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素晴らしいアールデコ様式 かつての昭和大学病院

2011年12月17日(土曜日)

以下は私の母校・昭和大学の旧病院正面玄関からの写真です。昨年度版の同窓会名簿の表紙を飾っていました。このたびたまたまの用事で名簿を手にとって少々びっくりしました。

 

昭和大学病院の旧玄関から
後方に新棟、手前は建て替えによって無くなった旧昭和大学病院。
(品川区旗の台)

あらためて建物を見れば素晴らしいアールデコ様式だったのです。最後に見たのはいつだったか忘れましたが、当時の自分には建築様式のことなど全く頭にありませんでした。

強調された幾何学的な直線、屋上の円のしつらえ、見事なシンメトリー。100点満点のアールデコでした。今あれば走って見に行きたい気持ちがします。

創立10周年を記念して、昭和13年(1939年)5月に竣工した病棟です。内部の壁面にイタリア製の大理石をふんだんに使い、エアシューターも完備されて「東洋一の病院」と言われた堂々たる建物でした。

昭和40年代、私は写真右手の二階にあった内科で8年の医局生活を送りました。後年アールデコの虜になったのも、この建物が心に染みこんでいたのかもしれません。当病院で学べたことを幸せに思っています。

画家篠崎正喜さんから

2011年12月2日(金曜日)

画家篠崎正喜さんからメールが来ていた。今夏亡くなった拙生の母のこと、昨年亡くされたご自分のお母様のことが書かれていた。

 

氏は都会の親子暮らしの中で、多くの病を越えられた97才のお母さまを在宅で看取られている。

 

最後に以下の文面があった。 

当初の嵐のような喪失感は薄れ、
今は深々と冷える、厳冬のような寂しさです。
人は自分のためには生きられない。
人は誰かのために生きている。
つくづく、そう感じています。

今までは母のために頑張って来ましたが、
これからは広く社会のために生きよう、と思っています。
今、人生を集大成する作品シリーズに取りかかっています。

 

M_夜明けのダンス
添付にあった篠崎正喜作:夜明けのダンス、クリックして見てください。
あるクライアントの依頼で描かれた若き日のお母さまのイメージ絵。
いつもながら美しい色彩。タッチが少し変わったようにも思われるが
それがまた楽しい。

 篠崎正喜さんのホームページから 美しいピクチャーブックと興味深いブログが見られます。    

 

そして本日氏からピエール・マルコリーニのチョコレートが届いた。

 

ボックス

お洒落な黒いボックス。

チョコレート
なんとも魅惑的。

非常に楽しいアンコール。

2011年11月30日(水曜日)

秋最後の日は雨模様。季節風を免れている分、静かだった。これから木枯らしが吹き雪国の本番が始まるのだろう

ご存じの方も多いと思いますが、冬を前に明るく楽しい演奏をユーチューブから取らせていただいた。


ラベルの組曲やチャイコフスキーの交響曲など演奏後のアンコール。
レナード・バーンスタイン作曲/ウエスト・サイド・ストーリーより「Mambo」。
ヒナステラ作曲/バレエ組曲「エスタンシア」から終曲の踊り。

 

演奏はグスターボ・ドゥダメル指揮シモン・ボリバル・ユース・ オーケストラ・オブ・ベネズエラ。。

ベネズエラに当オーケストラが生まれるに至った青少年育成プロジェクト「エル・システマ」。その過程はますます世界の希望に繋がるかも知れない。

 

指揮者のグスターボ・ドゥダメルもエル・システマで育った。2004年のバンベルグにおける第1回グスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで優勝して以来、国際的な舞台で活躍(2007/ヴァチカン ローマ教皇ベネディクト16世80歳記念コンサートのドヴォルザーク。2010/ベルリンフィル、ジルヴェスター・コンサートなど)。

ところで本日、月刊されている新潟県医師会報が届きました。樹下美術館が表紙を飾っていました。とても感激し、投稿者のU先生には感謝でいっぱいです。明日写真を載せたいと思います。

