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休館のお詫びに「銀の匙」の一節から その2

2020年3月11日(水曜日)

本日はお詫びというわけでもありませんが、気にいって読んでいる中勘助の本「銀の匙」から以下のように一節を紹介させて頂きました。

幼年の主人公「私」は神田で生まれ間もなく小石川へ移ります。
歩ける年になってもひたすら強い愛情と保護を注ぐ伯母さんに背負われる生活をしている主人公。時代は明治半ばの頃。博覧強記で深い仏心の持ち主である伯母さんの訛りと気っぶにも、不思議と郷愁を誘われます。本日は昨日の続きです。

〝あらたにこの調和しがたい新参者が加わったために子供たちはすっかり興をさまされていつまでたっても廻りはじめない。それを見てとった伯母さんは輪のなかへはいり景気よく手をたたいて
「あ、ひーらいた ひーらいた なんのはなひーらいた」
とうたいながら足拍子をふんで廻ってみせた。子供たちはいつか釣りこまれて小声でうたいだしたので私も伯母さんに促されてみんなの顔を見まわしながら内証(ないしょ)で謡のあとについた。

「ひーらいた ひらいた、なんのはなひーらいた、れんげのはなひーらいた…」
小さな輪がそろそろ廻りはじめたのをみて伯母さんはすかさず囃したてる。平生ろくに歩いたことのない私は動悸がして眼がまわりそうだ。手がはなしたくてもみんなは夢中になってぐんぐん人をひきずりまわす。そのうちに
「ひーらいたとおもったらやっとこさつーぼんだ」
といって子供たちは伯母さんのまわりへいちどきにつぼんでいったもので伯母さんは
「あやまった あやまった」
といって輪からぬけだした。

「つーぼんだ つーぼんだ、 なんのはなつーぼんだ、れんげのはなつーぼんだ…」
つないだままつきだしている手を拍子につれてゆりながらうたう。
「つーぼんだとおもったらやっとこさひーらいた」
つぼんでいた蓮華の花はぱっとひらいて私の腕はぬけるほど両方へひっぱられる。五六遍そんなことをやるうちに慣れない運動と気疲れでへとへとにくだびれてしまい伯母さんに手をほどいてもらって家へ帰った。〟

 

 

 

上掲2枚の写真は2014年5月20、樹下美術館近隣の畑の蓮華です。
まじまじ見たのは初めてで、こんなにきれいなものだとは知りませんでした。

 

さて、こどもたちには少し優しいコロナウイルス。このウイルスはよほど人間のことを知っているのかもしれません。それで大人は余計に油断が出来ないのではないでしょうか。

休館のお詫びに「銀の匙」の一節から その1

2020年3月10日(火曜日)

本日はお詫びというわけでもありませんが、気にいって読んでいる中勘助の本「銀の匙」から以下のように一節を紹介させて頂きました。
国が富国強兵に被われる直前、のどかさがまだ残る明治20年代ころからの子供達、あるいは社会の一コマです。

幼年の主人公「私」は神田で生まれ間もなく小石川へ移ります。
歩ける年になってもひたすら強い愛情と保護を注ぐ伯母さんに背負われる生活をしている主人公。博覧強記、そして深い信心の持ち主である伯母さんの訛りと気っ風にも、不思議と郷愁を誘われます。都合で本と段落が変わていることをお許しください。

〝で、伯母さんは一生懸命私の遊び仲間によさそうな子供をさがしてくれたが、そのうち見つかったのはお向こうのお国さんという女の子であった。
ーお国さんのお父様は阿波の藩士で、そのじぶん有名な志士であったということは近頃になって始めて知った。ー
伯母さんはいつのまにかお国さんが体が弱くておとなしいことから頭痛もちのことまでききだしてもってこいのお友達だと思ったのである。

ある日伯母さんは私をおぶってお国さんたちの遊んでいる門内のあき地へつれてゆき
「ええお子だに遊んだってちょうだいも」
といいながらいやがる私をそこへおろした。みんなはちょっとしらけてみえたがじきにまた元気よく遊びはじめた。私はそのひはお目見えだけにし、伯母さんの袂につかまって暫くそれを眺めて帰った。

その翌日もつれてゆかれた。そんなにして三日四日たつうちにお互いにいくらかお馴染みがついて、むこうでなにかおかしいことがあって笑ったりすればこちらもちょいと笑顔をみせるようになった。

