齋藤三郎(陶齋)
深田久弥著「わが愛する山々」の火打山と齋藤三郎。
去る6月26日のブログ「齋藤三郎とゆかりの人々展その9」で登山文学者・深田久弥に触れさせていただいた。その折り著書「わが愛する山々」に火打山があり、そこに齋藤三郎が出てくることを書かせて頂いた。
幸い文庫本サイズの本はネットですぐ買えた。今回、北は斜里岳から南は九重山まで取り上げられている23の山に関する著述から我が齋藤三郎が登場する15ページにわたる火打山をご紹介してみたい。
深田久弥著「わが愛する山々」 山と渓谷社発行
2011年6月5日初版第1刷の2020年4月5日初版第2刷
出身地が福井県大聖寺の深田氏は1960年三月下旬の白馬山麓のスキーで妙高連山を見て以下のように述べられている。
“三月下旬ではまだ全ての山は雪を置いていたが、とりわけ火打は白かった。こんなに一点の汚れもなく真っ白になる山は私の知る限り加賀の白山と火打山以外にはない。”と感嘆される。そして妙高連山のうち火打山だけが未踏であり、是非登ろうと決心されるのである。
同年6月19日深田氏は髙田に到着。かねての読者I氏の案内で金谷山、春日山城、五智を訪ね、市内で山岳講演をされる。この間に終始上越山岳会副会長の饒村義治氏(小生高校時代の恩師)と髙田山の会会長の齋藤三郎の世話になったと記されている。
翌朝田口駅(現妙高駅)でパーティー9名が全員集合。そのうち上越山岳会の一人は私の中高時代の二つ上の先輩松川太賀雄さんだった。9名のうち7名が若者、残りの深田夫妻と齋藤三郎の三人が中年という具合ながら、深田氏からムッシュと呼ばれた齋藤氏は若者に劣らず山で強かったと書かれている。
読み進むにつれ地元の山男たちは深田夫妻の“お供をする”などというものではなく、途中途中の美しい景観や可憐な花々を案内、楽しい休憩と山菜採り、さらに用意した山海の珍味で深夜に及ぶヒュッテでの宴など、登山を通して精一杯の“もてなし”をしたことが分かる。
景観を愛で行程と地元の風土に親しむ。登頂に成功するばかりが登山ではなく、断念の山行にも楽しい思い出がいくつもあるとする深田氏の登山哲学を理解し、壮大な火打山をもって夫妻を温かく迎えた上越の山男たち。本は劇的な自然と人々の行為が織りなす文学として感動的に綴られていた。
一行は赤倉温泉でお別れの晩餐をする。そこで、上越山岳会は先鋭分子だが、齋藤氏が会長の髙田山の会は、生け花や謡曲の会と並んで文化団体として扱われていることが披露され大いに盛り上がり、どんな山の登り方があっても良いと、記されている。
火打山で出会った深田久弥と齋藤三郎は後も交流されました。
齋藤三郎ゆかりの人々展 その12 サントリーの人々および齋藤尚明(二代陶齋)。
齋藤三郎ゆかりの人々展の展示紹介は本日のサントリーの人々およびご三郎氏の次男、二代陶齋齋藤尚明氏で一応の終わりになります。
齋藤三郎は戦前戦後、サントリーグループ分けても創業者の鳥井家と幾つかのエピソードで交わりがありました。
一つは戦前です。三郎は近藤悠三、富本憲吉の許で足かけ7年の修業を昭和12年に終えます。その後京都で一時活動した後、サントリーグループの創業者鳥井信治郎が寿屋社長時代に宝塚市雲雀丘(ひばりがおか)の自宅に開いていた陶房「壽山窯」で昭和13年から数年間活動しました。
同所には複数の陶芸家と画家が所属し「壽山荘同人」という名で作品発表が行われていました。阪急百貨店における作品展の案内には三郎の師である近藤悠三の名も見えます。
