樹下だより

美術館に文学

2009年6月17日(水曜日)

 今日昼、新潟からNHK文化センター「大きな旅、小さな旅の文学講座」の皆様が来館された。館長として少しお話させていただいた。とても熱心に聞かれ恥ずかしくもあり感激もした。あらためて美術と文学が、兄弟やそれ以上に近い実感がした。

 

 当館でいえば、陶齋の陶芸に散文的な詩情が、倉石の絵画には小説的な背景が漂うように。また昔から文士・文人はしばしば画をよくし、画家が文学賞をとることもあったりで。

 

 一行の講師(引率者)は文芸評論家で敬和学園大学教授の若月忠信さんだった。手元に氏の著書「文学の原風景」がある。同書で、倉石隆の絵画の同志、司修(つかさおさむ)氏の小説「紅水仙」の章を感慨をもって読んだことがあった。思いも掛けず今日は若月氏ご本人とお話できて光栄だった。

 

 バスを見送る時、美術館の庭にさーっと文学の風が立ったようで新鮮だった。

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楽しいゼミのようなカフェ。

 

カフェが一杯でデッキでお茶されたお二人。文学少女が香っていました。降らなくてよかったですね。

 

手元の「紅水仙」。主人公は、亡き母の謎を追って新潟県旧松代町へたどり着く。「文学の原風景」では若月氏が司氏の足跡をたどって松代を訪ねる。

「紅水仙」 著者:司修 発行所:(株)講談社 昭和62年4月20日第一刷発行

 

司修:第27回小学館児童出版文化賞(昭和53年/1978年)『はなのゆびわ』

    第20回川端康成文学賞(平成5年/1993年)「犬(影について、その一)」

    第48回毎日芸術賞(平成19年/2007年)「ブロンズの地中海」

美術館でトーストもライフスタイルに

2009年6月10日(水曜日)

 ちょうど二年前の6月10日、樹下美術館はスタートしました。親しみやすい倉石隆、齋藤三郎の二人の作家に恵まれて、穏やかな2年の歩みでした。

 歩みは多くの皆様に支えられました。お一人、お友達、カップル、ご家族とさまざまに訪れていただきました。リピートされる方が多いことも有り難く、大変勇気づけられました。

 

 開館以来、折々に新たな作品が現れて、図録制作が延び延びになっていました。今年中にぜひ完成させたいと思います。どうかご期待ください。

 

 お陰様で遠方の方も少しずつお見えになるようになりました。小ぶりな所ですが、手入れ怠りなく皆様をお迎えしたいと思います。

 

美術館でトーストもライフスタイルに。

今日から新潟県は梅雨入りということ、いかにもという空模様になりました。

皆様のお声

2009年6月8日(月曜日)

 館内のカフェを中心に何冊かのノートを置かせて頂いてます。皆様につれづれをお書き頂いていますが、俳句やイラスト、シリトリもあって和やかです。年に何回かに分けてまとめてホームページ「お声」に掲載させて頂いています。

 

 本日、今年3~5月分を掲載しました。お書き下さった皆様、まことに有り難うございました、励みになります。ささやかな美術館ですが、作品に庭にカフェに、思い思いに過ごして頂けて嬉しく思います。

 

お書きいただいているノート

 

   

楽しいイラストもあって心和みます。

右は野の花、左はしりとり。りんご、ごま、まくら、らくだ、ダックスフント、トナカイ、犬、ぬりかべ、、ベンチ、ちくわ、わに、にわとり、リング?、グリコ?
最後で詰まってしまいました。

齋藤さんと我が家 7 ならば私も

2009年6月6日(土曜日)

  昭和50年代後半、齋藤さんと父は次々とこの世を去った。二人が亡くなって、父の齋藤作品に対する夢中をよく思い出した。それは父の幸福であり、家族の幸福としても実感されたものだった。

 

 作品と作者双方への思い入れは作家・愛好者にとって最も望ましい関係だろう。父が齋藤さんと出会ったことは貴重なことだったと思う。

 

 絵でも陶芸でも、父のように夢中になれる作品や作家と巡り会ってみたい。自分なりの思いだった。暇をみて作品展や展示室を訪ね歩いた。しかし若き日に感触した齋藤作品以上の引力には中々出会えなかった。

 

