医療・保健・福祉・新型コロナウイルス
新潟県立柿崎病院 愛着病院 大夕焼け
今夕はおどろおどろしいほどの夕焼け。ほぼその時刻を新潟県立柿崎病院の症例検討会に参加していました。検討会でツツガム病と結核の症例が呈示されて非常に有意義でした。
検討会を終えて懇親のため病院から出た途端、我が眼を疑う大夕焼け。皮肉なことに大夕焼けはしばしば台風に付随します。はたして上陸地域の被災は如何ばかりだったのでしょうか。
ところで柿崎病院さんは、藤森院長以下常勤医師4名による正真の地域密着病院です。何かと大病院に気が引ける切実な患者さんを助けて頂いて、いくら感謝しても足りません。地域の密着病院を越える愛着病院として長くl粘って頂きたいと心から願っています。
終わりは良く
明け方前に、5年ほどみていたおばあさんが亡くなられた。
家で大切にされ、つましくもよい介護を受けられた。10日前頃から食欲が落ちたが、逆に顔の浮腫がとれて目鼻がはっきりした。「お顔がきれいになりましたね」というと、痩せた顔をくしゃくしゃにして喜んでくださった。
その後も、きれいになったって言われてよかったね、と介護者が話すと、喜んだという。
いつ頃からか“終わり良ければ全てよし”を思っている。人生はまさに色々だ、しかし何かがあっても最後のどこかが良くあれば、それを持ってあの世へ行けるのでは、と。
反対に終わり悪し、の場合もある。そんな時は見かねて「まもなくこの世に居なくなる人ではないですか。もう少し優しくしてあげましょう」と家族に話した。はっとした顔をされ、それだけで変わることがあった。
扇風機がきた 今夏は食中毒にいっそう注意して
日中晴天の一日、気温は30度を超えた。昨年は今頃から高齢者を中心に一斉に熱暑の影響が出た。
昼過ぎても反応が鈍かった母は、クーラーで1~2度室温を下げると夕刻には少々の生気を取り戻して何とか食べた。
拙室に初めて扇風機が来た。“弱“でも結構強くて辺りの紙がひらひらする。憧れのクーラーをどの程度我慢できるのか、頼むぞ扇風機、部屋は昭和50年代の風が吹いている。
ところで先日、産業医としてある工場の巡視をした。事務所の隅の蛍光灯を取ったり、窓を開けたり、機械の稼働に配慮したり、清涼飲料の自販機を減らすなど節電15%を仮定したノルマに懸命に挑んでいた。しかし一階はまだしも二階に上がると一気に室温は上がる。罰金付きのノルマということ、工場の努力をみてクリアはぜひ報償を出してもらいたい、としみじみ思った。
話題がお弁当におよんだ。およそ100人の職員は食堂で二社の配達弁当で昼食を摂るという。一社はおよそ一時間前に届くが一社は早く、およそ2,5時間前ということだった。
室温の15分でおよそ二倍の増殖レベルを細菌に仮定すると、汚染は150分で500倍を超えてくる。もっと早い者もあり、当初の微細な菌付着でも中毒の発症水準に達する可能性を否定できない。
食堂と保存場所は二階、かつ今夏の節電で1~2度の室温上昇が及ぼす影響は無視できないのでは。配達時間の明確な短縮を緊急課題にすることにした。もうその時だが杞憂でもいい、昨年並みの暑さなら食中毒は重要なテーマになる可能性があると思った。
平成5年だったか6年だったかの夏、おにぎりやお盆の仕出しで頻繁な食中毒が発生した。訪ねた家で7,8人、家族と客全員が倒れていたり、夫婦のために一本のスタンドに二本の点滴を吊すなどの対応が必要だったことがあった。
近年、衛生環境が改善されて、夏の出来ごとは減った。しかし今夏~秋半ばは特別な注意が必要かもしれない。
厚労省では6つの注意を挙げている。しかし室内の食品保存に関して室温や時間の具体的指示は見られない。“出来るだけ早期に食べる”ことはしっかり意識したほうがよさそうだ。
(6月23日AM0時半ころの記載でした)
煙突女学校 世が世なら
この人は輪ゴムが好きで、ゴムをはめたままだったのでうっ血したんでしょうか?嫁ぎ先で100才近い実母をみている奥さんが言った。
ゴムの跡から先のお年寄りの手が赤く腫れていた。症状はさほど問題ないが、うっ血の言葉を正確に使われたので少し驚いた。
看護師さんをしていたのですか?と訊いた。
「ああ恥ずかしい全然です。私は煙突女学校ですワ」と仰った。うっ血はテレビで聞いたかもしれない、ということ。それにしても煙突女学校とは。
