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ポルトガルの四月

2010年4月2日(金曜日)

四月とはいえどうしてこうも寒いのだろう。すぐれない気象は三月からずっとで、2月のほうがまだ良かったくらいだ。

さてそれはそれ、四月というとエキゾチックな曲「ポルトガルの四月」を思い出す。この曲は自分の高校時代のある時期、よくラジオから聞こえた(学校時代には突然何かが流行り出すことがあった)。懐かしげな曲調は忘れがたい教師の思い出に結びついている。

高校の二年間、英語教師A先生の許へ隔週でリーダーを習いに通った。やや小柄で知的な人だった(そして美しかった)。冒険小説から始まったテキストは最後にジョージ・ケナン(冷戦時の駐ソ連アメリカ大使)の「Power Polytics」へと進んだ。肺を病んで半年休学の後、下の学年と一緒のなじめない学校生活。そんな当時、先生の所へ通えたことは今でも宝物のように大切に思っている。

”熱狂(enthusiasum)は何も解決しません、サミットも同じです。優れた外交官による粘り強い交渉努力が必要なのです”。安保闘争で当地の高校まで熱くなり始めたころの先生の言葉だ。ああそんな見方もあるんだ、何てクールな先生だろうと衝撃を受けた。バークレーの大学院留学歴があると後で聞いた。

決まった隔週の夕食後、寺町の下宿から本町通りを横切って北城町にある教師の家まで歩く。その往き帰りの夜、 飽かず「ポルトガルの四月」を口笛吹いた。ある縁によって通っていたのは自分一人だった。

当然ながら50年前の私に今の自分など何一つ想像出来ない。毎日先生の所へ通うことを考えて、予習をして口笛吹いて歩いた。病は治癒しつつあったが体育も映画も禁止のまま。英語通いは密かな幸せだった。

曲はコインブラというポルトガル有数の古都を歌ったものらしい。当時のラジオでは器楽演奏だったが、ユーチューブを探したらフリオ・イグレシャスの歌があった。風景も彼の歌も素晴らしい。

 

楽しい立花千春フルートコンサートのお知らせ

2010年3月23日(火曜日)

♪♪楽しい立花千春フルートコンサートのお知らせ♪♪

ー 樹下美術館三周年記念 ー

 

 昨年の圧倒的な演奏に続いて今年もフルートの歌姫立花千春さんをお迎えすることになりました。今年のピアノ伴奏は山田武彦氏です。氏はパリ国立高等音楽院のピアノ伴奏科を主席で卒業されたピアノ伴奏の名手です。

 

 立花さんのダイナミックなフルートが豊かなピアノと響き合う素晴らしい演奏会になろうと思います。どうぞご期待下さい。

 

 ● 日時:5月16日(日曜日)・18時30分開演 

 ● 会場:上越市大潟区四ツ屋浜「おおがたコミュニティープラザホー
   ル」

 ● 入場料:一般3000円、小中高校生1500円

 ● お申し込み:樹下美術館の窓口で または電話025-530-4155で

  お尋ね下さい。 

                   

     【プログラムの一部です】

 ・クライスラー: 愛の喜び      

 ・フォーレ:シシリエンヌ

 ・フォーレ:ファンタジー  

 ・カミュ:シャンソンとバディヌリ

 ・ショパン:英雄ポロネーズ(ピアノソロ)・ドップラー:ヴァラキアの歌

 


コンサートのお知らせ

 

ホール
 
会場の大潟コミュニティープラザホール:小ぶりながら円形ホール

 

父のレコード部屋

2010年3月17日(水曜日)

  昨日前回のノートの最後の部分を少し加筆した。普段あまり深く考えたこともない範疇に入って行くのはやはり困難をともなう。あっさり触るほうがノートにはいいと反省した。

 

 さて先日のエフゲニー・ザラフィアンツ氏のソナタに葬送行進曲の楽章があった。私の小学校低学年(昭和24年前後)のころ、父は二階でよくこの曲を聴いていた。当時二階には新しくクルミの木で作ってもらった巨大な電蓄があった。ベートーベンの運命もしばしば掛けられた。

 

 曲はいずれも子どもにとって陰鬱だった。レコードが掛かるのは大抵昼間で、しかも日曜日だったと思う。遊びたい日の昼間に流れる葬送行進曲と運命の大音響。何か恐ろしいことでも起こりそうで、遊ぶ友達を捜して家を離れた。

 

 ところで葬送行進曲にはこよなく優しいパートがある。一昨日のザラフィアンツ氏の優しさは際だっていた。休憩時間に「父はこんなパートも気に入っていたのかもしれません」と同行して頂いたNさんに話した。きょとんとするNさんに父の音楽の事を少し付け加えた。

