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小学二年生による「森のトマト畑」の感想文

2020年4月21日(火曜日)

1982~83年頃、こどもたちのために書いてみた「ばいきんきち」をその1およびその2、続いて「森のトマト畑」その1その2を二回にわたり掲載させて頂きました。

当時小学2年生の娘がそれを学校へ持参しました際、担任の先生が生徒さんたちに読み聞かせをされ、後日森のトマト畑について、クラス全員による感想文が届けられました。劇にして楽しんだ写真も添えられ、大変恐縮しました。

 

綴られた31名の感想文。

いずれも文には絵が描かれていて、生徒さんの感受性に刺激を受けたのを思い出します。

おおよそ40年前の皆様にあらためて感謝し、中から幾つかを紹介させて頂きました。

「この本を読んでいただいたら、わたしもそのトマト畑にいきたくなりました。森のどうぶつたちは、なかよしなんだなあ、と思いました。からすはがんばりやだと思いました」

「とってもおもしろいお話でした。ぼくは、からすがほんとうに太陽をもってくるかと思いました。ぼくはピーマンと、トマトがきらいだけど、きゅうしょくででたらぜったいたべます」

「太ようと、みんなトマトをまちがえていて、カラスが「それは太ようではないんだよ」といってもかなしくなかったから、よかったなあと思いました。

「先生が、この本を読んでくれた時わたしは、とってもすてきな本だなあと思いました。りすたちは、トマトを太ようとまちがえてずっと太陽を見ていました。わたしもまちがえたらずっと見ているところでした。この本を書いてくれた人、ありがとうございます」

文では、カラスが正直に話し、みんなに責められなかったこと、ウンチの種が芽をだすこと、人間がクマと話をすること、太陽とトマトが同じか?ということなどへの興味が沢山書かれていました。

以下文に付けられていた絵の一部です。

文・絵とも一生懸命に書かれています。全部をお載せできなくて残念です。

三密 淡交 自分を消す。

2020年4月13日(月曜日)

長年どちらかというと賑やかな所は苦手で静かな場所と時間が良かった。
30代のころ、近しい人が、春の連休の軽井沢について〝まだ賑やかではないのでイヤだ〟と話した。
アララ、春の軽井沢は静かで新緑、それなりに良いのに、と思ったが、人の好みは如何ともしがたいので、〝そうですか〟とだけ言った。同じ一万円でもお札1枚より一円玉1万個を喜ぶようなものかな、と思った。

そんなわけで外出となると近郊の静かな里また里山、柿崎海岸あるいは自然公園などで十分楽しめている。ましてお隣の妙高、柏崎や糸魚川の市へ出かけたならば旅情十分で、自然も風物も外国へ来たように心奪われる。

慣れた所も季節ごとに花鳥風月は異なり、毎日毎分雲と日射しは変わる。ましてカメラを持参するようになってから、なにかしら初めての草花や鳥に出合えるようになった。さすが連日は飽きるが日を変えれば基本同じ場所で一向に差し支えない。

もしかしたら自分は忘れっぽいので何を見ても面白いのかな、と思うことがある。ほかに迷惑をかける事でもないので、まあいいか、と深く考えないでいる。
そもそもこの年になると〝ある程度健康であれば生きているだけで満足〟という道理も働くのだろう。

「三密」
世が世なら、これは空海が説いた「身」「口」「意」、三つの本意(加持)だった。それで字面をみれば宗教的あるいは哲学的な雰囲気を漂わす魅力的な文言に見える。だが今日、新興感染症対応の基本として登場したのは密閉、密集、密接を三密として避けようと、いうもので偶々同じ文字になっただけのことである。
さてよく見れば現三密を避けるのは、親友もいない、酒も飲めないことなどから、およそ自分の性に合っていると捉えている。ただし密閉から開放され静かな戸外へ出ることだけは許して貰いたい。

普段仕事上密接する機会は多く、今日皆様とは相当距離を意識するようになった。逆に皆様の方から私との距離を置こうとされる態度に接することがあり、三密の行き渡りに感心している。ただ三密の励行は行政の力などではなく、ウイルス自身の強大さがさせるものであり、そのことだけは肝に銘じなければならない。
はたしてこれが何時まで続くのか、以前触れたように当面新しい文化として親しむことになりそうだ。

