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本日郷土の偉人前島密を顕彰する会の皆さまが来館。

2024年6月29日(土曜日)

去る5月23日、郷土の偉人 前島密を顕彰する会からお二人が、当館(当院)に保存されている前島密の扁額にまつわる話を、この先皆で伺いたいと来館されていた。
その後予定を調整し、本日土曜日昼前、市議の滝沢一成氏を会長に前島密記念館館長利根川文男氏と会員ご一行10名様が約束どおりやってこられた。
私の説明は午後予定で、皆さんは午前中から扁額が附与されるきっかけとなる明治時代からの音楽家小山作之助夫人まつ子さんが晩年疎開で住んだ家(作之助の生家)と作之助の墓碑、されに扁額が掲げられたいた大潟区の当医院などを回って来られ、樹下美術館で昼食まで摂って頂いていた。

話のテーマは当家に何故密翁の扁額があり、それに関係する前島家から小山作之助の後妻として嫁いだまつ子さんと作之助の弟で医師の小生祖父杉田直次郎の開業など、扁額に関わる縁についてだった。

扁額「正眀堂」は明治42年初秋に前島密が書いたもので、「正しく見るところ」の意味が込められている。大潟区潟町の現在地で開業した直次郎のために揮毫されたもので、医療機関にはぴったりの三文字だった。
まつ子さんは前島家のご息女の家庭教師として入り、後年まで家族同様に暮らされた縁から同家の養子格とされていた。

もとはと言えばまつ子さんは秋田県の生まれで、若くして両親、兄弟に死別、天涯孤独のまま一人上京し前島家でご息女の面倒を見ながら家庭教師兼女子大学通学をするようになった才媛の人。

扁額「「正眀堂」
真摯さと美しさが滲む。

直次郎の待合室にあった屏風。
南摩羽峰の筆による。
その上の欄間に扁額が掛かっていた。
屏風は別所で撮影。

南摩羽峰(綱紀)は幕末の福島藩士で学者、文人。戊辰戦争で負け、越後高田藩で謹慎させられていた。屏風は当時のものと考えられる。明治になり綱紀は新政府の太政官を経て東京大学教授になっている。

晩年のまつ子夫人。
小山作之助還暦祝いで。

才媛まつ子さんが書いた
「杉田医院」看板。

看板も扁額前後に直次郎のために書かれたものであろう。私が開業するまで古い医院の玄関に掛かっていた。汚れを落とそうと迂闊にも雑巾で拭いたところ文字が半分溶け落ちてしまった。

ちなみに晩年(昭和15年)の直次郎(前列左)、その隣祖母トワの兄・野口孝治元衆議院議委員(立憲国民党)、その右祖母トワら。
父母は孝治の後ろにいる。トワが抱いているのは誕生したばかりの姉。祖母は12人も子供を産みげんなりしています。

本日のご一行とともに。

皆さまの中にお二人、高校時代の同級生が居て64年ぶりということ、あっと驚きとても嬉しかった。

夜になって上掲関連写真を皆さまに届けるべくプリントした。近くお届けするつもり。
熱心に前島翁を研究し、顕彰され、何よりそれを楽しんでおられるのを目の当たりにし、奇しくも大昔の級友と出会い、ご一同から元気を頂き、畏敬と感謝を禁じ得ない。

しっかり準備もせず臨み脱線ばかりして反省しています。

以前一部の写真を掲載したことがありました。

後日追加です:樹下美術館の常設展示画家倉石隆夫人・翠さんは小山作之助のお孫さんの一人。小学生のころ夏休みの宿題の絵をまつ子さんに描いてもらって提出したという。返された絵の裏には担任によって「上手すぎて、上手すぎて」と評が書いてあったらしい。

須坂市の田中本家博物館、脈々たる意識。

2024年6月4日(火曜日)

一昨日「緑陰茶会」が開催された須坂市。本日は前回の続きとして同市の田中本家博物館の展示について掲載させて頂きます。

かっての長大な蔵が素晴らしい展示室になっている。次々現れる貴重な美術品および生活用品は非常に見応えがあった。
一般に博物館といえば文書資料や説明が多くて疲れる。しかし同館は極力そうしたものが抑えられ「兎に角観てもらう」に徹し、成功していると思う。

刀剣をこれほど魅力的だと思った事がなかった。江戸時代は武士のほかにも一定の人々は帯刀を許されていたという。

九谷、伊万里、明時代の赤絵や呉須など、田中家の磨かれた美意識と鑑識眼はさずが。

以下は子供たちの為に揃えられた品々。

武者人形は端午の節句用。
他にもたくさんありました。

玩具。

いずれも夢のような高級玩具。
完璧な保存。

ままごと用の品々。子ども達は幸せだったろう。

着せ替え人形の数!