 

 それにしても当時、私たちは階下や外に居ながら、なぜ忌まわしげに大音響などと父のレコードを思い出すのだろう。このノートを書きながら疑問が沸いた。不思議なことにすぐに答が続いた。それは何十年、ずっと忘れたていたことだった。 

 

 「お前も聴きなさい」。父は私にそのように言ったと思う。ああ又か、という気持ちがよみがえるので、一度ではなかったのだろう。電蓄の部屋で、レコードに針を置くまでの耐え難い時間。続いて葬送行進曲や運命の大音響に圧倒されながら、父と並んで椅子に座る。その間、ひたすら部屋を出る口実を探し続ける。我慢のすえちょうどよい楽章を見計らって、もういい?と父に聞いて部屋を出た。

 

  一度その部屋で運命とは何かを父から聞かされたような気がする。その話の中で、誰かの自殺のことが触れられた。私は初めて聞く自殺の意味に怖くなり、いたたまれず大音響の部屋を出た。そして不安と罪悪感のようなものがごちゃ混ぜになった頭で表の小さな道を歩いた。いま私が座っているすぐ前の道だ。

 

 後に姉のためにピアノが来た。すると父はピアノを弾きながら今度はシューベルトの冬の旅を歌った。この曲も絶望と死への憧れを歌うもので、子どもには重過ぎる。それを父は飽くことなく時には酔うように歌っていた。

 

 時は過ぎて電蓄がステレオに変わり、私は高校生になった。そのころには耳障りのいいピアノやバイオリンのコンチェルトに月光ソナタなどが聴かれ、シャンソンとロシア民謡が少し混じった。下宿から帰った週末に私も父のレコードを時々聴いた。一連の過程であの忌まわしい電蓄レコードの日はだんだんと遠くへ行ってしまった。

 

 振り返ればなぜ昔の父は重い曲ばかりを聴いていたのだろう。そして5人姉弟の中でなぜ私が父とそれらを聴かなければならなかったのだろうか。それともこんなことには特別な意味などなかったのか。

 

  いずれにしても子どもの私にクラシックを聴かせたい父の目論見?はかなり外れた。大学へ通い始めた夏休み、帰郷した私は二階の窓を開け放った。そして持参したマイルス・デビスのレコードを大音響で掛けた。庭のブドウ棚で仕事をしている父に聴かせるためだ。仕事を終えた父は「ジャズもいいな」とお世辞混じりの顔で言った。

 

 後年、私は父と同じ道を歩むことになった。父は墓参りもしなければ仏壇へも近づかない人だった。また、かって渡った満州のこともずっと口を閉ざしたままだった。医家が五代も続けば先祖、縁者たちとの間に受け容れがたい確執があったのではないか。父は12人の兄弟姉妹の長男で、恥ずかしながら私も5人の長男だ。

 

  結局自分は父のことを多少は知っているが、よく知らないと言うべきだろう。しかし亡くなって久しい父をいま思い出していると、近くを歩く服ズレが聞こえるような気がして、不意に涙が出そうになる。この年になって父親の体温を思い出すとは。

 

  これらはザラフィアンツ氏のピアノのせいかもしれない。彼のピアノには魂を揺さぶられた。

                      (思い出しながら少し加筆をしました) 

異国東京

2010年3月14日(日曜日)

  今日は日帰りで東京へ。ああ、これだから東京に住む人が多いのかも、と思うほど良いお天気。何十年ぶりの中央線で千駄ヶ谷へ行き、初めての津田ホールでエフゲニー・ザラフィアンツ氏のピアノリサイタルを聴いた。プログラムはオールショパンでいずれも重厚。アンコールにポピュラーなショパンが演奏され、生誕200周年の早春に相応しい心洗われるコンサートだった。

 

 都内のいくつかの菓子店に長い行列があった。いつもながら東京の人の行列には感心させられる。そしてこの度の上京でなぜかポニーテールの若い女性を多く見た。これが傾向なら嬉しい。何もかも新しくなる昨今、少しでも戻りを感じるものがあると心なごむ。

 

 後へは戻らないで、と思ったのは禁煙だった。JR駅、新幹線はもとよりほくほく線までも禁煙。道中は清々しかった。ついにこんな時代になったんだと、心底感心した。社会ごと進む禁煙はITやWebとは別の晴々とした社会革新の印象を覚える。

 それにしても年に数度の東京は次第に異国のようになっていく。帰りの車中、相変わらず冴えない自分が窓に映っていた。変わってみたいがなかなか変われない。多分自分(自我)は命とと共に授かった(贈られた)ものだから、磨くのはいいがあまりいじくるのもよくないかもしれない。

                                         

