朝日池に集まるバードウオッチャー クリスマスローズ、ふきのとう、ルッコラ、夕暮れの海。

2019年2月5日(火曜日)

大雪の年でも、2月になると穏やかな晴れ間が訪れる。大抵一日だけで、長くは続かないが、日射しに強さがこもり、春遠からじを覚える。

昼食を摂ってから朝日池に向かったものの、白鳥もハクガンも居なかった。
でも池の堰堤にはずらりとバードウオッチャーの車が並んでいる。全国とは言えないが、新潟はじめ長野、群馬の隣県、関東、関西の車もある。付近の森にいるらしいオジロワシの出番を待ってい人も居るようだ。

例年集まる沢山の車。良いお天気なので、お仲間同士、鳥を待っている間も楽しいことだろう。

 

美術館に寄ると、間もなく見頃を迎えそうなクリスマスローズ。

 

午後訪問診療をしたお宅でフキノトウを戴いた。右側の小さなのは私が樹下美術館の庭で取ったもの。
ほとんどよその人に採られるので、小さな残り物を有り難がってる。

お宅からルッコラも頂戴していた。うっとりするような早春の色だ。

 

夕刻の四ツ屋浜。こんな海をみていると、もう春と言ってもいいのかな、と思ってしまう。

樹下美術館の冬期休館は半分を過ぎた。例年ここまで来ると急に開館までの足が速くなる。

深刻な当地の勤務医事情 近くにコハクチョウ、遠くにハクガン。

2019年2月3日(日曜日)

今週末にかけてある高齢者の方の腹部症状が思わしくなかった。病院はどこもインフルエンザなど冬期独特の忙しさ。何とか入医院を回避できれば、と綱渡り的な状況を禁じ得なかった。
昨日点滴を試み、今朝の往診では少しだけ水分が収まるかに見えた。しかし往診後まもなく全て嘔吐した、という知らせ。

柿崎病院さんに連絡を試みると、見せて下さい、という仏のような返事をもらった。本日日曜日の当直は院長だった。食べれないのと、検査も必要でしょうからと仰った。
昨日から年令を問わず重症の方たちに忙殺されている、とお聞きした。
眠る時間などまず無いに違いない。
おそらく殆ど休めずに、また明日の常勤に入るのであろう。
何かと良い事ずくめに伝えられる上越地方だが、医師不足による病院の事情は本当に深刻だ。
最も大切なことが最も深刻、これは紛れもない上越地方の真実。

院長の犠牲的な取り計らいで何とか昼から出かけることが出来た。
柿崎区の水田にコハクチョウの群が居た。院長に申し分けないと思いながら群を眺めた。

 

午後の数時間は良く晴れた。背景は米山。

 

用事で外出の妻が用意したサンドイッチを車中で食べる。

 

 

 

群に次々と白鳥が降りてきた。コハクチョウといえどもとても大きい。

 

 

カメラを覗いていると自分が舞い降りる錯覚におそわれる。

飽かず群を眺めた後、当地に飛来したというハクガンを探したが見つからなかった。
昨日の上越タイムスは150羽の再来を伝えている。
暮れる頃、大潟水と森公園を歩き、それから朝日池に寄った。

朝日池の遠くにハクガンが沢山居た。何羽いるのか、かなり多い。
相変わらす自分たちだけでまとまっている。
着いたばかりなので、日中食餌をせず休んでいたのだろうか。

一本の白い線のように見えるハクガンの群。

暮れているのとレンズサイズのため、これが精一杯。
遠目にも愛らしさと一種神々しさは変わらない。
忘れずに来てくれたこと、何かの思し召しか、有り難い。

冬の本州では秋田県の八郎潟と、当市の朝日池のみ往き来するという貴重なハクガン。今年また夕陽の水田で出合えれば幸運だ。

ハーモニー。

2019年2月2日(土曜日)

最近Yahoo!のポータルサイトで以下の広告を目にしていた。
楽しそうなので開いてみた。すると海辺をドライブする車内のカップルが歌を歌う。どこかで聞いたようなメロディを口ずさんだ。

サビの部分なのか、途中をハーモニーにして楽しそうだった。若い人たちはこうして普通にハーモニーを楽しむのだろうか、新鮮に映った。

 

私たちは時に何か歌おうとなると、およそ皆で同じメロディを歌う。いわゆる斉唱だ。そういえば、民謡や浄瑠璃などの古い音曲もハーモニーはつかない。普段、生活で2人居れば2人が、10人なら10人で同じ節を歌いがち、単調である。
しかるに西洋音楽では、何部かでハーモニーを効かせ、コーラスを楽しむ映像やレコードに接してきた。歴史的にも宗教歌、民謡、歌謡、オペラなどでハーモニーは古そうだ。和声に従ってメロディのほか複数の旋律が合わせられると、曲に膨らみと豊かさが生まれる。

一方、不勉強ながら、我が国はじめ中国や韓国など東アジアの伝統音楽に、ハーモニーの印象は浮かばない。
同じアジアでも、フィリピンの歌では、大らかなハーモニーが付けられるのを、その昔ラジオでよく聴いた。
また人生ただ一度の海外、1970年代なかばのタヒチで、庭や桟橋などで聴いた歌や購入したレコードの殆どがコーラスだった。
フィリピンはキリスト教国である。タヒチもまた教会が多く、日曜の礼拝と午後の盛大なピクニックを目にした。かようコーラスによるハーモニーはキリスト教がもたらした文化の一つではないのか、と考えてみている。自信がないので、機会があれば詳しい人に尋ねてみたい。

