樹下だより

あまた蓮咲く夏の外濠、そして木村茶道美術館から

2010年8月1日(日曜日)

  珍しく今日は二つも催しを回って楽しかった。

 

 最初は高田図書館のBlue Sky Project2010。微笑~深刻、単純~複雑、多数の作品を見て久しぶりに多くの人と会った気がした。作品が手頃なサイズに規格されていて見やすく、共通テーマが平和なので自然と心暖められた。

 

 会場周囲では外濠から吹く風が湿った蓮の香りを含んでいた。広大な濠全体が花と共に匂って、盆を前にあまたの仏を迎える支度を始めている。毎年訪れるスケールの大きい夏景色だ。 
 

お濠の蓮 
 どの花が尊き人を泊めたやら あまた蓮咲く夏の外濠   sousi

 次が筑波進さんの同プロジェクト協賛イベント「青の世界展」へ。No More Warの青による鎮魂は際限なく心に滲みる。小ぶりな裸婦のほか残像として画面に時間を与えた作品も魅力的だった。そしてお仕事場が昔の病院のようで、懐 かしくもあり心地良かった。

※今秋予定の司修(つかさおさむ)氏の講演案内を頂き有り難うございました。非常に楽しみです。

    

 一方樹下美術館では、開館早々に柏崎から木村茶道美術館の関係者がお見えになった。お当番に留守を任せて来られたということで、ゆっくりしていただいた。同美術館へはもう二十年以上通わせていただいている。

木村茶道美術館の皆様 
  「我が心の美術館の皆様、あらためて有り難うございました。貴美術館は茶道が生きている貴重な施設です。 心遣い、しつらえ、密かにお手本とさせて頂いています。近くに良い美術館があることを幸せに思い誇りを感じます。

間もなく秋、皆でまたお伺いすること楽しみにしています。」

お知らせ・山中阿美子さんの講演会「父倉石隆との思い出 そしてマッシュルーム」

2010年7月30日(金曜日)

 

 【樹下美術館三周年、秋の催しのお知らせ】

 

講演会お知らせ

 

 11月6日(土曜)午後2時から樹下美術館において「父 倉石隆との思い出 そしてマッシュルーム」と題して山中阿美子さんの講演会を開催いたします。

 

カトラリーやインテリアのプロダクトデザイナーとして活躍される山中さんは当館常設展示作家の画家・倉石隆氏のご長女です。幼少から高校時代まで上越市にお住まいになりました。

東京芸術大学の在学中、学生仲間三人で第一回天童木工コンクールにマッシュルームスツールを応募し、入賞の栄誉に輝きました。しかし難度の高いデザインであったため商品化デビューがなったのは、実に40数年後の2003年でした。

その後マッシュルームは人気となり、 2008年パリにおける日仏修好150周年記念行事「日本の感性展」で展示されました。好評を博した作品は2009年、パリ国立装飾芸術美術館のパーマネントコレクションに選定され、世界の名作家具の仲間入りを果たしました。

ご講演では父倉石隆の思い出とともに興味深いマッシュルームの物語をお聞き出来ることと思います、どうかご期待ください。

マッシュルーム
開館以来語り合っている樹下美術館のマッシュルーム

 会場は定数60人余と小さめです。ご予約お申し込みは樹下美術館窓口か、またはお電話でどうぞ。

 樹下美術館 電話 025-530-4155

上越市板倉区、増村朴斎記念館を訪ねた會津八一、齋藤三郎、そして女性。さらに南摩綱紀のことなど。

2010年7月25日(日曜日)

手元に二代陶齋からお預かりしている一枚の写真がある。會津八一が当館常設展示作家の齋藤三郎(陶齋)らとともに増村朴斎(本名:度次・たくじ)碑の前で撮ったものだ。碑は朴斎邸(現増村朴斎記念館)の西隅に今もしっかりある。
朴斎は明治29年、雪国上越市板倉に有恒学舎(現有恒高等学校)を私費で創立した貴重な教育者だ。八一は早稲田大学卒業後、明治39年に同校英語教師として招聘され4年間教職を勤めている。

