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越後に人々

2009年8月23日(日曜日)

貴重な日曜日、訪ねてきていた弟と天使のような姪っ子たちが帰った。そして午後から新潟市へ、三回目の佐伯祐三展と初めての会津八一記念館行きだった。

 

 

佐伯祐三展に通って、一期三会を果たした。作品を通して見ぬ人と再会し、語り、別れる。芸術の世界ならではの素晴らしい体験ができた。

 

 

 

 

佐伯祐三展の案内スクリーン

 

 

 

 

会津八一記念館では「没後10年 濱谷浩 会津八一博士を写す」展を見た。詩と書と学芸の偉人・会津八一と写真家・濱谷浩の息詰まる交流を目の当たりに出来た。洞察の写真家・濱谷氏の神経と技によって、八一が館内で呼吸し闊歩していた。昔の人達が守り合った筋と流儀が清々しかった。

 

 

 

 

閑静な場所にある会津八一記念館。八一は新潟市出身。

 

 

 

 

 

同会場で詩人・堀口大学の上越市にある詩碑「高田に残す」の資料を見た。同じく上越にゆかり深い濱谷氏の奥様・朝(あさ)婦人の茶筅(ちゃせん)塚の資料にも出会えた。あらためて先人の足跡を訪ね、浅学の穴埋めをしようと思った。

 

 

そして新潟に向かう車中のラジオで甲子園を聞いた。越後の若者・日本文理ナインがとうとう決勝に進むことになった。これまでの同校選手のユニホーム姿が一段と洗練されて見えているのは、身びいきのせいだろうか。

 

 

さらに夜のドラマで景勝、兼続たちが越後春日山城を離れた。険しい山を幾つも越えて何百キロも先の会津へと城を替える。それぞれの心も体も大変だったことだろう。

 

 

夏雲とともに、越後の、越後ゆかりの、人たちがくっきりと現れた日だった。

 

 

 

黒崎SAからの空

松雲山荘の初秋、そして別れがたき佐伯祐三展

2009年8月9日(日曜日)

午後の時間、前回に続いて二度目の佐伯祐三展を見に新潟へ。途中の柏崎では木村茶道美術館へ寄った。美術館がある松雲山荘のもみじが色づき始めていた。

美術館茶室の床(とこ)には玉船の「雪」ひと文字のお軸。床の花は黄ツリフネソウ、レンゲショウマなど5種が夏を惜しんで生けられていた。座って李朝(りちょう)あみがさの主茶碗(おもじゃわん)で飲ませて頂いた。迫力の茶碗は見どころが多くて、心に残った。

妻は道入の茶碗で飲んだ。替茶碗(かえじゃわん)が道入とは驚くべきことだが、ここは一貫して貴重な実物で広く茶を呈する姿勢を続けている。

※玉舟(ぎょくせん):17世紀の臨済宗大徳寺派の禅僧。同寺第185世住持。

※道入(どうにゅう):軽く柔らかい楽茶碗は利休によって重んじられるようになった。楽茶碗は初代楽吉左衛門(長次郎)から15代継承され今日に至っている。3代道入は特に人気が高い。

何かと時間が足りない常で、新潟市の佐伯祐三展は立ち話をする程度しか見られなかった。もう一度別れを告げに行ってみたい。

素晴らしい生け垣 心こもったお手前
朱欄干 色づきはじめたもみじ
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茶室に向かう階段と彫像 手水鉢(ちょうずばち)

芝居「とんでもない女」と歌「幸せがいっぱい」

2009年7月23日(木曜日)

 今夕、上越文化会館で芝居「とんでもない女」を観た。下條アトム、川島なお美、吉田羊の役者さんによる渾身の舞台だった。

 

 お恥ずかしいことに、10年余も前、地域の芝居に携わったことがあった。稽古のおよそ半年間、あまりに大変で、死にそうだと何度か妻に漏らした。それで今日の芝居の2時間、一貫したテンションに驚かされた。劇中、日常の所作から、芝居の中のお芝居までプロの力量を目の当たりに出来て本当に楽しめた。特に川島さんは台詞も動きも自然で、姿が良く、声が通って、ほれぼれさせられた。

 

 音響でも感動があった。最後の暗転で流れた歌に、胸を熱くさせられた。クラウディア・カルディナーレの古い映画「鞄を持った女」の主題歌だった。ずーと昔45年以上も前、学生だった私の回りで小さな事件がいくつか重なった。悲しい気持ちが続いているさ中、なにかとラジオから聞こえた歌だ。

 

 「幸せがいっぱい」、、、帰りに曲名を思い出した。哀愁の曲調は”幸せと悲しみの切ない狭間”を感じさせる。ギターが付いてシャンソン風にリメークされていた。突然いい音で響いて懐かしかった。

 

沢山楽しめた良いお芝居を有り難うございました。

日本の美術館名品展

2009年7月4日(土曜日)

 午後、東京都美術館で開催されている「日本の美術館名品展」に行った。ひと月ほど前に、小林新治氏から当展覧会のことを教えて頂いていた。それが明日最終日となってしまって、本日、日帰りで見てきた。

 

 さすが全国の公立美術館が加盟する美連協。25周年記念企画で各館の代表作が220点も出そろっている。好評のため今週末は午後8時まで開館というのも助かった。

 

 ベン・シャーン、デビット・ホックニー、アルベルト・ジャコメッティ、エゴン・シーレ、松本竣介、香月泰男、麻生三郎らの実物に会えるとは考えても見なかった。ルオーの道化師は常に胸に刺さるし、齋藤真一の瞽女の赤は切なく、三点のピカソは澄み渡り、館内は美術パラダイスの寸前だった。

 

 それにしても経済バブルと日本の美術館の関係が如何に密接だったか図録記事を読んで伺われた。バブル崩壊後、何年も購入予算がゼロという幾つかの現実は、やはり悲しかった。しかし一時の熱狂がなければ本日の作品の相当数を目に出来なかったのも事実。諸事克服しての企画展、美連協ならではの粘りに感謝したい。

 

 美術の賑わいは経済の活況と密接だが、良い作品の誕生は別かもしれない。今後どんな展開があるのだろう。今日は2時間しか取れなくてかなり見残した。時間があれば明日また、、、だめかな?