 「ならば亡き齋藤さんの作品を集めてみよう」、ある日の単純な結論だった。平成になってしばらくして、上越市をはじめ新潟、長岡方面まで骨董屋さんを見に行くようになった。

父の形見分け。アミダくじ(父がこっそり用意していた)で当たった壺。

 

※今回、齋藤さんと我が家を終了するつもりでしたがまとまりませんでした。次回こそ「開館まで」を綴って終了したいと思います、申し分けありません。

展示中の倉石隆作品

2009年6月2日(火曜日)

【8月31日まで展示の倉石隆の作品です】

作品の一部をご紹介致します。   

                 

   

婦人像:倉石の挿絵本の一つに従姉妹ベット(河出書房新社・バルザック原作・佐藤朔/高山鉄男・訳)があります。当作品は挿絵の主人公を角度を変えて油彩にしたものと思われます。小品ですが情念を秘めた女性を赤で燃え上がるように描いています。油彩 50×36㎝  推定1970年代

 

   

馬上の人: 倉石は黒、黄色、各系のモノトーンでよく描きました。当作品では馬に乗った人物が荒涼とした坂を登っていきます。手前に決意の旗。馬にテンポがあり馬上の人(作者であろう)は勇躍前進を開始したようです。沸き立つ黄色がまぶしい。黄色は前進、上昇の色。油彩 65×80㎝ 1979年

 

画室:何度か訪ねた倉石氏のアトリエ。モデルを前にキャンバスはまだ白いままです。その形、大きさから、モデルも居るこの絵(画室)を描くところのようです。絵には逆算された時間と空間が描かれ、めまいでもしそうな次元感覚をおぼえます。

 

 さらに「画室」は画家の日常を、私たちと共有するよう意図されていたかもしれません。「さあ、どうぞ!」というような気持ちです。
全体に素朴で画家らしい作品だと思います。白いキャンバスは映画「田舎の日曜日」の最後のシーンでも見られました。

 

 「主人が描いているときはいつもゴシゴシ、ゴシゴシと画布をこする音が聞こえていました」、とは奥様の言葉です。「画室」もよくこすられ、重ねられた色が染みこみ、深い質感を伝えています。

 

 額縁は上越市大島画廊です。竿の長さがぎりぎり足りて上手く絵に合いました。油彩 100×100㎝ 1980年代

 

 

:氏の同様の「髪」はかって朝日新聞日曜版を飾りました。大きな眼に吸い込まれそうになります。髪と眼に女性の全体を表象させて描いています。ここでも華やかな色彩は省略されています。油彩 65×51㎝ 1982年

 

このほか
・黄昏のピエロ・人生・見つめる・北の山(妙高山)の油彩を架けています。カフェには油彩「魚」があります。

 

過去の掲載分はこちらで見られます
 

博物館協議会

2009年5月25日(月曜日)

 昨夕、北信越博物館協議会が上越市であった。仕事の都合などで残念ながら記念講演、シンポに参加できなかったが、夕刻からの情報交換会に出席できた。
協議会の協会は日本博物館協会の北信越支部にあたる。福井、石川、富山、長野、新潟の5県の博物館・美術館が加盟していて名簿に187施設が載っていた。

 

 当協会長の伊藤文吉氏(北方文化博物館館長)が挨拶された。文化施設を全うするということは「如何に皆さんに喜んでもらうか」であり、現実には「貯金が無くなることでもある」と強調された。身を投げる情熱と、もてなしの心のことだろう、と思った。先達の言葉として心強く、深く賛同出来た。

 

 日本の美術館は国の認めで約1800カ所。先進国では決して少ない方ではないようだ。国・地域の文化の質は、施設の内容や数とともにどれだけ多くの人が足を運ぶかが課題だといわれている。小館ならばこそエバグリーンを胸に歩んで行きたいと思った。

 

 

診療所の庭にもバラが咲き始めた

音楽の力,立花千春さん

2009年5月10日(日曜日)

 大潟区のコミュニティープラザで樹下美術館主催の音楽会が無事に終わった。まちづくり大潟と大潟音楽協会のご後援を得て良い音楽会になった。華麗なフルートの歌姫、立花千春さんには、豊かな音楽の力を会場一杯に満たして頂いた。渾身の演奏だった。ピアノ伴奏の宇枝優見さんもナイスコンビネーションだった。

 

