ベン・シャーンで一部盛り上がっていました。

2020年8月7日(金曜日)

6月16日~7月29日まで新潟市美術館で開催された「ベン・シャーン展」。
貴重な展覧会は、診療を休んでもと考えたが、どうしても行けなかった。
幸い親しいT氏は2回もご覧になり、後日図録を下さり、素晴らしさをお聴きした。

7才でリトアニアから父とともに米国へ移民したシャーンの作品には、一種民族の香りがするヒューマニティあふれるのを感じた。

図録の表紙「8人の乳をしぼるメイドたち」

絵画とともに多くのポスター、イラストなどのグラフィックアートが載っている。目を引くのは多様な表情をした線で、鮮やかにモチーフの「らしさ」が簡潔かつ十分に描かれる。
人の何倍もトレーニングを積み、自在な表現を可能にしたにちがいない。
政治や社会の残酷な側面を告発し、一方街中や著名な人物、風景、静物に暖かな眼差しを送っている。色彩画にみられる美しく澄んだ色も素晴らしかった。
出品は丸沼芸術の森からということ、所有者の幸福を想い、社会への貢献に深く敬意を覚えた。

 

さて、小学校を卒業するころの1954年3月1日、北太平洋マーシャル群島で米国の水爆実験が行われた。いわゆる「ビキニ水爆実験」である。危険水域外でマグロ漁船が空から降る濃厚な放射性物質、死の灰を浴び、23人の乗組員は早くから被爆障害を発症した。
船は「第五福竜丸」。
懸命な治療の甲斐無く亡くなられたのは通信長・久保山愛吉さんだった。
入学したばかりの中学校でも第五福竜丸事件と久保山さんらの容態は、逐一話題になった。原爆よりはるかに強力な水爆というものが登場したこと。被爆すると間もなく食事が食べられなくなり、吐き気下痢を生じ、皮膚のただれが起こり、衰弱感とともに次第に髪の毛が抜け落ちる放射線障害の恐ろしさを知った。

帰国後、国を挙げての治療は困難を極め、逐一ニュースとなり、ご家族のことも報じられ、中学生になったばかりの私たちははらはらした。
久保山さんは半年後に亡くなり、伝えられる氏の言葉「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい」には大きな無念がこもっている。

第五福竜丸事件を書いた絵本「ここが家だ」
絵:ベン・シャーン 構成・文アーサー・ビナード

文中から
「久保山さんのことを、わすれない」と
ひとびとは いった。
けれと わすれるのを じっと
まっている ひとたちもいる。

ひとびとは 原水爆を
なくそうと 動き出した。
けれど あたらしい 原水爆を
つくって いつかつかおうと
かんがえる ひとたちもいる。
実験は その後 千回も
2千回も くりかえされている。

 

話変わって、熱心な地域活動をされ、時折樹下美術館を訪ねて来られる方が、
昨年春、〝私はベン・シャーンが好きです。彼の展覧会で「ラッキー・ドラゴン(第五福竜丸)の作品を観てショックを受け、以来美術に興味を持ちました〟と仰った。
樹下美術館の図書にベン・シャーンは無く、今冬上掲の本と、以下の2011年12月~2013年7月まで全国4カ所を巡回した展覧会図録を購入した。

 

 

261ページの図録
「ベンシャーン クロスメディア・アーティスト」
-写真、絵画、グラフィック・アート-

新鮮で明解、明晰なベン・シャーンは多くの芸術家に影響を与えました。
氏の絵は見やすく簡潔でとても親しめます。

上記三冊ともカフェの図書に置きたいところですが、コロナを恐れ、図書閲覧を中断していますので、とても残念です。
図書閲覧が危険とは、コロナウイルスの残酷な一面ですね。

本日は降ったり止んだり、気温も下がり梅雨に戻ったような一日でした。
そんな日にご来館された皆様、有り難うございました。

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