樹下だより

齋藤さんと我が家 7 ならば私も

2009年6月6日(土曜日)

  昭和50年代後半、齋藤さんと父は次々とこの世を去った。二人が亡くなって、父の齋藤作品に対する夢中をよく思い出した。それは父の幸福であり、家族の幸福としても実感されたものだった。

 

 作品と作者双方への思い入れは作家・愛好者にとって最も望ましい関係だろう。父が齋藤さんと出会ったことは貴重なことだったと思う。

 

 絵でも陶芸でも、父のように夢中になれる作品や作家と巡り会ってみたい。自分なりの思いだった。暇をみて作品展や展示室を訪ね歩いた。しかし若き日に感触した齋藤作品以上の引力には中々出会えなかった。

 

 「ならば亡き齋藤さんの作品を集めてみよう」、ある日の単純な結論だった。平成になってしばらくして、上越市をはじめ新潟、長岡方面まで骨董屋さんを見に行くようになった。

父の形見分け。アミダくじ(父がこっそり用意していた)で当たった壺。

 

※今回、齋藤さんと我が家を終了するつもりでしたがまとまりませんでした。次回こそ「開館まで」を綴って終了したいと思います、申し分けありません。

展示中の倉石隆作品

2009年6月2日(火曜日)

【8月31日まで展示の倉石隆の作品です】

作品の一部をご紹介致します。   

                 

   

婦人像:倉石の挿絵本の一つに従姉妹ベット(河出書房新社・バルザック原作・佐藤朔/高山鉄男・訳)があります。当作品は挿絵の主人公を角度を変えて油彩にしたものと思われます。小品ですが情念を秘めた女性を赤で燃え上がるように描いています。油彩 50×36㎝  推定1970年代

 

   

馬上の人: 倉石は黒、黄色、各系のモノトーンでよく描きました。当作品では馬に乗った人物が荒涼とした坂を登っていきます。手前に決意の旗。馬にテンポがあり馬上の人(作者であろう)は勇躍前進を開始したようです。沸き立つ黄色がまぶしい。黄色は前進、上昇の色。油彩 65×80㎝ 1979年

 

画室:何度か訪ねた倉石氏のアトリエ。モデルを前にキャンバスはまだ白いままです。その形、大きさから、モデルも居るこの絵(画室)を描くところのようです。絵には逆算された時間と空間が描かれ、めまいでもしそうな次元感覚をおぼえます。

 

 さらに「画室」は画家の日常を、私たちと共有するよう意図されていたかもしれません。「さあ、どうぞ!」というような気持ちです。
全体に素朴で画家らしい作品だと思います。白いキャンバスは映画「田舎の日曜日」の最後のシーンでも見られました。

 

 「主人が描いているときはいつもゴシゴシ、ゴシゴシと画布をこする音が聞こえていました」、とは奥様の言葉です。「画室」もよくこすられ、重ねられた色が染みこみ、深い質感を伝えています。

 

 額縁は上越市大島画廊です。竿の長さがぎりぎり足りて上手く絵に合いました。油彩 100×100㎝ 1980年代

 

 

:氏の同様の「髪」はかって朝日新聞日曜版を飾りました。大きな眼に吸い込まれそうになります。髪と眼に女性の全体を表象させて描いています。ここでも華やかな色彩は省略されています。油彩 65×51㎝ 1982年

 

このほか
・黄昏のピエロ・人生・見つめる・北の山(妙高山)の油彩を架けています。カフェには油彩「魚」があります。

 

過去の掲載分はこちらで見られます
 

博物館協議会

2009年5月25日(月曜日)

 昨夕、北信越博物館協議会が上越市であった。仕事の都合などで残念ながら記念講演、シンポに参加できなかったが、夕刻からの情報交換会に出席できた。
協議会の協会は日本博物館協会の北信越支部にあたる。福井、石川、富山、長野、新潟の5県の博物館・美術館が加盟していて名簿に187施設が載っていた。

 

 当協会長の伊藤文吉氏(北方文化博物館館長)が挨拶された。文化施設を全うするということは「如何に皆さんに喜んでもらうか」であり、現実には「貯金が無くなることでもある」と強調された。身を投げる情熱と、もてなしの心のことだろう、と思った。先達の言葉として心強く、深く賛同出来た。

 

 日本の美術館は国の認めで約1800カ所。先進国では決して少ない方ではないようだ。国・地域の文化の質は、施設の内容や数とともにどれだけ多くの人が足を運ぶかが課題だといわれている。小館ならばこそエバグリーンを胸に歩んで行きたいと思った。

 

 