ちなみに以下タヒチの歌を載せてみました。

 


尻切れになってしまいましたが、幸せなシーンです。声も良いですね。

 

我が国のハーモニー(コーラス)は明治時代以後と考えられる。学校で熱心に教えられたものの、日頃はおよそ斉唱の域を出ない。そんなわけで上掲したコマーシャルの車中の二人が、ハーモニーを楽しむ様子は新鮮だった。

進行する和声に従って異なるメロディで合わせる。響きは色彩を帯び、豊かさをもって膨らみ、心地良い。あたかも1+1が3や4、あるいは別次元の高度な音を生む調和作用を覚える。
比べて斉唱は部分として上手く使えば効果的だが、それだけだと単調である。1+1は1のままであり、音量が増すだけに留まろう。

ひるがえって、社会に於いても多様性の受容はハーモニーとして幸福と文化の生成を促し、地域と国の豊かさの源になるにちがいない。
逆に同一のみを図るのであれば、個人の対立や孤立を生じしめ、社会の硬化と衰弱を招こう。

カローラのコマーシャルから長くなってしまいました。

晴天の日、ちょぴり芝生の草を取る インフルエンザと呼吸など。

2019年1月30日(水曜日)

例年家の前の除雪が一仕事なのだが、今冬はまずその用が殆ど無い。車の出入りもすれ違いも普通通りで、仕事上大変に助かっている。

以下は本日午後の美術館の様子です。

 

 

 


芝生のスズメノカタビラ。寒中でも青々として勢い盛ん。

 

芝生のところどころに草が生えていて、少しだけ取った。今春は手押しの肥料撒き機を購入して上手に沢山肥料をくべたい。

今日は特に上天気だった。小雪は良いのだがインフルエンザが流行っている。23人の事業所で9人が休んでいると仰る人がいた。朝お子さんを連れて来られたお母さんが夕方発熱して来られる。
マスクを付け、手洗いうがいをしても、急所の鼻(鼻腔)は弱点として残る。鼻を漱ぐ方法はあるが、それによって更に奥へとウイルスを拡散させてしまう懸念もある。

かように予防は難しい。私の場合手洗いうがいのほか、強いて言えばそれらしい方との場面で、出来るだけ深い(強い)呼吸を避けるようにしている(ウイルスを深く沢山吸い込まないように)。
つまり、ゆっくり息を吐きながら、または浅く吸いながら話を聴くという具合。マスクをしていて多少の息苦しさを否めず、つい深い呼吸をしがちだが、肝心の場面では用心している。
正直、上記の方法による効果のほどはよく分かりません。
ただ軽微なウイルスの吸い込みに対して、受けているワクチンに一定の期待をしている次第です。

この時期活発にふざけあったり、大声で笑いあうのはよくないかもしれません(残念ですが)。
特に多人数が仕事する密室的な部屋、あるいは列車、教室、冠婚葬祭、人混み、さらに激しい呼吸が必要な部活などは容易に感染を拡大させるような気がします。
たとえマスクをしていても、、、、。

※教室、冠婚を追加しました。

ミシェル・ルグランさんが亡くなられた。

2019年1月28日(月曜日)

去る1月26日に、フランス人の音楽家ミシェル・ルグランさんが亡くなられた(享年86才)。
ジャズピアニスト、作曲、編曲者として数え切れない業績を残し、2度のアカデミー賞、5度のグラミー賞に輝き、訃報に接したマクロン大統領は、無限の天才、と述べて死を悼んだ。

 


氏の作曲「風のささやき」(歌:ダスティー・スプリング
フィールド)。1968年公開の映画「華麗なる賭け」の主題歌。

 


2009年、自らのコンサートで自作の「シェルブールの雨傘」
を歌う。

 


マイルス・デヴィス(左)と。
マイルスが若き日のルグランが開く譜面に見入っている。
何て格好良いんだろう、高校を卒業する頃に買った本の写真から。
(写真:荒地出版社 1961年6月25日発行発行 モダンジャズ入門)。

氏の音楽はいつもスリルがあり上品で詩的。元気に活躍され、今年もコンサートが計画されていたという。こんな時は、どんな人にも寿命があるのだとあらためて思い知らされ、切ない。

上越市立歴史博物館・宮崎館長 髙田公園の庚申塔(庚申塔その16)遊心堂 なかに寿司 寒行 髙田暮景 大坂なおみ選手。

2019年1月26日(土曜日)

昨夜から降雪があった上越地方、日中ひと止みしたが寒かった本日土曜日。
午後から再び上越市立歴史博物館を訪ねた。お忙しい宮崎俊英館長にお目に掛かり、大切な話が出来た。

来る3月15日から樹下美術館は今年度の開館を迎える。齋藤三郎と倉石隆を常設展示する当館は毎年二人の作品からテーマを決めて展示を続けてきた。同一作家のテーマを考え、見せ方を工夫するのは気を遣うが、楽しい作業でもある。
これを何とか維持出来たのは、お二人の作品が比較的豊かなバリエーションを有していたことがある。また展示スペースが小さいため、数多くの作品を準備せずに済むという事も大きかった。