お国さんたちはいつも蓮華の花ひらいたをやっている。伯母さんはそれから家で根気よくその謡(うた)を教えて下稽古をやらせ、それが立派にできるようになってからある日また私をお向こうの門内へつれていった。そうしていじけるのを無理やりにお国さんの隣へわりこませたが意気地の無い二人はきまりわるがって手を出さないので、伯母さんはなにかと上手に騙しながら二人の手をひきよせて手のひらをかさね、指をまげさせて上からきゅっと握ってようやく手をつながした。
これまでついぞ人に手なぞとられたことのない私はなんだか怖いような気がして、それに伯母さんに逃げられやしないかという心配もあるし、伯母さんのほうばかり見ていた。〟

 


「かごめかごめ」はしたことがあるように思います。
蓮華の花ひらいた、は聞いた覚えがありますが、遊んだか否か微妙でした。

かすりの着物にへこ帯であろう子供たちの様子は愛らしく映ります。
門内:もんない、と読むのでしょうか、具体的な意味が分かりませんでした。いわゆる町内でしょうか。
夏目漱石から「子供の世界の描写としては未曾有」と絶賛され東京朝日新聞に連載された「銀の匙」
大人には特別な出来事が起きるわけではありませんが、繊細な主人公にとって毎日は事件でした。

押しつけがましく致しまして申し分けありません。

嵐の海の絵 東北大震災のエネルギー。

2020年3月7日(土曜日)

走ればすぐ海へ出る所で育ったので、季節ごとに何かと海へ行った。冬の最中に海辺の砂丘でスキーをした。荒波が打ち付ける波打ち際の砂の上まで滑るのである。
そんな訳で荒海のドラマチックな景観も好きで、先日も写真をのせさせて頂いた
先週末にかけて荒れたため飽きもせず近隣の海を写してきた。

 

爆弾低気圧と伝えられた日の四ツ屋浜。

 

漁港の防波堤と波。
どんなに激しく何年打ちつけても、小さな漁港の防波堤だがびくともしない。

もうじき3月11日、東北大震災の日がくる。
ちょうど新潟市の知足美術館で拙個展の最中。弟はじめ三つの親族が南三陸町と仙台に住んでいた。すぐに個展などは上の空になったことが昨日のように蘇る。

大震災の津波は1回で、あまたの港の防波堤をことごとく破壊した。その力は広島型原爆のほぼ3万個分のエネルギーだったという。上掲の堤防などは砂を盛った如くあっさり潰されたに違い無い。普段地下のプレートが如何に強大な力を我慢しあっているかも知らされた。

加えるに原発4基の破壊と爆発。東北を越えた未曾有の災禍に広がった
日頃自分一人生きるのも大変な人生を生きている。だが時に立ち止まり、このような災害と事故を自分のことのように置き換えて振り返ることには非常に意味があると思う。

さて冒頭で爆弾低気圧の漁港を取り上げたが、美術の分野には海洋芸術あるいは海洋画というものがある。
陽光を湛えた穏やかな海を描いたものが多い中で、以下のように嵐も少なくない。

 

ウイリアム・ターナーの「嵐の中のオランダ船」

 

レンブラント(レンブラント・ファン・レイン)の「ガリラヤの海の嵐」

 

イヴァン・アイヴァゾフスキー「第九の波濤」

海にまつわる説話や聖書の逸話など古くから海は多く描かれている。わけても嵐の海は風波や雲の観察、光の効果、波乱を支える構図の安定感、さらに物語の構成など素晴らしい。

日本画の激しい波浪といえば、何と言っても葛飾北斎と曽我蕭白であろう。機会にめぐまれたなら勉強をして、取り挙げてみたいと思います。

倉石氏の挿絵の本に「誰が風を見たでしょう」の歌があった。 

2020年2月20日(木曜日)

昨日は倉石隆の挿絵本のことに触れ、「玉川こども・きょういく百科」の「ちきゅう」に描かれた氏の挿絵を紹介させて頂きました。描かれている幼いこどもたちの情景を見るにつけ、日常の種々(くさぐさ)から開放され、童心に返って筆を走らせる倉石氏が浮かびました。

ところで、その本を見ながらあるページで手が止まりました。そこに懐かしい歌が書かれていたのです。

 

