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團伊玖磨著「好きな歌・嫌いな歌」の˝夏は来ぬ˝

2013年4月11日(木曜日)

先日のノートに上越市大潟区で、堀川正紀氏らによって同区出身の作曲家小山作之助のわかりやすいテキストが生誕150年として刊行されたことを書いた。作之助は私どもの古い縁者でありながら筆者の理解は十分でない。それでも明治39年生まれの父は、生前の作之助を叔父さんと呼び、学生時代に交流したと聞いていた。

このたびは音楽と文芸の才人、故團玖磨氏の著書をもとに作之助のエッセンスを紹介させて頂きたいと思う。

團氏の著書に「好きな歌・嫌いな歌」という興味深いエッセイ集がある。春の小川、この道、港が見える丘、襟裳岬、知床旅情、夏の思い出、雀の学校、ぞうさん、帰って来たヨッパライ、夜明けの歌、あなた、雪の降るまちを、など63曲が取り上げられ、明解に考察されている。

私の好きな歌・嫌いな歌手許の『好きな歌・嫌いな歌」 著者・團伊玖磨 読売新聞社発行
昭和五十四年八月十日第五刷 から表紙

 

作之助作曲˝夏は来ぬ˝は本書の15番目に4ページにわたって登場する。卯の花と時鳥(ホトトギス)の季節が紹介された後、次の様に始まている。

「この歌は、佐佐木信綱博士の、古風で格調は高いが、やや形式主義的な歌詞を、平易で流動的な旋律がみごとにこなした良い歌である。」

「始まってすぐの第三番目の音˝うのはな˝の˝は˝の部分に、七声音階の第四音ファがつかわれているために、ヨナ抜きの凡俗さを打ち消して、すがすがしい印象を与えることに成功している」

筆者註:ヨナ抜きとは、ドレミファソラシドの4音ファと7音シを抜いたメロディのことで、日本調といわれる歌のほとんどはこの形式に基づいている。

続いて作之助作曲の、敵は幾万、寄宿舎の古釣瓶、漁業の歌、川中島を挙げて、
「この作曲者の他をぬきんでた優秀性が浮かび上がってく来る」とした上で、

「この作曲者は、長い歌詞を歌にまとめるのが上手だった事が判る。長い歌詞を上手にまとめられれば、歌の作曲者としては先ず一級と言って良い。勘だけでは無い方法論がそこに必要になって来るからである」と続けられる。
そして、
「その方法として、-中略ー明治の唱歌としては珍しい早いテンポを設定し、音符を細かに分けることを実行した」と述べ、
「やたらにセンティメンタルでのろのろとした歌が多く、それを破る場合には軍隊調のマーチ・テンポのものしか無かった明治時代の唱歌の基本的音楽的内容に較べて、作曲家小山作之助の仕事は輝いている」とされた。

最後に、
「この古い時代に、新しい感性と知性を以て、日本の唱歌にフレッシュな方法論を注入したこの作曲家はもっと評価される可きだと思う」とまとめている。

 

文中の一部文中の一部より。(大きくしてご覧ください)

夏は来ぬの後には知床旅情と襟裳岬が続く。

小山作之助:文久3年12月11日{1864年1月19日)-昭和2年(1927年)6月27日

(引用しました本文の多くを省略いたしました)

「夏は来ぬの」小山作之助物語の発行。

2013年4月4日(木曜日)

去る3月29日の上越タイムスおよび4月4日の新潟日報に「小山作之助物語」発行の記事が出た。生誕150年を記念して出版され、学童向きとしてA4版53ページにわたる書物の漢字はしっかりルビがふられ、要点は明確で大変に読みやすくなっている。

編者は上越市大潟区で続く卯の花音楽祭実行委員長の堀川正紀氏と委員の山本栄美さん。

作之助は学校教育に音楽を取り入れ、作曲、演奏、教授する先生や演奏家を育てる東京芸術大学音楽部の礎を作り、「音楽教育の母」と謳われる上越市大潟区出身の人です。

001 - コピー
上越タイムスの記事。どうか大きくしてご覧ください。

作之助新潟日報記事

 新潟日報の記事。どうか大きくしてご覧ください。

冊子はA4版で53ページ、大潟区在住の小嶋秀男さんのイラストも素晴らしい。

14ページ上京してからの作之助です(本文14ページ)。大きくしてご覧ください。

15ページ作之助は現明治学院大学に通い、芝寮で同宿する海軍軍楽隊員と夜を徹して音楽談義をしたという(本文15ページ)。

以前触れたことがありますが、文久3年(1864年)生まれの作之助の母トヨ(弘化2年・1845年生まれ)は私ども杉田の出です。また作之助の弟・直次郎は当家に養子入りし、私の祖父になります。