今年の展示についても新鮮を意識し工夫をこらし、皆様に楽しんで頂くよう準備をしている所です。

 

髙田へ行く前に寄った大潟区四ツ屋浜の海岸。

 

 

昨日より雪が多くなり、一層きれいに見える西堀橋。

本日宮崎館長にお会いして是非お尋ねしたかったことがもう一つあった。髙田公園の庚申塔の所在である。すると、ありますよと即座のお返事。「ぶら髙田」を持ち出され、すぐに場所が確認できた。

 

「ぶら髙田」 著者朝倉有子(代表) (有)北越出版 平成26年3月31日発行。
帰路、本町の春陽館に行き、最後の一冊と仰る本を求めた。

 

書物の一部。
髙田公園内の55基の碑・モニュメントの場所が写真とともに地図に明示されている。
使う人本位の真に親切な一冊。

一大懸案であり、あきらめかけていた髙田公園の庚申塔は身近にあった。髙田に庚申塔があることもそれが公園にある事も貴重である。

有り難い、さっそく向かった。

 

30㎝近い新雪の公園で左上方の庚申塔を目指す。
私は短い街中ブーツ、妻は長靴。
高田生まれの妻は、雪と言うと基本張り切って動き、本日先導した。

 

小高い場所に立派なしつらえの庚申塔。

 

 

合掌し、弓矢に剣と鉈?を持つ青面金剛。
上部に日月文、見にくいが下部に三猿が約束通り刻まれていた。
塔ではなく塚と表されている。

 

塚の基壇部分の側部に寄進者の記銘。「 いろは高山千三」と刻まれている。
いろは肉店のご先祖であろう。
他所のものをここへ寄進されたのか、あるいは実際に庚申待ちをされた供養なのか。

ちなみに手許の「越後の庚申信仰」に以下の掲載写真がある。

昭和41年発行の本。髙田城址公園と記され、現在と同じ場所なのか。
日は春陽を思わせる。50数年経って実物に出逢えるとは。
今日まで大切にされていて感激した。

 

 

雪中で冴える三重櫓。

その後本町4丁目は「アートサロン 遊心堂」へ行った。
新旧の茶道具が見栄え良く並んでいる。上品な変化を付けた棚(茶道のお点前で用いる棚)が見つかり、値段も手頃だったので購入した。

店主と齋藤三郎の話をした。熱心な主から沢山質問を受け、スリルがあり非常に楽しかった。
その折、昭和二十一年作という齋藤三郎作品の写真を見せて頂いた。樹下美術館で最も古いものは二十二年の染め付け菓子鉢だ。それを更に1年のぼった箱書きは線が細く当時の三郎の筆そのものである。時期は近藤悠三への師事を終え、富本憲吉門下となって二年目に相当している。
楚々とした染め付け香合で、春蘭を描き、鉄絵の具でふち取られていた。
23才、まだ入門中だった時代であろう。しかし署名が許される作品を制作していたとは。それを認めた師の大きな懐と眼力に驚き、まことに良い勉強をさせてもらった。
主はまた一昨年、当館が発行した「樹下美術館の齋藤三郎」を念入りに読んで下さっていて、緊張を禁じ得なかったが嬉しくもあった。

遊心堂で長居をするとすっかり暮れていた。帰路たまたま「なかに寿司」の暖簾が目に入った。
賑やかな店に運良く二人分の席があった。

 

暮れた髙田。

 

美味しかったお寿司。頂いたバイ貝のバター炒めも絶品だった。

 

お寿司屋さんにいると太鼓の音。寒行をする方たちだった。とても懐かしい。

 

帰路に見た髙田橋。

 

 

髙田小町の館。

 

帰宅すると大坂なおみさんが全豪オープン決勝の最終セット。それを見事に取った。


彼女の言動は率直で新鮮、とても好感が持てる。一般に欧米の授賞式における挨拶は、まず敗れた相手やライバルへのリスペクトを十分に表す。この日、大阪選手は長年の夢、などとは一切言わず、クビトバ選手への賛辞とサポートチームとファンへの謝辞に終始した。王者に相応しく真に洗練された態度だった。
ほのぼのとしたユーモアもあり、ずっと愛される選手であることを心から期待したい。

上越市歴史博物館と雪の髙田公園 頸城区は日根津の庚申塔(庚申塔その15です)。

2019年1月24日(木曜日)

木曜日午後は休診にさせてもらっている本日、妻と上越市立歴史博物館を訪ねた。時折激しくみぞれが吹きつけが、積雪にはならず道路は何とか普通の靴で歩けた。

昨年7月、名前も新たに新装なった当館を初めて訪れた。たまたま知人と出合い楽しく一緒に廻った。
残念ながら展示物はすべて撮影禁止のため、パワーショットで施設の一部を撮ってみた。下手な写真だが撮影出来ればお見せしてみたい展示物は多かった。

 

博物館外観。幸い雪は殆どなく出入りが楽。

カフェ。濠の水辺や城跡の三重櫓が見える。

 

上掲2枚はカフェに飾られていた名椅子。上が帝国ホテル東京の設計を引き受けたフランク・ロイド・ライト1902年デザインによる「ミッドウエイ」。下はチャールズ・レニー・マッキントッシュによる1924年の「ラダー・バック(はしごの背中)」です。両方とも大変に斬新。

 

