樹下だより

小室等&佐久間順平コンサートまであと一月をきりました。

2011年5月20日(金曜日)

 小室さんコンサートお知らせ

 

来る6月16日に樹下美術館で行われる小室等&佐久間順平コンサートまでひと月を切りました。お陰様でお申込みが予定の60席になりました。

しかしまだご希望が寄せられていますので、予定ホールの陳列ケースを整理して会場を少し広くすることにしました。そのことであと10席ほど余裕ができました。

 

ご希望の方は樹下美術館 025-530-4155 宛おどうぞ電話をください。

5月25日、お陰様で満席になってしまいました。大変申し分けなく存じます。

 

 

フォークの大御所、小室さんの心あふれる歌声、佐久間さんはギターのほかマンドリンやバイオリンを携えるかもしれません。

 

逝きし世の面影 買い直しました

2011年5月16日(月曜日)

さる5月12日のノートで本「逝きし世の面影」を紹介させていただきました。その本は樹下美術館のカフェにありますが、私が読んだもののため、書き込みや線引きが沢山されていました。

 

それで新たに図書用に取り寄せました。奥付には2011年1月21日、初版第23刷とありました。小生のが2007年で14刷でしたので、その後4年間で9刷を重ねたことになります。2005年が初版ですから今もって続く人気に驚かされます。早速明日カフェに置かせていただきます。

 

逝きし世の面影 
著者渡辺京二 (株)平凡社 2011年1月21日 初版第23刷 1900円

 

●しばしば触れられるこどもについての記述を少し拾ってみました。

“私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい”

 

その子どもたちもある年になると急に大人になる。“十歳から十二歳位の子どもでも、まるで成人した大人のように賢明かつ落着いた態度をとる”とも書かれます。

 

●風景について江戸の庭、各地の街道や田園の美しについても賞賛される。街道の並木は「日本の道は何と夢のようだろう」と言わしめ、郊外の風景に「至る所に農家、 村、寺院があり、また至る所に豊かな水と耕地がある、、、作地は花壇のように手入れされ、雑草は一本もみることができない」と述べられる。植生については「植物相は無限なほど形態が豊富」と記された。

 

●芸術(工芸・調度?)では、
“日本の職人は本能的に美意識を強く持っているので、金銭的に儲かろうが関係なく、彼らの手から作り出されるものはみな美しいのです”
“ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権にすぎない。ところが日本では、芸術は万人の所有物なのです” 

 

●女性について、造形的な美しさよりも以下のような美点がばしば述べられます。

“彼女たちは陽気で、純朴にしてお淑やか、生まれつき気品にあふれている”

 

※さて、賞賛の嵐の感なきにしもあらずですが、多くの著者が共通して記述していることをいくつか挙げました。江戸時代は過去の過酷な戦乱を懸命に吟味克服して完成させた特異な時代だったのかしれません。これが封建社会なのかと、欧米人が驚くほど、人びとはのびのびとした生活感を漂わせていたようです。

 

真相はと考えたくなりますし、藩が負うノルマ、度重なる飢饉、年貢の過酷さなどは否めないことでしょう。しかし本書の記載はいずれも先人たちの一面を描写したものとしてやはり興味深く思われます。何かと昔のことばかりで申し分けなく思います。

カフェの本「逝きし世の面影」 パラダイムシフトの2

2011年5月12日(木曜日)

本日、樹下美術館のホームページでカフェにある本の紹介記事を更新しました。

 

そのことに関連して、去る5月10日の当ノートで不遜を顧みず「フォルテシモな豚飼い」を紹介させていただきました。今日は「逝きし世の面影」にさせて頂きます。

 

この本については2007年のある日、翌年から始まるメタボ健診に向けて上越医師会で行われたY教授の講演会で知りました。

 

名指しで体重管理を疾病予防の門戸に位置づけた新たな健診制度。それは、禁煙の普及とともに生活重視の医療へと一段と舵が切られた重要な節目ではなかったでしょうか。

 