「私ら中学校を出てすぐ富山の紡績工場へ就職しました。高い煙突がある大きな工場で、学校みたいに見えるので、煙突女学校と言ってました」。工場の寮生活ではお花や裁縫を習い、ある種学校の雰囲気もあったという。
「家に金が無かったから高校へ行ってません、そのかわりの女学校ですね。みんなもそう言ってました」。
富山の紡績工場、、、呉羽かな、、、高校の地理で習った。この人はそれを実際経験している。聞いたことがない言葉も、、、。
私より二つ上の彼女は常におおらかで明るく、介護の要点を把握し、質問なども要領を得ていた。
「こんな年まで世話かけて悪いね」
ある日、一緒に入浴した母親が言ったという。彼女は“そんなことはない、長生きはいいことだって新聞に書いてあったよ”と答えた。新聞に書いてあった、の一言が効いたのか親は安心していました、と笑って話してくださった。
なるほど確かにそうだ、賢い人だなあと感心した。
F子さんは、高校や大学へ行かなくとも、何かと適切に振る舞う代表選手のようだ。もしかしたら富山では周囲や上司の信頼は厚かったかもしれない。明るくはっきりしている言葉からそう思った。
お顔もどことなく上品で、職人あがりの静かな旦那さんはいつも幸せそうに日曜大工に勤しんでる。
彼女もまた「世が世なら」の一人なのか。少なくとも余計なことを考えないで、現実に直面できる望ましい性格の人なのだろう。うっ血からそんなことまで考えてしまった。
早く逝きたい 自然な長生きを
「先生、早く逝かせて」。初めて訪ねるころの超高齢者が口にされることは希ではない。この場面にはいつも悩まされ、「また言っている」、とそばのご家族が叱るように仰る。
前なら、“二十歳で戦死した兵隊さんたちのことを思えばもったいないですよ” “事故や病気で若く亡くなった方もいるじゃないですか” “仏様がもう少しそっちに居てと仰ってますよ”などと言っていた。
その後理屈はダメだと思い、がらっと変えた。まずは「そうですよね、長生きも退屈なんですよね」など同情から始めて見る。それから伺う度に、
「子どもの頃はどんな風に遊びましたか」、「子どもも田んぼを手伝ったのですか」、「昔の浜はイワシやカレイが沢山とれたそうですね」、「奉公に行ったことがありますか」、「新婚旅行はどこでしたか」、「東京へ行ったことがありますか」、「寒くないですか」、など答えやすい質問を試みる。
すると死にたいと仰った人が色々話しだす。新婚旅行は無かったと大抵否定されるが、否定は元気な証拠だ。東京が無ければ善光寺は?と聞いてみる。おばあさんなら、実家のこともいい。さて帰ろうかというころ「また来ますよ」と言うとしばしば「ありがと、また来てくんない」が返る。
お年寄りのスイッチは比較的簡単に切り変わる。ご家族が少しでも真似るようになると、落ち着く傾向がみられて前進する。
ところで、この2月末頃から不整脈を悪化させ、連日苦しまれた方がいた。昼夜の往診を続けたあと、一両日かもしれません、とご家族に告げた。まもなく100才になられる方だった。お嫁さんは、薬や飲食のことを心配され、せがれさんは涙をいっぱいためて、お世話になりました、と仰った。
それが、その日を境にゆっくりと回復に向かわれた。往診の日など「先生の前で粗相するといけない。トイレに行く」と這っていって用を足されるという。無口で黙々と自立され、散歩も欠かさない方だった。長生きと気丈をあらためて振り返った。
上越市は介護保険料や重度の要介護者率は全国でもトップクラスという報告がある。財政への重圧は事実だろうし、大震災以後なおさらかもしれない。
しかし、私たちは目の前で苦しむ人や、死にたいと言う人をみると何とか助けたいと思う。苦しむ人を見るご家族の心配も自然に感じる。
今日、心身への気遣いや医療・保健・介護によって、元気に90、100へ長生きが可能になった。ただ超高齢における安易な管類挿入は避けたいし、戸外を促し、事情によって良心的な施設が選べるようになればもっと安心にちがいない。
上越市は合併で日本一人口の多い過疎地になったと聞いていた。介護費用がかさむのもやむを得ない。いっそうの疾病予防と、国費の支援は当然ではないだろうか。
福島県からのお子さんたち そして夏は来ぬ
