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正月旅行の最終日、聖僧良寛が修行した備中玉島円通寺。

2024年1月22日(月曜日)

備中(岡山県)倉敷市の西南端である玉島は北前船で大いに栄えた商都です。瀬戸内海を望む玉島の高地に正月旅行の最終地、曹洞宗円通寺がありました。
江戸後期、我が越後の人良寛(以後良寛さん)は、生地出雲崎で巡り会った円通寺の高僧国仙和尚に付いてはるばる玉島まで旅し和尚のもとに入門、
22才から11年間にわたり禅の修行をしました。

国民宿舎「良寛荘
団体さんで賑わっていました。

タクシーで坂道を上り良寛荘に到着すると、地域振興と良寛顕彰に熱心に取り組まれる葛間さんと早川さんのお二人に迎えて頂きました。

良寛荘を出て見た瀬戸内海。良寛さんの当時、海岸線はもっと手前まで接近していたそうで、埋め立ても無く眺めはさらに絶景だったに違いありません。

円通寺境内には老いて樹勢が衰えつつある「良寛椿」と呼ばれる白椿の古木があります。良寛さんの修行時代からあるといわれ、現在それを挿し木などで増やし、上掲の場所で「良寛椿の杜」を目指して植樹されていました。

山門にて。

円通寺の山号は補陀洛山(ふだらくさん:観音様の降りてこられる場所の意味)です。寺院があるのは白華山という山の中腹で参道は少々急な山道でした。

国仙和尚に従って参道を上る図。
右下に師と良寛が描かれています。

参道途中、納骨堂である覚樹庵の前に太い幹の良寛椿。白椿だそうですが、これだけ太く大きな木が椿とは。しばらく前から花が途絶え、関係者の努力で僅かながら開花をみるようになったそうです。現在新たに採った苗は前述の「良寛椿の杜」で熱心な植樹に用いられています。

竹林の脇を通る最後の坂道。

円通寺の竹林のことは、禅のシンボルの一つとして良寛研究家の小島正芳先生からかねて伺っていました。

 

創建当時のままの端整が維持されている壮大な茅葺きの本堂は倉敷市の指定重要文化財。良寛堂への角に良寛像が安置されていました。

 

かって修行僧が居住した庵。
現在良寛堂と呼ばれています。

良寛さんが杖と共に
国仙和尚から印可の偈を
附与された高方丈南間。

1790年(寛政2年)良寛さん33才の時、この部屋で修行の終了を宣言する印可の偈を国仙和尚から与えられました。聖僧良寛の誕生です。偈とともに頂いた杖を頼りに世俗に飛び込む新たな修行が始まりました。

仁保哲明ご住職から
お話を聞いた一室。

ご住職には貴重なお時間を割いて頂きました。静かな自然体が滲むお人柄で、いっときでしたが修行をさせて頂いた気持ちがしました。

若き良寛像。
新潟県内で見る彫像より
ずっと若く溌剌としている。

高方丈から見た巨大な
花崗岩の石庭「千畳岩」。

高く続く石庭。

良寛さんを偲んだ
種田山頭火の句碑。

     岩のよろしさも良寛さまの思いで

昭和11年、円通寺を訪ねた山頭火。石庭で修行に勤しむ良寛さんを偲んで詠んでいます。

さてもっともっとと思いましたが時間が迫り泣く泣く円通寺を後にすることになりました。帰路は「新倉敷駅」まで早川さんが車を出して下さいました。途中の市内で越後長岡藩の名家老河井継之助の若き日の足跡を案内してもらいました。

河井継之助逗留地の碑。
倉敷ロータリークラブなど
によって建立されている。

河井継之助は1859年(安政6年)、当時借金に苦しみ続けた備中松山藩を劇的に再興させた漢学者山田方谷の門下として学ぶべく隣接する港町玉島へ上陸しています。児島屋はその時に逗留した船宿ということでした。

