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倉石氏の挿絵の本に「誰が風を見たでしょう」の歌があった。 

2020年2月20日(木曜日)

昨日は倉石隆の挿絵本のことに触れ、「玉川こども・きょういく百科」の「ちきゅう」に描かれた氏の挿絵を紹介させて頂きました。描かれている幼いこどもたちの情景を見るにつけ、日常の種々(くさぐさ)から開放され、童心に返って筆を走らせる倉石氏が浮かびました。

ところで、その本を見ながらあるページで手が止まりました。そこに懐かしい歌が書かれていたのです。

 

「だれが かぜをみたでしょう」のページ。

〝だれが かぜをみたでしょう
僕もあなたも みやしない
けれど 木の葉をふるわせて
かぜは とおりぬけていく

だれが かぜをみたでしょう
あなたも僕も みやしない
けれど 木立が あたまをさげて
かぜはとおりすぎていく〟

覚えたのは多分小学校時代。学校で、姉から、レコードから?どうやって覚えたのか思い出せない。
しかしメロディーと、うろ覚えの歌詞はいつの日からか、不意に口を突く。
だれにもそんな歌があるのではないだろうか。

 


「風」
(題が風とは知りませんでした)

本を見て、さらにYouTubeで見て、やはり歌は存在したのだ、と一種デジャブに似た感覚をおぼえた。
原題「Wind」 訳詩・西条八十 作曲:草川信  大正10年(1921年)発表
作詞のクリスティナ・ロゼッティは進んだ人だったらしい。
草川信は長野県出身、「夕焼け小焼け」「揺りかごの唄」 などを作曲している。

良い歌だと思う。

在宅医療は大事業 ヴァレンタインのプレゼント ジョージ・シアリング。

2020年2月10日(月曜日)

月1出向いている百才が近いおばあさんは、通い始めてから4,5年は経つ。
促されてベッドで目を開けると一瞬笑顔風な表情になるが、すぐに眠ってしまう。これまで骨折をしたり、執拗な呼吸器疾患や皮膚疾患、時に裂傷を負ったりして何度も病院へ行った。介護者にとって、寝たきりの方を病院に連れて行くのはその都度大変だった。

毎夜二時三時にもオムツを替える介護者の娘さんは、表向きには文句を仰るが、強い愛情をもって接しているのが分かる。
在宅医療というと場合によって美しく聞こえなくもない。しかし癌の方や長い要介護4,5レベルの方を看るのは、一種戦争のようでもあり、ご本人も寝ているだけではなく傷だらけになって戦っている戦士のように見えてくる。
概して在宅医療は一大事業だ。

本日の訪問で、おばあちゃんからです、と言ってお宅からヴァレンタインのプレゼントを頂いた。

 

介護者が作っているルッコラ。それにチョコレート。

 

今夜サラダになったルッコラ。

 


ジョージ・シアリングのマイファニー・ヴァレンタイン。
若かりし時代にラジオからよく聞こえたシアリングは幼くして視力を失ったピアニストで作曲家。
アメリカで活躍したが、晩年母国イギリスから大英帝国勲章を授与された。
1950年代であろう録音はモノラル。以前も書いたがモノラルのピアノは残響が少なく音がコロコロと丸く可愛く聞こえ、私は嫌いではない。

ここへ来て寒さが強まり、冬が意地をみせている。
今日も寒かった。

寒波を免れている マンハッタン ・トランスファーの「SNOWFALL」。

2020年2月9日(日曜日)

先週からぐっと寒くなり何度か雪が降った。
難渋する程度ではなく数㎝の積雪だったが今期はじめて雪景色だった。そういえば今年は「寒気」という言葉を聞くが「寒波」は耳にしていない。
調べると、著しく冷たい気塊(空気のかたまり)でも一両日で去るものは寒気、広範に亘り3日以上居座るものを寒波と呼ぶらしい。

今年は寒さが来ても短期間で去って行くのが続いている、ということになる。今の所豪雪という災害的な気象から免れているのでやはり助かる。

 

昨夕、上越市大潟区の蜘蛛ケ池湖畔。

 

昨夕の大潟区蜘ケ池は瑞天寺の方向の眺め。

 