碑について、八一は昭和17年の朴斎逝去に際して依頼され、碑文の揮毫を果たしていた。

 

当写真の撮影は1950年(昭和25年)前後だろうか。写真の服装から個人的な板倉訪問だったと伺われる。いかつい表情の八一を真ん中に左端に若き陶齋、戦時服などの男性、そして右端に着物の女性が写っている。一緒の陶齋は八一から泥裏珠光(でいりじゅこう)の号を戴くなど、親交があった。

男揃いの中、すらりとして明るく右端を占める女性が気になる。撮影者が当時高田市に居て文人や地方風土を撮っていた写真家・濱谷浩氏だとすると、女性は朝(あさ)夫人が考えられる。濱谷氏は八一、陶齋とも知己を得ており、人物の配置などからも氏による撮影が考えられるが、どうだろう。

 

會津八一と陶齋
朴斎碑の前で八一、陶齋ら。
今日の朴斎碑
今日の朴斎碑。

さて本日午前に訪ねた記念館。園内でシルバーから派遣されているという女性が一人庭掃きをしていた。樹下美術館も静かだが、ここはさらに静かなようだ。

資料をみると建学時の新潟県下の中学校(現高等学校)はわずか5校で、上越地方には現・県立高田高等学校の一校のみだった。私費をなげうった朴斎の教育への情熱と困苦は如何ばかりだったか。雪国に建った有恒学舎には感銘を受けて多くの著名人が訪ねてきたという。
そもそも氏は父・増村度弘(のりひろ)の遺訓を継いでおり、度弘は會津藩士・南摩綱紀(なんまつなのり・号:羽峰)の薫陶を受けていた。会津藩士で昌平校を出ている羽峰は、會津戦争の敗戦で高田藩謹慎となっていた。高田の羽峰は教育啓発で一帯に広く貢献をし、後年は東京帝国大学教授をつとめた。

 

記念館は有恒高等学校出身の佐川清氏(佐川急便創業者)が建設し、資料・設備など内部を住民と同窓生一丸で整えたということだ。明治大学ラグビー部の名監督と謳われた北島忠治氏も同校の卒業生と聞いた。

一階に、有恒学舎の教員たちを描いたユーモア溢れる似顔絵があった。若き會津八一が描いたもので、如何にもという人物たちが一筆でサッと描かれていた。大変に達者な絵筆だった。(コピーをもらえます)

有恒学者教員の似顔絵
八一による七凹八凸(ななぼこやでこ?)の図。幅1メートル少々あります。
右端が増村朴斎(倫理・漢文)、4人目が會津八一(英語)のようです。
「坊ちゃん」を彷彿とさせます。

 多くの展示物の中に、書は人の品格という言葉があり、印象的な文字や詩句に触れることが出来た。大きな建物ではないが格調を備え、うまくまとまっている。夏の昼下がり、清々としてまた来てみたくなった。

話変わるが、拙宅に南摩羽峰の筆になる背の高い屏風がある。祖父の開業以来、待合室に前島密の額とともにあった。今は別室にあるが、以前から屏風を知っているお年寄りに羽峰を勉強してと言われていた。陶齋の写真がきっかけで、本日ようやく実地研修の一端を済ませた気がする。

そしてあらためて思った、真の地域力とは若者を羽ばたかせる教育・教養力ではないのだろうかと。またそれはどこにも共通する要素ではないだろうかと。

※以上記述は増村朴斎記念館資料/野の人 會津八一:工藤美代子著 (株)新潮社発行/福縁随所の人びと:濱谷浩著 (株)創樹社発行/會津八一記念館ほか関係ホームページを参考にしました。

※今度は当院の古い待合室にあった南摩羽峰の屏風、前島密の額、前島家の教育係だった女性マツが書いた「杉田医院」の古い看板などを掲載したいと思います。今日はとても長くなりました。

暑中お見舞い申し上げます。

2010年7月24日(土曜日)