さて正月旅行の最終地、備中玉島円通寺の見聞を終了する時間となりました。私の準備不足で新倉敷-玉島の交通を、倉敷-玉島にしたため滞在時間を短縮せざるを得なくなりました。
にも拘わらず、早川、葛間両氏と仁保ご住職には大変手厚くして頂き感謝に堪えません。また旅行に先立ち、円通寺でお世話になったお三人に連絡をして頂いた全国良寛会会長、良寛研究家・小島正芳先生に深く御礼申し上げます。

話変わりますが40年前、自分には少々悩み多き時代がありました。なんとか越えなければと色々本を読んだり考えたりしましたが、畏れ多くも良寛さんには幻のように手を差し伸べてもらった気がしています。

当時、もしもこの目で見ることが出来るなら、次の三人を見たいと思っていました。
一人は良寛さんの少し前の時代、1818年生まれの我が高祖父玄作で、火鉢に手を焙りながら来客と話すのをすぐそばで。もう一人はイエス・キリストで、使徒を連れ荒野を歩くのを遠くから。最後は夕暮れの山裾の村を一人帰る良寛さんを遠くから、でした。

このたび円通寺から見た瀬戸内の冬陽は春のように明るく海は軽やかな青色でした。どんより重く暗い日本海との違いに師はどんなに驚いた事でしょう。険しい石庭もありました。ここで思いっきり修行しよう。若き良寛さんは勇んで意を決したにちがいありません。

悟り、強靱な足腰、師の教えと杖。印可の偈(いんかのげ)を授かった後、これらをを拠り所に、いずれ帰りたい越後を胸に仕舞い長い旅路に就いた良寛さんの円通寺。深い感慨をもって正月旅行の最終地玉島を後にしました。

後日早川さんから届いた良寛椿の苗。とても楽しみです。失敗する人もいるようですが、是非ともちゃんと育てたい。

御地倉敷市はじめ玉島および円通寺は諸行事、記念碑および像の建造、椿の杜づくりなど良寛さん顕彰の熱心さがとても良く伝わりました。古来豊かな商都であり茶の湯が盛んで戦後早くから「良寛茶会」も催されているとも聞きました。

晴れの国と雪国の妙、北前船の寄港地同士。良寛さんが繋いだ岡山県と新潟県は良縁にちがいありません。

さて以上、正月の拙い旅行記は長くなりました。一方で年明け早々の大地震。大災害は日が経つに連れ新たな問題が深刻化しています。
政治は各自懐にしたパーティー券代をまとめ、一刻も早く被災地へ届けたらどうでしょう。政治改革とはこのようなことから始まるのではないでしょうか。

1月3日の倉敷と直島。

2024年1月18日(木曜日)

前回記載の1月2日午後の大原美術館は15時閉館ということで観ることが出来ず、翌3日に回され予定に少々の詰まりが生じた。
3日午前に同館を観終わり12時には宇野港へ行き直島を目指す予定となった。

大原美術館の創始者・実業家大原孫三郎は、孤児院の運営に粉骨するプロスタントの篤志家を知り、自らもプロテスタントとなり文化の社会貢献を目指して昭和5年、日本初の大規模な私立西洋美術館を設立した。

前夜2日夜の大原美術館。

本館入り口左に
ロダンの「カレーの市民」
勇敢な人々の像は50年前も
ここにあった気がする。

同じ作家でも作品は様々にランクを生じる。大原美術館は主に孫三郎が支援した画家児島虎次郎がパリを中心に各地で懸命に収集。作品は作家の名ではなく完成度によって真摯に集められている。

このたび広大な展示場の館内でエル・グレコの暗色効果を生かした劇的な「受胎告知」から中心部の白が目を引くアンリ・ルソー、眩しいシニャック、ルノワールの若く幸福な裸婦、私には珍しく重厚なマティス、さらにムンクにロートレック、ルオー、モネ、ピサロ、ゴーギャンほか淀みなく並ぶ近代西洋画の代表作を観た。みな懐かしく、倉石隆が憧れたパウル・クレーも良かった。