マンハッタン・ トランスファーの「スノーフォール」。
四人のコーラスグループ、マンハッタン・ トランスファーは何度もグラミー賞に輝いている。
しんしんと雪の降るさま、あるいは降り止んだ雪晴れの感じがよく現れていると思う。

誕生日。

2020年2月1日(土曜日)

昨夜半12時過ぎて寝る仕度をしていると元気なトーンで、○○才おめでとう、という妻の声。
本人は祝っているつもりであろうが、私としては何か良くないことを宣告されているようで、例年なんとも言えない気持ち。

いよいよ今年、父親が生きた年令を歩むことになった。
父も私も同じ誕生日なので、時々互いの年令を重ねて何とはなしの思いを巡らせてきた。

以下いつものことで申し分けありません、妻が用意した精一杯の夕食です。

 

 

 

1月生まれは目出度い、3月生まれはもう春、その間で2月はブルブルと寒い。それで2月生まれの人に会うと寒い月に生まれましたね、と言ってシンパシーを覚える。

今年も出来るだけ健康に気を付けて、自分の事は15パーセントくらい、皆様のことを85パーセントくらい考え、また頑張ってみたい。

 


昭和54年の早春に初めて聴いた曲。
皆様のためなどと言いながら、誕生日祝いに好きなアルビノーニのオーボエ協奏曲のうちの1曲からアレグロのパートを掲載してみました。

二つのOn the Sunny Side of the Street(明るい表通りで)。

2020年1月29日(水曜日)

雪はいずれは降る、という思いは外れ、間もなく2月になる。
降るのは雨ばかりで釈然としない。

そんな日頃、「On the Sunny Side of the Street(明るい表通りで)」を掲載してみました。

 


気持ちが良い戸外でセッション。ギターしかり、歌もベースも上手いと思いました。

 

この古い曲は非常に多くのミュージシャンによって取り上げられています。木陰の演奏はとても素敵ですが、ホワイトハウスで演奏するというのも珍しいのではないでしょうか。

以下はその演奏、1984年生まれのエスペランサ・スポルディングが大統領の前で歌う「On the Sunny Side of the Street」です。


2016年、国の創作活動祝賀イベントのような場所の演奏。
〝ジャズはアメリカのクラシック音楽。ブルースは南部の田舎から生まれ、ジャズは都会的でクールな音楽になった〟というようなことを最初に述べている。
自信に満ちた表現とテクニック、圧倒的なエンディングが素晴らしい。
ちなみに彼女は2009年、オバマ大統領のノーベル平和賞受賞の際も面前で演奏している。

奨学金で学び既に三度のグラミー賞に輝いているという。
「演奏には責任を自覚している」
「常に自分自身への問いを繰り返してきた」
過去のインタヴューではこのような主旨を述べ、含蓄ある言葉だと思った。

冬晴れの野尻湖 中勘助の詩碑。

2020年1月26日(日曜日)

日中よく晴れた本日日曜日、午前8時半過ぎに家を出て野尻湖へ行った。なぜ野尻湖かというと、確固たる理由もないが、昨年12月から読み始めた中勘助の小説「銀の匙」が野尻湖で書かれた事を知った事があった。
作年12月に一度野尻湖行きを試みたが、途中寄り道して失敗、その日は断念していた。あれから一月余り、雪は無く本日の空は快晴、冬の野尻湖は如何ばかりかと車を駆った次第。

 

野尻湖近くの広い駐車場。昔ここに学校があった。

柏原駅からオレンジ色の川中島バスに乗ると、ここにあったグラウンドが終点だった。いつも泊まった藤屋旅館まで歩いて2,3分の懐かしい所なので寄り道した。
(調べましたところ、現在は信濃町公民館の野尻湖支館ということです)

たまたま寄ったにも拘わらず、一角になんとまあ中勘助の立派な詩碑があり、驚きかつ嬉しかった。「銀の匙」は興味深く、既に二回読了し三回目を読み始めた所。すっかり虜になってしまい、この先ずっと愛読しようと決めている本。
その著者に対して、野尻湖の人びとは碑をこしらえ顕彰していることに感動した。

 

 「ほほじろの聲」という詩が刻まれている。

「銀の匙」前篇は明治44年と45年の夏に、野尻湖にある枇杷島の神社に籠もって執筆されている。小説は明治中期に於ける繊細多感な幼少から思春期にいたる私的な生活史の形で著されている。

