静かな冬の寺。

2014年2月6日(木曜日)

2月の寒さはやはり厳しい。幸い一日中降る分けではないので深雪は免れている。

在宅回りや往診先で寺が目を引く。大きな瓦屋根や大木と白雪のコントラストは静寂を深める。

 

1圓蔵寺(犀潟)

2養性寺(土底浜)

3西念寺(潟町)

4瑞天寺(蜘蛛ケ池)

寺は地域に伝統感や安定感をもたらして貴重だ。

 

立春に冬の戻り 認知症独居者の消化器感染症のリスク。

2014年2月4日(火曜日)

しばしば春のような日があったが、本日気温が急降下して雪が降った。どこかへ寄り道していた冬将軍があわてて現れた模様となった。

現在大雪と言うほどではないが明日も同じようなお天気らしい。

ドウダンツツジ仕事場のドウダンツツジが細い指で雪をつかんでいる。

夜が更けて、空がヒューと鳴り一気に真冬に戻った。
ニュースは東京はじめ関東地方の雪を報じている。あの青々とした太平洋を望む伊豆伊東も降ったとは。

ところで先日、ほぼ独り暮らしという認知症の方に突然嘔吐下痢が生じていると、ヘルパーさんから連絡があった。看護師が用意した使い捨てガウンに手袋の仕度で行った。
心配が的中し初日の便にノロウイルスが検出された。症状はおよそ2日で治まり、10日を過ぎたが幸いヘルパーさんはじめデイなどの感染拡大は免れている。

普段通っている私たちの顔も覚えられなくなった方だった。食事、衛生管理などこのような人の在宅生活は非常にリスクが高い事を再認識させられた。施設入所を急ぐこと、それまでホームヘルプを頻回にすることが話し合われた。保健所にも相談したがひやりとさせられる出来事だった。

恵方巻きと兵隊さん。

2014年2月3日(月曜日)

本日節分の日も暖かく、しとしとと春雨のような雨が降った。暦に頼れば明日は立春であり、今冬は表向き暦に沿っているようで非常に珍しいと思う。

さて夕食に太巻き寿司がこっそりと出た。東北東に向かって黙って食べれば恵方巻きということになる。
我が家から東北東は宮城、福島の被災地に当たる。そちらに向かって自らの縁起のためにむしゃむしゃ太巻きを食べるなんてとても出来なかった。

10年くらい前だったろうか、このことをテレビでみた時には変わった習慣だなあ、と思った。
関西の習慣ということだったが、今やあっという間に全国的な行事かつ商戦になっている。

恵方巻きニュース

 

夕刻のニュースは人で混雑する東京タワーの展望台を写していた。そこで大勢の人が黙って同じ方向を向いて立ち、太巻き寿司を咥えていた。
家庭で和やかにするものかと思っていたが、東京タワーで一斉に行われた光景は一種異様だった。

この程度のことで何か言うつもりはなかったが、それでも次のようなことが頭をよぎる。
先の戦争で何十万、いやそれ以上の兵隊さんたちが、食べ物もないまま飢えと病に、そして銃弾に倒れた。遠く故国を離れた若者や父達のひもじさと死は如何ばかりだったろう。

その人たちが本日の東京タワーの光景をみたら、「自分たちはこのような将来のために死んだのか」と、唖然とするにちがいない。

一種奇妙な飽食に出会うたびに、年のせいかこんなことを思ってしまう。

人魚伝説公園 鵜の浜から雁子浜へ竹藪の道。

2014年2月2日(日曜日)

まるで春、虫が顔を出しそうな日だった。夕刻に鵜の浜から雁子浜まで行き帰り写真を撮りながら1時間少々散歩した。

鵜の浜の人魚像は季節風を避けているのだろう、囲われていた。
そこから砂浜を数百メートル歩くとこじんまりした「人魚伝説公園」に出る。
ここに言い伝えにちなんだ常夜灯が置かれている。

伝説では佐渡から夜な夜な雁子浜の常夜灯を目指して女(人魚)が現れた、とされる。
以前拙生が書いて公演した「人魚塚」でも常夜灯は大切。道具担当の大工さんが上手に作ってくださった。

1温まっているような人魚像。

 

2人魚伝説公園の碑と常夜灯。
ここから東へ竹藪の中に小道が通っている。
過日土底浜の草道同様、埋設されているガスパイプライン保守用の道のようだ。
歩いてみることにした。