一階の広いフロアーは床に上越市の地図が描かれている。向こうに大きなヒマラヤスギと濠。
博物館は大きなガラスが随所に使われている。ガラスは汚れが目立つので管理が大変。しかし気象の悪いなか、大変きれいに磨かれていて感心した。

 

二階が受け付になっている。らせん階段があると写してみたくなるのは癖。

 

下からの吹き抜けの脇を通る二階の回廊。

展示は安土桃山時代、つまり謙信公が関係する春日山の時代から堀氏の福島城、そして髙田城から現代へ書状、絵図、現物が資料として丁寧に示されてている。
以前はあっけらかんとして味気ない陳列室の趣きだった館内が、テーマごとに動線を変化させ、それぞれがコーナーとして楽しめるるように工夫してある。
専門家でないので文字資料は苦手、絵図・写真や品物に目が行く。春日山城の復元図で、描かれていた天守閣風な建物を興味深く観た。一方、当持国内有数の城下の様子は想像するしかなく、それが難しい。かって部分的にイメージ出来たのは大河ドラマ「天地人」であり、幾つかの今町シーンは新鮮だった。

立派だったのは日枝神社の山車飾りである大きな黒漆の孔雀像で、実に優美だった。また雪下駄の制作過程、町屋模型、克雪の道具類、豪雪写真などは、やはり風土独特の博物として当館の貴重な展示物になっていると思った。
雪国の哀切と美を象徴するものとして、瞽女杉本キクイさんに関する資料と齋藤真一氏の瞽女油彩が印象的だった。齋藤作品はサイズが小さくとも、小ささゆえ求心力があり、見る度に素晴らしさを増す。

町屋の台所の写真は懐かしかった。土間のスノコ、流しとかまどはモノクロ写真にピッタリ。どこかに手押しポンプは無いかと見れば、隅に写っていた。中高生時代、寺町の下宿でポンプを押して水を汲み、歯を磨き顔を洗った。
展示最後の生活家電、電話、オーディオなどでみる時代の流れは、新しい世代にとって驚きではないだろうか。年代ごとに生活感と手わざの風合いが感じられ、親しめる。

明るいショップで本を買った。

 

「懐かしのわが街 上越」岡観妙著 新潟日報事業者 2008年10月1日発行。
遠足、祭、バス、下駄、宣伝カー、いずもや、しながわ、、、。
懸命な生活の中にあふれる精一杯の楽しみと将来への希望が切り取られている。

 

見終わって帰路はいっとき吹雪きとなった。以下は髙田公園の様子。
あらためて当地の冬はモノクロだと思った。齋藤真一氏ではないが、そこにあって最も鮮やかな色は、人間の熱い血の色なのだろう。

 

 

 

 

いまだ探訪つづく庚申塔。樹下美術館から最も近い場所が頸城区日根津に見つかった。それまで大潟区は内雁子の塔が7,3キロだった。それが日根津で7,0キロに縮まった。日根津は今の所知り得た、頸城区内で唯一の庚申塔でもある。本日日は暮れたていたが折角の外出、妻を連れて再度訪ねた。

 

日根津は願成寺境内入り口に、六地蔵と如意輪観音と共に手前に建っている。

以下は過日訪ねた時の写真です。

上部に日・月が彫られ、合掌する青面金剛は宝剣と羂索それと体に巻き付いた?何か太い物を後ろ手に掴んでいる。この手は弓と矢を持っているものが多いが、まさかヘビなのか。浦川原区有島でも似た形を目にしていた。

有島の庚申塔。六臂の腕の出方や角度、持ち物、太い足腰の三猿などは両者でかなり似ている。
太いものを二重に撒いているが、まさか同じ石工(いしく)ではないだろう。この地方の一種定番だろうか。

妻のことども。

2019年1月23日(水曜日)

昨夜半のいっ時かなり降っていた雪だったが、朝には止んでいた。幸い積雪はわずかで、地面が見えているところもかなりある。
今冬、予報では降る降ると言われながら海岸部は小雪のまま推移しいてとても助かっている。
そんな日頃、本日は妻の事どもを二つ。一つはお花、もう一つは昼食をあげてみました。

仕事場待合室前のお花。

 

待合室のオモト。

 

本日の昼食、熱いあんかけ五目麺。妻は何でも作り、本日も麺少なく具は沢山で、いつも感謝している次第です。

いつしか1月は下旬、現在3月15日の開館に向け購入した図書の資料を作っているところです。ジャコメッティやルオーの画集、ほか魅力的な川瀬巴水の版画を取り上げた別冊太陽などはお勧めです。小鳥や庭の写真集などを含めて10数冊を新たに準備しています。どうかご期待ください。

過日の柿崎区は密蔵院彫刻の作者が江戸彫りの五代後藤茂右衞門であれば。

2019年1月21日(月曜日)

去る1月17日に柿崎区は密蔵院護摩堂の彫刻を掲載しました。
実は彫刻は二つの部分があり、お堂の周囲の広縁に沿った壁面は中国の故事に由来する物語が、高い軒下には天女が彫刻されていた。210×260㎝(縦×横)の彫刻が4面ある壁面部分は容易に手が届くため金網で保護されている。一方天女たちは高所のためであろう網はなく、じかに観ることが出来る。