案内で齋藤三郎の紹介は「斯界(しかい)の大家富本憲吉につき作陶法を修められ、毎年の国展に出品される方。壽山窯現在の責任者でゐられます。」とあり、高い評価と信頼を受けていたようです。
※斯界:その道の専門家の人々。
その後のエピソードは後に述べさせてください。
昭和15年前後、寿山荘同人による陶器、絵画作品展の案内。
壽山窯時代の三郎は信治郎社長はじめご家族とも親密だったようだと、次男尚明氏が述べられています。戦後三郎が髙田で開窯した後、大阪の阪急デパートで作品展を行いますがこの催事でも鳥井家のお世話になっていることが伺われます。
鳥井信治郎の次男でサントリー(株)の前専務取締鳥井道夫氏はかって岩の原葡萄園の社長として髙田を訪ねては三郎の窯に寄りました。陶房における二人の写真を展示ボックスに掲げています。
このたび「齋藤三郎ゆかりの人々展」で、サントリーの人々の展示の相談をさせて頂いた取締役副会長の鳥井信吾氏(道夫氏のご子息)と通信する機会がありました。
その折、「齋藤さんから食べ方の図と共に送られてくる空豆がとても美味しかった」と述べられていて、温かな交流の一端を伺うことが出来ました。
2010年樹下美術館を訪ねられた鳥井信吾氏(前列中央)。
美術館スタッフとともに、左は当時の岩の原葡萄園坂田敏社長。
この写真も展示中であり、小さなボックスは一杯です。
サントリーグループの岩の原葡萄園のワイン「深雪花」。
1991年(H3年)同葡萄園創業100周年記念として販売開始された。
齋藤三郎の雪椿図色紙がラベルに用いられている。
さて最後のゆかりの人々紹介は“ゆかり”どころか、齋藤三郎の次男二代陶齋齋藤尚明さんです。
1950年(S25年)年上越市生まれ。1973年京都の白磁の第一人者竹中浩に足かけ7年間師事。ちなみに竹中氏の師は三郎の師でもある近藤悠三でした。
1979年修業を終え帰郷、晩年の父と共に作陶。栃尾美術館などの親子展や銀座松屋デパート始め県内外で発表のかたわら中国景徳鎮を訪ねて研鑽、2000年父の窯を継承し二代陶齋を襲名。師から修得した発色の美しい白磁、丹精込めた色絵磁器を鋭意発表しています。
氏の幼いころ、三郎氏とともに私どもを訪れ海で遊び、夕食は母が焼く餃子を皆で腹一杯食べました。あの餃子は美味しかった、と今でも口にされます。
岩の原葡萄園で展示される尚明氏の色絵椿文大皿とワイン「雪椿」と「善」。
15年の同園リニューアルを記念して発売された「善」には尚明氏の椿が
ラベルに描かれている。
そしてこの度のゆかり展の展示です。
氏が修業した京都風に言えば“はんなりした”風合いの「色絵市松文水指」。
とても目を惹きます。
父三郎氏の「色絵どくだみ文水指」と一緒に親子一つのボックスに展示しました。
現在週末に行われている薄茶の茶会で用いられる同水指。
展示中ですが、茶会の午後だけ茶席に移動します。
棚の上に父親三郎氏の薄茶器が置かれています。
●今後のゆかり展記念茶会は7月16日(土)、24日(日)、30日(土)および8月7日(日)です。
●1席目は午後1時から、2席目は午後2時30分からです。
●コロナに配慮し1席6名様まで。茶室は雨天以外窓を開け、お飲み頂く以外はマスク着用をお願いしています。
長々となりましたが、これで「齋藤三郎ゆかりの人々展」で展示される人々の紹介を終わります。途中からスペースの関係で黒田辰秋の展示を取り止めましたことをご報告しお詫び申し上げます。