着物。

何故か男児ものの方が
女児より上等に感じられた。

大人の着物。

一目見て気に入った帯。

お揃いの真綿入れの半襦袢、長襦袢(最後方)、艶やかな帯、息を飲むような水仙と藪柑子(やぶこうじ)柄の留袖ひと揃え。

最後に展示場を出た庭の一角にあった納屋のような場所。

高い棚に積まれていた鳥籠、虫籠。自然豊かな信州の春秋、入れ替わり立ち替わりの鳥や虫に籠は休む暇が無かったのでは。

さて沢山載せましたが、この何倍も展示されていて美しい書画もあった。客観の徹底、多岐で豊かな品々と原状管理の努力など田中本家の人々の意識の高さに尊崇を禁じ得なかった。
長き亘り質素倹約を家訓とし、ものと人を大切にして藩を支えきる。そうで無ければこれほど良い品は集まらず維持も叶わなかったことだろう。

子供たちの玩具や着物を見ているうちに目頭が熱くなり、同家の亡き人々のことを思わずにはいられなかった。

何か落ち込むようなことがあったら、あるいはそうでなくても、また来てみたいと思った。

同館は維持管理に費用が掛かりクラウドファンディングまで企画している。規模に雲泥の差はあるけれど、樹下美術館も決して楽ではない。12代御当主にはその点でもシンパシーを覚える。

6月1日 夏は来ぬ 上品な世界。

2024年6月1日(土曜日)

本日6月1日、よく晴れて夏が始まる。殆どの年にこの日、卯の花の写真を掲げ「夏はきぬ」の動画を掲載してきた。本日また小生の大叔父・小山作之助作曲の「夏は来ぬ」を掲載させていただいた。

美術館付近の高速道路ののり面に
咲く卯の花。

本日花に取り付いていたクマバチ。


下のホトトギスの鳴き声と一緒に
曲をお聴きになってみてください。

後日追加です、爽やかな「夏は来ぬ」がありました。

明治期、斬新な作之助の曲調と対比的な佐々木信綱による大和調の詩もまた素晴らしい。数日前、ホトトギスが遠くでキョキョと鳴くのを聞いた。
果てしない世界で花や鳥、そして人や蛍もまた共に季節を揃えながら移ろって行く。ある面世界は洗練されている。

異骨相(いごっそう)の草むしり。

2024年5月22日(水曜日)

よく晴れ蒸し暑さを感じる一日となりました。今夏はどんな空となるのでしょう。まず冷夏などではなく、皆で散々文句を言う暑さになるような気がしますが、如何でしょうか。

そんな日の午後は時間をとり再三の芝の草むしりでした。
ところで当地では手で行う除草のことを「草取り」と言い「草むしり」とは言いません。上に「草むしり」と書いたのは、一昨年亡くなった高知の同級生、Nへの一種供養です。

大学病院時代のある日、何かの拍子にNは、自分の田舎では除草を「草むしり」と言うと話しました。普段Nは囲碁が強く、私など何目置いても鼻歌交じりで応じ、あっという間にひっくり返されます。あるいは研究室の実験が終わると真剣で居合抜きの練習を行うなど土佐の気骨「異骨相(いごっそう)」振りを垣間見せていました。

それが「寅さん」映画をよく観に行き、診療の合間にふとそばへ来て、寅さんのセリフ「見上げたもんだよ屋根屋のふんどし」などと小声で言っては立ち去ります。
そんなNが私達が言うところの草取りを高知では「草むしり」というと話したのですから、土佐の気骨が妙に可愛く感じられ、不思議と耳に残りました。

「取る」より「むしる」ほうが生活感があり、どこか可愛いくありませんか。
この時期、草取りをしていると頭に「草むしり」の声が響いては消えるのです。

本日の草むしり。

前にも書きましたが、亡くなった人のことを思い出すと天国で眠っていた本人は目を醒まし、喜ぶという「青い鳥」の一章を思い出しました。

備中(岡山県)倉敷市玉島は円通寺から届いた良寛椿を植える。

2024年5月13日(月曜日)

今年正月に京都→髙松、倉敷を巡った。最終日は倉敷市西部の玉島は円通寺だった。新潟県が生んだ聖僧良寛が若き日10数年に亘り修行した曹洞宗円通寺。それは厳しい風雪に見舞われる越後の冬とは別天地の晴れ晴れとした瀬戸内を見下ろす山中の古刹だった。