掲載した写真はいずれも女性の像で、表情豊かであり特に興味深く観た。お堂脇に護摩堂の説明板にあり、末尾に彫刻の作者として、浅草、茂右衞門 髙田、又吉 万吉 重五郎 と書かれていた。

 

この彫像には知的な表情が窺われる。

 

 

面長うりざね顔の女性達は浮世絵で見慣れている平板な姿と異なり、血が通い豊かでリアリティがある。また色塗りされていないため、木目が活かされていっそう動きや陰影に面白さが出ている。

作者が気になり、説明板にあった浅草、茂右衞門をググってみた。すると当時の社寺の木彫は江戸彫りと呼ばれ島村、後藤、石川の各家が三大系譜として上がっていのが分かった。中でも後藤家は中心的な位置づけにあり、後藤正網は初代茂右衞門を名乗り、代々襲名され幕府御用彫物師を継承する一門とあった。特に文化年間のはじめ頃の五代茂右衞門は優れた人で、多くの門人を輩出している事がうかがわれた。
当密蔵院の建立は文化11年から足かけ4年を要しているので、もしかしたら五代茂右衞門の可能性もある。説明書きの浅草、茂右衞門がその人であれば、同寺の彫刻はいっそう貴重なものに感じられるが、果たしてどうなのだろう。

ちなみに説明板にあった髙田、万吉 又吉 重五郎は分からなかった。しかしいずれにしても三人の彫工は江戸の名工茂右衞門を頭領として喜び勇み仕事に励んだことだろう。文化、文政の自由で一段と豊かな文化が花開いた時代は人の往来も活発で、地方と中央が盛んに交流しあったことが窺われる。
ところで五智国分寺の三重塔の彫工は髙田の倉石正義と記されている。あるサイトで倉石(後藤)正義と記されていたので、やはり後藤流の人だったのか。先の三名から少し時代が下るが髙田文化の一端が垣間見られて嬉しい。

上述の三大家の一つ石川流にはあの魚沼は西福寺の開山堂などを彫った雲蝶がいて、明治、大正時代を通して近代彫刻へと道を拓いた高村光雲は後藤流の系譜の人だという。

暖かくなったらまた密蔵院を訪ねてみたい。

上越市は寺町、浄興寺(歓喜踊躍山浄土真宗興行寺)さんの窓。

2019年1月19日(土曜日)

年6月に火頭窓から始まった二十三夜塔と庚申塔巡り。しばらく窓から離れていましたが、本日その変わり形と思われる窓を記してみたいと思います。

 

実は昨年秋に上越市寺町の浄興寺を訪ねていました。胸がすくような規模の大きい名刹ですが、拝堂と本堂、拝堂と宝物殿を結ぶ回廊に変わった窓の設えがあることに気がつきました。

 

矢印の窓です。拝堂向かって右の回廊にも見られます。

 

大きくしてみました。これまで見てきた火頭窓は上から二つ波を描いて下へ真っ直ぐ、あるいは広がって下がり、底は水平でした。
しかし上掲の窓は下部が曲線を描き、底の部分に変化を付けて、全体を丸く横長にしています。色々検索してみても、中々このような形が見当たりませんでしたが、とても上品な印象を受けました。

ところが過日の柏崎行きでは、二カ寺で少々似たような窓に出合いました。

 

大久保の西光寺山門。窓を以下に大きくしてみました。


左右が下に向かって丸くなり、底の部分に二つ返すようなた変化が付けられています。

さらにその後の市内西本町の専念寺で以下の窓に出合いました。

本堂左右の窓に注目して以下に拡大してみました。

装飾窓のようですが、上掲した二つと同じく左右は丸みをおび、下枠に二つの波のようなあしらいがあります。当寺院の宗派は浄土真宗浄興寺派とあり、本山である髙田寺町の浄興寺に少々ならったのかな、と当日思いました。

ネット検索の結果、ふとしたことから茨城県常陸太田市の古刹、佐竹寺本堂の両隅に以下のような窓があることが分かりました。

拙いスケッチで申し分けありません。前記した三つをまとめたような形状でした。

さて以上本日示しました窓は、いずれもてっぺんの宝珠を思わせる丸みに続き、以後の丸みが下ですぼまり、左右結ばれています。また下の枠部分に波のようなあしらいも共通し、一般的な火頭窓とは異なっていました。
何か名前があるのかと思いましたが、唯一見つかった佐竹寺では火頭窓と記されていました。
普通の火頭窓よりやや手が混み、かつ上品に見える窓はどこか雲をも思わせましたので、雲居窓などと読んでみたくなった次第です(もちろん雲居窓でググっても出てきません、、、)。

最後におまけですが、浄興寺さんの門前に久家堂という仏具屋さんがありました。

前と脇で形が異なりますが、いわゆる花頭窓風でしたので少し驚きました。

これまで話題にしてきました火頭窓ですが、火灯窓、花頭窓、華頭窓ほかいろいろな書き方があるようです。
次から花頭窓と記載したいと考えましたので、どうか宜しくお願い致します。

冬の看取り 柿崎は密蔵院護摩堂の天女像彫刻。

2019年1月17日(木曜日)

度々の寒波が報じられ、寒風が吹き付けているが仕事場の上越市大潟区は殆ど積雪が無い。

零下になる時間もある厳しい寒さの中、昨日から三件の看取りがありました。100才を越えた方、100才が近い方。ご家族による暖かな在宅介護のもとで、肺炎も無く静かな旅立ちをされました。