齋藤三郎ゆかりの人々展 その10 坂口謹一郎 すでに酷暑。
「齋藤三郎ゆかりの人々展」の紹介は農化学者、発酵微生物学の坂口謹一郎です。
坂口謹一郎:1897年(M30年) – 1994年(H6年)上越市生まれ 97才没
東京帝国大学農学部卒業、同大学で発酵を研究。後に沖縄戦で絶滅の危機に瀕した焼酎の発酵菌(黒黴)を救済、岩の原葡萄園における日本初ワイン醸造の成功ほか内外の発酵化学に尽力。多くの著作と映像を残し文化勲章を受章。歌に優れ歌集を著し陶芸の造詣も深く、後年は齋藤三郎を支援し氏の葬儀では弔辞を読んだ。上越市頸城区に杜氏技術の展示場と椿の庭を有し資料を展示する坂口記念館がある。
以下は坂口謹一郎の展示品です。
齋藤尚明(二代陶齋)が成形した器に書き入れた染め付けの湯呑。
以下は坂口氏の色紙です。
椿と雪のふる里を愛した色紙。
齋藤三郎ゆかりの人々展の展示紹介は今後サントリーの人々および松林桂月、そしてご子息の尚明氏(二代陶齋)を予定しております。
おしるし程度の梅雨が終わるや、厳しい暑さが始まりました。すでに熱中症の方が来られます。
「強いだるさ」「急な吐き気や食欲不振」「足などの突っ張り」「頭痛時に発熱」。このうち二つがあれば該当するかもしれません。急に来ますので、あらかじめの水やミネラルウオーターの用意そして補給は本当に大切です。
齋藤三郎ゆかりの人々展 その8 小杉放菴、黒田辰秋(たつあき)。
小杉放菴:1881年(明治14年)12月30日栃木県生まれ 82才没。洋画家で出発し大正時代に日本画を描き始め東洋へ傾倒し東大安田講堂壁画「泉」を制作。歌人・随筆家としても高く評価され、大正時代末に未醒から放菴へ号を変える。
1932年(昭和7年)現妙高市赤倉に安明荘と名付けられた別荘を建て、昭和20年東京の家が空襲で焼失するとそこを家とし終生居住した。上越文化懇話会の発会に際し濱谷浩、堀口大学らと共に顧問となっている。
洋画日本画を問わず広く画壇や文化界に人望があり、また恵まれた体躯を活かしスポーツに優れ特にテニスは有名だった。
以下展示物の一部です。
短歌と随筆の「山居」。昭和17年3月30日 中央公論社発行。
花鳥風月、戦争、内外の旅行記、確かな眼差し。
しばしば妙高連峰が取り上げられ、特に妙高山を讃えている。
掛け軸「水閣」
悠久の自然と人間が触れあう場所の安寧。
どっしりと丸みをもって自然を描いている。
舟で笛を吹く色紙「風月」。
風も波も音色も、人の心も心地良く揺れる。
金の地色は月の光なのでしょう。
良寛禅師を敬愛し多く師を描いた。齋藤三郎は赤倉の放庵を訪ねて交流した。
続いて工芸の黒田辰秋です。
1904年(明治37年)9月21日京都市生まれ 77才没。漆芸および木工家。斬新なデザインと力強い作品は広く愛され、昭和45年に人間国宝に指定された。
「唐物写し替え茶器」
齋藤三郎は1932年(昭和7年)、22才から始めた富本憲吉への師事を終えると25才からサントリーの創業者鳥井信治郎が神戸市雲雀丘(ひばりがおか)で営む壽山窯(じゅざんがま)の同人となり制作。その後28才で藤沢市鵠沼の陶房に入り活動。この時近隣で仕事をする黒田辰秋と親交した。仕事場一帯は一種文化村の趣きがあり画家・麻生三郎のアトリエも近かったという。鵠沼で応召されるまで活動し、爽やかな呉須掻き落とし草文瓶が残っている。