高尾と月影 そして雅楽

2011年11月24日(木曜日)

20年近く前に旧牧村(現上越市牧区)の診療所へお茶に呼ばれた。山中にかかるお宅で、自然を大切に暮らされるご夫婦のお話を聞き、奥様から茶のお点前を受けた。

 

その帰り道、山道を走ろうということになった。道すがら風情ある二つの地名に出会った。一つは「高尾」もう一つは「月影」だった。

 

高尾といえば江戸吉原で代々継がれた名だたる花魁・太夫の名であり、落語でも知られる。江戸中期、高尾太夫は遊蕩の姫路藩主・榊原政岑(まさみね)に身請けされる。しかし破天荒な政岑は幕府から隠居を命じられ息子の政永が家督を継ぐ。同時に親子はともども越後髙田藩への転封を命ぜられるのだった。

 

江戸吉原から温暖な姫路へ、さらに雪の越後へ。高尾たちは髙田で飢饉や大地震の洗礼も受けたというが、政岑は発起し開墾や産業振興に尽くしたらしい。後年夫に先立たれると高尾は江戸へ戻って出家したという。

 

さて牧村山中の高尾は小高くやや開けた所にあった。もしかしたら美しい側室はかってここへ月でも見に来たのか。高尾の余りの美しさに、まさか人々は地名まで変えてしまったのではあるまい。脇へ入ると小さな学校跡に可愛いグラウンドがぽつんと残されていた。高尾は良い地名だった。

 

月影雅楽月影雅楽(新潟県内各地の伝統芸能より)
 子どもならではの演奏と感動

 

山道を浦川原に向かって下る途中、右手の窪地に小さな学校(跡?)があった。校札は「月影小学校」。優雅な名に驚いた。この山中に月影とは?いいしれぬ旅情に包まれた。

 

何年か経って、浦川原村岩室の高台にある芸術家村のような一角で催しがあった。戸外にフランスパンを使った軽くてお洒落な食べ物が用意されていた。一帯から遠く日本海が眺められ、東京の建築家や芸術家たちの別荘・仕事場があった。

 

その日、烏帽子と伝統装束に身を包み、雅楽を演奏したのは月影小学校の児童たちだった。月影に子どもの雅楽!おごそかさと晴れやかさ、思いつけもない鄙の品格に打たれた。一体何がどうなっているのか分からなかったが、感動して涙が止まらなかった。

 

今後上越市は新たに舞も加えて月影雅楽をいっそう丁重に保護すべきだろう。このほか地域で子どもたちがかかわる伝統芸能や行事などもしっかり選んで保護してもらいたい。地域おこしなどではなく上越市の品格のために。

 

本日手にした月刊JACK LANDに月影雅楽が出ていた。月影小学校の廃校によって大人中心になったようだが、是非とも子供たちを沢山入れてもらいたい。月影雅楽の神髄は子どもたちの晴れやかな純粋さであり、それが感動を誘うにちがいない。

旧友と食べ、そして観た週末

2011年11月20日(日曜日)

昨日午後上京し二組の同級生夫婦と会って食事をし、翌日は11時からゴヤ展を見た。学生時代と医局時代をともにし、毎年一度こんなことをするようになって10数年が経った。

 

食事をした店でアンドリュー・ワイエスの絵に出会うとは(ワイエスの画集は樹下美術館のカフェに出ています)。

 

おごると言ってkが10分近くソムリエとやりとりしてワインを選んだ。その味わいは初冬の蘆原の香りがする詩的な一本だった。

 

 厚岸(あっけし)の牡蛎は抜群で、肉や果物もよく選ばれていた。親の介護、自分たちの健康、昔話などをぐるぐる回しあい、3時間はやはりあっという間だった。

 