弱くて驚くほど繊細なこどもとして、特に伯母の庇護のもと大切に育てられる主人公。明治中期頃の子どもの世界が何ともあどけなく美しく展開する。
雨が降っているだけで、あるいは海の波音を聞くだけで悲しくなって泣くような、主人公のあまりのこまやかさ。これは普通の子では無い、もしかしたらまれに見る美少年だったのではないか、と確かな理由もなく想像した。

成長するに従い背が伸び、抜きんでて強くなるのだが、スマートで外国人のようになった、という話がある。老年の写真などは俳優を思わせる渋さが垣間見られている。

大人も放っとかない美しいこども、、、(本人はただの一言も言わないのだが)。静かで敏感なうえ黙っていてもモテた男性を一人二人知っている。だが不思議な事に彼らの奥底は悲しげで孤独そうに見えるのである。
氏の本はまだ「銀の匙」一冊だが、読みながらこの人はそのような人間の極みだったのではないか、と感じている次第。

野尻湖の詩文も寂しい内容で、中氏らしくて良かった。

 

中氏と「銀の匙」と野尻湖のことが書かれている。
碑は昭和48年、公民館完成を記念して建立されたという。

詩は野尻湖の執筆後、十数年経って再訪した時のもの。ホホジロの声を聴くと昔が懐かしい。過去も今もこの先もまた自分は一人、ずっと一人のままであろう、というようなことが謳われている。短い詩の中で、ひとりという文言が四回も続いて現れる。

湖畔に向かった。

当時の面影はないが、本日の藤屋旅館。
松の木は往時のままのような気がする。すぐ前が湖と桟橋。

 

藤屋さん前の桟橋で。昭和24年の私たち(右端が小2の私)。

藤屋さんに一泊し、信州味噌の味噌汁に野沢菜漬けとワカサギのテンプラを食べた。ここで出される家と違う食べもがとても楽しみだった。
湖でボートを漕いだり、あるじのモーターボートに乗せてもらったりして帰る。1年に一回、高校生のころまで野尻湖行きが続いた。

小学時代、皆で柏原駅まで歩いたことがあった。道すがらある看板を見た姉が
「あっ、この家〝王子売ります〟って書いてある」と言った。
玉子が王子と書かれていたのだ。
私は何とかそれが分かったので、一生懸命笑った。

 

本日の黒姫山。

 

お目当ての妙高山。

 

長野県の人は黒姫を背負った野尻湖と言い、新潟県の人は妙高を背負った野尻湖という。気持ちは良く分かり、野尻湖はまれに見る風光明媚な所だと思う。

中勘助が訪れた明治末の野尻湖は訪ねる人も無かったらしい。中氏は一種放浪の途中でやって来て気に入り、島に籠もって本を仕上げたという。

※書き始めは日曜日でしたが、終了が日付けをまたいでいました。
申し分けありません、文面上日曜日掲載と致しましたので御了承下さい。

雪の無い冬 柏崎の原惣右衛門工房と刈羽の吉田隆介氏の花入れ 良い作品と作者。

2020年1月22日(水曜日)

1月の下旬になったもののさっぱり雪が降らない、一体どうしたことだろう。
雪がないのは当地だけではなく全国的な現象らしい。80、90才の人に訊いても、こんなのは初めてだと仰る。
在宅訪問や往診は楽だが、何か騙されている気がしてしっくりしない。

 

本日午後の樹下美術館。休館が申しわけ無い眺め。

さて1月上旬に二回柏崎刈羽に行き、天神様めぐりをした。行程で鋳物の原惣右衞門工房と陶芸家・吉田隆介宅を訪ねて天神様飾りを楽しんだ。
そのおり作品を拝見したがいずれも魅力的だった。その中から以下の作品を購入させて貰った。

 

原惣右衞門工房の鋭い四角錐の鋳物花入れ。
長くこの手の花入れを探していた。
ざっくりした風合いが何とも言えず、一輪の花と大変相性が良い。

 