そんな本日は昨年秋、柿崎は米山薬師の別当寺密蔵院を訪ねた折に観た護摩堂の彫刻を掲載してみました。精緻に彫られている天女たちは麗しく気品があり素晴らしかったのです。市の案内によると、一度失われたお堂は文化11年から足かけ4年を掛けて作られ、彫刻の記載に浅草、茂右衞門 髙田、又吉 万吉、重五郎 とありました。浅草の彫刻師を頭に髙田の彫工たちが一緒になって完成させたのでしょう。

この寺院は近隣の上下浜海岸や上下浜駅、楞巌寺とともに映画「ふみ子の海」のロケ地でもあります。

 

 

 

 

このたび亡くなられた方達は皆様大正のお生まれ。ご本人ご家族とも先の戦争の影響を濃く受けて苦労された世代だと、ある僧侶から聞いたことがあります。

心からご冥福をお祈り申し上げます。

後からでは遅い「もっと親に聞いておけばよかった」。

2019年1月16日(水曜日)

過日ある方から明治13年、小山作之助16才における上京について、長野まで徒歩だった事は分かっていますが、その後はどうやって行ったのでしょうかと訊かれた。
私たちの家は作之助の母トヨの実家であることなどから、よくこのような質問を受ける。だが祖父の顔もしらない私にその13才年上の兄作之助の事などまず分からないというのが正直なところだ。
但し父は生前作之助を叔父さんと呼び、学生時代の東京生活で度々自宅を訪ねた事が作之助の日記にも記されている。作之助はある程度研究されているが、青春期になぜ親に黙ってまで上京したのか、如何にして音楽を志したのか、などはやや判然としていない部分がある。
このような事は生前本人に会った人であれば直接詳しく訊けたはずであろう。だが残念ながら私は亡き父に詳細を尋ねたことがなく、一方小山家の方でも細かに話す人がいなかった模様だった。今なら少なくとも父には一種執拗に尋ねてみたいところだが、残念というほかない。

話変わって、日頃あれこれ親に聞いておけばよかった、と思うことは多い。晩年の母にはかなり聞いたが、父には満州でのことをはじめ祖父母、さらに曾祖父母の人ととなりなどを、ほとんど聞いていなかった。
一つ言えることは、若き私自身それらに熱心な興味を抱いてなかった、ということがあり、もう一つ、父は煙たい存在だったというのもあった。
万一父にも私と似たような事情があったならば、その親や祖父母についてもあまり訊いていなかったかもしれないが、どうなのだろう。
ただ、12人兄弟姉妹の長男だった父の学生時代、帰省するとまた新しい兄弟が生まれていてイヤだった、と聞かされたことがある。また祖父の度々の事業加担と失敗、祖母の贅沢などで借金がかさみ、その返済のため現金を求めて満州に渡らざるを得なかったことを苦々しげに話したことはあった。
お盆になっても父は墓参りをしなかったのは、そんなこともからんでいたのだろうと、思っていた。
何かと口を閉ざす父に代わって、叔父叔母たちが曾祖父の断片的な逸話を話すことがあった。
写真なども無い曾祖父・貞蔵については、医者であり、生前幼い孫達を座らせては漢文を教えていたことを聞いた。語られたのは、不勉強の際、掛け軸を掛ける竹棒でピシャリと叩かれたことばかりなので、せがんで容姿や仕事ぶりなども訊けばよかった、と振り返っている。
(※貞蔵の作之助への生活支援に対して、作之助から送られた月々の小遣い帳が一通だけ残っています)

冒頭の作之助の明治13年の上京に戻すと、村上一郎著「おもかげ(伝記・小山作之助)」には吹雪の大田切小田切を倒れそうになりながら懸命に歩いたとある。ほかに父か叔父叔母から、ある日の宿泊は旧信濃追分の油屋旅館、その先は安中という話を聞いたような気がするが、自信はない。だが作之助の上京当持、高崎線、信越本線の開通はまだ先のことなので、すべて徒歩だったのは間違いないことだろう。

現在寿命はどんどん延びている、そのどこかで親に聞きたいことがあれば遠慮なく尋ね、親は伝えたいことがあれば、つまらない話と言って喋ってみるのも悪くないはずである。

庚申塔その14,三度目の柏崎に歴史と信仰の重量感、そして貞心尼の墓。

2019年1月13日(日曜日)

本日如何にも降りそうな空が我慢をしてくれた日曜日、再度柏崎を訪ねた。このたびは妻も一緒で11時に出発した。まず過日の笠島は多聞寺で庚申塔はじめ石仏を見て港へ降りた。

出がけの柿崎で、雲が退いていく米山を眺める。
今日はこの山の向こう側を訪ねる。

 

笠島は多聞寺の後、先日の弁天岩を俯瞰して見る。

 


降りて行って岩に登ってみた。
高い所へ上がると童心に返り、とても楽しい。

笠島を後に柏崎市街へ。念願の貞心尼の墓碑がある常盤台(ときわだい)の洞雲寺(どううんじ)をはじめて訪ねた。
貞心尼は寛政10年(1798)に長岡藩士の娘として生まれ、23歳の時柏崎で仏門に入り、明治5年75歳でその生涯を閉じている。29歳で晩年の良寛を知り和歌を通じて細やかな師弟関係を続けた才人であり、容姿も非常に美しかったという。