日本人が描いたこの国の人々の深い味わいに一段と思いを新たにし、突然現れた松本俊介の青い人物も嬉しかった。

図録「大原美術館+作品と建築」
の見開き小出楢重「Nの家族」。

民藝の不動の人々、河井寛次郎、濱田庄司、富本憲吉、バーナード・リーチ、棟方志功、芹沢圭介のあまた一級品をを咀嚼するように堪能した

絵画では開館した昭和初期、日本で西洋名画の実物を目にする機会は乏しく、収集品は日本洋画壇の向上に貴重な役割を果たしたという。

50年ぶりとなる広大な館内を、まさにおぼろげな記憶とともに歩きながら、これは見納め、拙い自分のなにがしかの責任の一端を今果たしているという気がして安堵を覚えた。

米倉を用いた民藝・東洋館。
染織家芹沢圭介の紅型に
ちなみ独特の赤色をしている。

さて大原美術館の後は直島へ急がなければならない。宇野港からフェリー。しかし電車による岡山経由の行程は宇野港を頂点に岡山と倉敷が底辺となり三角形を構成していて相当不効率に思われた。時間を考慮し最終的にタクシーを依頼し宇野への直行を図った。

一帯に詳しい地元のタクシー運転手さん。運賃は掛かったが妻と二人で昼食を抜けば少しは足しになる。道中先々の話を聞きながら走った。現れては消える倉敷川を観て倉敷が物流の一大中心地だったことを納得した。

農海産物、繊維の運搬に
陸と海を繋いだ倉敷川。

道中で見た道の駅風な施設。

野を越え山越えて宇野港へ到着した。

港の広場を挟んで山側の眺め。
異国へ来たような景観。

乗船する「せと」丸。正面が直島。

直島までの時間。
多くがデッキに出て過ごす。

宇野から目と鼻の先、直島宮浦港まではわずか20分だった。

宮浦埠頭に
草間彌生さんの赤いかぼちゃ。
一斉にこどもたちが走った。

直島のアート巡りは施設と野外がある。施設のほとんどは予約制で迂闊にも私達はそれをしていなかった。残念だったが野外作品を主に観で回る事にして一台だけあったタクシーに乗り込んだ。

小さな船着き場に設置された黄色いカボチャで写真を撮るのにしばしば数十人待ちになるらしい。私達の時は誰もおらず後から混んできた。

大声のフランス語が飛び交い映画の中にいるようだった。

細い坂道を上ったり下りたり、写真を撮ったり、島の歴史と現状を聞きながら回った、精錬から文化の島へ痛々しさの克服。今日までの長い努力を思わない訳には行かなかった。

家プロジェクト地区にあった「ANDO MUSEUM」。予約無しで入館できる貴重な場所。しかし、ちょうど昼休みで入れなかった。

午後次第に崩れる天気。
ポツポツ始まるころ
高松へ向けて出航した。

直島の主だった宿泊や展示施設には(株)ベネッセの関わりが大きい。室内展示で是非観たい場所や作品があり予約をせず未練を残した。だが彌生さんの二つのカボチャほか楽しい作品に触れて満足して高松へ向かった。
高松までおよそ一時間、海路で見る瀬戸内の島々は想像以上に大きくて驚いた。

1月2日午後の倉敷で。

2024年1月15日(月曜日)

1月1日午前上越妙高駅出発、京都から始まった3泊4日の正月旅行。道中ところどころ準備不足が露呈することになったが、それはそれ、旅は「出かけることに意義あり」として回ってきた。

さて岡山駅で新幹線から山陽本線に乗り換えた。駅構内の多くの電車と人の賑わい、垣間見る一帯の景観から活気ある都会だと感じた。第一山陽本線と聞くだけで旅情がつのった。

岡山駅通路で。
14時過ぎ

倉敷駅に着く。
14:30頃

予約した倉敷国際ホテルは大規模ではないが館内に美術品があしらわれたシックな宿だった。

2階壁面に巨大な棟方志功作品
が飾られたホール。

階段踊り場に展示された真田紐(さなだひも)によるタペストリー。繊維の町倉敷にふさわしく良い感じ。

別の踊り場にガレナ釉によるスリップウエアのピッチャー(舩木研兒作)。明るさと民藝風素朴さが魅力。

宿で荷をほどき近くの大原美術館へ向かった。明日も来るが一時間は見られるだろうと踏んで出かけたが15時で終了という看板が。翌日メインとして辺りを散策した。

美術館通りの賑わい
この時殆どが若い層だった。

50年前に来たときも水路に白鳥(コブハクチョウ)がいたと思う。今でも人気。

賑やかな道を歩いているとすぐ近くでチッ、チッ、とエナガの小さく鋭い鳴き声が聞こえた。

カラタチ?の垣根に来ていたエナガのお腹。倉敷では人通りの多いこんな街中にいるのかと驚いた。

 

