飾的で、迫力がある。各部は前後左右どの視線にも美しく耐えることが意識され、すれ違って振り返えられた場合の、後ろ姿にも非常に気を使ったやに思われる。

さてこのたびの映画の三者三様の髪型に共通だったのは、前髪であり、みな揃えて上げている。
そのことで額がよく見え、これは日本髪の基本の一つにちがいない。

私は前髪を上げている(あるいはおでこを出している)のをいいな、と思うくせがある。
賢そう、涼しそう、大人っぽいうえ、個性がちゃんと表れるようだ。
前髪を下ろす上げるは、勿論好き好きであるが、
「王子さまが来るのを待っている」のと「王子さまを探しに行く」イメージの違いが何となく浮かぶ。
※追加です、王子さまを幸福と言い換えても良いかと思います。

親からもらった可愛いく個性的な「おでこ・額」。
この夏、お嬢さんたちも髪を上げ、涼しい額を見せてはいかがでしょうか。

十三夜の車夫。

2020年8月15日(土曜日)

過日は、明治時代の底辺の生活をシンボリックに伝える残飯屋を綴ってみた。
それを書物「生きづらい明治社会」で知り、後でたまたま樋口一葉原作、今井正監督の映画「にごりえ」のDVDで見た。
シーンはドキュメンタリーさながらのリアルさだった。

但し書物 明治の古典3「樋口一葉 たけくらべ」に載っている田中澄江訳による「にごりえ」の章には、残飯屋が出てこない。少女は「米屋」に米を買いにやらされ、帰路、ぬかるみで転び、途方に暮れる。その夜、父が今夜は「断食」、と言っているだけだった。
今井監督の映画は、「生きづらい明治社会」で紹介された「最暗黒の東京」(明治21年 松原岩五郎著)の挿絵をヒントに構成された場面ではなかったか、と思った。考えてみれば、考証を研究し資料を活かすのも映画監督の才覚にちがいない。

そして本日はDVD三部作から「十三夜」の車夫です、宜しくお願いします。
慎ましい暮らしの家から嫁いだ先の高級官吏の家で、おせきは辛酸をなめる。せがまれて嫁いだにも拘わらず、学識から作法はじめ生活の隅々を意地悪く指摘され、夫にはいじめられた挙げ句、完全に無視されて暮らすおせきに、唯一幼い長男は生きがいだった。
だが十三夜の月の晩、とうとう離縁を決め子を残して家を出ると、実家に帰ってくる。何も知らず、久し振りの来訪を喜ぶ両親に、嫁ぎ先の惨状と覚悟をおせきは打ち明ける。

 

物語のもう一つのテーマである人力車でやってくるおせき。
駿河台からお茶の水橋を渡り、上野坂下町の実家へ向かうところ。
セットらしいが、ニコライ堂が描かれた背景と、しつらえの美術は素晴らしい。

 

嫁ぎ先を非難する母と泣きあった後、父の前で話しをする。

この時父は、子を残してきて家族で暮らすのもいずれ我慢が生じるだろう。一方子と暮らしながら夫に尽くすのも我慢だ。
外で仕事が出来る男は、得てして家では的を決めて我が儘に振る舞う。同じ不運に泣くなら、向こうの妻として大泣きに泣いたほうが良いと思うが、どうだと言う。

最後に「お前の口に出さなくとも親にはお前の苦労がわかる。涙はみんなで分けてみなして泣こうではないか」と父親が話す。
この下りは解決策では無いものの、行き詰まった人間の心に響くものと思った。
父親の話に対して、おせきは騒ぎを恥じ、心配を掛けたことを謝り、家路につく。

 

灯りを手に娘を見送る父親。

 

この後、流しの車夫が登場する。
おせきを乗せた車夫は、間もなく車を止め、今夜はどうも気が進まねえ、降りて下さい、としゃがみ込み一服しようとする。

 

突然の乗車拒否に困惑するおせき。

 

 

ふと月が照らした車夫は、かっての幼なじみ禄之助だった。
(車夫役の芥川比呂志は芥川龍之介の長男ですね)

客がおせきだと知った車夫は、身の落ちぶれを恥じ、先刻の無礼を詫び、宅まで届ける、という。

おせきは、偉そうにして貴方の車には乗れない。別の車が拾える上野広小路まで一緒に歩いてくれるかと言って、二人は歩き出す。

 