「だれが かぜをみたでしょう」のページ。

〝だれが かぜをみたでしょう
僕もあなたも みやしない
けれど 木の葉をふるわせて
かぜは とおりぬけていく

だれが かぜをみたでしょう
あなたも僕も みやしない
けれど 木立が あたまをさげて
かぜはとおりすぎていく〟

覚えたのは多分小学校時代。学校で、姉から、レコードから?どうやって覚えたのか思い出せない。
しかしメロディーと、うろ覚えの歌詞はいつの日からか、不意に口を突く。
だれにもそんな歌があるのではないだろうか。

 


「風」
(題が風とは知りませんでした)

本を見て、さらにYouTubeで見て、やはり歌は存在したのだ、と一種デジャブに似た感覚をおぼえた。
原題「Wind」 訳詩・西条八十 作曲:草川信  大正10年(1921年)発表
作詞のクリスティナ・ロゼッティは進んだ人だったらしい。
草川信は長野県出身、「夕焼け小焼け」「揺りかごの唄」 などを作曲している。

良い歌だと思う。

在宅医療は大事業 ヴァレンタインのプレゼント ジョージ・シアリング。

2020年2月10日(月曜日)

月1出向いている百才が近いおばあさんは、通い始めてから4,5年は経つ。
促されてベッドで目を開けると一瞬笑顔風な表情になるが、すぐに眠ってしまう。これまで骨折をしたり、執拗な呼吸器疾患や皮膚疾患、時に裂傷を負ったりして何度も病院へ行った。介護者にとって、寝たきりの方を病院に連れて行くのはその都度大変だった。

毎夜二時三時にもオムツを替える介護者の娘さんは、表向きには文句を仰るが、強い愛情をもって接しているのが分かる。
在宅医療というと場合によって美しく聞こえなくもない。しかし癌の方や長い要介護4,5レベルの方を看るのは、一種戦争のようでもあり、ご本人も寝ているだけではなく傷だらけになって戦っている戦士のように見えてくる。
概して在宅医療は一大事業だ。

本日の訪問で、おばあちゃんからです、と言ってお宅からヴァレンタインのプレゼントを頂いた。

 

介護者が作っているルッコラ。それにチョコレート。

 

今夜サラダになったルッコラ。

 


ジョージ・シアリングのマイファニー・ヴァレンタイン。
若かりし時代にラジオからよく聞こえたシアリングは幼くして視力を失ったピアニストで作曲家。
アメリカで活躍したが、晩年母国イギリスから大英帝国勲章を授与された。
1950年代であろう録音はモノラル。以前も書いたがモノラルのピアノは残響が少なく音がコロコロと丸く可愛く聞こえ、私は嫌いではない。

ここへ来て寒さが強まり、冬が意地をみせている。
今日も寒かった。

寒波を免れている マンハッタン ・トランスファーの「SNOWFALL」。

2020年2月9日(日曜日)

先週からぐっと寒くなり何度か雪が降った。
難渋する程度ではなく数㎝の積雪だったが今期はじめて雪景色だった。そういえば今年は「寒気」という言葉を聞くが「寒波」は耳にしていない。
調べると、著しく冷たい気塊(空気のかたまり)でも一両日で去るものは寒気、広範に亘り3日以上居座るものを寒波と呼ぶらしい。

今年は寒さが来ても短期間で去って行くのが続いている、ということになる。今の所豪雪という災害的な気象から免れているのでやはり助かる。

 

昨夕、上越市大潟区の蜘蛛ケ池湖畔。

 

昨夕の大潟区蜘ケ池は瑞天寺の方向の眺め。

 


マンハッタン・ トランスファーの「スノーフォール」。
四人のコーラスグループ、マンハッタン・ トランスファーは何度もグラミー賞に輝いている。
しんしんと雪の降るさま、あるいは降り止んだ雪晴れの感じがよく現れていると思う。

誕生日。

2020年2月1日(土曜日)

昨夜半12時過ぎて寝る仕度をしていると元気なトーンで、○○才おめでとう、という妻の声。
本人は祝っているつもりであろうが、私としては何か良くないことを宣告されているようで、例年なんとも言えない気持ち。

いよいよ今年、父親が生きた年令を歩むことになった。
父も私も同じ誕生日なので、時々互いの年令を重ねて何とはなしの思いを巡らせてきた。

以下いつものことで申し分けありません、妻が用意した精一杯の夕食です。

 