陶芸家吉田隆介氏のうねりをもって尖った花入れ。
赤く散らした斑点が楽しく、サザンカや冬枝と映え合っている。
ヒマワリやダリアなど大きな花も受つけそうだ。

いずれも偉ぶらず、周囲を和ませ相手を生かす作品であり、案の定花をいれると良い風情を醸し出した。

私の拙い経験から、作家と作品について以下のように思うことがある。
〝およそ良い作品を作る人は偉ぶらず、人を幸福にしようと一生懸命だ。良くない作品の人は偉そうにしたがり、作品よりも自分が前に出てどこか品が無い〟
作品と人柄は互いに似ている。

ところで今年の樹下美術館は毎月第四日曜日に、隣の家の四畳半の間でお茶のお点前をして皆様に呈茶のサービスを予定しています。
1回8名様まで、午後2席を考えているところです。宜しかったらお気軽にお立ち寄り下さい。本日掲載しました花入れも掛けたいと思っている次第です。

実業之日本社の創業者増田義一のパネル展を観てきた。

2020年1月20日(月曜日)

昨日一昨日と書かせて頂いた「下北半島の風」はネット検索で探した本でした。
著者は上越市出身の第三回芥川賞作家・小田嶽夫、挿絵の倉石隆は上越市出身で樹下美術館の常設展示作家でした。さらに届いて初めて実業之日本社発行だと知りました。

 

下北半島の釜臥山(かまぶせやま)が描かれた本の裏表紙。

ところで本が届いた後、実業之日本社の創業者増田義一は上越市板倉区出身で、現在上越市ミュゼ雪小町で氏の生誕150年パネル展示会が行われていることを知ります。みな上越市出身者の本、そしてパネル展。四つもラッキーが重なり、さっそく19日日曜日に増田義一展を観に行きました。

以下当日の飛ばし飛ばしの概要です。

 

会場の案内パネル。

 

静かな会場でゆっくり観ることが出来た。

誠実で勤勉な人柄からのこと、会社設立のいきさつ、関わった人々、家族などが詳しく紹介されていた。

1869年(明治2月年)10月21日生まれの増田義一は、幼少から親が心配するほど勉強が好きだった。12才!で糸魚川市内の小学校で代用教員になるも、若くして両親を亡くし苦学する。20才で髙田新聞社に勤めると政治に関心をもち立憲改進党に入党。

髙田新聞の勤めを終え上京し、東京専門学校(現早稲田大学)に入り、大隈重信の門下生となったことから人生が大きく開けていく。学校卒業後、読売新聞社に入社、この間、髙田早苗、渋沢栄一、岩崎弥太郎など著名な政財界人の知己と信用を得る。

明治30年、読売新聞時代に参画した大日本実業学会を実業之日本社とし、その主宰となる。〝実業〟という言葉の斬新な概念は人々に受け入れられ、出版の工夫と相俟って読者は拡大する。

 

当時神とまで呼ばれた国際的な思想家・新渡戸稲造を顧問に迎えた増田義一。

大隈、渋沢、岩崎ら財界の要人の寄稿は多大な力があった。さらに書店に対し委託返品制度を導入し、売れ残りの節約に貢献、発行部数は飛躍した。また地方の青年を対象に新たな意識と道を開くため、書籍による通信講座を開設。

 

堅い書物のほか、女性と青少年に向けた雑誌「婦人世界」「日本少年」は人気となった。

 

1915年(大正5年)4月の雑誌「日本少年」
大正ロマンの気風によって繊細な少年が描かれている。

実業家であるとともに清廉潔白な政治家として衆議院に8回当選し衆議院副議長も果たしている。

 

家族とともに。
こどもたちには主体性を重んじ平和な家庭を築いていた。

1946年(昭和21年)45年間の社長生活にピリオドを打ち、1949年79才で亡くなった。平成になり社名は「実業之日本社」から「実業の日本社」になり、生活向け、青少年向けにも注力し今日に到っている。

このたびの「下北半島の風」は創作少年少女小説シリーズであり、巻末に以下に要約した出版主旨が記されていた。
〝優れた文学作品は、たった一つの生涯の生き方を考えさせ、人の成長に役立つ。過去の名作に加え、現在活躍している作家の優れた作品も取り上げて届けたい〟

函付きのハードカバー「下北半島の風」は品物としても良い本でした。

 