 

大原美術館のある美観地区は外国人も多かった。何でも珍しい私達も外国人のようなもの。

一度宿に戻り休憩し、人通りが少なくなった夕暮れの界隈を歩いた。

暮れた界隈。

通りにはジーンズや服飾品を商う店が多いのも倉敷らしい。作家ものの工芸品の店などを眺め予め見つけておいた所で夕食を摂った。

交通規制されているらしい美観地区、
籠付きバイクは重宝にちがいない。

さて1月2日午後に到着した倉敷一日目はここで終了にします。色々書きましたが正月の旅はちょうど半分が終わりました。
大原美術館は明3日午前に伺うことにしました。そして昼には宇部港へ行き、アートの島、直島へフェリーで渡る予定です。
岡山経由宇部までの経路は遠回りを否めず、バス、タクシーを入れる案などホテルスタッフと相談をしましたが、結論に到りませんでした。

昨日に続いて宿で見るテレビは能登の惨状を伝えていました。

黄檗山万福寺を訪ねた、その2。

2024年1月12日(金曜日)

午前早くから訪ねた平等院のあと近くのお茶の店「神林」でお抹茶を頂き、同じ宇治の万福寺までタクシーに乗った。
同寺は主要建物23棟と諸回廊を有する中国の明朝様式を取り入れた黄檗宗の大規模な禅宗寺院。

多くの参道で平石が菱形に敷かれている。
これも中国式。

寺は江戸前期開山の隠元禅師から長く中国渡来の僧が管長を務め、徳川幕府からも大切にされた。

12月恒例のランタン祭で使われた飾りが参道の随所にあった。

桃は魔除けと招福の象徴。
すでに十分異国的。

最初の像、天王殿の「布袋尊像」
でびっくり。
中国では弥勒菩薩の化身とされ、
実在した高僧のようだ。

布袋尊を守る四天王
のうち韋駄天。優美な容姿。

 

壮大な大雄宝殿。

明朝式を伝えるなかで特に驚かされるのは大雄宝殿の十八阿羅漢(羅漢)だった。和風の釈迦三尊像を囲むように安置され、釈迦の国インド風というのであろうか、異国の容姿、風貌が目を引いた。

この像は自らの胸を開きそこに釈迦がいることを示している。

賓頭廬(びんずる)尊者。参拝者が自らの不自由な部分を触ると患部が良くなると伝えられる。

勾欄が卍崩しの開山堂。
隠元禅師が祀られている。

開山堂の門「通玄門」
私の名が一字入っていた。

“山門を出れば日本ぞ茶摘うた” 境内にあった句碑。
前後しますが、宇治一帯は古来茶の一大生産地。上記の句は江戸中期、松尾芭蕉を慕い全国行脚をした尼僧の俳人・田上菊舎のもの。私達は平等院のあと門前通りでお茶の名店「上林(かんばやし)」で抹茶を服しました。

通路で見た茶箱と茶壺。

普段同店のお抹茶をよく飲んでいる。
とてもしっかり点てられていた。
万福寺はお煎茶で有名。

さて万福寺を辞しJR「黄檗駅」から電車で京都に戻った。
京都から12:43のこだまで岡山へ。岡山で山陽本線に乗り換え、14:25倉敷着の行程を無事に終え倉敷国際ホテルに到着した。

かなり前から私達の旅行はまず昼食を食べない。そもそも昼食を摂ると眠くなったり疲れが出る、普段そうしていることや、食事場所を探す、待つ、食べるで費やす時間が勿体ないことがある。浮いたお金はタクシー代にもなり、お腹が空くので美味しく夕食を食べれるということもある。