「淡交」
昭和62年初夏に入門した裏千家茶道の同門組織に「淡交会」があり、不肖永久会員の末席を汚している。人との距離、あるいは密接度に関して良い言葉がある。

〝淡交会」とは、十四代家元淡々斎宗匠の斎号に因み命名されたもので、荘子の「君子之交淡若水」 (君子の交わりは、淡きこと水の若し)に典拠するものです。
淡々としてあたかも水が流れるようになにごとにも執着せず、 どんなときにも感情に流されない平常心の交わりを意味し、茶禅一味の精神を根本とします。」、とホームページにある。

 

人はじめ万物との交わりについて述べられているのだろう。原典には続きがあり「小人の交わりは甘きこと醴(あまざけ)のごとし」と述べられるので、淡きことの価値がいっそう分かりやすくなる。

ところで世間には、ある種の話題になると反射的に激しい感情を込めて人や他国を非難する人がいる。見ていると喧嘩そのものとして写る。
自分を愛する余りであろう、心中休むことなく喧嘩が行われているのではと想像される。ご自分の正義とはいえそのような言説を耳にすると、立派な人なのにと、悲しい気持ちなる。

この点禅味が原点の淡き交わりは理にかなっている。
一昨年4月、お家元がお正客の八畳間の席でお点前をさせて頂く機会に恵まれた。
所作を分けたり繋げたり、人にも観ててもらったり、イメージトレーニングを入れつつ徹底して稽古をした。
最後の方になって、良いお点前とは〝自分が消えてしまうこと〟ではないかと気がついた。すべてそのための稽古だったのかと振り返った。

心配をよそに本番では、水のごとく淡く振る舞えたやに思われた。その時不思議な有り難さで夢心地さえ去来し、あとで家元から暖かなねぎらいを受けた。
但しもう一度それを行えるかと問われれば、今後の稽古(修業?)次第としか言えないのが情け無い。

さて、以上何からこのようなことを書き連ねたのかよく分からなくなりました。昨日日曜日は頸城区にある「大池いこいの森公園」へ出かけた事、それを三密の一つとして言い訳をしたかったからのようです。大変長くなりました。

昨日の大池湖畔。

当日の花鳥などの写真は次に掲載させてください。

美術館コロナの春の薄化粧。

2020年3月31日(火曜日)

新型コロナウイルスに備えて、3月15日の開館を延長しました樹下美術館。
午後のみの開館、席数半減、滞在時間制限、メニュー制限、図書貸し出し中止、などを掲げての出発です。
小学校の始業が行われること、上越地域の感染が無い事などを条件に、4月6日に今年の開館をすることに致しました。

文化庁のホームページには「文化芸術に関わる全ての皆様へ」という、,3月27日付け長官のメッセージがあります。
以下に最後の部分を引用しました。
〝この困難な時こそ、日本が活力を取り戻すために、文化芸術が必要だと信じています。
明けない夜はありません!今こそ私たちの文化の力を信じ、共に前に進みましょう。
宮田亮平〟

またドイツ政府は「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ」と述べ文化芸術面に大規模支援を表明しています。

不安のなか、このようなメッセージには勇気づけられます。

本日スタッフが館内外の清掃を済ませ、一緒に展示準備をしました。
以下におおむね完了した倉石隆の絵画コーナーの様子を掲載します。

 

 

 

中央に5点の細長い油絵を架け、
手前に倉石氏が挿絵や表紙を描いた本19冊を展示しました。

 

16席から7席減らして9席にしたカフェ。
陶芸室のテーブル席も8席→4席としました。

 

何度もお伝えしましたクリスマスローズが真っ盛りになりました。

 

美術館コロナの春の薄化粧

 

色々考えてみましたが、相手は賢くて姿も見えない強力な魔術師。
混み合うことが少ない当館がいっそう閑散であれば、と妙なことを願っています。

残り少なくなった貴重な春を、こんな風に迎えるとは考えてもみなかったことです。
キーやボタンを押せば答えが出る生活で、すっかりご立派になってしまった私たち。

春で、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」を思い出しました。
レイチェルを出すと、揚げ足取りをする人がいそうで、これまた悲しいのです。