 

洞雲寺山門。

 

本堂などを見る。

 

この門をくぐって貞心尼の墓に上っていく。
冬真っ最中のため杉落ち葉が多い。

 

途中の案内。

 

最も高い所に貞心尼(孝室貞心比丘尼:こうしつていしんぴくに)の墳墓。

墓は弟子の二人の尼僧、乾堂孝順比丘尼と謙外智譲比丘尼によって建立され、以下の辞世の歌が刻まれている。
「くるににてかえるに似たりおきつなみ立居は風の吹くにまかせて」
人生は沖の波のように行くも返すも似ている。私の身も立つ波と風に任せ、あるがままを受け入れよう、という主旨なのか。

貞心尼は長岡の少女時代に柏崎に連れてこられ、初めて海を見て感動、以来同地にあこがれを抱いていた。魚沼地方の医師と結婚するも離婚となった後、望み通り柏崎に移り住んだ。そこで二回の庵を編んだが、いずれも焼失の憂き目にあっている。
“くるににてかえるににたりおきつなみ、、、”
大好きだったであろう海を詠みこんだ歌には、勤しみと受容の人亡き師良寛の辞世とされる以下の句と似た観点を感じる。
「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」
良寛はもみじに貞心尼は波に生涯を重ね、二人とも自然と同一化している。最後まで固き師弟であろうとした心情が想像され、胸打たれる。

 

鐘撞き堂。触るように撞いてみたらぽーん、と柔らかい音がした。

洞雲寺を後にして、大洲に入り過日の大聖院で庚申塔群を拝観し、小久保1の西光寺へ。同寺は先日一人で訪ねた折、山門が印象的でまた周辺の様子が清々しく、門前の庚申塔と二十三夜塔が立派だったので案内した。

 

鵜川沿いの道を上って行くと右手に庚申塔が並ぶ。

 

 

文字塔の中に青面金剛の石仏塔が入り、右端に二十三夜塔が建っている。
堂々たる揃い踏み。

 

 

色鮮やかな山門は昨年長崎を訪ねた時に見た寺の門を思い出させる。

 

西光寺を後に鵜川を渡ってすぐの御嶽山神社へ。

 

まだ初詣で賑わう御嶽山神社で破魔矢を求めた。

その後の西本町は香積寺であの猿が掘り出された庚申塔と柏崎勝長公の碑を拝観した。

柏崎市は至る所に社寺があり、予定の行程は忙しい。香積寺を辞して近くにあるはずの柳橋道祖神社を探したが、見つからず一息付こうとファミレスで遅い昼食をとった。柳橋は諦めて次の目的地比角(ひすみ)と日吉で目指す庚申塔を探した。来た事が無い場所のため、中々上手く行かない。
すると予定になかった所で庚申塔と出合った。

 

 

何と読むのだろう、扁額に鏡日吉神社とあった。

 

 

こんな風景は自分の近隣で見られないのでとても嬉しい。

 

 

青面金剛(しょうめんこんごう)が左手にしているのはショケラか。
過日浦川原東俣で見た金剛は髪を掴んでいたが、この塔では胴を握っている。
荒ぶる仏、こわもての青面金剛はしばしば「女が嫌い」と伝えられている。
ショケラ(半裸の女性?)を鷲づかみしているのは姦通への戒めなのか。
男性本位の庚申待ちで、女性だけ乱暴に扱われているのは気の毒。
そんな空気の中で、女性たちが二十三夜の月待ちを行った気持も頷ける。

 

 

この金剛は邪鬼に乗っている(踏んづけている)。
その下に不見、不言、不聞の三猿。

 

 

浦川原と同じくどことなく可愛い邪鬼、猫みたいだ。

 

 

角形の文字塔にi刻まれていた「西野入村 石工(いしく) 善八」の記銘。
善八(ぜんぱち?)さんとはどんな人だったのだろう

 

 

こちらには比角村講中と彫られている。
※講中:庚申待ちごとに決まって集まる地域の仲間。
現在柏崎比角は街中だが、塔には村とある。
村とはいえこれだけの石塔を残している。
そこにどんな時が流れていたのだろう。

 

 

同社にあった石祠(せきし)は窓?がハート型になっている。
ほかの神社でこの形が逆さになっている石祠を見た。
若い人達が見れば喜びそうだ。
この形は古来社寺に於いて猪目(いのめ)と称され、魔除けの働きを附されているらしい。
イノシシの眼のことらしいが単眼を形容したものか、双眼を捉えたのか分からない。

比角、日吉で目指す護摩堂や地蔵堂が見つからず、時間を浪費した。8号線から252号線に入り南下して安田方面へ向かった。出発してすでに6時間近く経ち夕闇が迫ってきた。

 

探していた安田明神は無かったが、鳥越という場所で二基の庚申塔に出合う。

 

 

暮れる道をさまよう私たちを待っていたかのよな庚申塔。
右の屋根を冠したような石塔は珍しいかも知れない。

鳥越のあと、山沿いに帰路を取ると立派な寺院に出合った。如何にも寄って行け、という風情の慶福寺だった。

 

 

 

階段を上ると山門前に苔むす庚申塔。これも予定に無かったので嬉しい。

 

 