プログラム 
大変シックなプログラム  

Bei mir bist du schön  素敵なあなた

2010年3月13日(土曜日)

学生時代、生活のお伴としてラジオはいつもそばにあった。今は分からないが音楽は多様で、ラテン、ポピュラー、ジャズ、シャンソン、ハワイアン、ウエスタン、映画音楽、もちろん歌謡曲にクラシックとあふれんばかりだった。

分野ごとに人気の曲があり、ジャズ・ポピュラーのヴォーカルでは「Bei mir bist du schön(素敵なあなた)」はその一つだった。当時どこの局だったか素敵なあなたという番組があった。遅い時間の番組でよく聴いた。その冒頭とエンディングにルイ・プリマとキーリー・スミスのこの曲が流れた。

 

素敵なあなたはアンドリュース・シスターズが本家的。ほかにスティーブ・ローレンスとイーディー・ゴーメのデュエットもあったと記憶している。

明日はホワイトデー、恋人たちの特別の日ということ。陽気な節まわしに転調、職人的で楽しい曲を引いてみた。

 

自分のウェブページというまだよく理解出来ないものに40数年前の大好きだった曲を載せる。そして何人かの人がこれを見たり聞いたりするかもしれない。まるでSFを体験しているようだ。

ジャコメッティの細い「歩く男」が。

2010年2月7日(日曜日)

たとえばAという人のAらしさを表現してみる。これは様々なジャンルとレベルで可能だ。およそ子どもの時から私たちもこのようなことに親しんできたように思う。

ではAに見られる人間らしさを表現するのはどうだろう。前者の裏腹でもあろうが命題は突然地味に変化し、困難の予感がしてくる。こちらの人間観まで問われるからだろう。

これらの事を生涯痛々しいほど追求した一人がアルベルト・ジャコメッティ(1901年~1966年)ではないだろうか。彼の作業には陣痛を伴う出産(誕生)のイメージが浮かぶ。
いつしか彼の人間についての彫像は台座の上に小さな棒のようなものとして現れる。それがさらに細くと望んで次第に背が高くなっていった。

我が心の芸術家より
妻が見ている細い人間を作り始めた頃のジャコメッティ(我が心の芸術家たち:著者/ブラッサイ 翻訳/岩佐鉄男/ 1987年12月24日(株)リブロポート発行より)。自らの作品を触る彼はうっとりとして幸せそうです。この本は樹下美術館のカフェにあります

 哲学でなく実体への固執。同じ場所に住み、晩年は手術と苦悩とタバコによって衰弱し、服の中に浮いているようだったと目撃されたジャコメッティ。ピカソやサルトルなど多くの人が彼を愛した。

そんな彼の細いブロンズ作品「歩く男」が先日ピカソを抜いて芸術作品の彫刻分野で競売史上最高額をつけた。3日、ロンドンはサザビーズでの出来事だった。この時代、一つの作品が1億430万ドル(約94億円)で落札されるとは驚くべきことだ。彼は同じものを6体制作したらしい。芸術(また芸術家)の深淵と壮大を思った。

 

樹下美術館の展示作家、故倉石隆氏はジャコメッティを愛し影響を受けた一人でした。氏の人物もしばしば細く描かれますが、作者に感応した独特の存在として魅力的です。


倉石隆作裸婦
 
倉石隆作「男(O氏の像)」

世界は日の出を待っている

2010年1月1日(金曜日)

あけましてお目出度うございます。
お陰様で今年6月、樹下美術館は開館満3周年を迎えます。

 駆け足の3年を文字通り皆様に支えられて歩んできました。これからも楽しい場所となりますよう、スタッフ一同心を込めて参りたいと思います。

 

 さて昔の話ばかりで恐縮ですが、若い頃のお正月によくラジオから聞こえてきた曲がありました。「The World Is Waiting For The Sunrise/世界は日の出を待っている」です。軽快なテンポと明るい曲調はお正月の定番でした。 

 

 もとは1919年、第一次世界大戦直後に作られたというデキシーランド曲。疲弊した当時の社会を大いに元気づけたそうです。 この年はまたスペイン風邪の世界的流行が2年目になった年でもありました。 

 

 ユーチューブの「The World Is Waitig For The Sunrise」 

 さて映像の演奏はギターがレス・ポール、歌がメリー・フォードの夫妻です。レス・ポールは同名の楽器でおなじみのギターの名手ですね。映像の音源は1951年、洗練された多重録音のはしりとしても有名でした。
 二人によるレコードが流行ったのも第二次大戦からの復興期でした。その後、成長の長いテンションが切れてしまった今日、新型インフルエンザまでも現れました。時代は巡るのでしょうか、ふと「世界は日の出を待っている」を聴いてみたくなりました。
世界は日の出を待っている