あるブロガーさんへの歌。

2020年3月30日(月曜日)

とても残念なのですが、ある方が最近ブログを閉じられることになりました。
遠くから樹下美術館を応援してくださっている方です。

ささやかなお礼としましてYouTubeから歌をお借りしました。
宜しければどうかお聴きになってください。

ある医師のお勧めの歌でもあります、
アルフレード・クラウスの「真珠採り(耳に残るは君の歌声)」にしました。

 

力づくで来ようとする者との戦い。
貴方に共感し応援しています。

「大丈夫ですからね」

休館のお詫び 銀の匙その3 ムラサキシジミ 雀たち お菓子に温まる ウィルスの行方 マスク。

2020年3月18日(水曜日)

日中暖かな陽が射した一日、午後から特養の診察に伺った。今年はインフルエンザの流行を免れたものの、新型コロナだけは何処を突いてくるか分からないので落ち着かない。

昨夕、妻がちょっとした集まりに出掛けた。二時間経とうとするころ、お節介かと思ったが、そろそろ中座するよう電話で促した。帰宅した妻は、電話をもらって助かったと言った。今は人に嫌われても、ウイルスにだけは好かれないようにせざるを得ない。

さて休館のお詫びにと勝手ながら小説「銀の匙」のから、明治時代の子供たちの振る舞いを紹介させて頂きました。前回は人見知りの激しい主人公のお友達にと、お伯母さんが見つけた「お国さん」という女の子と「蓮華の花ひらいた」をして遊ぶところを載せました。

銀の匙 その1
銀の匙 その2

本日はお国さんと仲良くなっていく場面の一節その3です。

〝二人がさしむかいになったときにお国さんは子供同士がちかづきになるときの礼式にしたがって父の名母の名からこちらの生年月日までたずねた。そしてなにの歳だといったからおとなしく酉の歳だと答えたら
「あたしも酉の歳だから仲よくしましょう」
といっていっしょに、こけこっこ、こけこっこ、といいながら袂で羽ばたきをしてあるいた。

おない年はなにがなし嬉しくなつかしいものである。お国さんはまた家の者が自分のことを痩せっぽちだのかがんぼだのというといってこぼしたが私もみんなに章魚坊主(たこぼうず)といわれるのがくやしかったので心からお友達の身のうえに同情した。いろいろ話あってみればいちいち意見が一致して私たちは間もなく仲よしになってしまった。〟

以上、またご紹介させてください。

さて午後の施設を終えて美術館に寄りました。美術館はねそべったまま身を持てあまし、庭の花も何か申しわけなさそうにしています。幸い在宅回りが無かった午後、枯れ芝の庭にボールを撒いてアプローチの練習をして過ごしました。
すると小さな物体がチラチラと飛び回り美術館の壁や敷石に止まります。

 

 

アオスジタテハでした(当初ムラサキシジミと記載しましたが訂正しました)。私にとっては珍しく、喜んでカメラを向けますと、どこかへ飛んで行ってはまた戻るのを繰り返します。しゃがんでいる頭上にも何度か来ました。樹下美術館は午後の陽を包み込むような形をしているため、温まっている壁や石が気に入ったのでしょう。

調べますと成虫のまま翅を立てて越冬するということです。

 

なるほと翅の裏は枯葉そのものの模様になっています。
小雪の冬は越冬する昆虫たちには楽だったことでしょう。
それにしても数ヶ月の寒風の下を何処で過ごしたのでしょうか。
この魅力的な蝶にとっても幸運な年でありますように。

ベンチの傍らに雀たちがいました。
大きな群から離れて一帯を住処に決めたのでしょう。
パートナーを求めて活発に追かけっこなどをしていました。

 

さて以下のようなお菓子を頂きました。

 

三色おはぎ

 

東大寺お水取りの時期だけのお菓子と聞いた「御堂椿(みどうつばき)」。
奈良市千代の舎竹村(ちよのやたけむら)の製。
きれいなもんですね。

 