3下りと上り。5Y字路を左へ進む。7雁子浜のゲートボールコートが現れる。9帰路に細い草道を下りる。11春を迎える細い月が寝ている。 4なんとY字路。6道が開け。左に海。8小さな野球場が隣り合う。10右にあるテトラの海に沿って歩く。12鵜の浜温泉に日が暮れる。

おなみと磯吉芝居「人魚塚」のおなみと磯吉。常夜灯で出会う場面。
大道具は大工さん達が作り、背景は何日かかけて小生が描きました。
(幅10メートル近い背景画。大量のカラースプレーで部屋中が黄色になりました)

 

 

おみよおなみと共に嵐の海へ出奔した磯吉。
母が縫った嫁入り衣装を着て、灯を目指して帰れと叫ぶ、許嫁のおみよ。

昔のイベントを思い出しながら1時間少々歩いた。竹やぶなどの小道はひなびて静か。昔ながらの寒村の趣を今に、短い旅をした気分だった。

ぴんとこない誕生日。

2014年2月1日(土曜日)

昨夜というのがいいのだろうか、就寝前に妻がおめでとう、という。
「え?何」
「日がかわりました、今日は何の日ですか。はい、おめでとう」
出されたのはカーディガンだった。
「ああ分かった分かった、ありがとう、ありがとう」

毎年誕生日はこのようなことが繰り返される。
こんな時、自分の毎日は如何にもその日暮らし的ではないのか、と思う。

いずれにしても日ごと年をとっていることに変わりがない。
こうなれば誕生日ごとに人生経験を一年積み上げたこととしよう。
差し当たりいくつ積み上げるか、という事で。

 

カーディガン「AZAMI」さんのカーディガン。

お花を下さった方、まことに有り難うございました。

今日の海柿崎の海。

土曜日は午後から休診。15時に入浴しそれから柿崎の海辺を1時間少々歩いた。
早い入浴と散歩は、お手軽な旅行気分がして気に入った。正月にも試みたが、お天気さえ良ければ休日などでまた行ってみたい。

さて過日弟との電話で、年を取ると何かすることに億劫がつきまとう、と私が言った。
弟は「いやいや良く分かるが、若い時も何かと億劫だったと思う」と。
なるほどである。

やっと見終えた「ジャイアンツ」 現実は物語を越えている。。。

2014年1月31日(金曜日)

本日夜、懸案だった映画を見た。

その昔1950年代の中~後半、高田の下宿から映画館〝中劇〟は目と鼻の先だった。
高校時代のある時期、映画館から映画主題曲「ジャイアンツ」が盛んに聞こえるようになった。
学校中でジェームス・ディーンとエリザベス・テーラーの名がささやかれ、ラジオから連日「ジャイアンツ」のテーマ曲が流れた。
どんなにその映画を観たかったことか。しかし私は発覚した結核のために映画館の出入りを禁じられていた。

後に病気が治り予備校通いに上京した.。名画座と言わず「ジャイアンツ」を観ようと思えばいくらでも可能だったが、中々実現しなかった。

エリザベステーラーエリザベス・テーラーは輝くばかりの美しさ。

中劇のジャイアンツから55年くらいは経っているのか、その映画を本日夕食後BSでようやく最後まで観た。

土地が59万エーカー、新潟県よりずっと広いテキサスの大牧場主が主人公。
後継者、地主と使用人、成金、人種、嫁と小姑、東部と南部、世代ギャップが織り込まれ、
第二次世界大戦を挟んだストーリーは米国の大きな側面の物語だ。

前後編を分ける途中のコマーシャルの長いこと、絵を描きながら見ることにした。
「ジャイアンツ」ってロック・ハドソンの事だったのね、とは映画通のはずだった妻の感想。
長編ながら最後まで、いや最後の人種差別レストランの殴り合いこそ最も興味深かった。
南部大地主の典型的な保守人が差別の不条理に目覚めての事だった。

話は変わりますが、今から13年ほど前、我が家にドイツ人の高校生が数ヶ月間ステイした。
近くにテキサス州から来ているアメリカの友だちがいて、ある日家に遊びに来た。
短髪で長いまつげの生徒はなかなかハンサム。
驚くほど日本びいきだった。