縁者にあたる先人について普段何もせず、堀川先生はじめ皆様に顕彰事業をお任せしていること、大変心苦しく思っています。

このたびの出版は要点急所への配慮が素晴らしく、ご苦労のほどが痛いほど伝わります。

今後手許にある若干の写真や資料とともに、作之助に関する話題(作之助の短歌、還暦祝賀会、音楽葬、前島密の養女格であった松夫人、団伊玖磨氏の随筆など)、を掲載して参りたいと思います。上掲しました文書画面が小さく、拡大の労をお掛けしますこと申し訳なく思っています。

山本信さんの「少女」の塑像の表情。

2013年3月31日(日曜日)

先週の日曜日は大宮で山本信氏の彫刻展最終日を見た。そのとき求めた少女の像のなんとも言えない笑みに惹かれた。

作品は予定よりも早く届けられた。それが昨日、考えていた樹下美術館の壁際のテーブルに置くと微笑が消え、あまつさえ緊張が現れたのだ。

 

山本伸展会場にてリラックスと笑みは先週末の個展会場で。

樹下美術館のコンソールテーブルにて
昨日樹下美術館の壁際のテーブルで思わぬ緊張が現れた。写す角度を色々変えたが同じだった。

大宮の微笑はどこへ消えたのか、同じ作品とは思われないほどの違いに戸惑った。そこであらためて大宮の写真を見ると像の影が右前に出ていて、左上からの逆光であることが分かった。

これだと少女の上下の唇が合わさるラインが良く出る。さらに上がっていた左右の口角がくっきり現れ、微笑みが浮かぶにちがいない。

一方当美術館の壁際のテーブルに置いた場合、正面からの外光によって影が生まれにくい。当然笑みをもたらす口角もうまく現れない。しかも目のフチと全体が平板となり、逆に眼球だけが光る。笑みに代わって緊張が生まれるのもうなずけた。

窓辺で
高さおよそ24㎝、小ぶりな少女は窓辺に移って初々しい表情に変わった。
時間(日の高さ)、お天気によっても微妙に変わるのではないだろうか。

本日夕刻、出かけて行って窓際のカウンターに置いてみた。すると外光を背にして笑みが戻り、とても柔和な表情となった。
妻によると会場で山本さんは「光を考えて置いてみてください」、と仰ったそうである。

確かに彫刻、とくに人や動物、そのほか構造物、さらに自然までが光りと影(あるいは時間)で表情は変わろう。写真でもそのことを経験する。

このたびは少女の貴重な微笑が戻り胸をなで下ろした。今後は窓辺で、しかも皆様の近くでお迎えできるようになり、良かったと思う。

鈴木秀昭さんの金彩花銀河茶碗。

2013年3月29日(金曜日)

10数年、愛してやまない現代陶芸作家、鈴木秀昭さんの抹茶茶碗が届いた。氏は色絵であるが、器には金彩銀彩を用い、天文的な記号や文様が描かれる。

宇宙の様式や真理を曼荼羅的に表象させているように見えるが、なにより壮大な気宇のもとで制作を˝楽しむ˝氏の時間が伝わってくる。
見込み1

見込み1見込み(茶碗内側)の幾何学的あるいは物理学的な文様。

006見込みの一部に露草が描かれ、下方に桜がある。ここは突然琳派的な絵付け。

見込みと茶だまり上から見込みと茶だまり(底)を見る。太陽であろうか存在の根源が輝いている。
それにしても器の内側まで細密な模様を描ききる。直線などはどんな筆でどのように描くのだろう。

 正面碗の正面は桜とキキョウの春秋が描かれている。
ちりばめられた記号に四季の花が描かれるのを見たのは初めて。
宇宙の時間に四季が重なる。氏はつねに進化し、ファンを驚かす。

 

脇碗の裏手は向側の見込みと同じ模様が相対している。白い地肌が静かに金彩を輝かせる。形も実に大らか。

 

IMG_9922昨年から樹下美術館のカフェでお出ししている鈴木さんのお抹茶茶碗「金彩銀彩星塵茶碗」
人気がある。

鈴木さんの器は絵付けが途方も無く細密で、しかも金銀彩が重ねられる。一体何度焼成するのだろうか。

超絶な作風にもかかわらず、価格はうん十万ではなく10万円以下。このことにも驚かされる。氏は従来の陶芸家の立場から解放されているのかもしれない。ファンはきっと厚いことだろう。