 

 

1月生まれは目出度い、3月生まれはもう春、その間で2月はブルブルと寒い。それで2月生まれの人に会うと寒い月に生まれましたね、と言ってシンパシーを覚える。

今年も出来るだけ健康に気を付けて、自分の事は15パーセントくらい、皆様のことを85パーセントくらい考え、また頑張ってみたい。

 


昭和54年の早春に初めて聴いた曲。
皆様のためなどと言いながら、誕生日祝いに好きなアルビノーニのオーボエ協奏曲のうちの1曲からアレグロのパートを掲載してみました。

二つのOn the Sunny Side of the Street(明るい表通りで)。

2020年1月29日(水曜日)

雪はいずれは降る、という思いは外れ、間もなく2月になる。
降るのは雨ばかりで釈然としない。

そんな日頃、「On the Sunny Side of the Street(明るい表通りで)」を掲載してみました。

 


気持ちが良い戸外でセッション。ギターしかり、歌もベースも上手いと思いました。

 

この古い曲は非常に多くのミュージシャンによって取り上げられています。木陰の演奏はとても素敵ですが、ホワイトハウスで演奏するというのも珍しいのではないでしょうか。

以下はその演奏、1984年生まれのエスペランサ・スポルディングが大統領の前で歌う「On the Sunny Side of the Street」です。


2016年、国の創作活動祝賀イベントのような場所の演奏。
〝ジャズはアメリカのクラシック音楽。ブルースは南部の田舎から生まれ、ジャズは都会的でクールな音楽になった〟というようなことを最初に述べている。
自信に満ちた表現とテクニック、圧倒的なエンディングが素晴らしい。
ちなみに彼女は2009年、オバマ大統領のノーベル平和賞受賞の際も面前で演奏している。

奨学金で学び既に三度のグラミー賞に輝いているという。
「演奏には責任を自覚している」
「常に自分自身への問いを繰り返してきた」
過去のインタヴューではこのような主旨を述べ、含蓄ある言葉だと思った。

冬晴れの野尻湖 中勘助の詩碑。

2020年1月26日(日曜日)

日中よく晴れた本日日曜日、午前8時半過ぎに家を出て野尻湖へ行った。なぜ野尻湖かというと、確固たる理由もないが、昨年12月から読み始めた中勘助の小説「銀の匙」が野尻湖で書かれた事を知った事があった。
作年12月に一度野尻湖行きを試みたが、途中寄り道して失敗、その日は断念していた。あれから一月余り、雪は無く本日の空は快晴、冬の野尻湖は如何ばかりかと車を駆った次第。

 

野尻湖近くの広い駐車場。昔ここに学校があった。

柏原駅からオレンジ色の川中島バスに乗ると、ここにあったグラウンドが終点だった。いつも泊まった藤屋旅館まで歩いて2,3分の懐かしい所なので寄り道した。
(調べましたところ、現在は信濃町公民館の野尻湖支館ということです)

たまたま寄ったにも拘わらず、一角になんとまあ中勘助の立派な詩碑があり、驚きかつ嬉しかった。「銀の匙」は興味深く、既に二回読了し三回目を読み始めた所。すっかり虜になってしまい、この先ずっと愛読しようと決めている本。
その著者に対して、野尻湖の人びとは碑をこしらえ顕彰していることに感動した。

 

 「ほほじろの聲」という詩が刻まれている。

「銀の匙」前篇は明治44年と45年の夏に、野尻湖にある枇杷島の神社に籠もって執筆されている。小説は明治中期に於ける繊細多感な幼少から思春期にいたる私的な生活史の形で著されている。

弱くて驚くほど繊細なこどもとして、特に伯母の庇護のもと大切に育てられる主人公。明治中期頃の子どもの世界が何ともあどけなく美しく展開する。
雨が降っているだけで、あるいは海の波音を聞くだけで悲しくなって泣くような、主人公のあまりのこまやかさ。これは普通の子では無い、もしかしたらまれに見る美少年だったのではないか、と確かな理由もなく想像した。