その日、夕刻まで大原美術館を観る、夕暮れの美観地区を散策、近くの店で食事の予定だった。次回その様子を書かせていただければと思っています。

平等院のあと黄檗山万福寺を訪ねた、その1。

2024年1月11日(木曜日)

だれに訊いても勉強の虫としか返ってこなかった父は、昭和11年に大学を卒業すると学問を捨て、渡満し満鉄病院に勤務医として就職した。祖父が知人友人の事業協力などの結果莫大な借金を負い、債務返済のため現金を求めて泣く泣く大学での研鑽を諦め望みもしなかった満州行きを選んだ。

高祖父、曾祖父とも医師で文化の人だったらく、家には貴重な書物や書画が沢山あったという。しかしそれらは借金返済の金作りに東京から呼んだ商人がみな整理し、家にはほとんど何も残っていないと、父母から何度も聞いた。

くだんの商人は客用の布団まで持って行ったようだが、田舎にこんなに良い書画や書物があるとは、と驚いていたとも伝わっている。そして当の祖父母もまた返済を埋めるべく現金を求め、公が募集した北海道の寒村の診療所へと転地している(二人には借金のほかに11人も子供がいて父は長男でした)。

満鉄病院で勤務医となった父は佐賀県出身で看護師の母と知り合い結婚。後年母は父について「病院に賢そうだが年を食い貧しい風采の独身医師がいた。なぜ結婚しないのかと聞くと、“大きな借金を背負っているから”と答えた」と述べている。

そんな訳で父には、江戸末期、高野長英を匿った嫌疑で取り調べを受けた蘭学医の高祖父・玄作や叔父に教育音楽の母・小山作之助がいる一方、人の良い医師である祖父(祖母の見栄や贅沢もあったようだが)によって苦しい前半生を余儀なくされたという因縁があった。

幸い借金は10年掛かって戦後間もなく完済された。
返済ですっからかんになった我が家だが、かろうじて残ったものに臨済宗黄檗派(おうばくは)・万福寺二代管長・木庵性瑫(もくあんしょうとう、1611年- 1684年)の掛け軸と良寛筆と伝えられた書があった。
良寛と伝わるものは品が良く終生父の寝室に掛けられていた。落款は無いが父の死後良寛のお墨付きが付いた。無落款のため商いを逃れたと思われる。
逆に木庵と無落款ながら良寛が残ったということは、ほかに如何に良いものがあったか、ということになり、一方で布団が選ばれたのは当時を被った不景気の深刻さを覗わせる。

父は子供の私でも分かるほど祖父を恨み、私が知っている限り墓や仏壇を参るのを見たことが無かった。
ただ一度変わった事といえば、普段の寡黙に反し大勢の親族が集まった祖母の通夜で、丸めた座布団を背負い東海林太郎の「赤城の子守歌」を歌いながら踊ったことだ。
みな転げるほど笑い私も笑ったが、なぜ父が踊ったのか、なぜ皆があれほど笑ったのか小学5年の私にはよく分からなかった。
昭和19年に祖父が亡くなっていて、祖母は昭和27年だった。振り返れば思いも寄らない父の歌踊は祖母の死をもって借金の呪縛から開放された酔いだったとしか思われない。

それから70年近く過ぎたある日、何気なく仏壇を整理していると祖母の小さな写真立ての裏に隠すようにして祖父の写真が重ねられているのを見つけた。
「どんなに恨もうと親は親だった」。めまいのようなものを覚え異様に胸が熱くなった。

このたびの西国旅行に黄檗山万福寺と玉島円通寺が行程に入った。何とは無しにだったが、いずれも家に残った書に縁があることに気がつき、不思議なことだと思っている。

木庵性瑫筆「山雲石寺鐘」

黄檗の三筆と呼ばれた木庵。淀みなくゆったりしていてとても気に入っています。万福寺は毎年全国煎茶道大会が開催されるほど煎茶で有名です。宇治の寺でもありますので余計でしょうか。