鈴木秀昭さん:1959年東京生まれ、伊東市在住/ユタ州立大学社会学部卒業/アメリカに於いて芸術系大学院卒業/アメリカ、カナダ、オランダ、韓国で制活動/フランス文科相賞受賞、オーストラリア国際陶芸展で奨励賞、現代工芸アートフェア(東京国際フォーラム)、バラミタ陶芸大賞の受賞歴/フランス、オランダ、アメリカ、オーストラリア、ほか国内の美術施設でもコレクションされる。

以前にも金銀彩綺麗星茶碗」を当ノートで紹介させて頂きました。

一泊の上京 その3・上野と大宮

2013年3月25日(月曜日)

さる週末の24日(日曜日)午前は上野の国立西洋美術館でラファエロ展を見た。貴重なラファエロが日本で見られるのは初めてであり、混雑が予想されていた。開館前から並んだ。

 

父や師の作品も展示されているが、ラファエロ本人の前は特別な人の山だった。お目当ては「大公の聖母」。縦横およそ85×56㎝で大きくはない。しかし遠くまで静かで歴史的な引力を放っていた。

すでに強いまなざしを含むキリストの表情と聖母マリアの愁いと優しさの対比、衣服の鮮やかな青と赤の対比と黒の強調効果、完璧な構図、、、。マネやルノワールらも美の規範と仰いだというラファエロはテーマに徹し、何とも美しく上品だった。

「大公の聖母」は山のごとき来館者の後ろから、あるいは時間をかけて前に出て見て名残尽きなかった。

 

2の2国立西洋美館会場の美術館前。

午後から大宮で開催されている彫刻家の山本信展を見た。「記憶の中のポートレート」のタイトルだった。人物たちは個性的な内面を有しているのに透明感があり、会場は寓話に似た世界が広がっていた。

 

3の3山本伸展にて

 

2の4山本伸展私たちが求めた作品。山本氏は暖かくなったら本作品を携えて樹下美術館を訪ねて来られる。
カフェのコンソールテーブルに飾るのが今から楽しみです。

伝えられるように上野の桜は予想よりはるかに早く咲き、三月の花見となっていた。外国人が多いのにも驚かされる。都立中学校の茶道クラブがjまとまって野点をしていた。とても人気で、美味しくしかも無料で一服頂けた。

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童謡「さかみち」

2013年2月21日(木曜日)

昨日は上越市柿崎区・上下浜の坂道を書かせて頂きました。その中で川田正子さんの童謡「さかみち」に触れました。

幼年時代、レコードでこの歌をよく聞きましたので、坂道に来るとはずむような歌声がよぎることがあります。

月の沙漠、みかんの花咲く丘、汽車ぽっぽ、鐘が鳴る丘、靴が鳴る、あの町この町、からすの赤ちゃん、あの子はだあれ、、、。父が高田から買ってきて、姉が聞き、自分が聞き、姉妹に聞かせましたので、歌は柔らかだった幼少の脳にしみこみました。

童謡歌手・川田正子さん(1934ー2006年)は私たちの大スターでした。当時のレコードはもちろんSP盤、歌手はよく通る声を張りあげて歌いましたので、針雑音にも負けず歌声が響きました。

後にミカンの花咲く丘などの童謡は、あまりに単純、情緒的と批判されたといいます。しかし辛い戦後は、単純かつ渾身の情緒こそ人を豊かにし、元気づけ、互いをつなげたのではないでしょうか。

坂道 上下浜と川田正子さんの歌。

2013年2月20日(水曜日)

ふきのとうが出た春の気配はどこへやら、厳しい寒気が来て真冬に戻っています。

 

さて、ブログの配信元の都合で当ノートの様式がちょっとだけ変わりました。おわかりでしょうか、カレンダーが変わり、紙面サイズ(横幅)が少し広くなりました。まだ操作に不慣れですがどうか宜しくお願い致します。
新たなURLです。 https://www.juca.jp/blog/ 今後はこれでご覧いいただけますようブックマークなどお願いいたします。

さて写真は先日の晴れ間に行った上下浜の坂道です。直江津方面をみていますが、見晴らしがよく背後には当ノートにしばしば登場しますマリンホテル・ハマナスがあります。

秋のえちごくびき野100㎞マラソンはこの坂道を下りますので昨年のノートに掲載しました。また昨年のテレビ二時間ドラマ「終着駅─トワイライトエクスプレスの恋」では中山美穂と佐藤浩市がこの道を歩き、主人公が乗ったタクシーが下って行きました。以前にも書きましたが、この浜では長野県の方たちの車をよく見ます。