長生きはするものでしょうが、この度ばかりはじっと狙われているようで落ち着きません。

世界はどのように推移するものか。日本はまだまだですし、大国アメリカはどう切り抜けるのでしょう。貧しい無保険の人達がとても気になります。

本日は四人の方に一枚ずつですが、マスクを上げました。とても喜んでくださったのが目に浮かびます。

沢山載せてしまいました。

本日のマスク。

2020年3月13日(金曜日)

感染しているかもしれないと仮定してマスクを意識するようになった。
来院する方達も皆さん付けて来られる。先々の不安からますます不足し、出入りの業者さんはじめ町のストアから衛生用品が消えている。私たちは少し早めにネットで購入したためため、当分なんとか間に合いそうだ。

本日午前に同級生のTちゃんが来た。マスクの上で眼が笑っている。いいマスクじゃないの、というと、いつものようにオホホと言って、自分でつくりました、と仰った。新聞だか雑誌に付いていた型紙に合わせた、ということ。お母さんが裁縫の先生だったTちゃんは普段色々なものを自分で作る。今日はふっくらと軟らかそうなマスクが似合っていた。

今度は同級生のY君が来た。マスクが無くてすみません、と申し分けなさそうに言う。診終わって、少ないけど良かったら使って、と言って引き出しから4,5枚出して差し上げた。

そんな夕、お茶の稽古から帰った妻が、先生から、亡くなられたご主人が残されたマスクを頂いた、と言って箱を二つ取り出した。

 

なんとまあ手つかずの二箱。

 

初めての丸型マスク。耳ではなく顎と頭に掛ける本格的なもの。
鼻の部分はアルミで形を作り、その裏にスポンジが施されている。
〝これで余裕ができ助かります、、先生本当に有り難うございました〟

 


ヘンリー・マンシーニのDreamsville(夢の場所あるいは夢の町?)
1958-1961年のTV探偵シリーズ ピーターガン の挿入歌。
60年前とは思われない新鮮さ。

施設の出会い 美しい「白梅」。

2020年3月12日(木曜日)

午後に施設回診があった。新型コロナウイルスは恐いが、幸い同園は静かに推移していてほっとする。

比較的新しいお年寄りの女性を診た。いつも大人しい方である。
二三話してから
「ここにいて寂しくないですか」と訊いてみた。
「寂しいなんて思っていたら、いられません」とかなりはっきりした口調で仰った。
普段ぼそぼそと話される人の明瞭な返事に少々驚き、
「あなたはとてもしっかりしていますね、こんなに本当のことをちゃんと言えるんだから」
と言った。すると、
「先生は○○先生ですか」とばそぼそいう。私のことを知っているみたいだ。
「ええ、潟町の○○です」
「わたし昔先生に掛かったことがあります」と突然仰って驚いた。
続けて、
「先生、変わりましたね、年取られました」と言われた。
ドキッとしながら、ああこの方は何でも本当のことを仰るんだ、とまた思った。
「はい、年取ったと思います、父にも似てきましたし」
と答えたものの、いつどんなことを診たのか全く覚えていない。その時、何か間違いをしていなければいいが、と心配がよぎる。
「また、二週間したら会いましょうね」と言って頭にさわった。
「有り難うございます」とぼそぼそ返事をされたので、また話をしてみたい。

一度あったことは二度あるのか、先ほどの方の帰りにホールを通った。
そこである老人が介護士さんと居て、筆を執って字を書いていた。
ちょうど書き終わった時で、これ白梅と読むんですって、と介護士さんが言う。
一分の隙もない美しい白梅が書かれていた。
この方の字は廊下に幾つも掛かっている。いつも感心して見ているが、実際書かれているのを見るのは初めてだった。
「本当にお上手ですね」
「いえ、とんでもない、先生の花の絵にはかないません」と仰った。
またドキッである。
お訊きすると同じ町に住んでいた方だった。
私の受け持ちではないが、いつも通りすがりに深々と会釈をされる。
この方もまったく静かな人で、笠智衆をきりっとさせたような方だなあと思っていた。

 

よくもまあこんなに上手く筆が運ぶもんだと感心した「白梅」(やや下から撮りました)
コロナウイルスによって過日鎌倉の梅を諦めたら、素晴らしい白梅に出合った。
もらっていいですが、と尋ねると「どうぞ」と仰った。