成長するに従い背が伸び、抜きんでて強くなるのだが、スマートで外国人のようになった、という話がある。老年の写真などは俳優を思わせる渋さが垣間見られている。

大人も放っとかない美しいこども、、、(本人はただの一言も言わないのだが)。静かで敏感なうえ黙っていてもモテた男性を一人二人知っている。だが不思議な事に彼らの奥底は悲しげで孤独そうに見えるのである。
氏の本はまだ「銀の匙」一冊だが、読みながらこの人はそのような人間の極みだったのではないか、と感じている次第。

野尻湖の詩文も寂しい内容で、中氏らしくて良かった。

 

中氏と「銀の匙」と野尻湖のことが書かれている。
碑は昭和48年、公民館完成を記念して建立されたという。

詩は野尻湖の執筆後、十数年経って再訪した時のもの。ホホジロの声を聴くと昔が懐かしい。過去も今もこの先もまた自分は一人、ずっと一人のままであろう、というようなことが謳われている。短い詩の中で、ひとりという文言が四回も続いて現れる。

湖畔に向かった。

当時の面影はないが、本日の藤屋旅館。
松の木は往時のままのような気がする。すぐ前が湖と桟橋。

 

藤屋さん前の桟橋で。昭和24年の私たち(右端が小2の私)。

藤屋さんに一泊し、信州味噌の味噌汁に野沢菜漬けとワカサギのテンプラを食べた。ここで出される家と違う食べもがとても楽しみだった。
湖でボートを漕いだり、あるじのモーターボートに乗せてもらったりして帰る。1年に一回、高校生のころまで野尻湖行きが続いた。

小学時代、皆で柏原駅まで歩いたことがあった。道すがらある看板を見た姉が
「あっ、この家〝王子売ります〟って書いてある」と言った。
玉子が王子と書かれていたのだ。
私は何とかそれが分かったので、一生懸命笑った。

 

本日の黒姫山。

 

お目当ての妙高山。

 

長野県の人は黒姫を背負った野尻湖と言い、新潟県の人は妙高を背負った野尻湖という。気持ちは良く分かり、野尻湖はまれに見る風光明媚な所だと思う。

中勘助が訪れた明治末の野尻湖は訪ねる人も無かったらしい。中氏は一種放浪の途中でやって来て気に入り、島に籠もって本を仕上げたという。

※書き始めは日曜日でしたが、終了が日付けをまたいでいました。
申し分けありません、文面上日曜日掲載と致しましたので御了承下さい。

雪の無い冬 柏崎の原惣右衛門工房と刈羽の吉田隆介氏の花入れ 良い作品と作者。

2020年1月22日(水曜日)

1月の下旬になったもののさっぱり雪が降らない、一体どうしたことだろう。
雪がないのは当地だけではなく全国的な現象らしい。80、90才の人に訊いても、こんなのは初めてだと仰る。
在宅訪問や往診は楽だが、何か騙されている気がしてしっくりしない。

 

本日午後の樹下美術館。休館が申しわけ無い眺め。

さて1月上旬に二回柏崎刈羽に行き、天神様めぐりをした。行程で鋳物の原惣右衞門工房と陶芸家・吉田隆介宅を訪ねて天神様飾りを楽しんだ。
そのおり作品を拝見したがいずれも魅力的だった。その中から以下の作品を購入させて貰った。

 

原惣右衞門工房の鋭い四角錐の鋳物花入れ。
長くこの手の花入れを探していた。
ざっくりした風合いが何とも言えず、一輪の花と大変相性が良い。

 

陶芸家吉田隆介氏のうねりをもって尖った花入れ。
赤く散らした斑点が楽しく、サザンカや冬枝と映え合っている。
ヒマワリやダリアなど大きな花も受つけそうだ。

いずれも偉ぶらず、周囲を和ませ相手を生かす作品であり、案の定花をいれると良い風情を醸し出した。

私の拙い経験から、作家と作品について以下のように思うことがある。
〝およそ良い作品を作る人は偉ぶらず、人を幸福にしようと一生懸命だ。良くない作品の人は偉そうにしたがり、作品よりも自分が前に出てどこか品が無い〟
作品と人柄は互いに似ている。

ところで今年の樹下美術館は毎月第四日曜日に、隣の家の四畳半の間でお茶のお点前をして皆様に呈茶のサービスを予定しています。
1回8名様まで、午後2席を考えているところです。宜しかったらお気軽にお立ち寄り下さい。本日掲載しました花入れも掛けたいと思っている次第です。

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