その日、講演者は冒頭でパラダイムシフトの概念と共に本書を紹介しました。短い紹介でしたが大変気になってすぐに注文をしました。

 

本 
 
逝きし世の面影 著者:渡辺京二 発行:株式会社平凡社 2007年 初版第14冊

 

 さて紹介です。鎖国の江戸時代にあっても外交・通商・医療などで次々と外国人が日本を訪れている。彼らによって多くの日記や旅行記、手紙類が残された。本書では、それらを克明に読み江戸中期~幕末、明治初期までの日本人とその生活、町や村落の風景に関する記述がすみずみまで紹介されている。

 

内容は極めて多岐かつ詳細だ。当時、経済は豊かでなくとも貧困や悲惨はなく、人々は丁寧で人なつこかった。大人はこよなく子どもを愛し、楽しむことを忘れず、何事も創意工夫がなされていた。女性は屈託なく、働く男たちの体は引き締まっている。制度の要にいる武士たちは勤勉で良い趣味を持ち、上級武士の幼い娘などには驚くほどの威厳が見られた。

 

風景では、地方の農漁村や港はかって見たことがないほど美しく、それは人々の振る舞いとともにまるで「おとぎの国」のようだった、という。はじめは戸惑う外国人でも日本の随所に惹かれ、この国を愛おしむようになる様子も大変興味深い。

 

時代はついに明治を向かえる。その日を体験した外国人も多い。彼らは嵐のように進行する富国強兵と殖産振興のありさまを目の当たりにする。そして急速に出現する富裕と貧困を悲しみ、西洋化によって喪失されるかつての美しい文明を一様に惜しむのだった。

 

これらは私たちの同胞でなく欧米の、おしなべて公的な知識人たちの記述になる。一定のエキゾチズムや誇張はあろう。しかし詳細な内容によって異国の如き妄念にかすむ江戸時代が、胸が熱くなるほどのリアリティをもって迫る。

 

本書をお読みになった方は多分大勢いらっしゃることと思います。1998年に葦書房からハードカバーで出版され、事情によって2005年から平凡社のライブラリー文庫へと変遷した経緯があるようです。1999年に和辻史郎文化賞ということ、2007年にして14刷など、その人気ぶりが伺われます。

 

604ページですが、どこを読んでも興味尽きません。大震災以後、ある種パラダイムシフトが要請される機運の今日、再読したい一冊ではないでしょうか。

カフェの本「フォルテシモな豚飼い」と著者  パラダイムシフトの1

2011年5月10日(火曜日)

 樹下美術館のカフェに置かせて頂いている書物をホームページに『本」欄に紹介致してます。色々かまけているうちに、その後の更新を省略していました。間もなくまとめて25冊分を追加いたします。それに際しまして2冊ほど当ノートで紹介させていただきたいと思います。

 

まずは「フォルテシモな豚飼い」で、次は「逝きし世の面影」の予定です。特に今回は長々となり、申し分けありません、何しろ著者が著者なものですから。

 

フォルテシモな豚飼い 
フォルテシモな豚飼い
著者:杉田徹 
発行:(株)西田書店 2009年8月15日
 

 

著者は大学の理系を卒業すると東京写真専門学校に入学し時計を授与されて卒業する。報道写真家として活躍するうち、二つの問いに直面するようになる。一つは「人間としておのれの所以(ゆえん、存在意義)は何か」であり、もう一つは「自分が生きるための国の自然風土とは何なのか」であった。著者はその答えを知らずして人生はあり得ないと思い至る。

 

老人へのインタビュー、各地の農業体験、韓国訪問などを重ねた後、問いの新たな視点求めてスペインへとおもむく。妻子四人で辿り着いたのはアンダルシアの小都市であり、そこへ2年間身を投じる。

 

 新天地は太陽が疎まれるほど乾燥していた。いつしか育まれる幾多の知己、ともに寝泊まりして知る羊飼いの哲学、けがれなき友情と家庭の絶対価値。さらに「人生を楽しめない奴は馬鹿だ」とまで言い切る生活感が筆者を打つ。そして、彼らの奥底に潜む生を楽しむ主体である強固な“ガーナ”(譲れない自我の意志)に触れる。