伽藍のなかに覚樹庵跡あり現在は納骨堂にあらためられているが嘗ては良寛に与えられた小庵だった。その場所に樹齢200年という良寛椿という大きな白玉椿があり長年親しまれていた。それが2005年から花が絶えてしまったという。
その後関係者と樹木医の努力により15年を経て再び開花しはじめた。これを期に発足した「良寛椿の会」が熱心に挿し木により苗を作り、有志をはじめクラウドファンディングでも資金を集め「円通寺境内下の土地に「良寛椿の森」造成を目指して植樹が行われるようになった。

覚樹庵跡の良寛椿(右の巨木)
今年1月撮影。

植樹されている「良寛椿の森」
良寛椿の会のホームページから。

正月玉島を訪ねた後、同会の熱心な推進者で新潟県ご出身の早川氏から「良寛椿」の苗が届けられてきた。上手く行かない人も多いようですので頑張って、と添えられた。

その苗を本日前庭に植えた。

1月22日の苗。

本日植栽した苗。
新芽が展開し始めている。

岡山県円通寺の覚樹庵にある良寛椿の苗が越後の樹下美術館で無事活着し育ち、開花するのを是非この目で見たい。

新潟市は秋葉区へ。

2024年5月3日(金曜日)

風麗しく香る憲法記念日の祝日、秋葉区金津へ行って来た。同所は今年3月上旬、寒風吹きすさぶ日に身をこごらせて行った。
それから二ヶ月、あの横殴りの冷たい雨は幻となって去り、今や春陽温かく心弾む季節に変わっている。風光の変わりようはまさに魔法だ。

以下秋葉区行きを並べてみました。

食べずにいた家の朝食を美術館へ持参しベンチで朝昼兼用として食べた。全体の分量が少ない分は春風に当たり麗しい大気を吸って栄養とした。

高速道路を燕三条で降り下道を走った。およそ1時間50分、丘陵地のフラワーランドや県立の文化施設群に着いた。美術館のスーパーリアリズム展は時間の関係で次回とし、県立植物園と民間施設のフラワーランドおよび初めてとなる県立埋蔵文化財センターを訪ねた。

まず植物園。

牡丹とつつじの規格展示
も行われていた。

熱帯植物ドームです。

初めて観る軽々とした植物。

流れの音を聞いているアンスリュウム。

オニバスが蕾をつけている。

前回と違い、たっぷり日光が入り全体が生き生きと冴え、一部で花が異なっている。

「車つつじ」も初めて。

以下埋蔵文化財センターです。商物円からゆるい坂道を北方向?へと歩きます。

坂道を歩いて新潟県立埋蔵文化センターへ。

奈良三彩の小壺
こんなきれいな器が埋蔵品とは。

 土偶は面白い。

遮光器土偶は植物への尊崇の意味合いが指摘されはじめた。しかし展示のような単純な造形をみていると「子供のオモチャ」「子供のお守り」だったのかと思ってしまう。死亡率が高かった縄文時代の子供は今よりさらに貴重な存在だったにちがいない。

50年近くも前の開業当初、ある薬剤問屋さんの若い営業マンが自ら見つけた土偶の完品を持っていた。何とか譲ってくれないかと持ちかけたが「絶対だめ」と取り憑く島が無かった。採取場所を教わり何度も歩いたが当然見つからなかった。日本に土偶は2万点ほどしかないと、かって書いてあった。

 

縄文から弥生、さらに鎌倉期まで土器~焼き物が空白無く並ぶ。生活を豊かにという願いが滲み出ていて遠い遠い時代へのシンパシーが湧く。

三つ目の施設はフラワーランド。

「無い物はない」ほど充実している。

ラベンダー、乙女百合、シラネアオイほかを求めた。花の育成は何度も失敗しているが、大反省を行った今回は最後の挑戦。植物はバイオ技術の発達のせいであろう、かってより安価になったものが少なからずある。

上越から秋葉区は遠い。ナビに従って三条燕ICから下道を走ったが、高速道路で秋葉区へ直接行く方が時間を短縮できるのではないだろうか。数多い信号、分岐の走行はやはり疲れる。いずれにしても植栽が楽しみ。

27日日曜の種々(くさぐさ)。

2024年5月1日(水曜日)

去る4月28日日曜日は午前の開館前の美術館で芝生に目土をし施肥した。良く晴れた春の午前の庭仕事は気持ち良く予定通りに終了、残り時間に雑草を取った。
目土や施肥は足腰の負担を考え1回の分量を軽くし回数を増やした。