次回は登山文学者・深田久弥と微生物学者・坂口謹一郎です。
本日展示をお休みとして開催準備をしました。狭い場所をがらりと変えてかなり大変でした。中2日さらに準備をして23日開催初日です。少しでも皆さまに楽しんで頂ければと願っています。
齋藤三郎ゆかりの人々展 その7 會津八一。
會津八一 1881年〈明治14年〉8月1日 新潟市生まれ 84才没。歌人、書家,、美術家 秋艸道人(しゅうそうどうじん)と号した。青春時代から万葉集や良寛に親しみ、2006年早稲田大学へ進み、卒業すると現上越市板倉区の旧有恒学舎で英語教師をする。かたわら奈良の仏教美術を研究、仏への讃歌を詠み1924年(大正13年)初の歌集「南京新唱(なんきょうしんしょう)を著す。
後に早稲田大学で文学部ついで芸術学部の教授を経て晩年は新潟市で終生過ごした。奈良、仏の歌は広く愛され、書は平明さの中に心を打つ特有の味わいがあり、常に高い人気がある。
大正時代に奈良県の富本憲吉を訪ねて以来親交した。富本の許で足かけ3年学んだ齋藤三郎は満州から復員後、髙田に窯を築く昭和20年代前半から交流を始めている。昭和27年に三郎は八一から「泥裏珠光(でいりじゅこう)」の号を与えられた。
會津八一書「天半朱霞(てんぱんしゅか)」。
天空の半分が淡く茜に染まっている様の四文字。
湿気を含んだ朱色にかすむ空は吉兆らしい。
こまやかな気宇が漂う50×50㎝の書は壮大で素晴らしい。
「あせたるを ひとはよしとふ びんばかの ほとけのくちは もゆべきものを」
あせたるを、、、の短冊は優品が多いという。
色あせているから良いんだ、と人は言うけれど、もとの仏の唇は頻婆果(びんばか)の果物のように赤く燃えていたんだよ、と詠っている。
齋藤三郎の窯で焼いた八一揮毫の「養成大拙学到如愚 皿」。
“大拙を養成すれば学は到りて愚の如し”
拙さを大いに心して学べば愚の如く解放された境地に到る、という意味なのか。
大愚と称した良寛への道をあらわしていると考えられる。
1924年(大正13年)刊行の最初の歌集「南京新唱」の復刻版
中央公論美術出版昭和39年12月1日発行。
挿絵は齋藤三郎の師、富本憲吉によるふる里の民家(「大和の百姓屋」)。
展示は以上の作品と、出来れば齋藤三郎陶房で焼き物に書き入れを行う八一の写真(濱谷浩撮影)などをボックスおよびボックス脇の有孔ボードに掛けたいと思います。
これで「齋藤三郎ゆかりの人々展」のお知らせは11人になりました。
展示は18名の予定ですので、あと小杉放菴、サントリーの人々、坂口謹一郎、黒田辰秋、小田嶽夫、深田久弥、松林桂月、の諸氏7名が残ります。次回は画家小杉放菴と木工の黒田辰秋を予定しています。
齋藤三郎ゆかりの人々展 その6 濱谷浩と朝(あさ)夫人。
本日掲載の濱谷浩と朝夫人をせっかく書きましたのに、最後に手許が狂って全て消去してしまいました。以下を日付け内掲載に向けて慌てて書き直しました。
●濱谷浩:1915年(大正4年)東京生まれ3月28日 83才没
1939年(昭和14年)に13師団の冬期演習取材で新潟県旧髙田市(現・上越市)を訪れ、民俗学研究者で髙田の人市川信次と出会う。氏の助言で旧谷浜村の桑取谷で行われている小正月行事を撮影、「農民生活の古典」として感銘を受ける。その後10年にわたり同地で撮影。民俗学では市川氏のほか和辻哲郎や渋沢榮一の孫である渋沢敬三の影響を強く受け仕事の首座となった。