万福寺総門。

軒下に「第一義」の扁額。

第一義といえば何をもっても我が上杉謙信公終生の信条。謙信公ゆかりの春日山林泉寺山門にその扁額が掲げられています。

林泉寺山門の「第一義」

門に同じ扁額を掲げる林泉寺と万福寺の因縁は分かりません。偶然でしょうか。ちなみに万福寺の開祖・隠元禅師は中国からの招かれた渡来僧で、木庵も同じく同国の渡来僧.、寺院は将軍家から重んじられました。

うろ覚えそのもので全く自信がありませんが、母校高田高等学校の講堂(体育館?)の舞台右壁に「第一義」の額があり、入学式に小和田校長がそれについて力説をした記憶がかすかにあるのです。

どなたか覚えている方いらっしゃれば教えて下さい。

さて万福寺を書き始めましたら書き出しで長くなってしまいました。申し訳ありません、万福寺は総門でお終いにし続きは次回にさせてください。

長きあこがれ宇治平等院で。

2024年1月8日(月曜日)

正月は8日となり本日月曜は成人の日。
かっての自分のその日は東京で浪人中で、受験を控え式の意識は皆無だったのではなかったか。

その60年前に夢想だにしなかった今年正月の短い西国旅行。本日は去る1月2日、幼少からの憧れ宇治平等院行きを記したい。
小学時代の高学年、切手を集め始めていた。安くても手に入る記念切手に混じって国立公園などの名所切手をあこがれとともに眺めていた。
中でも特に気に入っていたのが錦帯橋と宇治平等院だった。錦帯橋は2012年母の遺影をリュックに佐賀県の菩提寺を訪ねた帰路岩国に寄って念願を叶えた。

錦帯橋
昭和28年発行の観光地百選切手

そしてこのたび1月2日午前早く、80過ぎて初めて平等院を訪ねた。

平等院鳳凰堂
昭和25年発行国宝シリーズ切手
いずれの切手も今は手許にありません。

 

初めてこの目で見る平等院鳳凰堂は
想像を遙かに超えて素晴らしかった。

 浄土か来迎か
「平等院雲中供養菩薩」の図録表紙

地下の鳳翔館の壁や美しいガラスケースで観た雲中供養菩薩像群には有り難くて言葉も無かった。展示されて20躯を越える菩薩はそれぞれ細い輪光を負い法衣をなびかせ、麗しい雲に乗って合掌し、楽器を奏で、法物を手にするなどして天から軽やかに降りてくる風だった。

鳳凰堂と庭園は浄土を表すようだが、雲中供養菩薩は一つに浄土の表象でああろうが、死を迎えようとする者を来迎し供養するために降りてくる大事な役割を負っているのではないかと写った。
これまで800例前後の看とりを経験したが、それぞれの場面は全く様々で、その都度“ああ今この人は自らの苦楽を終えられ冥界に入られた”と胸に刻み合掌してきた。多くの人でそうだったが、父、母の時は加えて人生のあまりの「はかなさ」に涙が止まらなかった。

しかし平等院で多くの慈悲に満ちた菩薩の来迎する様を見て少々考えが変わった。
老いや病でお終いの喘ぎの際に、どこからともなく漂い集まる菩薩たち。私達にはそれが見えないし聞こえない。だが見えも聞こえもしないゆえ余計に尊いのだろう。長く苦しんだ人も突然の人もそれこそ「平等に」そっと慈しみを受け供養される。

しかし私にはその後死者はどこへ導かれるのかはまったく分からない。
もう50年近く前のことある先人に尋ねた、私の祖先だけでも何千何万人もいて挨拶回りでけで明け暮れするかもしれない。まして全人口ときたら何億何兆の不死の先祖であの世はぎゅうぎゅうだろう、たとえ極楽でも、と。

日頃、死はただ一点、生命の終息現象であり、あの世は多分無く、この世で全てが完結していると思っている。そしてこの度の平等院の雲中供養菩薩をみて、死の床で最後に苦しむ者に対して、様々に麗しい菩薩たちがやってきて、経を唱え音楽を奏で苦楽の生涯を祝福(供養)し救済するイメージをこの胸に仕舞った。