終わると開館時間になり、次々お客さんが来られた。


普段の昼は美術館でサラダを食べているのを、お腹がすいたのでベンチでホットサンドセットを食べた。

吹き渡る風、木漏れ陽が
清々しかった。

食べ終えて予定の木村茶道美術館へと柏崎市に向かった。

緑うるわしい松雲山荘。
木村茶道美術館入り口。

坂を歩いて美術館へ着く。

始まったばかりのお席に加えて頂いた。

床に副島種臣「龍」の大字軸。
広やかな一幅で、
種臣は能書家と説明を受けた。

香合は楽一入作「立瓜(たちうり)」。
可愛く畏まっていた。

柿右衛門の色絵水指。

 

茶は岡部嶺男の志野茶碗で頂いた。
銘「石清水(いわしみず)」だった。

「石清水」はのどかさと緊張が絶妙に調和した素晴らしい一碗。
最上屋さんのお菓子を食べ心こもったお点前で頂いたお茶は美味しく、幸せな一服だった。

齋藤三郎作「こぶし文鉢」菓子器。

この菓子器は大きな深鉢で、当日の席はもう一人の男性先客と二人だったため以下の南京赤絵皿に菓子が盛られた。相客をさせて頂いた方、有り難うございました。

瑞雲と梅枝のさわやかな菓子皿。
柿右衛門の水指と風合いが似ている。

櫂先が大きいのが特徴という瀬田掃部の茶杓と柏崎の塗師内田宗寛の黒大棗(おおなつめ)。同館は常に地元の宗寛作品を重んじているのはとても良い事だと思う。格調高い作品も十分それに応えている。

お茶のあと展示室で人間国宝の茶碗展を観た。
作品はみな驚嘆だったが以下お二人のが特に気に入った。

藤本能道の赤絵茶碗。
地肌の質感と赤絵の風合が絶妙。

田村耕一の鉄丸茶碗。
氏の記号的な文様はとても静か。

美術館を出て緑いっぱいの庭園を歩いた。

途中、シャガの花が咲いているところがあった。傍らの水草の中で蛙がグッグッと鳴いていた。

赤坂山の東斜面を使った山道。個人の山荘というけれど流れあり赤欄干の橋が掛かり、昔人の何と贅沢なことだろう。

木村茶道美術館と松雲山荘庭園を辞して帰路、柏崎コレクションビレッジ「風の丘」に寄った。
遠く日本海を望む丘に三棟の大きな施設があり、その一つ「同一庵藍民藝館」を訪ねた。
多くのコレクターを生んだ柏崎市。同館はその一人、染めや食器など庶民の日常にあった藍色の生活用品にこだわった正法寺住職・松田政秀の内外にわたるコレクションを主体にしていた。

 

かっての職人さん達の仕事着、
印半纏(しるしばんてん)。

中国、アジアのものまで
はば広く展示されている。

以下は同館で企画されていた柏崎市の作家作品展から、吉田正太郎の版画。


濱谷浩が撮影した吉田正太郎と齋藤三郎のツーショット写真がある。氏は柏崎における齋藤三郎の支援者の一人だったが、このように愛すべき作品を生み出す方とは思ってもみなかった。ちなみに風の丘、コレクションビレッジ三館の一つ「黒船館」は正太郎と弟・小五郎お二人のコレクションが展示されている。

懐かしい「幻灯」のコレクション室もあるなど多彩で面白かった藍民藝館でした。

樹下美術館に帰ってクリームソーダーを飲み、閉館後は幾つかの花の苗を植栽した。

ホトトギスの苗。
秋にはどんな風に咲くのだろう。

色々忙しく動いた一日でした。翌28日みどりの日、今度はゴルフで明日掲載予定です。
明日木曜は休診日なので5連休が始まる。一泊でよいから今から行ける所があるだろうか。

色々載せました。

にいがた観光ナビのインタビュー。

2024年4月20日(土曜日)

本日昼前からにいがた観光ナビのお二人が当館の取材に来られた。開館当初に一度お訪ね頂いて以来二度目ということ、大変熱心に取材して頂いた。

美術館開館の動機、齋藤三郎および倉石隆との縁、作品の見どころ、庭やカフェなどのことも聞いて頂いた。二人のメイン作家さんの齋藤三郎では父から始まった収集と幼少期から続く作品への憧憬、倉石隆では出会いのきっかけとなった血縁に興味をもって頂いた。

自身の志向である自然への親しみについて尋ねられ、高校時代の肺結核と療養生活で体験した森林散歩が原点とお答えした。

カフェを中心に揃えたデンマーク椅子と照明ほかカモグリや天童木工の名椅子、洋食器などもよく御存知で、インタビューは楽しいひとときだった。
久し振りに当初の高揚した気持が蘇り初心にかえろうという思いを新たにした。
お二人様、ほんとうに有り難うございました。

