樹下だより

カフェでお抹茶

2009年10月22日(木曜日)

  山、雲、里に秋のたけなわです。

 樹下美術館のカフェでは、前々からお抹茶のメニューを考えていました。このたび支度が出来ましたので11月からお出し出来るようになりました。

 

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御菓子付き500円です、どうかお楽しみ下さい。

お声と庭など

2009年10月7日(水曜日)

  しっかりとこちらを向いた台風が心配されます。

 

 さて、このたび館内のノートに記された6月以後の来館者様からのコメントをホームページ「お声」に追加させて頂きました。貴重なコメントに接しますと「これからも頑張るぞ」という気持ちが沸いてきます。

 

 

 お声の中にはカフェや庭の感想が沢山あります。庭は肩の凝らない自然な雰囲気を目指しています。芝生は大変ですが、スタッフが一生懸命管理しています。

 

 

 コーヒーや御菓子・トーストも誉めて頂き喜んでいます。来月からお抹茶をお出しする予定です。作品やお茶・庭で、ホットする憩の場をといつも想っています。

 

   

 お気軽に。

白磁の壺

2009年10月2日(金曜日)

 樹下美術館の陶芸作品は故齋藤三郎氏です。生前、父は熱心に齋藤作品を集め、時には人にも上げていました。

 器を見て「いいですね」と目を輝かす人がいると、「分かるかね」と言って上げてしまうことがあったのです。

 

 ところで先日ある店でたっぷりした大きさの三郎氏の白磁壺と出会いました。昔、長く家にあって見慣れた壺によく似ていました。いつしかそれが家から無くなったのも、父が人に上げたのかも知れません。李朝を思わせる柔らかな化粧の壺。懐かしさと共に選びました。

 

 

 ある方が美術館にアケビとツルウメモドキを届けて下さいました。いい加減ながら生けると壺はいっそう生き生きとしました。当作品は来春に展示したいと思います。

 

 

裏のサイン。筆が走り、高田における比較的早い時期の作と考えられました。

絵の養父母さん

2009年9月9日(水曜日)

 午後、美術館のカフェでMさんご夫妻にお目に掛かった。実は昨年の秋、お二人から倉石隆の油絵三点を託されていた

 

 戦後間もない高田時代の貴重な油絵だった。このたび描かれたままの絵を額装して9月から展示した。本日、展示の作品をご覧になって、本当に嬉しい、とMさんは目を潤ませておられた。

 

 およそ良い絵はしっかり額装すると初々しい花嫁のような生気を現す。倉石氏のお母さまから長く作品を預かったMさんご夫妻。花嫁となった娘を見る養父母のような気持ちかな、と思った。

 

作品は旅をする。まして人に於いておや。

 

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2009年秋の展示替え

2009年9月2日(水曜日)

秋の展示替え

      2009年9月2日から樹下美術館はあらたな試みを行っています。

1,2月の冬期休館を挟んで現在の展示を来年3月まで続けます。

 

【絵画ホール】 

 これまで中々見ることがなかった戦後高田時代における倉石隆の油彩三点をホール中央に架けました。三点を囲んで、倉石氏自身やご家族を描いた油彩4点を配置しました。

全体に家庭的な雰囲気が漂っています。

二人の像も修復、額装されて中央に架けられました。

 

【陶芸ホール】 

  齋藤三郎作品を時代順に展示しています。18才、関西で近藤雄三から富本憲吉(いずれも後の人間国宝)へとおよそ5年の修行をした三郎。

 修行後の京都や神戸における初期の作品から、戦後新潟県上越市で始まった作陶活動を場内左から順を追って見やすく展示いたしました。

 

 端正で初々しい初期の染め付けの鉢。そして上越市寺町に転居して始まる色絵、鉄絵、辰砂への探求。作品には呼吸のようにゆっくりと繰り返される制作志向の変遷が見られます。

 

 ●順を追って壺、皿、鉢、水指など27点を展示しています。

 

昭和12年(24才)と15年(27才)頃の、関西における初期の作品・竹林菓子器

いずれも竹笹に雪がかぶっている文様

 

昭和45~50年前後、後期にかかる作品。

修行直後の作品から後期へ、どうぞ三郎(陶齋)の道程をご覧下さい。

 