1944年から高田市(現・上越市)に居住。1952年神奈川県大磯町へ転居。前後を通して「雪国」「裏日本」を発表。胸まで田につかるショッキングな富山県下の「アワラの田植え」(中央公論)は農業政策の転換を促すきっかけになっている。「裏日本」は毎日出版文化賞を受賞。一方で川端康成、小林古径、吉川英治、上村松園、小林秀雄などなど数多くの優れた人物写真を撮影し出版した。
世界をも駆けさらに視野を広げ、共通する「民」に温かな眼差しを注いだ。風土に根ざす人々への視点は海外でも高く評価され、1960年日本人として初めて国際的な写真家集団マグナム・フォトの会員となった。後年ディスコでゴーゴーガールと踊る氏のスナップには、幾多の困難を越えた真に自由な人間の骨頂が浮かび印象的。
●濱谷朝 1910年新潟市生まれ 濱谷浩夫人
縁あって髙田で江戸千家茶道の教室を開く。1946年正月、ふとしたきっかけの茶事で濱谷浩と出会い、1948年髙田に在住していた堀口大學夫妻の仲人で結婚。伝統文化を守る生活のなかで終生濱谷氏を支え、謙遜と利発の古風な人柄とともに天真爛漫さを備え、日々の生活をこまやかに愛し、また人々から愛された。
展示では著書から
・齋藤三郎陶房における濱谷氏のスナップ写真。
・「福縁随所の人々」から齋藤三郎のページ(「福縁随所の人々」 著者濱谷浩 (株)創樹社1998年4月2日発行)。
・1955年発表「アワラの田植」 現代日本写真全集 第4巻。(写真濱谷浩 自由報知新聞社 昭和39年3月25日発行)。などを展示。
・ 濱谷朝追悼写真帖「女人暦日」( 1000部のコロタイプ印刷私家版)から朝夫人の数ページを展示予定しております。
「女人日日(女のひび)」 著者濱谷朝 文化出版昭和60年11月11日発行。
豊かな感性で隅々まで質素簡易に徹した生活と人生を
書き留めてある。
“人の鮮度を落とさないこと”の一言は秀逸。
味わいある独特の書体、濱谷浩揮毫「泥裏珠光」の色紙。
「泥裏珠光」は齋藤三郎が會津八一から贈られた号。
ちなみに窯の号「風船窯」は堀口大學から贈られている。
本日は前半が寒く夕方に向かって南東の風がかなり強く吹きました。夕刻、庭と芝生に撒水。春からの低温で稲の生育が遅れているそうです。
齋藤三郎ゆかりの人々展 その5 齋藤三郎窯を訪ねた俳人星野立子。
本日は濱谷浩・朝夫妻に触れる予定でしたが、朝さんの書物の写真を撮り忘れましたので俳人星野立子に致しました。
星野立子:1903年(明治36年)11月15日 生まれ 80才没 高浜虚子の次女。
立子は齋藤三郎が髙田寺町に開窯した初めのころ窯を訪ね、三郎ととも撮られた写真があります。撮影者は濱谷浩と考えられ、髙田に住んでいた濱谷氏は昭和21年、俳句誌ホトトギス600号発記念頸城俳句会で直江津を訪れた虚子、立子の二人を五智海岸で撮影していました。俳句大会は五智の光源寺で盛大に開催されましたが、齋藤三郎は寺町に窯を築く以前の時代に相当します。
直江津を訪れた親子を撮影した濱谷氏が齋藤三郎の事を話し、開窯後、立子氏が陶房を訪ねたと考えられます。また三郎が筆者の父に宛てた手紙に、鎌倉の虚子宅で焼き物窯を作る話を相談されている事、が書かれていますので、三郎は虚子とも交流したことが伺われます。
今回のゆかり展では
・齋藤三郎窯を訪ねた立子氏一行の写真。
・濱谷浩写真集「福縁随處の人びと」から五智海岸における虚子、立子のページの見開き。
・ホトトギス第600号の本。
・立子氏の短冊