その日茶室で私の拙い点前を大いに喜び、飲み方の心得も立派だった。
茶が終わると、ジーパンで正座したまま持参の三味線を弾いた。

聞けば彼のおじいさんは油田を所有し、父は法律家だということ。
「ジャイアンツ」の後半が1950年ころだとすると、登場した主人公の孫は彼の父親年代に当たる。
世は変わり、さらにその子の世代が新潟県上越市に来て茶を服し三味線を奏る。
差別も戦争も越えて彼らの交流は自然だった。

ほかのエピソードとしてある夜、二人は数キロ先のゲーム場へビリヤードに行った。
遅くなり約束の時間を過ぎても帰って来ない。
心配して車で迎えに行くと、夜道を息せき切って走る二人に出会った。
ごめんなさいと言い、若い外国人がこんなに謝るものかと思った。

さて映画では当時の人種差別と、それへの怒りの過程が克明に描かれていた。
映画製作後、間もなくケネディ大統領が新たな時代を拓き、黒人のキング牧師が暗殺される。
そして今日、黒人大統領の出現。
現実は信じがたいダイナミズムで動いているのだろう。

今この国と周囲では、あれこれを引き合いに出して差別衝突が常態化している。
インターネット以前まで、これほどのことは無かったのではないか。
おぞましい罵詈雑言は現実ばなれし、一種勇ましさは野蛮な物語への没頭に見える。

4月並みの暖かさ。

2014年1月30日(木曜日)

本日上越市高田の日中最高気温が13度とあり、4月並みの暖かさとなりました。

向こう一週間の予報でも厳しい寒波は想定されていません。

猫昼、仕事場のガラス窓から見えた猫ちゃん。
この時期に草の上でまどろむなど滅多に無いこと。
大正時代の建物なので窓ガラス越しの写真はゆがみゆらぎが見えます。

さて以下は2012年の1月25日の同じ窓からの眺めです。
2012冬の窓iかなり降っています。
随分ちがいますね、今年は特別なのでしょう。

現在22時30分になる頃、突然雨風が始まり雷も鳴りました。激しい気象です。

樹下美術館の庭にフキノトウ。

2014年1月29日(水曜日)

本日もほぼ晴天。午後から美術館の近くにある施設、しおさいの里の回診をした。現在インフルエンザや感染性性胃腸炎の発生もなく施設は安定している。
いうまでもなく高齢者施設の集団感染は怖い。多くのマニュアルに従っているが無事を祈らずにはいられない。

巡回を終えて美術館へ寄ると、南側の土手に早くもフキノトウが沢山出ていた。敷地の雪も半分は消えている。

フキノトウ

天ぷらスタッフが摘んでくれたいた分とともに夕食の天プラにして食べた。向こうにホッケのあぶり。

昨年は2月3日にフキノトウを書いていた。当日、例年よりも雪が少ないとある。
今年はさらに少ない。間もな2月、頑張ってお天気。

軽めに推移する冬 急病人や老人は貨物?

2014年1月28日(火曜日)

予報よりも恵まれた日が続く。昨日午後、在宅回りで見た雁子浜 も写真のように穏やかだった。本日の予報も雪ではなくお日様マークと雨マーク。。こうなれば二月が本番なのか。

005
ところで一昨日の食事で救急車の乗り心地の悪さが話題になった。私自身信搬送されたことはないが、その昔何度か重症の方に同乗したことがある。いずれもガタガタ、ドンドンと激しく上下振動しあるいは揺れて、乗り心地どころか病の悪化が心配で気が気では無かった。

ところがこの時代、今もってひどい状況は変わらないらしい。それについては一刻も早く病院へ着くことが第一、重い医療機材を搭載している、無料なのだから、などで、改善に手が回らないとされているようだ。

しかし脳出血、外傷、めまい、妊婦さん、嘔吐・腹痛、整形外科疾患、循環器ほか多くの急病に対して、持続する激しい振動や揺れはすべからく有害であろう。最も安静が必要な状況の中で、一旦搬送となった途端ひどい環境が付加される。考えてみればおかしなことである。

救急車はメーカーの商用貨物車を改装して使っていて、スプリングは板バネのままだという。
「お世話になる」からとはいえ、きわどい場面の病人が貨物扱いでよいのだろうか。生活の質云々ではなく、医療の質から本気で取り組む課題ではないかと、あらためて思った。