ご来場頂いた皆様、演奏のお二人様、本当に有り難うございました。

 

 

 

   

齋藤さんと我が家 6 別れ

2009年4月18日(土曜日)

  前回の齋藤さん(陶齋)と我が家5で、父が齋藤さんの作品蒐集を急に止めてしまった所まで進んだ。父の陶齋熱は昭和23年頃から30年代後半までおよそ15年ほどだった。

 

 昭和50年6月、私は父の仕事を継ぐため帰郷した。すでに父にはパーキンソン病が進行していた。帰郷後、何度か齋藤さんの窯を見に行こうと父を誘った。しかし動作や言語などが乏しくなった父に色良い返事はなかった。それがある日、行ってみると言った。

 

 私にとって初めての齋藤さんの展示室は、民芸調で雅味溢れるものだった。長くお目にかからなかった齋藤さんにお年を感じた。齋藤さんも父の変貌を驚かれた事だろう。互いのあいさつの後、父はほとんど言葉もなく背を丸めて佇むだけだった。あれだけ夢中になった人の前なのに、、、。
「年を取ったら華やかな色が好きになりました」、と齋藤さんが話した。父が微かな笑みを返した。

 

 この日、私は牡丹が描かれた辰砂の偏壺を取らせてもらった。やっと父の真似ができて嬉しかった。帰りの車中父と壺を乗せて、父達に過ぎた時間のことをぼんやり考えていた。

 

 仕事に忙殺されて何年か経った。昭和56年7月、齋藤さんが亡くなった。そして翌年は父も。齋藤さん68才、父78だった。68才はいかにももったいない年だ。齋藤さんはみんなに愛されすぎた希な人だったと思う。

 

最後に陶齋に会った日の牡丹紋辰砂偏壺(ぼたんもんしんしゃへんこ)

 今回、樹下美術館の開館まで行くつもりでしたが、うまく出来ませんでした。次回はすんな終わりたいと思います

お茶碗そして上越の雪月花

2009年4月10日(金曜日)

 本日午後、貴重な抹茶茶碗に出会えた。齋藤三郎の高田における若い時代の作品である。弥彦神社の宝物・大鉄鉢(重文)をならって作られた器、と古い包みに書かれている。やや小ぶりで素直な姿。黒と茶に意図された鉄釉が絶妙な案配に焼成されている。

 

 わざわざ遠方から運んで下さった方は、戦後上越で堀口大学、濱谷浩、小田嶽夫、市川信次氏らを身近にして育たれた。茶碗は当時の文化の賑わいから自然に生み出されたであろう何とも言えない品格を漂わせている。

 

 皆様にお見せして、という言葉が有り難く、今秋にはぜひ展示したい。

 

 さて昨夜は14夜で、今夜は15夜満月。お天気に恵まれ高田城趾の桜も一段と冴えていたにちがいない。冬から春へ巡る上越の雪月花、、、。

 

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使用感

2009年4月3日(金曜日)

 4月1日から陶芸ホールは齋藤三郎の食器を展示しています。18のケースに130点ほどの器でかなり賑やかになりました。ケースによっては茶碗屋さんの雰囲気です。

 

 昨日お会いしたお客様が、ジョッキが良かったと仰いました。ジョッキのどこが良かったのでしょう、とお尋ねしますと「使用感が」というお答。

 

 なるほど、展示作品はきれいばかりが良いのではないのですね。特に食器では使用された事が見どころの一つ、と改めて知らされました。ちゃんと生きたことの勲章?でしょうか。

 

 展示のうちほかに使用感が多く見られるのは、急須と湯飲みです。家では欠けた陶齋の器をよくセメダインで接着して使いました。見えるかどうか、欠けやヒビ、茶渋で感じが出ているものを並べて撮ってみました。
来年は開館満三年となります。記念行事として、カフェでコーヒーなどの後に、宜しければ陶齋の湯飲みでお番茶をお出ししてみたいと考えています(こちらはなるべくきれいなもので)。

 

 人間も長い間、自らを使ったり使われたりして傷つき汚れもします。年を経てそれらが魅力や味になるならばいいですね。 


鉄絵の陶器ジョッキ(マグカップ)、名脇役でした。 


湯飲み:痛々しいほど使い込まれたものもあります。 


パーツが面倒な急須。磁器も陶器も陶齋は飽かず作り、そして使われました。

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