をボックス内に展示したいと考えています。
ホトトギス600号記念頸城記念句会が掲載された句誌
ホトトギス発行所 昭和21年12月1日発行
展示する立子の短冊は 灰皿に茶托に桜餅の皮 立子 です。
私はこの句が好きです。
齋藤三郎ゆかりの人々展 その4 堀口大學と長女すみれ子さん。
「齋藤三郎ゆかりの人々展」の紹介がその4まで来た。
本日は詩人でフランス文学者堀口大學の番になった。齋藤三郎の師である富本憲吉、近藤悠三からはじまり、これまで6名の士に触れさせて頂いた。そのうち三人が文化勲章の受章者、あるいはそれに比肩する日本を代表する人々であり、知るほどに皆さまは大きく高くなるばかりで身が縮む思いを禁じ得ない。
さらに、そのような人々と関係し、当地の交流では「かすがい」にも似た働きを負った齋藤三郎の器量と、上越という風土の懐の深さにあらためて驚きを禁じ得ない。
●堀口大學 1892年(明治25年)東京市生まれ新潟県長岡市育ち 89才没。
有能で文芸の理解もあった外交官を父に持ち、幼くして母を亡くし、祖母のもと長岡市で育った。短歌に親しんだ青春時代は与謝野鉄幹、晶子を師とし、佐藤春夫を友(終生の友)とした。慶応大学の在学中に父の任地であるメキシコに渡り、以後ベルギー、スペイン、スイス、フランスなど多くの国々を巡る中でマリー・ローランサンやジャン・コクトーの知己を得、フランス文学への造詣を深めた。外遊中に一時帰国すると最初の詩集『月光とピエロ』を著している。
14年間の海外生活を終えて帰国。同年ベルレーヌ、ボードレーヌ、アポリネール、コクトーなど66人、340篇を集めた詩集「月下の一群」を発表、文壇に多大な影響を与えた。生涯で300にも及ぶ著作を発表し、後年は歌会始の召人にも選ばれ1979年(昭和54年)に文化勲章を受章。
上段左・妙高市、上越市時代の詩集「雪国にて」「甘い囁き」「人間の歌」など。
上段右「幸福のパン種」「虹の館」「水辺の庭」など長女堀口すみれ子さんの著書。
手前写真左・髙田に於ける堀口大學ご家族、右・齋藤三郎窯に於ける先生。
写真は「虹消えず 又」 堀口大學先生三周忌追慕写真帖の見開き。
(1983年3月15日私家版 撮影・発行濱谷浩)
堀口大學の妻マサノは現妙高市出身。昭和19年一家は妙高市に疎開。21年髙田南城町に移り、25年に葉山町へ転居するまで足かけ7年を上越で暮らした。
●長女堀口すみれ子さんは昭和20年生まれの詩人、エッセイスト、料理家。髙田で幼少を過ごし濱谷浩夫人朝さんの寸雪庵で茶の稽古をされている。爽やかな著作の行間には風や水の音が聞こえるのを覚える。
●来たる7月9日土曜日、午後3時から堀口すみれ子さんの講演会「父堀口大學と上越そして齋藤三郎」を催します。これで樹下美術館4回目になるすみれ子さんのお話、前回は2014年でした。涼やかな声で語られるお話をどうかお聴き下さい。
●講演会お申し込みは 電話025-530-4155(良い午後)でお願い致します(入場料お一人500円です)。
鼠地に蝋の筆で書き抜いた色紙。
「槍にはたんぽ 筆にさや 埋み火にこそ 手はかざせ」
「埋火(うずみび)にこそ手はかざせ」とは何と良い言葉なのだろう。
自身を維持するには過去歴史に触れてみなさいと言う意味
ではないか、と思う。
詩集「甘い囁き」 昭和22年5月10日 岩谷書店発行
表紙・装丁は東郷青児で戦争直後の貧しい時代、
芸術家たちは仕事を分け合って生活してたことが伺われる。