1ウエイティングルームの本ウエイティングルームの本:死ぬ前に飲むべき1001のワイン。 

2ワイエス
アンドリュー・ワイエスの絵

3クリストフルのカトラリー滑らからなクリストフルのカトラリー

4チケット
「ゴヤ 光と影」展 チケット

 

ゴヤ(フランシスコ・デ・ゴヤ)展は賑わった。お目当てはカラフルな着衣のマハだが、素描と版画の小品によるモノクロがむしろ強烈な印象だった。これら100点近い作品には、人の欲望や戦争の際限ない愚かさと残虐さが徹底して描かれていた。痛烈な批判は、彼が最初の近代の画家と呼ばれる所以にちがいない。

 

 5図録
何とも愛らしい図録表紙(着衣のマハも選べるがこちらにした)
スペイン王子フランシスコ・デ・パウラ・アントニオの肖像

 当肖像画の王子はあまりにも魅力的で、悲しいほどなのです。

 

 

 6コースター
日本食堂のコースター
汗ばむ午後、東京駅構内で小さな椅子に座ってアイスコーヒーを飲んだ。

北野美術館 栗の木美術館 リンゴ

2011年11月3日(木曜日)

昨日の婚礼後、紅葉の軽井沢で一泊した。本日は午前中に長野市の北野美術館を見て、午後小布施へ行った。

  

秋を謳う展
 初めて訪ねた長野市の北野美術館は北野建設・北野家父子二代のコレクションを展示する財団法人格の美術館。大きな展示スペースが五室ある本格館で、「秋を謳う」展を行っていた。川端龍子、川合玉堂、片岡球子ら日本画巨匠たちの大作が最初に待っていた。

 

洋画も充実していた。穏やかなユトリロ、マリー・ローランサンのホワイト、ルノワールの意外に薄いマチエールなどなど、とても惹かれた。江戸時代の風俗を描いたチャールズ・ワーグマンとはかつて「逝きし世の面影」の参考図で出会ったことを思いだした。

 

日本人の洋画では、藤島武二、小山敬三、岸田劉生はさすがだった。木村荘八の気分に癒され、糸園和三郎の「かたぐるまの父と子」に父親の孤独を感じた。

 

彫刻では池田カオルの少女を包む穏やかな空気、朝倉響子と佐藤忠良の帽子は魅力的だった。

 

長野県は日本有数の美術館県だ。当館は私立としてそのさきがけとなり、シーンをリードした大きな功績を有している。
紹介文の一節「私的なコレクションは公的なそれに比すればはるかに自由と柔軟性をもっている」は、小館ながら樹下美術館の日頃と通底していると感じた。

 

小布施では町を散策後「栗の木美術館」に入った。心なごむ作品が展示され、桜井甘精堂本店の奥にあった。ここで寺田政明の三作品を見ることが出来て嬉しかった。氏の作品は小気味よく、少々疲れた心身は休まった。
作者は俳優寺田農さんの父で、樹下美術館の作家・倉石隆らとともに主体美術協会を創始されている。
小ぶりな美術館だったが、アプローチたる独特の庭は絶妙で、変化を漂わせながらしっとりとした空間を作っていた。驚いたことに入場無料だった。

 

混雑する小布施の町で遅い昼食に美味しい雑穀カレーをいただいた。例によって妻だけビール(地ビール)を旨そうに飲んだ。おみやげのリンゴは味、見た目とも素晴らしかった。

 

リンゴの木
手入れの良い広大なリンゴ畑は完熟のいい匂い。もいで食べたい衝動に駆られる。

 

小布施町は何故いつもこんなに人を集めるのだろう。

引き継がれる先人の文化?お金の使い方が上手?
農を生かし切る?高い地域個性と個人意識?
善光寺や周辺の温泉との行き交い?