立派な本堂に火頭窓が三つ、朗らかに迎えてくれた。
杉木立の上に細い月が昇っていた。

帰路を急がなければならない、鯨波へのバイパス?を走った。真っ直ぐだと思っていたが山中をかなり曲がりくねる。鵜川に出たところで、左・佐水、と記されている。暮れていたが佐水の名が良かったので左折した。
右岸(西)に見えていた米山に代わって遠くに尾神岳が見えてくる。見なれた山容の裏手を走り旅情がつのる。ひなびた旅館でもあればいいのに、と妻が言うが夢のような話である。

 

 

地名は分からないが暗闇の川沿いに二十三夜塔があった。

 

 

橋を見つけて鵜川を渡る。右向こうに雲がかかった尾神岳。

 

 

墨絵のような鵜川が冷たそうだった。

家に帰るとお腹が空いていて、妻は豚汁とお茶漬けを用意した。
わずか4,50キロ先なのだが、とても遠い所へ行ったような気がした。
三回に亘り、探訪したのは柏崎市の一部をほんのちょっぴり。
だが同地は随所に社寺があり、人と信仰の距離が大変近い印象を受けた。歴史が古く地域に重量感と物語を、また社寺の宗派、系統も多彩で人の寛容さを思った。
周辺に魚沼と似た空気を感じ、市街地は都会的でますます興味深い。よくスタッフさんやボランティアさんが樹下美術館を訪ねて下さるドナルド・キーンセンターは勿論、まだまだ多数あるらしい庚申塔、二十三夜塔、火頭窓、貴重な史跡などさらに訪ねてみたい。
また帰路に垣間見た整備された広大な湿地の自然にも惹かれた。

随分長々となり申し分けありません。

柿崎海岸の波 今の所の小雪、出番が来ない除雪機。

2019年1月11日(金曜日)

昨年末から何度か大雪寒波が予報された。しかし平地、なかんずく沿岸の美術館や診療所の一帯ではごくわずかな雪がみられるだけで推移している。

午後休診の一昨日は行きつけている柿崎海岸を歩いた。しばしば柿崎の海を歩くが砂浜が保たれているからだ。
およそ柿崎以西にある大潟区~黒井の海岸は1970代から激しい浸蝕にあい、懐かしくも美しい砂浜が失われてしまっている。それで砂浜を歩きたいときは柿崎海岸へ行く。

 

冬の柿崎は大きな波が打ち寄せると砂浜に上がってきてしばらく溜まる。
波の動きは激しくあるいは滑らかに形を変えるので見ていて飽きない。

 

何人かの人と出合った。

はや1月はなかばに掛かり、暦の上では冬の半分が終わろうとしている。いま小雪だが本番はまだ先かも知れない。
ところで昨年の大雪に懲りて除雪機を買ったが出番が無い、と仰る方いた。昨年購入した私たちの機械はテスト的に一回だけ使った。

除雪機は案外大きく置き場所に困る場合がある。それで春になると来冬まで預かる販売店もあるようだ。先ほどの方は、自分で屋根付きの置き場を作るという。時々こういう器用な人に出会うことがあり感心させられる。

母校からホームカミングデーの記念品。

2019年1月10日(木曜日)

数日前に母校から包みが送られてきた。開けてみると色々と入っていて、昨年10月に行われたホームカミングデーの記念品だった。
「ホームカミングデー」とは大学が年一回、卒後25年と50年に当たる学年を母校に招待し、祝ってくれるイベントで、今年11回目ということだった。
誠に残念なことに当日用事があって出席できなかったが、この度記念品が届いた。資料を見ると対象者が64名で当日26名が出席していた(90名ほどで卒業しました)。
                                       

Golden記念表彰と書かれたプレート。
ゴールデンとは卒後50年生で、25年生はシルバーと呼ばれるようだ。
仕事場の机に飾っておこう。

 

 同封された冊子とCD。
校歌(斎藤茂吉作詞)および当日の式の模様や学生時代のアルバムなどが同封され、ネクタイがプレゼントされていた。

ネクタイは百合をシンボルとした母校の校章が織り込まれている。

 以下送られたCDからの写真です。

「昭和大学ホームカミングデー お帰りなさい!想い出の母校へ」の垂れ幕。
当日このようなものを見たら胸が熱くなったことだろう。


綿密に準備をされた大学関係者、同窓会、招待学年有志に心から感謝したい。
この度は50年は医学部のみ、薬学、歯学、保健の各学科は創立50年未満のため25年表彰者が招待された。

在校生による室内オーケストラの演奏。
式典後チアガールと応援部による卒業生へのエールが送られ記念の会食をしている。

基幹校舎と病院がある品川区旗の台へは学生時代は大岡山から大井町線で、病院時代には洗足池から池上線で通った。
母校は入学以来薬、歯、薬、保健の各部が次々に造設され医療系総合大学に成長している。
当時5棟程度だった旗の台の基幹施設は現在22施設棟に拡充され、都内および横浜の大学病院は3100余ベッドにまでなった。

学校のモットー「至誠一貫」をどれだけ実践できたか自信はない。
卒後50年、仕事を続けられたのは皆様のお陰であり、このたびは母校のお陰でもあると思った。

本日からブログ(樹下美術館館長のノート)の様式が変わりました。これからもどうか宜しくお願い致します。
本日は大変に寒い一日、髙田で最低気温-4,1でしたが、現在美術館で10㎝程度の積雪です。

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