1950年髙田を去るに当たって残した詩「髙田に残す」。以下読み下し。
ひかるゝおもひうしろがみ
のこるこヽろの なぞなけん
すめばみやこと いふさへや
高田よさらばさきくあれ
おほりのはすよ きようさけ
雪とこしへに白妙に
1980年、有志によって髙田城址公園にこの詩文を刻んだ詩碑が建てられました。
詩碑建立を記念して齋藤三郎は詩文が書かれた染め付けの
酒盃を焼き建立協力者に配りました。
次回はマグナムフォト写真家濱谷浩と朝夫人です。
齋藤三郎ゆかりの人々展 その3、棟方志功、河井寛次郎、志賀重人と辰砂修得。
樹下美術館の常設展示の陶芸家齋藤三郎は私どもの家を何度も訪ねて来られた。氏は博識で鼻に響く良い声で話し、聞く者を飽きさせることはなかった。
齋藤について両親はその日のこと話を教えてくれることがあった。仕事については以下二点をよく本人から聞いたようだ。
一つは、辰砂(しんしゃ)の技法が難しく、なかなか顔料が定着しないこと。もう一つは、年を取るに従って華やかな着色を好むようになったこと、だった。
昭和27年のある日、当時の三郎の助手である志賀重人氏が京都の陶芸家河井寛次郎の許へ向かい、難関の辰砂修得を目指すことになった。河井氏は釉薬の優れた研究家であり早くから辰砂を完成させていた。齋藤自身が出向かなかったのは自らの窯焚きが迫っていたためかもしれない。
京都行きの途中、志賀氏は富山県福光町に居住していた棟方志功を訪ねた。そこで棟方氏に作品を制作してもらいそれを旅費および滞在費の足しにすべく寄ったのだ。一連のいきさつと作品依頼は予め齋藤氏から棟方氏へと手紙でしたためられていたと考えられる。
この話については、2014年、棟方、齋藤、志賀各氏と親交した大潟区渋柿浜の専念寺ご住職青木俊雪さんからお聞きした。青木氏によれば棟方氏は直ちに20枚ほどの作品を仕上げて志賀氏に渡したという。
その時の棟方作品がどのようなものだったかお聞きしていないが、旅費、滞在費を十分にまかなうほど作品の人気は広く浸透していたことが伺われる。またこのことから齋藤と棟方、さらに棟方と河合各氏の親交の厚さを垣間見る事ができる。
以下棟方志功作品からです。
当地祭の音頭を踊る娘を彫った「米大舟頌」
棟方作品はほか1,2点展示の予定です。齋藤三郎は棟方氏を連れて私どもの家を訪ねてこられたことがあり、作品はその時父が購入したものです。
以下河井寛次郎 作品。
「花茶碗」
「辰砂花香合」
温かく美しい辰砂の発色が見られる。
最後に志賀重人作品です。
左灰釉草文茶碗 右辰砂染め付け茄子文湯呑。
湯呑の辰砂は完璧ではないだろうか。
●志賀重人:高田出身で齋藤三郎の築窯から協力、助手として齋藤三郎に入門。また当地で濱谷朝氏が開いた江戸千家茶道に早くから入門。後に京都へ出て修業、さらにオーストラリアで陶芸技術を広め、教授もされて活躍。河井氏の許を訪ねたことは終生志賀氏の宝物になったにちがいない。濱谷浩写真集「昭和男性諸君」の昭和24年のページに裸でうずくまる氏を背後から撮影した写真が掲載されている。日焼けした身体は逞しく、優しい印象しかなかったが、特攻隊の生き残りと書かれていて驚いた。
●河井寛次郎:1890年(明治23年)8月24日兵庫県生まれ 76才没。柳宗悦の民藝運動の影響を受け、高い精神性と深くおおらかな独自の世界を展開。器の箱に署名をしたが、一民として器そのものには署名をせず、相当していた人間国宝や文化勲章など公の認定、表彰を辞退。終生棟方志功に敬愛された。