●このたび、はじめて陶芸ホールにも倉石隆の油彩を架けました。三点ですが、陶磁器と大変よく映え合っています。今後もこの方法を続けようと思います。

●館内の倉石氏の油彩は、通路やカフェも入れて合計13点展示しています。

左の壁に架かった一枚です。

正面と右側にも一点ずつ架けて、場内の雰囲気が変わりました。

※写真はいずれも夜間に撮影しました。

  

    

未発表作品の額装

2009年8月28日(金曜日)

 先回、倉石隆氏の古い作品の出現について掲載致しました。そこでお示しした作品のうち夫人像と裸婦の二点の額装が出来てきました。

 

 額装の力と言いますか、やはり出来上がると作品がいっそう映えて見えます。

 

 残りの一点は今もキャンバスの直しをしてます。この度の掲載には間に合いませんでしたが、展示替えの9月2日には三点揃って展示の予定です。

 

 あらためて三作品は同じ作家?と思われるほど様式の異なりを感じます。このような異なりは多くの作家において希ならぬ道程と思われます。また、作品は画家の懸命な試行を見る上で興味深い資料でもあろうと思われました。

 

 9月からの展示は他の作品7点lとともに、このたびの初期に属する未発表三点を展示いたします。どうかご期待ください。

 

     
額装前の夫人像 額装の夫人像
   
        
額装前の裸婦像 額装の裸婦像
   

倉石隆の古い油彩

2009年8月20日(木曜日)

  昨年秋、上越市高田のM氏から倉石隆さんの古い絵があるから見て、というお話がありました。伺いますと油彩が三枚ありました。

 

 戦前東京で応召された倉石隆は、昭和20年秋、上越市高田の実家に復員します。その後、昭和22年から新潟県立高田北城高校の美術教師として勤務。昭和25年に再び上京しました。この約5年間、多くのスケッチ類が残されましたが、油絵は稀少で、中々見ることはできません。

 

 氏の上京後、長年お宅を守られた亡きお母様が、「押し入れの棚に積んであった作品です」と申されて、生前、ご近所のM氏にその作品を託されました。保管を続けられたM氏は、今後は樹下美術館でと申され、この度の話になりました。貴重な高田時代の油彩がほぼ60年を経て日の目を見ることになり、とても嬉しく思います。

 

 作品はF6~8号サイズの三枚の油絵でした。一枚がキャンバス、二枚は板に描かれています。長年、本などが上に乗っていたのでしょうか、キャンバス作品は陥没や絵の具の一部剥落が見られました。

 

 三点とも現在額装中で、きたる9月2日から樹下美術館で展示を予定しています。以下古い順と考えられる作品から並べてみました。 

 

静かな夫人像。未完成ながらオーソドックスな制作手順が見られる。右下に 
R Kurai のサイン。隆をリュウと読み倉石をクライにしている。

 サインは見えませんが倉石作品だと思いました。お嬢様と若き倉石画伯でしょうか。幾重にも重ねられて落ち着いた色彩はプロならのものと思われます。青はピカソを想起させ、また少女の衣服の黒がとても効いています。現在キャンバスを修理中です。 

暗色を重ねた迫力の裸婦像。吸い込まれる作用を感じる。裏面に倉石隆の
サイン。当時倉石が所属していた自由美術家協会の重鎮・麻生三郎の
影響を感じさせる。

カフェの本を追加しました

2009年8月7日(金曜日)

 樹下美術館カフェに新たに以下の13冊の本を追加いたしました

 

「少年民藝館」  「福縁随處の人びと」  「良寛入門 墨スペシャル第6号」  「レオナルド・ダビンチ」  「生きてることを楽しんで」  「没後50年 松本竣介」  「Bora Bora」  「アールデコ様式 朝香の宮がみたパリ」  「黒田辰秋 木工芸の匠」  「日本の美術館名品展」  「虹の館」  「没後80年記念 佐伯祐三展」  「世界の名画1000の偉業」

 

 何気なくページをめくる方、ドサッとおいてゆっくりご覧になる方、ただ置くだけの方etc,,,。カフェのお茶と本はよく似合っていますね。

 

どうかごゆっくりお過ごし下さい。

 

 

佐伯祐三の時間

2009年7月26日(日曜日)

 長梅雨は風情を越えている。そんな折り、三人の老親に忙殺される妻に声を掛けて、新潟市で「没後80年記念 佐伯祐三展」を見てきた。展示には初公開作品が含まれていた。

 