臨終で死後数十分するとおよそ皆それまで見たことが無いような穏やかな顔になる。もしかしたらその間に諸菩薩が心込めて慰め供養してくれからではないのか。
その後を問うのは自由だが、少なくとも何千何億という人々の精一杯の苦楽や修行の末に生まれたであろう雲中供養菩薩の姿と振る舞いは人生の終末にまつわる形而上の曖昧さに対する一つの正解かもしれない。

※生前、諸菩薩に癒やされ励まされるのは勿論ですし、より安寧な死後世界があるとする考えも真っ当だろうと思っています。

一先ず峠を越えた雪 土井先生のチキン ホワイトクリスマス。

2023年12月24日(日曜日)

一昨日当欄でドカ雪ぶりを記したが、どうやらその日がピークだったようだ。予報ではしばらくの間、さほどの寒波(降り)はなさそうだ。

当地は昨夜から雨風交じりとなった。風も雨も雪を減らすので50センチ前後あった積雪は半分近くになった。

 

午後の美術館。

以下は本日一時陽が射した近隣です。

近隣の田と道。

真ん中に焼山、左が火打山、
右の遠方は糸魚川方面の山々。

土井善晴さん風のチキン。
妻は簡単で美味しい土井先生ファン。


ホワイトクリスマス。

昔の若者にはクリスマスソングと言えばこれくらいしか無かった。その後のクリスマスソングは具体的でややこしく、あまりholyな感じを受けない(爺まる出しでした)。

訴えと反応。

2023年12月12日(火曜日)

樹下美術館は2007年6月10日に開館しましたので今年は17年目でした。
ところで現在ブログを書いていますが、当初は「樹下だより」として、ホームページにイベントやふとしたことを載せ、月に1,2回掲載していました。しかし「一年ほど過ぎると内容がブログに近いということで「日頃草子」と名付けてカテゴリーを独立させました。

出来れば毎日の更新ですが、初めからそれは無理と考え、三日以上は空けない程度の気持で、何とか今日も続けている次第です。
途中2018年だったでしょうか、タイトルの「草子」が偉そうな感じで気になってきましたので「樹下のひととき」に変えました。

その時色々考えた中から「樹下の一時」、「樹下のひと時」などに絞りましたが字面の柔らかみがいまいちで、髙田のブロガー丸山智慧子さんにメールで相談し、「ひととき」を勧められ、即座に決めた経緯がありました。

話変わりますが、何度か登場している現在展示中の鈴木秀昭さん作「色絵金銀彩天空茶碗」です。この茶碗に何人かの方が感想を述べられ、12月4日の当欄で「尾形光琳の紅梅白梅図屏風の雰囲気」や「エゴンシーレを思わせる」などの感想があり、それを聴いた私は「宇宙琳派」と言わせてもらいました。

ところがほかに「クリムトのよう」と言った人がいて、先日来館された良寛研究家・小島正芳さんは「加山又造を思わせる」と仰いました。いずれも「なるほど」と感心しました。

五つのたとえをもらっている
「色絵金銀彩天空茶碗」

この件に関して時間がある私は宇宙琳派からついに「天空琳派」へ変えさせてもらいました。

さて斯く色々な方に意見や感想を聞くのは楽しくかつ有意義なことで、思えば難題山積だった不肖上越医師会長時代のこと、いよいよ解決や実行に行き詰まると会議を開きました。何度も何度もです。すると理事や委員から良い意見や方法が突然のように飛び出し、解決の突破口になったことをを少なからず経験しました。

三人寄れば文殊の知恵ではないですが、忙しい皆さまに集まってもらうのですから、予め真剣に考え課題を整理し心から訴えることは常に必要でした。

上記の茶碗の感想は会議ではありませんが、良く出来た作品には静かに訴える力があり、ご覧になった方は思わず反応されることがあることを知りました。

以下は1936年製作のチャーリーチャップリン主演映画「Smile」のテーマ音楽で、後年の演奏です。


チャップリン本人の作曲ですから
本当に驚きです。

映画の「Smile」は歌無しでしたが、1950年代に歌が作られナット・キングコールが歌い、後年マイケル・ジャクソンがダイアナ妃の追悼音楽会で歌ったようです。

小島正芳先生と発行予定の著書「良寛の生涯と芸術」 竹。

2023年12月10日(日曜日)