●棟方志功1903年{明治36年)9月5日青森県生まれ,72才没。眼が不自由だったこともあるが川上澄夫の版画の影響を受け油絵志望から版画{本人は板画を宣言)へと変わる。1936年(昭和11年)発表の「大和し美し(うるわし)」を柳宗悦が驚きをもって評価、河井寛次郎に知らせ、その後棟方は河井の京都の自宅へ招かれて逗留。その後も芸術、仏教など河井から薫陶を受ける。昭和10年以後齋藤三郎の富本憲吉入門時代に両者は知り合っている。
※小品ですがどうか河井氏、志賀氏の辰砂をご覧下さい。
次回は堀口大學、さらに濱谷浩を紹介させてください。
最後に齋藤三郎本人の辰砂作品です。
齋藤三郎ゆかりの人々展 その2 近藤悠三と北出塔次郎
本日は齋藤三郎の最初の師近藤悠三です。
悠三への弟子入り前後のことに触れますと、旧栃尾町出身の三郎は13才のときに刈谷田川の洪水で母を亡くしました。多くの犠牲者の中で母だけ遺体が見つからなかったそうです。一家の悲しみは如何ばかりだったでしょう。
1928年(昭和3年)、兄泰三は福井県小浜の妙心寺に入り出家。1932年(昭和7年)、絵が上手かった18才の弟三郎を縁あって京都の近藤悠三の許へ入門させました。
●近藤悠三 1902年2月 京都市生まれ 83才没
1914年、京都市立陶磁器試験場付属伝習所轆轤科に入所。その後奈良県に窯を築いた富本憲吉の助手として師事。1928年に帝展で初入選を果たした後13回連続で入選。山、梅、石榴を得意のモチーフとして金彩、赤絵へと陶技を拡げ雄渾、明解な絵付け作品を生み続け、1977年染め付けの人間国宝に認定されました。
齋藤三郎は近藤氏のもとで足かけ4年の修業後、助手を探していた富本憲吉の許へ入門しました。
石榴(ざくろ)染め付け角皿。
太めの筆が走り、モチーフにリズムと生命感を与えている。
石榴は悠三が好んで描き、富本憲吉は描くことがあり、齋藤三郎は好んだ。
梅呉須赤絵鉢。
※呉須(ごす):酸化コバルトを主成分とした顔料で、焼くと青色を発色。
呉須を用いる技法を「染め付け」と呼び、釉薬を掛ける前の素焼き上に描く。
梅は憲吉、悠三、三郎とも好んだ。憲吉と三郎は花びらを、悠三は枝を主に描いた。
後年近藤悠三は齋藤三郎を訪ね赤倉温泉で遊びました。
ゆかり展の氏の作品は入り口正面のボックスと左手前のボックス2カ所に3作品を展示予定です。
展示は近藤悠三作品から時計回り(右回り)で観るよう心がけるつもりです。
●北出塔次郎(きたで とうじろう) 1898年(明治31年) 兵庫県生まれ 70才没
北出塔次郎作「色絵急須と茶碗10客揃え」
華やかで明解な色絵磁器。
富本憲吉は齋藤三郎が師事した昭和10年代の前半に色絵磁器のさらなる研究のため九谷へしばしば通いました。九谷の宿泊は窯元である北出塔次郎宅の世話になり窯を借りて取り組み、塔次郎もまた訪れる憲吉から新たな色絵陶芸の世界を熱心に学びました。後年金沢美術工芸大学教授を勤めています。
「齋藤三郎ゆかりの人々展」その3では河井寛次郎、棟方志功、志賀重雄を記してみます。
本日、大潟区土底浜の内山木工所に注文していたゆかり展で用いる120×90㎝の多孔ボードパネル6枚が、思ったより早く出来上がってきました。
ひと安心です。
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