若き祐三は、才能と情熱に加えて結核の病を授けられていた。画家に残された時間はどれほど貴重だったことだろう。毎日死を意識したという生涯。狂おしげな筆はセンスに溢れ、最後まで街と人を愛おしむ風だった。

 

展示は自画像、船、人形、通り、店、街の文字、郵便配達夫、そして黄色いレストラン、ロシアの少女など自作だけで100点。30才の短い命と引き替えに生みだされた作品は自身(人間)を問い、答えの示唆を放っているようにも感じた。

 

 

 新潟への往復250キロ、久しぶりに妻とたわいない話を沢山した。車中、遠くの花火を見ながら、もう一回見ようと言って帰ってきた。

 

 作品が良くて、大きな展覧会でしたが疲れませんでした。充実の図録を明日カフェに置きたいと思います。
没後80年記念 佐伯祐三展】:8月30日まで新潟県立万代島美術館・10時~18時まで。   ※金曜日は20時まで開館。

 

齋藤さんと我が家 8 美術館へ

2009年6月30日(火曜日)

 前回は父に続いて齋藤三郎さんの作品を自分も集めてみよう、というところまで進んだ。今回は齋藤さんと我が家を終了すべく、少々長くなりました。どうかお許し下さい。

 

 さて平成5年頃から齋藤作品を探しに骨董屋(古美術商)さんを覗くようになった。 
ある日曜日、上越市内の店で印象的な皿に出会った。鮮やかな赤地に溌剌とした椿、四方に文字があって、齋藤さんには珍しくやや薄作り。花の様子から初期の作と思われた。

 

 お得意の椿・赤・文字がこれほど見事にそろった器を見たことがなかった。もしやこの皿を代表作の一つとして美術館が作れるのでは、打たれるような思いがよぎった。あるじは思っても見ない安価な価格を口にした。喜びのあまり具合が悪くなりそうだった。

 

 今度は何に出会えるのだろう。良い作品には次への期待が伴う。淑たる美と変化、使っても飾っても威張らない器。これらは齋藤作品の最大の魅力だ。少しずつ作品と出会いながら父の夢中が分かるような気がした。

 

色絵椿紋皿 直径23㎝  高さ5㎝ 昭和20年代

上越市内で出会って美術館を意識するようになった。

 

色絵木瓜(ぼけ)紋灰皿 昭和20年代

 糸魚川でのこと、店で色々見せてもらったが欲しい物が無かった。当時喫煙していた私は最後にタバコを取り出して、灰皿を所望した。店主が奥から持ち出したのがこの灰皿だった。磁器の白も花も優しく、一目見て気に入った。欲しいと告げると主人に難色が現れた。「店先に、この家のものは全て売り物です、と書いてありましたが」と言った。「わ、分かりました」、無理を飲んで頂いた事がよく分かった。

 

麦わら手 手桶花入れ 高さ26㎝  胴経18㎝  昭和20年代

  新潟で出会った大きな器。ああこんな作品もあったんだと、自分の狭さを知らされた。もう一回り大きなものがあり、炭火が入る手あぶりとして用いられたようだ。

 

 堀口すみれ子さんの本に、父であり詩人の堀口大学の思い出を綴った「虹の館」(かまくら春秋社・昭和62年3月27日発行)がある。書中、茶室「寸雪庵」で大学ご家族が初釜のお茶を頂く写真が載っている。皆さんの脇に齋藤作と思われる手桶風の手あぶりが置かれていた。

 

手もとの虹の館 

 「寸雪庵」は大学と親交があった写真家・濱谷浩氏宅の茶室と思われる。濱谷氏の奥様・朝さんがかって高田で営まれていたお茶室の名が寸雪庵だった。寸雪庵と齋藤さんの手あぶり。越後高田の名残りが、大磯で大切にされていた事を何ともゆかしく思った。

 

 さて蒐集は楽しい作業だった。加うるにあるご縁で倉石隆氏の作品とも関係するようになっていた。身に余る幸せと言わねばならない。

 

  すでに父が亡くなって25年、赤い椿皿と出会って10年。63才の年を考えればもう始めなければならなかった。平成17年、一級建築士設計家・大橋秀三氏に依頼して樹下美術館を建てることにした。

 

 設計が始まった年に遠くで妹が癌で亡くなった。生前、「これも飾って」と涙ながらに齋藤さんの器を包んでくれた日が忘れられない。

 

平成19年6月10日、つましい樹下美術館が建った。

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