上の写真は学生時代に買った二人のLP。一曲目に映像と同じ演奏が入っています。赤く透けるレコード盤が新鮮で、取り出すとわくわくしました。

つかの間を楽しんで

2009年11月27日(金曜日)

昨日、恥ずかしながら小生の作品展が初日を迎えて、レセプションがあった。主催者からは、心づくしのしつらえが伝えられていた。深夜の往診が続いた患者さんに落ち着きがみられたので、新潟へ車を飛ばした。

会場は作品が展示されているお宅の室内だ。レセプションではジャンニスキッキが歌われ、お仕舞いもあって楽しかった。電子ピアノは青木昌己さんだった。氏は長い間イタリア軒のラウンジでピアノを弾いておられ、かつて上越にお招きしたこともあった。15年振りの再会となり、懐かしいEarly Autumnを弾いて下さった。

 

音階を忠実に辿るリチャード・ロジャースの名曲「Where or When」の素晴らしさなど、楽しいお話が聞けた。主催された悠さん、本当に有り難うございました。

帰りは妻の運転。一眠りのあと、前のトラックにカメラを向けると面白く写った。モニターを見ながら、ああもうクリスマスだと思った。
後日の追加です:少し冒険をしてEaerly Autumn の曲を動画で付けてみました。うまく掲載されているでしょうか、歌っているのはジョー・スタッフォードです。写真画面なので動かずに申し分けありません。
私の中学時代に彼女の「霧のロンドンブリッジ」が流行りました。当時オルガンでこの曲を上手に弾く生徒がいて、弾き始めると同級生達が沢山集まりました。ご存じのように、ジョー・スタッフォードはほかにも多くのスタンダード曲を歌っています。
今どきEaerly Autumnでは季節が少々合いません。しかし時には後戻りもいいのかな、 ということでお許し下さい。以前の「少し遠い岸海のEast of The Sun」にも曲の動画を付けてみました。

少し遠い海岸のEast of The Sun

2009年10月31日(土曜日)

今週は例年のインフルエンザワクチン接種が追い込みで忙しかった。また私が学校医をしている小学校で初めて新型インフルエンザによる学級閉鎖があった。比較的平穏だった新潟県も今月中旬から注意報→警報へと一気に深刻化しはじめた。

北海道ではすでに最大級の警報が続いている。季節型、新型ともワクチンの不足と遅れによって今後の半年余が非常に憂慮される。

国は早々とワクチンの減産を宣言した。これは大きな問題だったと思う。日本の国力があれば克服できたのでは。極めて重要な年になぜ生産に専念しなかったのだろう。

 夕刻、少し遠い海岸へ行った。

陽が沈みかけ、月が昇り始めた。

East of the sun and west of the moon

We’ll build a dream house of love dear

・・・・・。

朝な夕なに向き合う月と太陽の時間。

とてもいい昔の歌だ。


Diana Krallの East of The Sun

 

おのぼりさん、その2

2009年9月20日(日曜日)

 国立近代美術館でゴーギャン展を、同工芸館で「リーチ・濱田・豊藏・壽雪 展」を見た。 

 ゴーギャンは9月23日で終了するので、大賑わいだった。若い人達が沢山来ていて、館内は熱気がこもっていた。

 

 

 

 旅人ゴーギャンの西洋は南洋の野性へと導かれていく。彼は珊瑚礁などには一瞥もくれず、旺盛な自然の島内で座るか、立つかしている女性を描きつづける。

 

 彼女たちの肉体は重厚で、精神は野性の神秘にゆだねられている。生まれたばかりの子はぐっすりと眠り、無心に食べて育つ。世界の表裏において主人公であった女性も、最後には老いて尽きる。その連鎖をどっしりとした女神がみている。

 

 大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は、DNAの絵画に見えた。野性の根源性を芸術によって肯定した稀な人、ゴーギャン。

 

 陶芸館ではバーナード・リーチ、濱田庄司の民芸作家から豊蔵、壽雪の志野を中心に著名な作家の作品が並んだ。それぞれに数が膨大なので作家の個性が無理なく理解できる。6枚揃った濱田の丸文赤絵皿を欲しいと思った。

 

 帰り際、階段の降り口に何気なく置かているベンチが黒田辰秋だと気づいた。大いなる憧れの木工、黒田の作品を初めて見て、しかも座れた。不意のラッキーは、ことのほか嬉しかった。

 

 ※樹下美術館が常設展示している陶芸家齋藤三郎は、戦前の鵠沼(くげぬま)において黒田とともに制作したことがあります。 

 

【何気なく見たものから少々】

タペストリー

中庭のオブジェ

お茶うけ

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