診療所の庭にもバラが咲き始めた

音楽の力,立花千春さん

2009年5月10日(日曜日)

 大潟区のコミュニティープラザで樹下美術館主催の音楽会が無事に終わった。まちづくり大潟と大潟音楽協会のご後援を得て良い音楽会になった。華麗なフルートの歌姫、立花千春さんには、豊かな音楽の力を会場一杯に満たして頂いた。渾身の演奏だった。ピアノ伴奏の宇枝優見さんもナイスコンビネーションだった。

 

ご来場頂いた皆様、演奏のお二人様、本当に有り難うございました。

 

 

 

   

齋藤さんと我が家 6 別れ

2009年4月18日(土曜日)

  前回の齋藤さん(陶齋)と我が家5で、父が齋藤さんの作品蒐集を急に止めてしまった所まで進んだ。父の陶齋熱は昭和23年頃から30年代後半までおよそ15年ほどだった。

 

 昭和50年6月、私は父の仕事を継ぐため帰郷した。すでに父にはパーキンソン病が進行していた。帰郷後、何度か齋藤さんの窯を見に行こうと父を誘った。しかし動作や言語などが乏しくなった父に色良い返事はなかった。それがある日、行ってみると言った。

 

 私にとって初めての齋藤さんの展示室は、民芸調で雅味溢れるものだった。長くお目にかからなかった齋藤さんにお年を感じた。齋藤さんも父の変貌を驚かれた事だろう。互いのあいさつの後、父はほとんど言葉もなく背を丸めて佇むだけだった。あれだけ夢中になった人の前なのに、、、。
「年を取ったら華やかな色が好きになりました」、と齋藤さんが話した。父が微かな笑みを返した。

 

 この日、私は牡丹が描かれた辰砂の偏壺を取らせてもらった。やっと父の真似ができて嬉しかった。帰りの車中父と壺を乗せて、父達に過ぎた時間のことをぼんやり考えていた。

 

 仕事に忙殺されて何年か経った。昭和56年7月、齋藤さんが亡くなった。そして翌年は父も。齋藤さん68才、父78だった。68才はいかにももったいない年だ。齋藤さんはみんなに愛されすぎた希な人だったと思う。

 

最後に陶齋に会った日の牡丹紋辰砂偏壺(ぼたんもんしんしゃへんこ)

 今回、樹下美術館の開館まで行くつもりでしたが、うまく出来ませんでした。次回はすんな終わりたいと思います

お茶碗そして上越の雪月花

2009年4月10日(金曜日)

 本日午後、貴重な抹茶茶碗に出会えた。齋藤三郎の高田における若い時代の作品である。弥彦神社の宝物・大鉄鉢(重文)をならって作られた器、と古い包みに書かれている。やや小ぶりで素直な姿。黒と茶に意図された鉄釉が絶妙な案配に焼成されている。

 

 わざわざ遠方から運んで下さった方は、戦後上越で堀口大学、濱谷浩、小田嶽夫、市川信次氏らを身近にして育たれた。茶碗は当時の文化の賑わいから自然に生み出されたであろう何とも言えない品格を漂わせている。

 

 皆様にお見せして、という言葉が有り難く、今秋にはぜひ展示したい。

 

 さて昨夜は14夜で、今夜は15夜満月。お天気に恵まれ高田城趾の桜も一段と冴えていたにちがいない。冬から春へ巡る上越の雪月花、、、。

 

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使用感

2009年4月3日(金曜日)

 4月1日から陶芸ホールは齋藤三郎の食器を展示しています。18のケースに130点ほどの器でかなり賑やかになりました。ケースによっては茶碗屋さんの雰囲気です。

 

 昨日お会いしたお客様が、ジョッキが良かったと仰いました。ジョッキのどこが良かったのでしょう、とお尋ねしますと「使用感が」というお答。

 

 なるほど、展示作品はきれいばかりが良いのではないのですね。特に食器では使用された事が見どころの一つ、と改めて知らされました。ちゃんと生きたことの勲章?でしょうか。

 

 展示のうちほかに使用感が多く見られるのは、急須と湯飲みです。家では欠けた陶齋の器をよくセメダインで接着して使いました。見えるかどうか、欠けやヒビ、茶渋で感じが出ているものを並べて撮ってみました。
来年は開館満三年となります。記念行事として、カフェでコーヒーなどの後に、宜しければ陶齋の湯飲みでお番茶をお出ししてみたいと考えています(こちらはなるべくきれいなもので)。

 