※話変わりますが、福祉施設の送迎車もかなりの悪条件です。母のショート利用で何度か一緒に乗ったことがありました。多くの利用者は車椅子のまま乗車です。振動がきつい上、位置がより高くなるため大きく揺さぶられます。車椅子は固定されてますが、乗っている人は、揺れに対してぶら下っているヒモなどに掴まるのです。
その後、往き来は自分の車を用いるようになりました。

家←→病院・施設。普段双方の場で如何に丁寧に扱われている人でも、移動となると貨物扱い。不思議なことではないでしょうか。

煮詰まって外食 救急車のことから考えてみた。

2014年1月26日(日曜日)

出すぞだすぞと言い続ける図録とともに5月の作品展が懸案。そのため休日は大事な仕事日になってくる。

本日日曜日、午前10時から始めて夕刻4時近くまで絵を進めた。
拡大鏡を覗きながら描く作業も多く、さすが夕刻は煮詰まった。

一歩も出ていなかったこともあり、外食が浮かんだ。知人に電話をすると急遽なのに是非、と言う返事で近くの「ビストロ サブリーユ」へ行った。
こじんまりした店は大潟区下小船津にある。料理はみな丁寧で優しく、リーズナブルな白ワインも美味しかった。

メインは魚を、ライスは玄米を選んだ。

スープスープ(以下のデザートとも妻のスマホで撮らせてもらいました)。

ところでご一緒した方は先日あることで救急車の世話になった。
さいわい病自体は様子をみるレベルだったらしいが、それにまつわるご近所の様子が興味深かった。

氏はやや田舎の小さな集落の人。そこで救急車を呼ぶと以下のようになるということだった。

まず救急車の音でご近所が一斉に外へ出る(一斉ほどではないが、隣近所ならよくありますが)。
救急車が止まった家が分かれば、日頃のことから誰がどんな病気なのかなど、おおかた予想が可能だという。

幸か不幸か先日の場合は、普段元気な人だったので皆さんはとても驚かれた、という事だった。
また集まった人の中には、心配して涙する人も希ではないと聞いた。

原子力の灯の下で食事し、肌身離さずスマホを携帯する時代。一方、地域でこのように濃密な人間関係が維持されているのは、
貴重だ。

デザートキンカンが入ったデザート。

 そこで無理を承知で自らに問うてみた。
原子力+スマホ。救急に集合+涙。
どちらか選ばなければならない、としたらどちらだろう、と。

私の場合とても簡単で、救急車に集合+涙だった。

オプションとして、当然スマホはOKの設定があってしかるべきでしょう。
ちなみに妻は最近スマホを持ち喜んでいますが、オクテの私は今もって5,6年前の携帯なのです。

本日見たもの味わったもの。

2014年1月23日(木曜日)

午後から休診日、時々薄日が射し雪も降らなかった。妻の友人がお稽古がてらと、家に来てお茶を点てて下さった。
しばらくすると三人の高田の婦人が鵜の浜温泉の人魚館で泳いで来たといって寄られた。

冬の温水プールの後にお抹茶、ご婦人方は楽しみ上手だ。

 

ハトご近所さんが伝書バトを飛ばしていた。数十羽の群はすべて白バトだった。
白いハトは文句なく美しい。飼い主さんは大切されていることだろう。

茶をすくう濃茶がなめらかに練られ、美味しく頂いた。

樹下美術館雪の田んぼからみた今夕の樹下美術館。
3月14日までお休みをいただいております。

2月生まれ 健康な首都であれ。 

2014年1月22日(水曜日)

2月になると誕生日が来る。家ではすぐ下の弟も姉も父も2月生まれ、特に父とは誕生日も一緒という2月ぶりだった。

日頃、皆様のカルテで同月生まれの方を見ると、なんとなくシンパシーが沸く。

特に暖房のない時代の生まれでは、お互い湯船の中で震えていただろう、と。

チューリップの花束今年も新潟市のお茶の方からチューリップが届いた。寒空の下、心身温まる。

バレンタイン昼休みに妙高市の孫が寄った。早いバレンタインです、ということだった。
誕生日はともかく、寒さの真っ最中はちょっとしたことで心温まる。

 

夜半に追加です:突然の都知事選挙が始まる。大規模な原発を抱える新潟県民の一人として関心を持たざるをえない。
精神・哲学・姿勢といった目に見えないが深い課題が争点となるとは、さすが東京だと思った。

この機会に、日本が世界一健康な首都を持っている国であることを示してほしい。

タンカン 野趣と優しさの果物。

2014年1月21日(火曜日)