 

二年間の生活は日本の風土的な湿潤を浮かび上がらせた。また自らの所以はそこから得られる楽しみ(自己実現)であろうことの理解に近づく。

 

 帰国後、著者が選んだ職業は養豚だった。手本は彼の地で目の当たりにした羊の放牧であり、特異な飼料は湿潤をヒントに研究された。

宮城県北部の南三陸町志津川の山中に場所を選び、家畜牧場「コルティッホ・ソーナイ」とし、家族4人によって新聞もテレビもない生活が始まる。仕事は軌道に乗るが拡張は控えられた。一家のつましい生計が立つだけの豚がいればいい、と割り切られて今日まで至る。

 

以上がこの少々風変わりな本のあらすじである。ところで、このたび一家は東北大震災に見舞われた。幸い家族と家と豚は残った。しかし著者は強いショックを受ける。命と国土が為政と原子力発電所によってあまりに軽んじられていたことを知ったからだろう。

 

著者は、この世の生を奇跡的な貴重として捉えているはず。小生なども多少の意識はあるが、凡庸として生活を連続させているだけだ。しかし著者は常に問いを連続させる。

問いは貴重な生の鏡に照らされる。絶え間ない問答によって新たなエッセンスが生み出されると、それに突き動かされることがあるのだろう。このたびの震災では一瞬にして答が放たれたフシがある。国への深い失望、一家は再び新たな天地を目指すとも伝えられる。

 

学校時代の著者は短距離の選手だった。何事も素早く執拗な彼は実は不肖私・樹下美術館館長の一つ下の弟です。たまたま彼は人知に恵まれました。「フォルテシモな豚飼い」のカバーに直木賞の井上荒野さんとフォークシンガーの小室等さんが推薦文を書いて下さいました。

また装丁家の桂川潤氏になる書物の顔は何とも微笑ましく思われます。さらに芥川賞の池澤夏樹氏には週間文春に好意的な書評まで頂きました。まったくもって身に余る光栄と言わねばなりません。

 

さて正直、彼も年です。今までのように痛々しく鏡に従って身を処することには無理があろかと想像されます。出来ればこれまでに頂いた皆様の理解に甘えて現在の仕事を続けてもらいたいと願われます。幸い彼の仕事に興味を持ち、挑戦しようとする若者も現れたと聞いています。また絶品といわれる肉の味は、他に代え難く本人の存在と渾然一体となっているにちがいありません。

当面の不便はやむを得ないことでしょう。せっかくの若者とともに、志津川の地において貴重な主旨を生かし続けて欲しい所です。

休日の樹下美術館でお番茶とカステラ

2011年5月8日(日曜日)

日曜日の午後、少しお客様の相手をさせていただいた。それから場内のカモグリの椅子に座ってお番茶を飲みカステラを食べて一息ついた。

番茶とカステラ 
 陶齋の湯呑でお番茶、お伴はカステラ。

見えている絵画ホールの倉石隆作品 
お茶を飲みながら倉石隆の絵を見る(眺めている)。

シーグラスチョーカー 
気候が良くなりましたので数少ない当館のグッズとして
オリジナル・シーグラスチョーカーの販売を再開致しました。

募金箱 
 震災への支援をお願いしている募金箱です。

 

昨日今日、柿崎区上下浜の二カ所でで鯉のぼりを見ました。
ほっとしました。

 

出会い 色絵木瓜文(ぼけもん)の器  

2011年5月1日(日曜日)

はや五月、古くから家にあった木瓜(ぼけ)は、いま濃く赤く咲いている。花の子房を取ると蜜が溜まっていて子どもの頃によく舐めた。

庭の木瓜
庭の木瓜

さて当館にある齋藤三郎(陶齋)の作品に木瓜の器が二つある。一つは壺(花瓶)でもう一つは灰皿だ。二つとも少々のストーリーを有しているので記してみたい。

木瓜の壺関西から来たやや小ぶりな色絵木瓜文花瓶(現在展示中です)