 長梅雨の後に猛暑となりました。

 日頃のご来館を謹んで感謝申し上げ、皆様のご健勝をお祈り申し上げます。

 

キキョウの庭
今日の トクサとキキョウの庭

 

シェリー・リージェントタイプのカップ&ソーサー 
今日のカフェのアンティークカップ&ソーサー(シェリー・リージェントシェイプ)。
すっきりと1930年頃のアールデコ。私は実はこのカップのファンです。
飲みかけを撮りました。

 

夕刻から急に雲が広がった。

明日は雨だろうか、田畑も庭もダムも雨を焦がれていることだろう。

明日は懸案の増村朴斎記念館を訪ねたい。

板倉、そして増村朴斎記念館

2010年7月19日(月曜日)

トースト

 

 ピクルス

  樹下美術館のトースト。暑い日のピクルスは格別だった。

今日の熱い昼、樹下美術館でトーストを食べて所用の妙高市へ行った。用事の後、母が三泊のショートでお世話になっている板倉さくら園を訪ねた。

まあまあの母を明日迎えに来ることにして、気になっている近くの増村朴齋記念館に寄った。しかし施錠がされて入場は叶わなかった。予め電話が必要なようだった。

ところで、増村朴齋は上越市板倉区に私費で有恒学舎(現・有恒高等学校)を設立した民間の偉人だ。朴斎の父・度弘(のりひろ)に影響を与えたのは高田藩で謹慎した会津藩士・南摩綱紀(なんまつなのり、号:羽峰)だという。また若き會津八一が同学舎の英語教師を勤めていることは有名。

もともとあまり詳しくはなかったが、拙宅に南摩羽峰の屏風と會津八一の短冊がある。また八一の揮毫になる巨大な朴齋碑の前で八一本人と齋藤陶齋が並ぶ写真を齋藤尚明氏からお借りしている。そのようなわけで、一度は訪ねてみたかった。

増村朴斎記念館
閑静な記念館、近いうちに是非。

お声、有り難うございました

2010年7月9日(金曜日)

館内に置かせて頂いているノートに皆様からのコメントが沢山溜まりました。遅くなりましたが樹下美術館のホームページの「お声」に掲載させて頂きました。

ノートはカフェに多く置かれていますため、お客様のくつろぎの様子が直に伝わって大変有り難く、励みになります。またお名前だけ頂戴した皆様にも心から御礼を申し上げます。

 

コメント
T様、楽しい一日のコメントとイラストを少しお借りしました。

夜になって、一時雨足が強まりました。

梅雨時の花は涼しげ

2010年7月3日(土曜日)

 梅雨どきの美術館隣接の庭。この時期の花は涼しげで可憐だ。どこかはかなげでもあり、この時期ならではの姿だろう。

 

 ところで不思議に思うのは、一般に花は受粉を促すために昆虫の気を惹いていると考えられる。なのに夏涼しげに咲くなどあたかも人の気も惹いてるように見えることだ。

 

 昆虫たちにも花の明暗や色彩・形状から涼しさなどの季節感覚があるのだろうか。花の魅力に関して、昆虫などとヒトの感覚が一致しているようでいつも感心させられる。 

 いずれにしても花は基本的に昆虫・鳥たちが選ぶことで美しく進化してきた。それでは人間の登場に対応して、自然の側が美や洗練で何かを進化させたことがあったのだろうか。せいぜい犬や猫、それに何種類かの小動物や微生物が近づいてきたくらいで、それも進化といえるかどうか。
※人為的な品種改良は何と呼べばいいのだろう。 

 

 昆虫や花に比べて、私たちはまだ新参者にすぎない。しかも複雑かつ強引な参加のため、自然はどう反応していいのか分からないのだろう。それより、乱暴な我々を迎えて「全く困っている」のが自然の本音ではないだろうか。 

 何か少し恥ずかしくなってきた。

 ※後半の部分を大幅に追加しました。(7月5日深夜)。

紅白のマツモトセンノウ 
紅白のマツモトセンノウ

ナデシコ 
足許のカワラナデシコ

テッポウユリ 
賑やかな貴婦人テッポウユリ

ホタルブクロ 
自生のホタルブクロ

ワイン「深雪花(みゆきばな)」と齋藤三郎、そして本日

2010年7月2日(金曜日)