展示を見終えてロビーに出ると図書のコーナー。

2017年11月に樹下美術館が発行した「樹下美術館の倉石隆」と「樹下美術館の齋藤三郎」が並んでいた。日焼けもせずに頑張っているのを見て有り難いと思った。
貴重な展示を有り難うございました。撮影OKと言うことも助かりました。

 

 本日午後の在宅回りのお宅で黄色の花を見た。蝋梅(ロウバイ)だった。

 

本日は大寒。
甘い匂いを振りまく花に、無理にでも春と言ってみたくなった。

「下北半島の風」 著者,挿画家,出版者みな上越出身者の本その2。

2020年1月18日(土曜日)
昨日「下北半島の風」の前半を記載しました。
会津戦争に負け、故郷を離れた武士の子と兄弟たちが辿った厳しい運命。敗残と新時代、身分を失い不安定な一家は二つの荒波に翻弄されます。もみくちゃにされながら学問を諦めない五郎と苦労を重ねる兄たちでした。

さて続きです。
〝もう一人の兄五三郎が生活に加わったものの、下北の開墾は困難を極めた。五三郎の計らいで、五郎は近隣で学問所を開いている人の許へ通うことになった。
時は明治4年、7月に廃藩置県が発布され、下北の藩領は新たな青森県に組み入れられた。現地に在位していた藩主は華族として東京へ去り、主従の心情を失った会津の人々は心の拠り所を失う。

 

せっかく友達になった友人から、自分は会津に帰ると打ち明けられる。
廃藩置県後人々はぞくぞく会津に帰郷しはじめる。

開墾地にまた冬が来る。
とどまった四人にふとんは無く、夜はゴザとムシロにくるまって寝た。五郎の勉強通いは続いたが、裸足なので凍る道の苦痛に耐えかね、途中で農家に助けを求めることもあった。だが履き物を貸してくれる人も、それを買う金も無かった。ワラ仕事に専念する家族の中で、辛抱強い太一郎の兄嫁の存在だけが一筋のともしびに感じられた。

ある日五三郎兄が、五郎のために学問修業が出来る県庁の給仕職を探してくる。一同は泣いて喜び、精一杯身仕度を整えると、わずかな餞別を懐に五郎は勇躍青森へと発った。

県庁で骨身を削って働く五郎。仕事ぶりは認められ、大参事(県知事?)の家の書生になった。給与が貰える生活で五郎の向学心はますますつのった。

 

ある日ドイツの軍艦が青森に寄港した。
歓迎会と見学会でドイツの軍人と親しくなった五郎は密航を思いつく。
だが決行を前に軍艦は出港してしまう。

またある日、地租改正のため中央から役人の一行が来県した。五郎はその要人に同行のうえ上京したいと願い出る。東京の引受人などを訊かれると、一行と縁もゆかりもない14才の少年は同行を許された。
青森の後、盛岡、福島の調査を経て一行は東京を目指す。その間の五郎は随行の書記について学習する。

3ヶ月後東京の土を踏む五郎。一回目の東京は捕虜として、今は学問をするために来たのだった。わずかの間に街の様子は一変していた。

紹介先の書生として令嬢の人力車に付き、走ってお伴する五郎。
しかし東京といえども満足できる勉強機会になかなか恵まれない。

ある日保証人になってやるから、後に陸軍幼年学校となる初年生募集の試験を受けてみないか、と勧める人がいた。武士の子なら良いではないか、という言葉に五郎は喜んで受験する。初めての制度のため合否発表は伸びた。

 

合格発表を待つ間、保釈が決定した兄太一郎と二年振りに再会する。
厳しい運命を越え兄弟はみな無事であることが確かめられる。

太一郎兄は他人の罪を自ら背負い、最後の判決を待つことになっていた。兄が身を寄せる家のあるじも同藩人だった。楽では無い暮らしぶりに、五郎はあらためて会津出身者の苦労を知る。

時は正月、世話になっている家の事情で拠り所を失った五郎は宛を探して東京を歩き回る。頼みにしたかっての名家で、五郎が有するわずかな金銭を担保にかろうじて居場所が確保された。頼られる人も苦しかったのだ。

試験結果はなかなか知らされない。
居場所を探す五郎のまぶたに浮かんだ下北半島の釜臥山(かまぶせやま)。
苦しい生活の中で見た山と桃の花が思い出され、帰りたいと五郎は思った。