上下浜の坂道 上下浜の坂道。

坂道は幼年時代に聞いた川田正子さんのレコードの童謡「さかみち」を思い出させます。

ラジオから流れる歌謡曲で耳にした「牧場」「灯(ともしび」「列車」「丘」「心」「思い出」「山小屋」「街」などにも強くあこがれました。こんな言葉が子どもの心を打つほど歌い手も上手だったのでしょうね。

フランス若者のギター演奏 テンポは憲法 飯吉馨さん。

2013年1月17日(木曜日)

降る降ると予報は連日伝えているが、上越市大潟区の仕事場一帯にほとんど雪はない。

インフルエンザが流行していて、何人もの方と接している。すると自分まで風邪を引いているような錯覚に陥る。

本日はフランスの若者のギター演奏をyou tubeから引いてきました。

 


ジャンゴ・ラインハルトの記念演奏会のようなシチュエーションで“Swing 48”が演奏されています。三人ともジャージーにソロを展開しています。一番右端のスワン・ベルジェール君の余裕の表情はとてもチャーミングですね。

子どもやアマチュアの音楽はテンポが乱れやすいと云われますが、堂々たるものです。“テンポは憲法”とは上越が生んだ亡きピアニスト・編曲家飯吉馨さんの口癖でした。

 

イヴの日樹下美術館今年の閉館。沢山お越し頂き有り難うございました。

2012年12月24日(月曜日)

本日クリスマスイブの夕刻、2012年の樹下美術館が終了しました。12月は早い雪など相当な悪天候でしたが、皆様はじめ東京や福井県からのお客様にもお寄り頂き感謝しています。

Hollyなイヴにちなんでyoutubeからジャズピアニスト・デューク・ピアソンによる「Cristo Redentor(クリスト・ヘデントール)」を使わせていただきました。Cristo Redentorはご承知のようにブラジルの首都リオデジャネイロのコルコバードの丘に立つキリスト像のことです。
私はキリスト教徒ではありませんが、1970~80年代にこの曲が入ったデューク・ピアソンの以下のレコードをよく聞きました。

 


ピアソン自身のプロデュースによる1969年「duke pearson how insensitive」。
「STELLA BY STARLIGHT」や「MY LOVE WAITS」など素晴らしい。

 

コルコバードのキリスト像
WIKI Pediaからコルコバードのキリスト像。

樹下美術館の来年度は7年目の節目となります。

追加作品や言葉の解説などを加えたためすっかり遅れた図録を節目として今度こそ刊行致します。(こんなことを何度言ったことでしょう!)

●6月に昨年好評だったチェロとギターの演奏会を催します。

●10月の毎週土曜日夕刻に「陶齋の器で食事会」を計画致してます。

どうかご期待ください。

クリスマスの映画だった「遙かなる国から来た男」。

2012年12月24日(月曜日)

弟が書いた本「ピアニシモな豚飼い」の223ページで著者は訪ねて来たフランス人に次の様な歌詞の歌を歌って聴かせる。

「ル・プレド・ドゥジュビアン」

「ル・プレド・ネヴァ・コオッセエ」

「ダァレ・ダァレモ・アラマン・・・・・・」

聴いたフランス人は、その歌を知らないと言い、歌詞は古いフランス語のようだとも言う。

弟が歌ったのは以下の映画「遙かなる国から来た男」の主題歌の冒頭部分だった。映画は1956年に作られ、シャンソン歌手のジルベール・ベコーと女優フランソワーズ・アルヌールが主演している。

 


動画を見ると映画はクリスマスの物語だと分かる。うろ覚えの弟の歌詞もまあまあだ。

主題歌「遙かなる国から来た男」を当時よく父がレコードを掛け、機嫌の良いときに歌った。いつしかレコードは無くなり、弟は本の中で父から歌を習ったと書いている。

私は教わった記憶はないが、気に入っていて学生時代の帰郷の際も自ら掛けて聴いた。今年you tubeで見つけた時にはタイムカプセルを開けた気がした。こんな映画だったんだ、とも知った。

 

一つ違いの弟が50数年経って書いた一節は、遠い日と父母への懐かしさを特別なリアリティをもってよみがえらせた。

 

その頃のクリスマスイブ、鳥を焼き赤玉ポートワインを一口飲んで赤い顔して上機嫌だった母の顔も浮かぶ。

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