越後上越市が誇る岩の原葡萄園。同園が生産し広く愛されているワインに「深雪花」があります。その印象的なラベルの椿は当館常設展示の陶芸家・齋藤三郎(初代陶齋)氏が描いたものです。

 

戦前、若き日の三郎は新潟県栃尾を出て関西で近藤悠三、次いで東京時代の富本憲吉に師事しました。独立後の昭和13~15年、縁あってサントリー(株)の創業者・鳥井信治郎氏が宝塚に有した壽山窯(じゅざんがま)で制作活動をしました。

 

戦後の陶齋は生涯新潟県上越市で作陶します。サントリーとの縁は続き、陶齋没後に誕生したワイン深雪花のラベルに氏の雪椿図が選ばれました。

本日午後、サントリー(株)の副社長・鳥井信吾氏が樹下美術館を訪ねて下さいました。サントリーと直接関係にある岩の原葡萄園が今年創業120周年を迎えています。氏は記念行事などへの出席のため来越され、樹下美術館にお寄りいただいたというわけです。

当館では小さな作品も見逃さず熱心にご覧になり、カフェをご一緒しました。お宅で代々齋藤三郎の作品が大切にされているというお話をとても嬉しく伺いました。

記念写真
岩の原葡萄園・坂田社長、そしてスタッフとともに水田脇のデッキで
前列中央に鳥井氏

 

国内外の受賞が続くサントリー。マスターブレンダーの鳥井副社長、このたびは上越の小さな樹下美術館にお寄り頂き有り難うございました。明るくひらけたお人柄に接しスタッフ共々幸せでした。

草取りして月

2010年6月24日(木曜日)

午後からの休診日で夕刻に庭の草取りをした。美術館を営んで3年、展示とともに大切なのは庭。庭に大切な作業は草取りだとなかば悟っている。

雑草
妻が取った分も。まだまだ取り切れない。

草取りは無心の時間という点で精神にもいい。またある種修行の感じもする。終えて手を洗うと庭も気持ちもさっぱり。

月

今夕の月、本当はもっと大きく見えるのに。

 あまつさえ遅くなって月に気がつく時など、自分も花や草であるかのような気持ちがよぎる。

 家に帰って昨日頂いたタケノコを食べた。下さった方が「ジャガイモやタマネギなどは入れないで」というタケノコ汁が美味しかった。桑取のタケノコ。この時期なのにとても柔らかく味も濃かった。

堀口すみれ子さんの講演会

2010年6月19日(土曜日)

 今日、樹下美術館は陶芸ホールで堀口すみれ子さんの講演会を無事終えた。大切な人と満席のお客様を迎えて、何故か直前は火の用心を心配していた。

開始前の場内 
講演前の場内

                       

 すみれ子さんは、講演が近づくにつれて上越を訪ねることが、そこへ帰るような気持ちになった、と最初に述べられた。お住まいの湘南の風が一気に上越へと吹き込むのを感じた。

すみれ子さん


  堀口大學の生誕から海外、そして高田の日々までが澄んだ声と貴重な写真で語られた。心に響く詩や楽しいエピソードも交えられた。そして肉親ならではの自然さで、大學の伝える父とは、母とは、詩人とは人とはが語られた。

 3才の大學を残して逝った若き母を襲った病は結核だった。青春時代に大學も喀血する。病をとおして母と同一化しようとする若き日の心情は切ない。

 最後に大學がかって上越で得た交流と友情が述べられ、すみれ子さんご自身の三郎さん(陶齋)の思い出で終えられた。

 

 お疲れも顧みず懇親にもお付き合い頂き、最後はジャズバーまでお連れして夢のような一日が終わった。どうか明日また無事でありますように。

 

 堀口すみれ子様 ご来場の皆様、ご協力を仰いだ関係者の皆様、スタッフ、本当に有り難うございました。

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