学校医をしている大潟小学校のPTA誌「あらいそ」。今年から始まったミニコラム絆のスタートに書いて、ということで駐在さんと一番バッターをしました。
福島県から上越市に避難されたお子さんの多くが、新学期から大潟区の小中学校に転校されました。それで福島の友達とのことを書きました。
わずかなスペースをなんとかうめて拙文とし、本日それが届きました。
新たな人との関係は、なにかとこちらの事ばかりを話したくなりますが、ぜひ相手(福島のみなさん)のことも聞いてほしい、一心を書きました。※文中の大潟町→大潟区でした(汗)。
そして本日は地元の保育園で春の健診。小中学校だけでなく、保育園にも10人ほど福島県からの園児が通っていることを知りました。
こうしてみますと、避難された方たちの中に如何に若いご夫婦が多いかが、あらためて分かります。職業のこと、教育、不慣れな生活、、、大変だろうなと思いました。まず何よりお子さんたちが当地でのびのび出来ることをお祈りしています。
どうかみな様頑張ってください。御地の回復、そして時には当地で楽しんでいただければと心から願っています。
卯の花の匂う垣根に、、、♪の「夏は来ぬ」は大潟の人、小山作之助の作曲です。作曲は古く明治29年でした。曲は音階を上げていって高らかに終わります。
このことについて、團伊玖磨氏が随筆集「好きな歌・嫌いな歌」で曲の斬新さを賞賛されていました。確かに季節にふさわしい晴々としたエンディングだと思います。ちなみに以前にも書きましたが、作之助は小生の祖父の兄です(再汗)。
夏を迎える満開の白い花を見ますと、あらため花も曲もいいな-、と思いました。
がんばれ介護保険
昨夜の要介護認定審査会を最後に審査委員を終了させてもらった。審査委員は止めたが、意見書はじめ患者さんがお世話になっている制度とはまだお付き合いが続く。同制度は医療と共にある重要な両輪の一つだ。
介護保険には思い出が多い。、
平成12年制度発足まで数年間を地域福祉計画策定委員会、それを引き継いだ介護保険計画策定も会議責任者としてしぶとく議論を重ねた。
完成した計画案は平成12年の施行に向けて町の議会で承認された。承認に当たって陳述をもとめた。いまだ介護保険を忌む空気が一部にあったからだった。悲惨な現実に対応する制度概念とサービス項目の優先順位などを精一杯訴えて責務を果たした。
前後してスタートする制度に対応すべく要介護認定作業が始まった。頻回な研修や模擬審査会が連続し、語りぐさになるほど疲労困憊した。医師審査委員の選任も重要であり、総動員に準ずるルール作りを急いだ。
非公式な活動では、
旧大潟町の医師達もまとまった。介護保険施行の数年前、訪問入浴車の重要性を訴えて皆で役所に補助の請願をして認めてもらった。また制度周知のため費用を出しあって専門家を招聘し、住民説明会を行った。個人的には自院の患者さん達にアンケートをお願いし、結果報告と説明会を催した。40ページの小冊にして臨んだ。
夢中で書いた投書が新潟日報“窓”欄と朝日新聞“声”欄に載ったのも懐かしい。
f
介護保険前年、平成11年6月、アンケートに基づく制度説明会。
患者さんはじめ大勢参加いただいた。男性も多く見えて頼もしかった。
始めにSPレコードで歌を聴き、終了に「誰か故郷を想わざる」をレコードとともに皆で歌った。
町の計画策定会議では真摯な課員のお世話になった。ある制度見直しの年、保険料の財源不足が見込まれて大きな課題となった。
保険料を一様に増やすと低所得者へしわ寄せが強くなる。この緩和のため高額所得者の負担増を目して5段階の負担区分を6段階に上げることを検討した。
くだんの担当者は全国の状況を調べて6段階の自治体をいくつか見つけた。やりますか、やろう、と承認を得て計画に盛り込んだ。
総じて介護保険は苦境の中で開かれた制度として頑張ってきた。考えられないことだが、遊び半分の人間達がメチャクチャにした年金などとは全く違う。この震災で当制度もさらに厳しい環境になろう。苦しいが、みなが110%働くことで正念場を乗り越えられると思う。
長くなってしまいました。
最後の介護保険審査会 シェルブール 網膜剥離
資料が送られてきて、今年最後の介護保険審査会が来週で終わる。次年度中に70才になるので規定に甘えて今回を最後に委員を下ろさせていただくことにした。介護保険にはよく付き合ってきたと思う。
