2025年6月19日

保育園時代の記憶その1、巡幸列車のお迎え。

2025年6月19日(木曜日)

終戦後昭和天皇は全国を巡幸(じゅんこう)されました。調べると昭和22年10月8日、長野県→直江津→長岡→新潟へと回られたとありました。私の5才の時です。

巡幸当日、列車が通過する松林へ万歳をしに皆で行った断片記憶があります。その時、分校(中学校)の脇から松林を下って線路に出ましたので分校時代と記憶してました。しかし巡幸は昭和22年ということなので5才の保育園の時という事になりました。

当時の潟町では西念寺さんの坊守(ぼうもり)、徳山ミサオさんが保育園を開園されておられ、私も入学前の一年間、お世話になりました。ちなみに西念寺さんと中学校(分校)は目と鼻の先でした。保育園時代の記憶は二、三の断片しかありませんが、巡幸列車(お召し列車)のお迎えはその一つです。

園長の徳山先生は小柄ですがキリキリとして上品な方。先生には騒いで叱られた記憶がありますので、陛下を迎える礼や万歳は厳格だったに違い無いありません。

実際松林の小道を清々しい気持で下りましたが、線路脇の整列あたりからとても緊張しました。普段危ないと言われている線路に沿って並ぶのも緊張なら、列車に向かって万歳をするのも初めてです。

緊張のほか特にこの日のことが頭に残っているのは“長く待った“からでした。待っている間礼や万歳の練習をしたように思うのですが、とにかく長く待ちました。

そうこうするうち列車がやって来ました。 何両か客車が連結されていますので何処で礼をし万歳をすればいいのか分かりません。ゴーゴー!と近づく列車に向かって頭を下げたあと、万歳!万歳と大声を上げました。

私達は陛下の姿が見られるとばかり思っていました。しかしどの車輌も窓が閉ったまま通り過ぎるではありませんか。諦められ切れず去って行く列車に向かってまた万歳、万歳と叫びました。爽やかに下りてきた松林を、見えなかった、見えなかった、と言いながら帰ったという訳です。

ちなみに徳山ミサオ氏は上越夫人協議会会長を歴任され、懸案の髙田養護学校設立に大変な尽力をされました。

次は保育園時代の記憶から「豚小屋の雨宿り」か「映画 鐘の鳴る丘」を載せてみます。

暑くなり、夕刻の海が恋しくなってきました。

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