秋晴れの秀麗 柏崎市のお茶 新潟市の驚くべき展覧会

2011年10月29日(土曜日)

二日続きの秋晴れの一日だった。週末の午後、柏崎市の木村茶道美術館へ寄って新潟市の會津八一記念館へ行った。柏崎市では最初に懐かしいヨットハーバーへも寄った。

 

 1ヨット
柏崎市沖合のクルーザー。秋風を受けて近づいて来た。

同市は昔からヨットが盛んだ。ハーバーでは7割がた陸揚げされていたが、懐かしい「ミス日本海」号はまだポンツーン(係留のための共有通路・桟橋)に居た。大きかった同ヨットはその昔、ナホトカ市への友好航海やハワイへの遠征を行って有名だった。およそ4年間、当時皆さんにはレースなどでお世話になった。

お目当ての一つ木村茶道美術館は昭和62年春、茶道を始めるきっかけとなった所。ヨットを終えてからだったが、以来何度通ったか分からない。
初めての人もお菓子をいただき文化財級のお茶碗で抹茶が飲める。掛け軸、香合、棗(なつめ)、茶杓、風炉・窯、棚飾り、みな文句なしの文化財。私の茶碗は御本刷毛目(ごほんはけめ)、大振りで明るく、うっとりするような器だった。
妻は秋らしい趣の絵唐津の筒茶碗で、初めてというご一緒したお二人も備前や灰釉の名碗だった。

茶室のある松雲山荘の四季も道具類に負けずご馳走だ。なかでも間もなく錦となる紅葉はかってニュースステーションで中継されている。

ここでは未経験者でも気楽にお手前のもてなしを受け、御抹茶が楽しめるのでお勧めしたい。

2刈り込み
松雲山荘:ドウダンツツジの刈り込み。
この数百メートルも真っ赤になる。

 

4リーフレット
驚嘆の展覧会リーフレット

3茶箱
茶室の棚飾りは竹籠。
古い唐物(からもの:中国の伝来品)

 

5會津八一記念館
展覧会場・會津八一記念館

本日のお目当て「北大路魯山人VS會津八一」はまれに見る充実の展覧会だった。サブタイトルは“傲岸不遜の芸術家”とあった。思い切ったキャッチ、しかし傲岸に秘められた限りない美意識と探求、ナイーブな精神は天からの贈り物だと思わずにはいられなかった。

単に贈り物と言っても、本人達は血のにじむ思いで制作と格闘したことだろう。しかしその結果が私たちへの贈り物(あるいはもてなし)ともなっているのだ。

二人の共通項は先ず時代と書、なにより強烈な個性(自我)ではないだろうか(巨躯とユーモアも)。両者の特異として魯山人は美食の具現と陶芸、八一は短歌と美術史でそれぞれ巨峰をなした。
お互いは同時代にも拘わらず、意識しあっても決して交わることは無かったという。つきつめた個性とはそのようなものかもしれない。

さて八一は新潟県の人であるが、魯山人と新潟県の関係も新鮮で興味深かった。その一つ貴人、良寛への熱中が示されていた。新潟県の文化人達へ良寛を所望する痛々しいばかりの手紙などに陶酔ぶりが伺われる。
糸魚川の歌人相馬御風や柏崎市のコレクター吉田正太郎との交流等々、同県人として誇りを禁じ得ない。

拙樹下美術館の人間として印象に残ったのは八一が揮毫し、齋藤三郎が形成・焼成した抹茶茶碗だった。蝋で書かれた力強い文字、染め付け(藍色)の色合い、寸法、、、。二人の天賦と努力が一点に注がれた夢のようなお茶碗だった。

會津八一の没後55年となる当館の今年度特別展。希な芸術家の篆刻、書画、手紙、器、看板、写真等々が二度と見られないであろう切実さと品格をもって心に迫った。本日は全てを見たとは言い難い日程だった。11月30日までなので願わくば何度も見たい。

同催事は新潟県民の誇りを確認させてくれる異例のものではないだろうか。是非沢山の方に見ていただきたいと思った。

 

6ディスプレイ

 懐かしいイタリア軒のラウンジで見たディスプレー

すっかり暮れてイタリア軒で食事をして帰った。夏来体調が良くなかった妻は快気のビール。運転の私は食べるだけ、美味しそうなお酒の色合いを鑑賞させてもらった。

何度か書き直しをしました。

司修氏講演会

昨日10月23日のギャラリー沙蔵

2011年10月24日(月曜日)

昨日午後、長岡市ギャラリー沙蔵へ展示を見に行った。展示作品は売れ始めていたが私のいもけんぴはまだ買い手を待っていた。26日が最終日、嫁ぎ先はきまるのかな?