悪天候の春彼岸 本「良寛の生涯と芸術-慈愛に満ちた心-」。

2024年3月21日(木曜日)

10日も前から昨日春のお彼岸と翌本日は悪天候と予報されていた。お彼岸と言えば穏やかな日和を一瞬思い浮かべるが両日は雪マーク付きの悪天候が知らされていた。

20日の昼の駐車場。
寒風の中お客様が見えていた。

 そして本日朝方から寒さがつのり仕事場では積雪がみられた。

仕事場の庭の水仙。

 昼前、いっとき陽が射して美術館の窓際で「良寛の生涯と芸術」を読んだ。

つかの間の日射し。

 何のマユだろう。
強靱な糸で編まれていた。

午後、ウィキペディアを書いてくれる方が見えご一緒した。優しいのに突破力のある人で作業がはかどった。

午後再び美術館でサラダを食べ本を読み、お客様と話しをした。

良寛の生涯と芸術」。
小島正芳著
令和6年1月1日考古堂書店発行

本著は本文500ページという大著ながら文、活字とも柔らかく非常に読みやすい。著者小島正芳氏は新潟大学教育学部書道科を卒業され新潟県立文書館や教職を歴任、この間50余年もの歳月を良寛研究に捧げされ,多数の論考、著作を重ねられている。

まだ60ページを過ぎたばかりだが、北前船と佐渡金山に向けて開けた港町出雲崎で要職を継ぐ名家に生まれた良寛。学問への勤しみの傍ら親子共々理不尽かつ激しい競争が繰り広げられる港町の勢力争いの惨さをまともに受け追い詰められ、ついに出家を決心する。

たまたま備中(岡山県)玉島円通寺の国仙和尚と巡り会い、いよいよ同寺での修行のため二人で旅立つ所まで読み進んだ。両親と別れ際の詩、特に母の場面は涙無くして読めない。

折々の発句、詩歌および関連資料や写真が次々掲載され、現実感を伴う波乱を追いながらいくらでも読めそうな気がする。生地の困難と出家、遠地への旅、修行と印可、長い行乞行脚、京都に於ける父の入水、帰郷、ふる里の人々と子らとの日々、晩年の貞信尼との恋、、、。

本書あとがきに「良寛の研究はやればやるほど更に深みが広がり、奥深い」とあった。ますますトゲトゲしく混迷し不確定化する時代。本著の「慈愛に満ちた心」をテーマに「良寛」がNHK大河ドラマで取り上げられるなら何と素晴らしいことかと思った。

今年の倉石隆の展示「兎に角生きる 展」の仕度が終わって。

2024年3月14日(木曜日)

開館して18年目の今年、倉石隆の展示準備が終わりました。

今年のテーマは「兎に角生きる」です。果たして作品がテーマに添っているか、倉石氏はそのつもりで描いたか、私には確固たるものがあるわけではありません。

ただ開館して17年が過ぎ、一種はたと気がついたのが、かなり多くの作品は尊大な(偉そうな)雰囲気や主張があるわけでは無く、氏の周辺で生活している人々の「普通さ」を一生懸命に描いているのではないかということでした。

人生になにがしか目的や目標はあろうと思われます。しかし知る限り、普段その日々は「兎に角生きる」の連続なのではないでしょうか。

大家が好んだ美人モデルや舞妓さんに踊り子さんなど鑑賞を伴う特別な対象とは異なり、ひごろ駅や街中で見かける人たちの「生活感」や「普通さ」を敢えて「肖像」として描こうとする。これは挑戦であり、一面容易な仕事ではなかったのではと思うのです。

現実にそれをする時、作者の技術もありますが、なにより自身が如何に真剣に周囲の人(自分を含め)を見てきたかが問われたのではないでしょうか。

 それぞれの年代を
精一杯「兎に角生きる」。

さあ出発のうぶ湯。
まずは兎に角生きる。

青春、壮年、
みな「兎に角生きる」。

時として人は「孤独」かもしれません。しかし作品を架け眺めますと、日々精一杯「兎に角生きる」点でみな一緒という「共通項」が浮かび「安心」が生まれるように感じました。

わずか12点の展示です。ご覧頂ければ有り難く存じます。

裏の桜に来ていたカワラヒワ。

本日午後、外は暖かく鳥たちの声が聞こえていました。温かくなると早速現れる小鳥たちは今まで何処にいたのでしょう。

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