この分野は知らない者同士でも十分やっていける。
しかしかって会ったとか、実は知っていたなどで、知己があらたまると、新しい親しみが生まれ、次ぎにお会いするのが楽しみになる。

休館のお詫びに「銀の匙」の一節から その2

2020年3月11日(水曜日)

本日はお詫びというわけでもありませんが、気にいって読んでいる中勘助の本「銀の匙」から以下のように一節を紹介させて頂きました。

幼年の主人公「私」は神田で生まれ間もなく小石川へ移ります。
歩ける年になってもひたすら強い愛情と保護を注ぐ伯母さんに背負われる生活をしている主人公。時代は明治半ばの頃。博覧強記で深い仏心の持ち主である伯母さんの訛りと気っぶにも、不思議と郷愁を誘われます。本日は昨日の続きです。

〝あらたにこの調和しがたい新参者が加わったために子供たちはすっかり興をさまされていつまでたっても廻りはじめない。それを見てとった伯母さんは輪のなかへはいり景気よく手をたたいて
「あ、ひーらいた ひーらいた なんのはなひーらいた」
とうたいながら足拍子をふんで廻ってみせた。子供たちはいつか釣りこまれて小声でうたいだしたので私も伯母さんに促されてみんなの顔を見まわしながら内証(ないしょ)で謡のあとについた。

「ひーらいた ひらいた、なんのはなひーらいた、れんげのはなひーらいた…」
小さな輪がそろそろ廻りはじめたのをみて伯母さんはすかさず囃したてる。平生ろくに歩いたことのない私は動悸がして眼がまわりそうだ。手がはなしたくてもみんなは夢中になってぐんぐん人をひきずりまわす。そのうちに
「ひーらいたとおもったらやっとこさつーぼんだ」
といって子供たちは伯母さんのまわりへいちどきにつぼんでいったもので伯母さんは
「あやまった あやまった」
といって輪からぬけだした。

「つーぼんだ つーぼんだ、 なんのはなつーぼんだ、れんげのはなつーぼんだ…」
つないだままつきだしている手を拍子につれてゆりながらうたう。
「つーぼんだとおもったらやっとこさひーらいた」
つぼんでいた蓮華の花はぱっとひらいて私の腕はぬけるほど両方へひっぱられる。五六遍そんなことをやるうちに慣れない運動と気疲れでへとへとにくだびれてしまい伯母さんに手をほどいてもらって家へ帰った。〟

 

 

 

上掲2枚の写真は2014年5月20、樹下美術館近隣の畑の蓮華です。
まじまじ見たのは初めてで、こんなにきれいなものだとは知りませんでした。

 

さて、こどもたちには少し優しいコロナウイルス。このウイルスはよほど人間のことを知っているのかもしれません。それで大人は余計に油断が出来ないのではないでしょうか。

休館のお詫びに「銀の匙」の一節から その1

2020年3月10日(火曜日)

本日はお詫びというわけでもありませんが、気にいって読んでいる中勘助の本「銀の匙」から以下のように一節を紹介させて頂きました。
国が富国強兵に被われる直前、のどかさがまだ残る明治20年代ころからの子供達、あるいは社会の一コマです。

幼年の主人公「私」は神田で生まれ間もなく小石川へ移ります。
歩ける年になってもひたすら強い愛情と保護を注ぐ伯母さんに背負われる生活をしている主人公。博覧強記、そして深い信心の持ち主である伯母さんの訛りと気っ風にも、不思議と郷愁を誘われます。都合で本と段落が変わていることをお許しください。

〝で、伯母さんは一生懸命私の遊び仲間によさそうな子供をさがしてくれたが、そのうち見つかったのはお向こうのお国さんという女の子であった。
ーお国さんのお父様は阿波の藩士で、そのじぶん有名な志士であったということは近頃になって始めて知った。ー
伯母さんはいつのまにかお国さんが体が弱くておとなしいことから頭痛もちのことまでききだしてもってこいのお友達だと思ったのである。