 人間も長い間、自らを使ったり使われたりして傷つき汚れもします。年を経てそれらが魅力や味になるならばいいですね。 


鉄絵の陶器ジョッキ(マグカップ)、名脇役でした。 


湯飲み:痛々しいほど使い込まれたものもあります。 


パーツが面倒な急須。磁器も陶器も陶齋は飽かず作り、そして使われました。

食器展のお知らせ

2009年3月30日(月曜日)

                 【齋藤三郎食器展】

  ○21年4月1日から8月31日までの陶芸ホールは、全て齋藤三郎(陶齋)の食器を賑やかに展示致します。

   齋藤三郎(陶齋)は壺や飾り皿などの装飾的な作品のほか、熱心に食器を制作しました。皿、茶碗、湯飲み、急須、酒器、菓子器、ジョッキ(マグカップ)ほか器種は多彩です。技法も染め付けから鉄絵、色絵までまた多様でした。
 作品は用を願って制作され、身近な草花を主なモチーフに、和やかにと心傾けました。
 以下は展示品の一部と目録です、どうぞお気軽にご来館頂きお楽しみください。

 


染め付け絵変わり向こう付け


色絵窓字どくだみ紋湯飲み


急須各種


梅絵汲み出しセット


辰砂(しんしゃ)葉紋カップ&ソーサーセット

 

【展示目録】
染付煎茶器セット(宝瓶1、茶碗5客)※              
・赤絵番茶セット(急須1、茶碗6客)                                          
・急須各種:掻き落とし牡丹紋・辰砂椿紋・鉄絵秋草紋・窓絵笹紋・白釉鉄斑紋・白磁・ 鉄絵木蓮紋・染め付け石榴紋など10客
・ジョッキ(マグカップ)辰砂6客セットほか各種8客                  
・青磁象眼椿紋皿2客                                                            
・絵唐津風皿5客揃え                                                   
・湯飲み各種24客
・色絵梅枝紋皿6客セット                                                 
・色絵窓字ドクダミ紋湯飲み7客                                          
・盃各種15盃および鉄絵草紋銚子2本                                                   
・染め付け絵変わり向う付け6客セット                                    
・灰釉蓋付き壺 ※
鉄絵四季紋皿5客セット                                                 
・辰砂葉紋カップ&ソーサー6器セット                                        
・梅絵汲み出し5客セット                                           
・灰釉線紋カップ&ソーサー6客セット
・鉄絵葉紋菓子鉢
・鉄絵呉須湯冷まし1と煎茶器2客         以上約130点です。

※印は展示内容を変更致しました(4月1日)。

※過去の展示分はここで見られます

齋藤さんと我が家 5 エッグベーカー

2009年3月20日(金曜日)

 筆者は年の近い5人兄弟姉妹の一人です。昭和30年代半ばから私たちは進学のために次々と上京しました。ところが平行して、あれだけ熱中し親しんだ父が突然のように齋藤さんから離れるようになった。不思議に思えて、何故と問うても父は言葉を濁すだけだった。

 

 まず浮かぶのは子どもの学費が嵩んで蒐集が続かなくなった、ということだ。ほかに齋藤さんへのひいきの自負などが折れたのか。なにしろ当時齋藤さんの人気は文化人、茶人、市中へとますます伸びていた。こうなるとかえって一途だった熱が冷めることもあるのだろうか。

 

 以後、父は上京すると銀座にある民芸の店「たくみ」へ寄るようになった。時々同行したが、鳥取県「湯町窯」の素朴なエッグベーカーなどを選 んでは笑顔を浮かべていた。

 

 ※次に「6別れから開館へ」を記して陶齋と我が家を終わります。

 

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湯町窯のエッグベーカー、随分使いました。

 

   

若いご夫婦。御館の乱。シーグラス。

2009年3月9日(月曜日)

 日付をまたいでしまいました。さて昨日日曜は穏やかなお天気でした。午後から美術館に寄りましたら、這いはいを始めたという坊やを連れた若いご夫婦とお会いしました。このような方たちにもくつろいで頂くのはとても嬉しいです。

 

 日曜夜は天地人です。今のところ兼続は皆の後追いが精一杯、今後どう成長するのでしょうか。それに比べて景虎、景勝の二人は形もよく、存在を際だたせて立派な主人公ぶりでした。このまま悲劇として終わってもいい、と思わせるほどです。しかし、かろうじてまだ互いを思いやっている二人が向かえる過酷な御館の乱の殲滅戦。少々気が重くなります。

 

 晴れ間の午前、通い慣れた海へ行きました。そしてまさかと思った黄色のシーグラスに出会いました。子どものようにラッキーと叫びました。砂浜を歩くのに慣れましたし、おくりものにも出会えて、体に良い実感もします。

 

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