 昭和21年、新潟県栃尾(現長岡市)生まれの陶齋は戦地中国から復員した。落ち着いた先は高田市(現上越市)寺町だった。兄・泰全が寺町で久晶寺の住職となっていた。

18才からおよそ11年に及ぶ陶齋の若き日は、人間国宝となる近藤悠三と富本憲吉への師事、ほかサントリー創業者の窯における実践など修行は十分だった。

上越の陶齋は次第にファンを増やしていったが、昭和40年頃まで何度か大阪のデパートで展示販売を行っている。

2007年、樹下美術館が開館したある日、少しお世話になった京都の美術関連の営業マンが独立の挨拶をかねて訪ねて来られた。彼の得意は書画だったが、私はもっぱら関西にもあろうかという陶齋作品の話をした。熱心に館内を見た彼は、わかりました陶齋を探して見ましょう、と仰った。

それから3年余、「出ました」、と電話が掛かって来た。メールの写真で十分だった。送られた実物は真っ白な肌の余白を生かした上品な木瓜だった。

しっかり箱に入り、大切にされた姿で当地へ戻ったことになる。広い関西で陶齋に出会うのは容易ではなかろう。見つけて頂いたA氏の熱意に感謝し、これからも待ってみたいと思っている。

木瓜の灰皿 色絵木瓜文灰皿

次の灰皿は壺より前のこと、少々遠くの骨董店を訪ねて出会った。店先に「この家のものは全て売り物です」という張り紙があった。上がるといくつか陶齋の作品が出された。いずれも手元にあるものと類似していて、さほど新鮮味がなかった。

出ようかと言う頃、タバコを吸いたいのですが、灰皿ありますか、と尋ねた。当時私は喫煙をしていた。奥へ下がった亭主が手にして戻ったのが上掲の灰皿だった。清潔な地に赤々と描かれた木瓜、柔らかな全体、紛れもなく陶齋で、一目で惹かれた。

これ頂けませんか、と言うと、「うーん」と亭主がうなった。自ら気に入っていて出したくない風が伝わった。遠くから訪ねた私も欲しい。「店先に、この家のものは全て売り物です、と書いてありましたが」、と迫ってみた。

「ハアー、仕方ありません。しかし箱はありませんよ」と仰った。

構いません、箱など要らない、亡き父もそうだった。なにより木瓜は初めてで、署名も若い。新聞紙にくるまれた器を座席に座らせ上着をかぶせて帰ってきた。

幸運は何がきっかけになるか分からない。この時ばかりは百害のタバコが手引きとなった。

細く切り取られる四季

2011年4月29日(金曜日)

今日の祝日、さわやかな午後でした。展示が馴染み、庭は活発になろうとしています。

陶芸ホール 
樹下美術館は設計者大橋秀三氏によって外光もデザインされています。陶芸ホール正面はスリットが枠状に切られていて、季節の一こまが垣間見られます。今日午後は以下の状景が見られました。

 

左のスリット 
左のスリットから椿と春の水田
右のスリット
右からは山桜が。 
   

眼科受診 夕映えの山桜 四十九日

2011年4月28日(木曜日)

午後定期休診で、前回から一ヶ月が経ったので眼科の受診をした。

 

あれは小さな出血だったようです、血圧は高くないですか、と先生に聞かれた。はい、と答えたものの自信があるわけではなかった。

 

帰って測ってみると134-74、人のことは気になるがほとんど自分を構わない。 恥ずかしながらこれを機会に何年ぶりだろう、また点検をしてみよう。

 

ヤマザクラ夕映えに染まった樹下美術館の山桜 

 

寄った美術館で妻の知人にお会いした。しばし加わるとやはり震災の話になる。冷たい雨風が続いていたが、閉館の後カッパを着て草花を植えた。

 

人去りて後(のち)に見せたや夕映の色ぞ惜しけれ山桜花

 