ある親戚の沖縄に行く予定が急用で取りやめになった。律儀なその人は、行ったつもりのお土産、と言って〝タンカン〟という柑橘を送って下さった。わざわざ沖縄から取り寄せたらしい。

御存知の方もいらっしゃると思うが、サイズは小さめのミカンで見た目が無骨。いかにも原種といった感じの野性味が漂う。

 

007固い皮が身にぴったりくっついている。
齋藤三郎さんの鉢に盛った。

剥いて食べても皮ごと包丁を入れてもいい。

002色合い風味とも濃厚でやみつきになりそうだ。。
送り主の情もまじる。果物は詩情があり優しくて美味しい。

昭和天皇巡幸 幼年からの時間 日頃の時間。

2014年1月20日(月曜日)

寒くなってインフルが少しずつ始まった。本日は16才の学生さん、50代のお母さん、超高齢者の方にインフルエンザ薬をお出しした。

夕刻の在宅行で信越本線の跨線橋を渡るときに淡い冬の陽を見た。帰りに車から降りて写真を撮った。
雪の中、線路が西に伸び、松の木や雑木林が見えた。

巡幸の場所信越本線の直江津方面を見る。
右の高い松が見えるあたりに細い道が切れていて、そこから線路脇に出て皆で整列した。

かつて一帯は背の高い松林だった。
小学生1,2年生の頃(と思っていた)、すぐ近くの分校から松林の小道を下りて線路沿いに整列した。
巡幸される昭和天皇をお迎えするためだった。

長々と待ったような気がする。
ようやく現れた列車を見て緊張と興奮に包まれた。
シュッシュッポッポ、ガタンゴトン。
立派な車輌に目を凝らしたが陛下の姿は見えなかったように思う。
それでも私たちは列車に向かって「ばんさい、ばんざい」と大声をあげた。

この日のことはずっと小学1,2年生だったと思っていた。
ところが本日念のため昭和天皇巡幸、新潟県、を検索すると、昭和22年10月と出ていた。

当日の自分は5才8ヶ月の園児だったことになる。
分校のすぐ近くの西念寺さんがされていた託児所から、松林を下りて行ったのだろう。

空腹と漠然とした不安に包まれて過ごした幼年時代。
わずかな思い出も空も当時の写真同様モノクロだ。
本日の冬陽と線路を見て、ふと遠い日が蘇った。

線路の脇に居たであろう幼い自分。しかし以後長い時間が経った実感がない。
66年の歳月とは、ばんざいを叫んだ所から今いる橋までのわずか100メートルを、
一瞬のうちに移動しただけだったのか。

空虚で奇妙な時間感覚。
それに較べれば、診療し美術館の事を考え、絵を描いている今の時間の方が
当然ながらよほど手応えがある。

先輩ご夫婦と夕食 久保田成子(しげこ)さん 宮城道雄の本に小山作之助の名。

2014年1月19日(日曜日)

昨年11月に樹下美術館であるご夫婦の結婚の集いがあった。遠くから学生時代のご友人たちが集まっただけの簡素な集い(式)だった。年下の私などを見届け人にされたご夫婦の清々しさはどんな時でも変わらない。いいなあ、といつも感心させられる。

今夕、そのお二人とご友人が加わった5人で高田で食卓を囲んだ。
話尽きなく、何冊か興味深いご本のことをお聞きした。その中の一冊が米国で活躍されたアーティスト保田成子さんの本だった。

小生は小学校5年生の一年間、直江津高等学校の教師久保田隆円先生(あるいは校長先生?)の夫人にピアノを習ったことがある。そして前記の書物の著者はピアノを教えて下さった方の娘さんということだった。
成子さんはオノ・ヨーコにも縁があったという現代美術の方、上越出身者にそんな人がいたとは、、、。ぜひ一読したいと思った。

(後に久保田隆円先生は小生の高校時代、校長として赴任してこられました)

本日ご一緒したご夫婦はともに読書家で、偶々自分の小さな縁に触れるような記事に出会うとそのことを教えてくださる。過日は「春の海」の作曲者で天才箏曲家の宮城道雄の伝記本に小山作之助の名があったと、当の本を届けてくださった。

 

大潟PA出かける時に入場した大潟スマートインターチェンジ&PA.

駐車場の除雪費用や雪道の往診、在宅回りの苦労で雪を喜べないが、晴れ間は美しいなあと思うことがある。

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