道すがら禄之助は、おせきが嫁入りした後の荒んだ生活を話す。

 

広小路に着き別れ際、おせきは懐の金を包んで渡す。

 

禄之助にわずかな笑みが浮かび、ありがたいと述べる。

 

極貧者の木賃宿に帰る禄之助、辛い嫁ぎ先へ向かうおせき。
広小路を昔ながらの名月、十三夜の月が照らしている。

 

以上映画「十三夜」からでした。
今から9年前、テレビで同じ映画を観た時、なぜ車夫がこんなに卑屈なのか不思議に思った。
このたび「生きづらい明治社会」を読み、後に再度DVDで出会い、それが当時の最下層の働き口だったと知り、なんとか物語を理解した。

車夫、嫁の人生、親子の情、物語を照らす名月。ただの叙情ではない十三夜だった。
明治29年に24才で亡くなる前、物語として世の辛さを切り取った樋口一葉に、すごいなあと驚くばかりだ。
(ちなみに今年の十三夜は10月29日だそうです)

残飯は太平洋戦争戦後の闇市でも売られ、人力車は昭和初期まであったという。

本日終戦の日の今夜、妻はNHKBSの再放送「映像の世紀プレミアム 独裁者三人の〝狂気〟」を観ていた。

「にごりえ」の「残飯」。

2020年8月11日(火曜日)

たびたび登場する書物「銀の匙」の明治時代の子供達は、遊びに学校に無心に明け暮れていた。
一方で凶作や差別、さらに借金に苦しむ農村の困難も少しは分かっているつもりだった。
「おしん」の辛酸は典型かもしれない。

そして書物「生きずらい明治時代」には、都会の底辺事情も詳しかった。稼いだ日銭で布団を借り、残飯屋から残り物を買って食べる人々が居たことを知った。
このたび残飯屋について、偶々求めたDVDでありありとしたシーンが見られたので、とても驚いた。

松沢裕作著 岩波書店 2018年12月5日第3刷発行。
「生きづらい明治社会」 不安と競争の時代の図版より。

以下DVD「にごりえ」のシーン。

立っている男は秤をを手に残飯を計量している。
座っている男は杓を扱っている。

秤に掛けられた残飯がすくい取られたり足されたりするたび、待っている人の一喜一憂が伝わる。

 

女の子(ヒロインの幼少時代)の番が回ってくる。
帰りを急いだこの子はどぶ板の道で転び、泥に混じった残飯を泣きながら集める。

 

なけなしのお金を出して他人が残したものを食べる。
限界生活でも、食べられればなんとか生きて行ける。
だがそれも子供のころまでで、「にごりえ」では食べるだけでは生きて行けない人生が描かれる。
密かに運命に苦しむ色街一の美形、お力(淡島千景)は、かっての恋人により、最後は無理心中の犠牲になって終わる。
嬌声絶え間ない街の裏で行き詰まっていく生活、捨てられない業と自我、、、。

一葉作品は文語体で書かれている。
30年以上前に泉鏡花の「高野聖・歌行灯」とともに、円地ふみ子・田中澄江が訳した樋口一葉の函入り本を買った。
当初ちらりと見て、仕舞うばかりたったのを、このたび取り出した。

明治の古典3「樋口一葉 たけくらべ」「にごりえ」
1982年9月16日 学研発行
一部の原文とともに解説が詳しい。
24才で亡くなった樋口一葉の凄さにただ驚嘆するばかり。

 

ところで私自身、残飯を食べたかもしれない経験が一つある。
満州からの引き揚げで、逃避行の列車を降りて山東半島の青東(親は「ちんたお」と言ってた)港に終結した。
外は水溜まりのテント生活の中、夕食時「めしあげー!」の大声でテントから人が出て食事をもらいに行った。
ある日、姉と私で入れ物を持って、男が運ぶ大きな桶からご飯や汁などを貰った。
なぜか楽しくなり、二人で「めしあげー!」と叫びながらテントに帰った。

あれはそれこそ、どこかの軍か病院、あるいは街中から出た残飯だったかもしれない、とこのたび思った。

申し分けありません、今度は「十三夜」の車夫のことを記してみます。

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