終了するころに空が晴れて一瞬陽がさした。庭のヤマザクラが強く照った。きょうは震災四十九日だった。

経済支援と言って騒ぎ出すのもいいが、まだ悲しむ時でもあろう。
 

堀口すみれ子さんの講演会が終わって

2011年4月24日(日曜日)

  昨日午後の雨の中、遠路のお客様も見えて盛会のうちに堀口すみれ子さんの講演会が終わった。お話は素晴らしかった。

 

はじめに堀口大学と佐藤春夫の“一点の曇りなき友情”が語られた。門弟3000人の春男、対して孤高の大學。同じ慶応中退の二人は、対称性の引力もあって強い友情を育んでいた。

 

 ヒトリシズカ
講演の日の樹下美術館の庭、集って咲くヒトリシズカ

 

多くのエピソードの一つは、森鴎外作になる「永く相おもふ」「ゆめみるひと」が刻られた二つの陶印を巡る物語。もう一つは、藍で詩片を記し、互いに交換し所有された灰皿のこと。これらの逸話が当地で語られるのには訳があった。

 

陶印の一つを所有し他を探していた佐藤春夫は戦後の上越・高田の堀口大学邸を訪ねる。大學はたまたま春男が探していた「永く相おもふ」を所有していた。大學は春男に自分のものを譲る。また灰皿については、高田の齋藤三郎窯を訪ねた二人が三郎の形成した器に揮毫し、同所で焼成されたものだった。

 

(戦後の上越一帯は高田を中心に凄いことになっていたようである)

 

 二人と灰皿
談笑する堀口大学(左)と佐藤春夫(右)。
卓上にあるのは齋藤三郎窯で焼かれた灰皿。

 

講演のなかごろ、「詩は音楽のたぐい」と述べる大學のある作品がすみれ子さんによって朗読された。詩語は春光を反映する音楽となって館内に響いた。

 

さらに“分かち合え 譲り合え そして武器を捨てよ、、、”と続く「新春 人間へ」が読まれた。ベトナム戦争が深刻化する時期、核への危惧、人間のおごりをいさめる詩に拍手が起こった。

 

昭和25年以来、湘南における大學は水辺と浜辺、そして富士山を、とりわけその夕暮れを愛したという。
その大學が「苦労をかけたね、ありがとう」とやっとの思いで告げると、翌日すみれ子さんの腕の中で人生を閉じる。1981年3月15日、享年89才だった。

荻の島で 
残雪の荻の島で妻とすみれ子さん(右) 

一夜あけた今日、空は晴れ、樹下美術館のカフェですみれ子さんとお茶をご一緒した。午後から高柳の荻の島を訪ね、長岡駅で再会を約束してお別れした。

 

道中、いよいよのどかなヤマザクラが美しかった。 

明日は堀口すみれ子さんの講演会

2011年4月22日(金曜日)

明日は堀口すみれ子さんの講演会です。

 

堀口すみれ子さん 
 

遠く新潟市、長岡市、東京からもお客様が来られることになりました。樹下美術館の会場は小さくて、ご用意できた60席はすでに満席になり相済まなく存じます。

 

今回は昨年に続いて二度目のお話。前回は堀口大學の詩とともに、父・大學の生い立ち、痛々しいほどの子煩悩ぶり、最齋藤三郎はじめ上越高田との縁をお聴きしました。

 

大學は1950年(昭和25年)高田を離れて湘南・葉山をついの住処とします。このたびは大學が愛した葉山とは、そこでの生活とはをお聴きできることを楽しみにしたいと思います。どんな詩が披露されるのでしょうか。

 

堀口すみれ子さんのプロフィール】
・昭和20年(1945年)堀口大學の長女として疎開先の静岡県に生まれる。
・昭和21年秋、次の疎開地・現妙高市から現上越市に移り、昭和25年まで住まう。
・昭和42年(1967年)慶應義塾大学文学部卒業。
・著書に「虹の館 父・堀口大學の思い出」、詩集「風のあしおと」、「水辺の庭」、 編著に「堀口大學詩集 幸福のパン種」(いずれもかまくら春秋社)などがある。

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