ある日伯母さんは私をおぶってお国さんたちの遊んでいる門内のあき地へつれてゆき
「ええお子だに遊んだってちょうだいも」
といいながらいやがる私をそこへおろした。みんなはちょっとしらけてみえたがじきにまた元気よく遊びはじめた。私はそのひはお目見えだけにし、伯母さんの袂につかまって暫くそれを眺めて帰った。

その翌日もつれてゆかれた。そんなにして三日四日たつうちにお互いにいくらかお馴染みがついて、むこうでなにかおかしいことがあって笑ったりすればこちらもちょいと笑顔をみせるようになった。

お国さんたちはいつも蓮華の花ひらいたをやっている。伯母さんはそれから家で根気よくその謡(うた)を教えて下稽古をやらせ、それが立派にできるようになってからある日また私をお向こうの門内へつれていった。そうしていじけるのを無理やりにお国さんの隣へわりこませたが意気地の無い二人はきまりわるがって手を出さないので、伯母さんはなにかと上手に騙しながら二人の手をひきよせて手のひらをかさね、指をまげさせて上からきゅっと握ってようやく手をつながした。
これまでついぞ人に手なぞとられたことのない私はなんだか怖いような気がして、それに伯母さんに逃げられやしないかという心配もあるし、伯母さんのほうばかり見ていた。〟

 


「かごめかごめ」はしたことがあるように思います。
蓮華の花ひらいた、は聞いた覚えがありますが、遊んだか否か微妙でした。

かすりの着物にへこ帯であろう子供たちの様子は愛らしく映ります。
門内:もんない、と読むのでしょうか、具体的な意味が分かりませんでした。いわゆる町内でしょうか。
夏目漱石から「子供の世界の描写としては未曾有」と絶賛され東京朝日新聞に連載された「銀の匙」
大人には特別な出来事が起きるわけではありませんが、繊細な主人公にとって毎日は事件でした。

押しつけがましく致しまして申し分けありません。

嵐の海の絵 東北大震災のエネルギー。

2020年3月7日(土曜日)

走ればすぐ海へ出る所で育ったので、季節ごとに何かと海へ行った。冬の最中に海辺の砂丘でスキーをした。荒波が打ち付ける波打ち際の砂の上まで滑るのである。
そんな訳で荒海のドラマチックな景観も好きで、先日も写真をのせさせて頂いた
先週末にかけて荒れたため飽きもせず近隣の海を写してきた。

 

爆弾低気圧と伝えられた日の四ツ屋浜。

 

漁港の防波堤と波。
どんなに激しく何年打ちつけても、小さな漁港の防波堤だがびくともしない。

もうじき3月11日、東北大震災の日がくる。
ちょうど新潟市の知足美術館で拙個展の最中。弟はじめ三つの親族が南三陸町と仙台に住んでいた。すぐに個展などは上の空になったことが昨日のように蘇る。

大震災の津波は1回で、あまたの港の防波堤をことごとく破壊した。その力は広島型原爆のほぼ3万個分のエネルギーだったという。上掲の堤防などは砂を盛った如くあっさり潰されたに違い無い。普段地下のプレートが如何に強大な力を我慢しあっているかも知らされた。

加えるに原発4基の破壊と爆発。東北を越えた未曾有の災禍に広がった
日頃自分一人生きるのも大変な人生を生きている。だが時に立ち止まり、このような災害と事故を自分のことのように置き換えて振り返ることには非常に意味があると思う。

さて冒頭で爆弾低気圧の漁港を取り上げたが、美術の分野には海洋芸術あるいは海洋画というものがある。
陽光を湛えた穏やかな海を描いたものが多い中で、以下のように嵐も少なくない。

 

ウイリアム・ターナーの「嵐の中のオランダ船」

 

レンブラント(レンブラント・ファン・レイン)の「ガリラヤの海の嵐」

 

イヴァン・アイヴァゾフスキー「第九の波濤」

海にまつわる説話や聖書の逸話など古くから海は多く描かれている。わけても嵐の海は風波や雲の観察、光の効果、波乱を支える構図の安定感、さらに物語の構成など素晴らしい。

日本画の激しい波浪といえば、何と言っても葛飾北斎と曽我蕭白であろう。機会にめぐまれたなら勉強をして、取り挙げてみたいと思います。

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