介護保険が産声を上げたのは平成12年度。その5年ほど前に突然、新潟県庁から何人かの役人さんが尋ねて来た。在宅医療や介護についてのヒアリングだった。色々聞かれた中で、保健婦さんの福祉マインドと介護技術を尋ねられた。あまりの急所に正直びっくりした。
来られた人達はみな若くよく勉強していた。何かが始まる気配を感じたが、まさか介護保険という壮大なシステムが想定されているとは思ってもみなかった。
昭和50年から総合病院の無い町での開業。忙しい外来のほかに往診用件が多く、在宅の看取りは当たり前だった。寒い部屋で糞尿にまみれ息子さんを待っていたおかあさん。一日中おかゆの手ナベ一個が枕元に置かれているだけのおじいさん。窓を開けて、お嫁さんの悪口を毎日叫ぶおばあさん、、、、。これでいいとはとても思われなかった。
欲を言ったらきりがないが、介護保険は世界に誇れる制度だと思っている。まがりなりにも理想が論じられた結果ではなかっただろうか。
シェルブールの雨傘:ピアノ・山田紗耶加さん
映画シェルブールの雨傘は
雪のガソリンスタンドと子どもの名前が切ない物語だった。
今シェルブール一帯は原子力関連の施設を多く抱えていて、
別の意味で悲しい。
ところで介護保険の前夜、福祉の事になると、以下のような話をよく耳にした。
「福祉、福祉というけど、その前にまず経済をよくしないと」
「昔から地域には必ず気の毒な人たちが居たもんです、今さら騒がなくても」
「体を鍛えて介護保険などの世話にならないようにすることが大事です」
地域の慈善団体の長と、町の要人の話だった。
一番目の人は景気が良くても同じ事を言う。
奇異かもしれないが原子力発電のマターと福祉はどこか似ている。
不景気のアゲインストの中、ケアマネを育て社会のマインドを上げて
介護保険は頑張った。
数日前から右眼に網膜剥離の症状が出ている。
本日午後の眼科を予約した。
100発前後のレザーは覚悟しているが、手術だけは勘弁してもらいたい。
丈夫でもないのに、35年間病気を理由に仕事を休んだことがなかったので。
アイソトープ そして水
一週間が過ぎて仮設住宅が着工した。何よりの知らせだ。きっと被災地の見えない所に建設されるにちがいない。
明るい知らせの一方で、今もって親族を探す方たちや避難所の人たちの辛さが浮き上がる。
そして懸命に続く原発の冷却作業。一定の効果が伝えられているが、予断を許さないとも報じられる。その通りだと思う。私たちは台風や大雨、大雪に地震など自然をコントロール出来ない。人が作り出したもう一つの太陽、原子力もまた管理を越える本質を見せている。
17日に、フランスがホウ酸100トン、放射能の防護服1万着、手袋2万組、防護マスク3000個を日本に送ったと報じられた。悪戦苦闘する現場で直ちに助けになる支援だと感じた。
フランスは原子力大国と呼ばれている。しかし芸術と思想の国のこと、強いジレンマも内包しているのではないかと思うがどうだろう。
放射能といえば、小生も大学病院時代の研究室で放射性物質を扱っていた。写真のノートは1968年のもの。フランスと聞いて、押し入れの奥を探すと出てきた。
人のホルモン濃度は血清1ミリリットル当たり10億分の何グラムというレベルのものが少くない(中には一兆分の数グラムも)。その超微量のホルモン測定また方法の開発が仕事(研究)だった(汗)。
当時の測定では、アイソトープで標識した抗原(ホルモン)と動物から得た抗体の相に人の血清を加え、競合的な免疫反応を利用して測定する方法(ラジオイムノアッセイ:RIA法)を用いていた。
時にはアイソト-プ(放射性同位元素)をフランスの原子力機関から直接購入することもあり、この面の先進性をやや奇異に感じていた。
私が使用したのは主にヨウ素125で、時には131を用いた。線量は許容範囲で、ガンマー線を測定したのは懐かしいウェル型シンチレーションカウンターだった。トリチウムなどの液体シンチレーションカウンターは半ば自動化されていたが、ヨウ素は一本一本試験管を小さなウエル(井戸型穴)に入れて測定した。
当時の認識と管理はまだ甘かった。
ある日の測定でスイッチを入れるといきなり異常に高い数値がカウントされた。普段私が測る10倍近い値だった。まさか誰かが汚染させた?それとも私?何もしていないのに?