ギャラリー沙蔵よく磨かれた入り口のガラスドアに沙蔵と書かれている。
近くにあったオーナー家の蔵を、けん引の大作業をして移されたという。

 館内
館内は小品ながら力作がびっしり、二階にもいっぱい。
96人の作家と180点を越す作品は表現の自由を喜び、
さらに開かれる社会を一心に願っているようでした。

いもけんぴ
小生のいもけんぴ、8000円は高いかな。 
作品は半額が、絵葉書は全額が地震支援のチャリティにされます。

絵はがき
10枚持ち込んだ花の水彩絵葉書は残り三枚になっていました。
5歳になるギャラリーオーナーのお嬢ちゃんが右のを一枚買ってくださった、と。

お嬢ちゃん、ありがとうございました。

 

新潟県長岡市 二つのイベント

2011年10月21日(金曜日)

午後休診日の昨日、二つの用件で長岡市へ行った。一つは本日から26日までギャラリー沙蔵で開かれる「アート&アーティストの底力」長岡展に向け拙作品の搬入。もう一つは長岡市立中央図書館で30日まで開催されている「長岡ゆかりの詩人 堀口大學 生誕120年展」を見るためだった。

 

初めてのギャラリー沙蔵は駅前・大手通りを進んだ市の中心部、分かり易くて助かった。展覧会は県内外から100名近い作家が出展し、小品ながら一人3点までなので膨大だ。事務局の堀川さんたちが懸命に展示作業をされていた。モダンな作品の中で私の「いもけんぴ」は明治時代の油絵のようだった。 

 

作品をお願いして堀口大學展の中央図書館へ向かった。
堀口大學は上越にもゆかりがある。
明治25年(1982年)東京本郷で生まれた氏は、2才から17才まで父・九萬一(くまいち)の故郷長岡市で育っている。外交官・九満一は東京帝大を出て第一回外交官試験に合格する異才で、母・政は大學三才の時に結核で夭折した。

 

慶應義塾へ入学した大學は吉井勇の短歌に打たれ、与謝野鉄幹、晶子の門下となり、友・佐藤春夫を得る。吉井勇への傾倒は生涯続いた二日酔い、と述べられている。 

 

図書館とポプラ美しいポプラ並木がある中央図書館(右手建物)

 

2中央図書館正面
堀口大學の大きな写真が飾られた
会場
4鉛筆
筆記用具を忘れたら
鉛筆を貸していただいた
3階段
会場の二階へ続く階段は
タイトルシールが貼られている
5米百俵号
さすが長岡市
移動図書館は米百俵号

 

●堀口大學生誕120年展は素晴らしかった。父九萬一の明治人としての気骨と教養は並外れている。魂の外交官が生涯を通して行った「疲れを知らない読書」は印象的だった。

 

大學のこまやかな感受性が、長岡市周辺の豊かな自然と雪国の生活実感から出発していることを知った。またそのみなもとの一つは母への思慕であり、幼少で失った母の面影のことは胸に迫る。病室の窓ぎわに佇む横顔は花火の明かりに照らされたものだった、と。

 

戦前戦後のおよそ6年間に居住した妙高市と上越市における生活も濱谷浩氏の写真とともに詳しく紹介されていた。貧しい時代の中でも詩集は刊行されており、敗戦によって国と人が洗われていること、深く戦争を憎む心が伝わる。
和20年1月、戦禍を避けて夫人の実家である現妙高市(旧名香山村)関川へ移住、同21年11月から同25年6月まで現上越市(旧高田市)南城町に居住。

