昔の田植えの続き。

2016年5月16日(月曜日)

過日お二人のお年寄りから早乙女として田植えをした話
を記載した。
手植えによる盛大な田植えは当地で歩行型田植機
が普及する昭和50年代後半~60年前半あたりま
で続いたいたようだった。
※但し後に兼業農家が圧倒的となり、自家用車が普
及し田植えは次第に地味になっていったという。
機械化では稲刈り機に較べ田植え機の機能と構造は
は複雑で、現在のように大がかりな実用が可能になっ
たのは最近らしい。

先日記載の後、さらに何人もの方から昔の田植えの話
をお聞きして早乙女の追加や新たなことがらなど掲載し
ました。

先日の疑問や追加など。

田植えのため早乙女たちが往き来する事の呼び方?
「ユイ(結い)」や「ユイッコ」と呼んだ。
(※前回早乙女を「しょうとめ?」と書きましたが、「そうとめ」
かもしれません)

田植えに行った場合、行った先の娘さんたちも一緒に
植えたのか?
一緒に植えて、多いときには10人を越えることがあった。

娘さん達は苗を植えたが男は何をしたのか?
苗床から苗取り、苗運び、苗結び、格子や定規で田の目
安を付けるなどを行った。

男の子たちは何をしたのか?
植える人のために、田んぼに束ねた苗を投げたり、格
子持ちも若い男の仕事。昼食や水も運んだ。

【新たにお聞きしたことなど
多いときには一週間から10日で4,5カ所を回り、と
ても疲れた。
上着、腰巻き、タスキ、手甲やきゃはんは自分で縫った。
但し半幅の帯だけは買った。
田植えばかりでなく「植え直し」という作業があり大変だ
った(初期の田植機の頃かと思われます)。
(昭和13年生まれ 吉川区川崎のご出身)

子供の時から田仕事を見ていたので、初めての田植
えも平気だった。子供時代の田仕事は半分遊びみたい
な感じだった。
(大正12年生まれ 吉川区梶のご出身)

田植えの前の日、食べ物を包む朴の葉を取り行くが、
木が高いので男の子が登って葉を落とし、女の子は下で
拾い集めた。
近郷近在、老若男女が大勢入り交じって話の花が咲き、
田植えは一年で一番大騒ぎの楽しい行事だった。
(大正6年生まれ 名立区桑取西横山のご出身)

結いの往き来は当初バスだったが、後にタクシーで迎
えが来るようになった。
早乙女に出る人が少なくなったためだと思う。
(昭和11年生まれ 大潟区内雁子の男性)

服装はハンチャと言うカスリの上っ張りを着る。
袖の先の内側に白布をつけそれを折り返して表に出
した。
黄色の帯は当初メリアスで縫ったが後に買うよう
になった。
昼食の煮しめが特に美味しかった。
朝早くから夕方遅くまで植えたが遅くなると余計にお
金を貰った。
自分は一人っ子で我が儘に育ったが、誘われて初め
て結いに行き、みなと同じ仕事が出来て嬉しかった。
近隣の田植えにはチャリンコで行った。
(昭和13年生まれ ご実家吉川区西の島)

家が地主だったため田植えをした事がなかった。
戦後、貯金を封鎖され、広い田と山の巨木を取られ
た。
ある日突然田植えをさせられ、さんざんな目に遭った。
みな上手にドンドン先へ行くのに、自分は田の中に
取り残されて動けなくなった。
その年、吉川区の泉谷や竹直へも行ったが、もう無
理だと思い、看護婦の勉強をすることにした。
(昭和8年生まれ 大潟区農村部の女性)

田植えに限らずお年寄りの若き日の話は夢まぼろし、
あるいは物語のようです。
いま10代、20代の人も5、60年経ったら懐かしい
昔話を生き生きと語って貰いたいと願うのです。

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本日診療所の上越市大潟区はひどい暑さにみまわれた。
33、4度の気温はこの日全国1位となった模様。

一転して明日はぐっと冷え、場合によって半分程度まで
気温は下がりそうだ。

本日の田植え
本日の田植えはほくほく線を背景に8条植えの乗用田植機。
(大潟、頸城両区のあたりで)。

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