ウエルの内壁も、試験管も手も、考えられるもの全てをペーパーで拭いた。しかし異常なカウントは続く。深夜の鉛の部屋に1人、パニック同然だった。
突然ある先輩医師が入って来た。部屋は紙クズだらけ、カウンターに異常な数字、慌てる私。
「まだ時間かかる?じゃ僕は後で」と先生は言った。そして入り口の机から10数本の試験管を立てたケースを取り、部屋を出て行かれた。
そこに試料があったの?初めて気がついた。異常なカウントはピタッと止んでいた。空のカウンタホールは数メートル先にあった先輩のサンプルを測っていたことになる。放射線の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。学内でコンプライアンスを高める作業を進めているころの話だった。
「スギちゃん、あのころは呑気だったなあ」、と毎年会うようになった研究室の同僚は言う。彼は私のヨウ素よりずっと半減期の長いトリチウムを扱っていた。笑っていはいるが長く不安だったにちがいない。
今回、懸命な消防士や自衛隊員は私たちよりも浴びている可能性を否定できない。40数年経って防護や養生も進んでいる。それでも生々しい映像にあらためて心配を禁じ得ない。
ついでの心配は水。発電所の容器や管に漏れはなかったのか、放水された水は海水は?現場の水について知らせる報道をまだ見ていない。
懐かしく辛い訛り アマポーラ
今日の外来のAさんは全く元気がなく顔色は青冷めていた。長期出張のAさんは仙台からこられている。地震の話になった。
「仙台はもとより三陸一帯は営業で非常にお世話になった」「三陸はきれいで食べ物が美味しい、こんなことになるとは」「テレビで懐かしい訛りを沢山聞けたが、辛いです、、、」、一気に話されると言葉に詰まった。
「先生もお元気で」と帰り際に言われて、こちらがつまった。
ナナ・ムスクーリのアマポーラ
羊飼い的なスペイン生活を経験している弟。乾いて花の少ないスペインではアマポーラ(ひなげし)がきれいだった、と聞いたことがある。
- 仏像、社寺、二十三夜塔、庚申塔
- 樹下だより
- 齋藤三郎(陶齋)
- 倉石隆
- 小山作之助・夏は来ぬ
- 聴老(お年寄り&昔の話)
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- 花鳥・庭・生き物
- 空・海・気象
- 頸城野点景
- ほくほく線電車&乗り物
- 社会・政治・環境
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- 食・飲・茶・器
- 拙(歌、句、文)
- こども
- 館長の作品。
- 上越市八千浦中学校の皆さま。
- 小3の凄まじい体罰 その2 終章。
- 小3の凄まじい体罰 その2。
- 小3の凄まじい体罰 その1。
- 小学校に上がるまでジャンケンを知らなかったAちゃん。
- 台風直後の上野駅から大潟町へタクシーに乗る その2。
- 今朝方の雷雨 その昔、台風後の上野駅から大潟町へタクシーに乗る。
- 厳しい残暑のなか頸城野の稲刈り。
- ほくほく線のポストカードで。
- 気に入って頂いたほくほく線電車の写真。
- 今年初めての赤倉CC 仕事上の最年長になっている。
- 今年前半の「お声」から 刈り入れ前の田んぼの雀。
- 週末の上京 小5の築地と叔母の周辺そして「横浜事件」。
- 昭和100年、太平洋戦争80年の声無き声を思って。
- お盆14日は柏崎市の木村茶道美術館へ。
- 来たる10月25日(土)は小島正芳先生の講演会「佐渡島の金山と良寛の母の愛」。
- お盆休みに入って。
- お礼のランチ会。
- 明日夕方は満月。
- スタート時間を遅らせてもらったゴルフ。
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