 

なかほどに、上越市西城町のT氏宅に4人の文学者が集い揮毫した木製の茶入れ(箱筒状のもの)が展示されていた。小田嶽夫は薫風と書き、堀口大學が花を描き龍瓜の文字を、坪田譲治は名園荘別天地、松岡譲は融雪煎香茗と記していた。
話に聞いた茶入れだったが突然現物に出会って胸躍った。ありし日の高田は大変なことになっていた事をあらためて知らされた。

 

三島由紀夫ほか多くの著名人をファンにもっていた大學。美しい装丁が施された著書の数々が展示されていた。それぞれの表紙にルビー、紫水晶、ヒスイ、猫目石などがはめ込まれた限定本の豪華さに驚かされた。

 

筆記用具を忘れたため受付で来館者向けの鉛筆を貸して頂いた。ボールペンは作品を汚す危惧があるため、鉛筆にしているということだった。こまやかな配慮だった。

 

最後に読みやすいパネルの詩のコーナーを出ると、階下のロビーに子どもたちの詩が展示されていた。堀口大學詩賞の受賞作品で小学生の作品がとても良かった。「言葉は浅く 意は深く」、大學が語った言葉を思った。

 

樹下美術館は昨年、今年と堀口大學のご長女・すみれ子さんの講演会を致しました。来秋もまた予定しています。
樹下美術館が収蔵する戦後妙高・上越時代に発行された詩集です

堀口大学詩集
左から山嶺の気:昭和21年11月30日発行 冬心抄:昭和22年1月21日発行
人間の歌:昭和22年5月5日発行 雪国にて:昭和22年7月7日発行 あまい囁き:昭和22年5月10日発行

 

●堀口大學の会場を後にして再びギャラリー沙蔵に寄ると展示準備が終わったところ。事務局の労を執られている堀川さんはじめ舟見さん前山さん、オーナーさんほかの皆様、遅くまで本当にお疲れ様でした。

6ギャラリー沙蔵にて
大震災支援チャリティと「無謀の無い豊かな国」を願うアーティスト達の思いをお汲みください。
同展は今後新潟市、上越市の開催が予定されています。

 

7暮れる長岡市おそばを食べて帰った。小嶋屋さんの駐車場から見えた夕焼け。

 

「アート&アーティストの底力」長岡展 

「堀口大學 生誕120年展」

 

長々と書きましたので日をまたいでしまいました。
心ひらかれた秋の午後でした。

賞品の財布 「いもけんぴ」の終了

2011年10月16日(日曜日)

日中は強い風が吹いた日曜日、ゴルフコンペに出た。今年三回目のゴルフは、わずか二組の小さなコンペ。それが年一回、18年間続いている。

 

ダブルペリアのハンディは制限無しの優しさ。今年の優勝者は44,4のハンディがついて腕時計の賞品だった。小生は55-53で四位、二つ折りの財布をもらった。20年間使った財布を今日で止め、賞品を使うことにした。ほかに大波、ニアピンの賞をもらって上出来だった。実は私が主催するささやかなコンペの話でした。

 

財布
 

さて当ノートに何度か出させていただいた「いもけんぴ」。今夜加筆、サインをして終了としました。用意した額に入れて記念写真をとりました。
SMサイズの小品ですが、30数年ぶりの油絵の完成でした。植物画の精密水彩をしていたことや、年を取ったことで昔よりも上手く描けたような気がしました。

 

9月上旬からはじめて一ヶ月半、憧れの油絵を描くことは苦労もありましたが、総じて楽しく描けて幸せでした。

 

いもけんぴ 

作品は20日に長岡市のギャラリー沙蔵さんへ搬入、震災復興支援のチャリティにする予定です。売れればお別れです。

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