居場所を探し歩いた冬が終わった三月末、ついに試験結果が通知された。
合格。十数名の入学者なのかで、数え年15才の五郎が最も若かった。

辛酸の日々を支えた青森県庁の要人や東京へ同行を許した役人、なにより父、兄たちから歓声が上がった。自害した母と姉妹たちが見たらどんなに喜んだことだう。

世話になった人に挨拶する五郎。

学校の先生は全てフランス人で授業はフランス語、食事は洋食だった。勉学と練兵に必死で付いていく五郎。強い誇りに苦労し、失いつつあった人間の誇りに気づかされ、入学時にビリだった成績が徐々に上がっていった。

数年のうちにフランス式の学業教練はドイツ人を交えた日本中心の内容に変わっていく。

 

幕末からくすぶっていた征韓論が次第に大きな議論となった。征韓論は抑えられ、その先頭に立たされた西郷隆盛が下野すると薩摩出身の政府要人たちが従い、地元の旧藩士とともに熊本城に攻め入り、ついに西南戦争が起った。

この戦のため、学校の士官学生は見習士官として大阪、名古屋、東京の守護に当ったが、いたずらに動揺することは厳しく禁じられた。
だが兄の四郎は故郷会津を攻めた薩摩を討つと言って討伐隊に加わり、刑期を終えていた一太郎兄も薩摩への恨みを口にした。明治9年のことだった。

五郎より上の士官学生の一部が九州へ行き、幼年兵も勇み立つ。一方出兵で士官学生が減ると幼年学校からの進級試験が行われ五郎は合格した。

 

征韓論で西郷と対立した薩摩出身の内務郷・大久保利通が、
征韓主義者の一派によって暗殺される。

五郎には、かって自分たちの故郷を蹂躙した薩摩を見返そうとする兄たちの気持ちが理解できた。しかし現実には、新体制のもとで上下なく接する薩摩・土佐の優れた人たちがいることを評価していた〟

物語の主な部分はここで終わります。著者は添え書きとして以下のことを記していました。
その後の五郎は明治33年に中佐として北京の公使館付武官となります。任務中、中国人による義和団事件が起こりました。中国を租借していたドイツ、ロシア、フランス、イギリスなど外国を排斥し武力攻撃する事件です。
12カ国が集まる公使館区域は激しい攻撃の的になり、当然日本も対象です。五郎は冷静に振る舞い、長く中国人に親しみ心情を理解していた五郎は事件の解決に努力します。沈着な五郎のリードもあり混迷した事件が解決すると、諸国から感謝称賛されました。

五郎の姓は柴。大正8年に柴五郎は大将になっています。
兄四郎はサンフランシスコ商業学校からフィラデルフィア大学に進み、帰国すると農商務大臣秘書官を経て衆議院議員になりました。
兄太一郎の経歴に下北郡長の記載がありました。

最後の最後、長兄太一郎の一行に涙がこぼれました。辛かった下北半島に帰ったのですね。
なんと立派な人でしょう、これは一方で太一郎の物語かもしれないと思いました。
五三郎は郷里に帰り父と暮らし、「辰のまぼろし」を著しました。
場面の情感が豊かに表現された香り高い倉石隆の版画による挿絵は効果的で印象に残りました。

さて昨夜午前0時近く、救急車が必要な往診をしましたが、本日は何も無く、一歩も外出をしていません。これから歯磨き粉(チューブ)を買いに行こうと思います。

「下北半島の風」,著者・挿画家・出版者みな上越市出身者の本その1。

2020年1月17日(金曜日)

樹下美術館は倉石隆の絵画と齋藤三郎の陶芸作品の展示施設です。乏しい予算の中から、何とか一点でも優れた作品を加えたいといつも考えています。

齋藤三郎はかなり多作でしたので、ポツりポツリと入りますが、倉石隆氏は中々集まりません。そんななか過去に、どうぞ、と申され、思ってもみない良い作品をお寄せ頂く方がありました。本当に助かり有り難く思いました。

お二人の作品をネットでも探しますが、希にオークションや古書検索で見つかることがありますので、この方面も続けている次第です。
先日のこと偶々1972年(昭和47年)5月5日実業之日本社発行の本「下北半島の風」が手に入りました。
幸運な事に作者は小田嶽夫、挿絵が倉石隆で、発行者は実業之日本社ではありませんか。いずれも上越市出身者で、こんなに嬉しいことはありません。