二日続きの晴天のあとの本日はさすがに小雨模様。
されども比較的温かだった。
今年の樹下美術館は余すところあと5日となった。気のせいか今年ほど終了間近となってお客様が多くお見えになる年は珍しいのではないか。

そんな本日新潟市から良寛研究家の小島正芳先生が顔を出された。先生は来年早々の出版予定である著書「良寛の生涯と芸術」の表紙見本のプリントを持参された。500ページに及ぶ大著だ。

「良寛の生涯と芸術」の表紙見本。
2024年1月 考古堂発行予定。

背表紙に「良寛研究の集大成」とされているのが→「良寛研究の新発見紹介」と直されている。集大成ではお終いとなり、意にそぐわないこと、さらに最終校の段で新たな事実が見つかったので追加し間に合ったとニコニコされた。

名や地位へのこだわり無く、お好きな良寛研究に足を使い汗して長く探求された貴重な一冊。
先生のことだから、上から目線の堅い書物ではなく読みやすい、もしかしたらどこから読んでも面白い本になっているのではと、楽しい期待をさせて頂いた。

来年になったら倉敷市に行き、美術館や瀬戸内とともに良寛さんが修行した備中玉島の円通寺を訪ねる予定がある。繰り返し円通寺を訪ねられている小島先生から色々教えて頂いた。

円通寺から海が見える事も知った。良寛さんの故郷出雲崎も海と佐渡島が見える。玉島で10年におよぶ孤独で厳しい修行中、師は海を目にしては郷里を思い慰められたことだろう。

ところで円通寺境内に竹藪があり、小島先生が仰るには“筍や竹は中が空洞で「空や無」を表している。そのうえ、ふしがあることで節度、さらに重圧を跳ね返すしなりを有する事などから禅の修行で着目される植物”とお話された。

齋藤三郎作「染め附け竹文水指」

また同寺に良寛堂ほか師の立像や詩碑があり、岡山県で「聖良寛」と呼ばれ、さらに同県の三大茶会の一つに「良寛茶会」があるなど良寛さんは非常に重んじられているという。
とても嬉しい事で、瀬戸内の陽光と円通寺の茅葺きの佇まいが見られる事を今から楽しみにしている。

本日お越しの皆様まことに有り難うございました。

久し振りのSPレコード。

2023年12月9日(土曜日)

冬に希な二日続きの晴天。樹下美術館の今年開館が1週間を残すことになり色々な方に寄って頂いた。
A氏が久し振りにSPレコードを持参され居あわせたお客さんたちと聴いた。

あらためて平和を祈ろうと、初めに鐘のテーマで、エディット・ピアフの「谷間に三つの鐘が鳴る」と藤山一郎の「長崎の鐘」を掛けた。
最初の曲は人生の節目である誕生、結婚、死に際して谷間に響く三度の鐘を歌っている。三回目の鐘が戦死で無い事を祈った。

「長崎の鐘」は長崎市で被爆し、妻を失いながら被災者の治療に専念、自らも亡くなられ医学者への鎮魂と長崎市民の希望を繋ぐ歌。


昭和24年発売レコード「長崎の鐘」
藤山一郎の歌。

私の年代では知らない人がいない歌の一つ。
私自身昭和43年、医療に踏み出した年、九州を一州するきな団体旅行の医療班バイトとして同行した時、長崎市でバスガイドさんが歌うのを聴いた。
歌は昭和26年の第一回紅白で大トリとして藤山氏が歌い、その後昭和56年まで三回紅白で絵歌われたらしい。

以下は本日かかったレコードの一枚、D・リパッティによるショパンのワルツから。
リパッティはなかなかのダンディ。


本日のSPレコードから
ショパン、ワルツ10番。

黒い帽子が似合うA氏が羨ましい。

慌ただしい日にご来館頂いた皆さま、代議士のUさん、有り難うございました。良い一日でした。

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