現在上越市では実業之日本社社長、増田義一氏に関するパネル展が催されていています。昨日休診の午後、つぶさに観てきました。本日は「下北半島の風」から倉石隆氏の挿絵をピックアップし、拙いあらすじを交えて以下ご紹介をこころみました。

 

「下北半島の風」表紙
1972年5月5日 実業之日本社発行

主人公は実在の人物で、会津藩の要職・柴佐多蔵の末っ子の五男・五郎。五郎には5人の兄弟と6人の姉妹がいました。物語は薩摩・土佐主力の新政府軍が若松城下に迫る会津戦争前夜から始まります。

新政府軍に迫られ緊張が高まる中、勇み立つ10才の五郎。

 

正装して家を後にする五郎。

白虎隊の年令に達していない五郎は小刀を差して正装させられると、大叔父がいる遠方に預けられる。見送った母、姉妹たちとは永遠の別れになるとも知らず出発する五郎。行った先は避難する人でごった返していた。

五郎が去った後容赦ない攻撃に晒された会津の城下は火に包まれ、明治元年9月22日降伏開城した。20名の白虎隊は飯盛山で悲壮な最期を遂げる。

 

五郎を預かった大叔父から、残った母と姉妹すべてが自害しことが告げられる。
武家の子弟なら潔く諦めろと諭されるが、五郎は気を失う。
さらに捕縛を逃れるため髪を落とし、百姓の姿になるように言われる。

 

五郎の夢枕に立った母。

まだ一帯に危険があるため大叔父の家を出て、兄と従者でさらに山から山へ野宿同然の逃避が続き、季節は冬に向かった。

 

病身を押して出兵した四郎兄がある日突然現れる。

四郎は生きながらえ、家族の安否の確認に寄ったのだ。うす着の五郎を見てこれを着るよう、四郎は白無垢を差し出す。四郎出兵に際し母が持たせたものだった。

 何かと親族を頼る暮らしとなり、山の物を採って路上で売る五郎。
通りで出合った四郎兄に武士の子らしくない、とたしなめる。
五郎が本当にしたかったことはただ一つ、勉強だった。

 

東京へ向かう負傷者たちの行列。

明治2年、新政府の方針で会津藩士は捕虜として東京か越後髙田藩へ護送され、謹慎生活を送ることになる。戦で足を負傷している者太一郎兄の看護人として五郎は江戸行きに加わる。梅雨の中、100人余りの一行は10日ほどで東京に到着し、幕府の食料庫で土間暮らしが始った。
東京滞在中、五郎の向学心を知っている太一郎は修学先を探すが、先々でおよそ下男扱いをされ、時には見世者の辱めを受ける。

時は新体制への移行期、藩として消滅した会津は政府から示めされた下北半島を領地とする道を選ぶ。但し各自ほかへの分散も許可されていた。
太一郎兄と父は下北半島へ移り住むことに決め、他の兄弟を残して海路品川沖から発った。

 

下北に到着した五郎達が見た海を渡るムクドリの群。
下北半島に上陸後、商家や寺の世話になりながら移動する生活を送る。
この行程中兄が結婚し、辛抱強い兄嫁はその後の生活で大切な人となった。

目的地の田名部で畳も便所もない家の生活が待っていた。しかも一帯の食糧難解決を担わされた兄が預かり金の持ち逃げに遭い、自ら罪を背負って囚われの身となってしまう。五郎ら残された三人で、北国の飢えと寒さに直面する。

 

凍った川から交替をしながら水を担ぐ。
配給の玄米が絶えると海藻やワラビの根、さらに雑草で飢えを凌いだ。
漁師が見殺しにした犬を食べ、死人をを出さずにかろうじて冬を越えた。

 一家三人は開墾のためさらに雑木林の原野へと移動した。ワラとムシロを敷いた小屋では川を風呂替わりにした。
春を迎え、開墾地の桃の花はきれいだった。配給されたスキやクワはワラビ採りに役立ったものの、肝心の作物は採れず、海藻の粥が続き、たまに他家から貰うヒエ粥がご馳走だった。

 

少々長くなりましたので、次回に続きを掲載させて頂きます。

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