 

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 充実した図録:表紙はボナール、ハードカバーで308p。出展美術館ごとの学芸員による作品解説も読み応えがある。2冊買ってきました。明日さっそく樹下美術館のカフェにお出しします。

 

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入場券の図版:藤田嗣治「私の夢」/新潟県立近代美術館出展

美術館に文学

2009年6月17日(水曜日)

 今日昼、新潟からNHK文化センター「大きな旅、小さな旅の文学講座」の皆様が来館された。館長として少しお話させていただいた。とても熱心に聞かれ恥ずかしくもあり感激もした。あらためて美術と文学が、兄弟やそれ以上に近い実感がした。

 

 当館でいえば、陶齋の陶芸に散文的な詩情が、倉石の絵画には小説的な背景が漂うように。また昔から文士・文人はしばしば画をよくし、画家が文学賞をとることもあったりで。

 

 一行の講師(引率者)は文芸評論家で敬和学園大学教授の若月忠信さんだった。手元に氏の著書「文学の原風景」がある。同書で、倉石隆の絵画の同志、司修(つかさおさむ)氏の小説「紅水仙」の章を感慨をもって読んだことがあった。思いも掛けず今日は若月氏ご本人とお話できて光栄だった。

 

 バスを見送る時、美術館の庭にさーっと文学の風が立ったようで新鮮だった。

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楽しいゼミのようなカフェ。

 

カフェが一杯でデッキでお茶されたお二人。文学少女が香っていました。降らなくてよかったですね。

 

手元の「紅水仙」。主人公は、亡き母の謎を追って新潟県旧松代町へたどり着く。「文学の原風景」では若月氏が司氏の足跡をたどって松代を訪ねる。

「紅水仙」 著者:司修 発行所:(株)講談社 昭和62年4月20日第一刷発行

 

司修:第27回小学館児童出版文化賞(昭和53年/1978年)『はなのゆびわ』

    第20回川端康成文学賞(平成5年/1993年)「犬(影について、その一)」

    第48回毎日芸術賞(平成19年/2007年)「ブロンズの地中海」

小さな竹の橋の下。

2009年5月17日(日曜日)

”小さな橋よ竹の橋の下   川の水に流れてゆく
あの日の夢も楽し想い出も 川の水に流れてゆく
長い年も月も色とりどり やがては消えてゆく 赤い薔薇の花びら、、、”
40数年前、学生時代の夏、私たちの軟式庭球部は弘前であった東日本医学部の大会で優勝した。何度も優勝経験のある先輩たちの最後の大会で、終わると特別な感慨に包まれた。誰いうともなく、せっかくだから十和田湖~奥入瀬へ行こうということになった。男女10人くらいだったかで決まった。

路線バスで十和田湖へ寄って遊覧船に乗り、その後酸ヶ湯へ向かった。いつしか乗客は私たちだけになった。だれかが持ってきたウクレレで皆で歌った。そのなかで「小さな竹の橋の下」を歌った。バスも、仲間も、歌声も、奥入瀬の流れも、みな一つの時になって過ぎて行くようだった。

昨日、新潟県村上市に一泊で当時の仲間が集まった。宮崎、広島、愛知、静岡、千葉、東京、兵庫、群馬、新潟の都県からご夫婦も入れて20数人が参加した。長い年も月も色とりどり。良き先輩後輩同輩に恵まれて、どこかであのバスの続きを生きているようにも感じた。

ところで、夜のニュースは神戸、大阪の新型インフルエンザを伝えていた。流行は現行の対策マニュアルをあっさりかわして拡大している。強い感染力と、夏に向かう足が速くて油断できない。国は早くちぐはぐなモノサシを調整し、現実的な指導力を発揮して欲しい。気負った戦いでなく、真摯な科学として直面することが望まれる。

お茶碗そして上越の雪月花

2009年4月10日(金曜日)

 本日午後、貴重な抹茶茶碗に出会えた。齋藤三郎の高田における若い時代の作品である。弥彦神社の宝物・大鉄鉢(重文)をならって作られた器、と古い包みに書かれている。やや小ぶりで素直な姿。黒と茶に意図された鉄釉が絶妙な案配に焼成されている。

 

 わざわざ遠方から運んで下さった方は、戦後上越で堀口大学、濱谷浩、小田嶽夫、市川信次氏らを身近にして育たれた。茶碗は当時の文化の賑わいから自然に生み出されたであろう何とも言えない品格を漂わせている。

 

 皆様にお見せして、という言葉が有り難く、今秋にはぜひ展示したい。

 

 さて昨夜は14夜で、今夜は15夜満月。お天気に恵まれ高田城趾の桜も一段と冴えていたにちがいない。冬から春へ巡る上越の雪月花、、、。

 

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時を惜しんで

2008年12月14日(日曜日)

 今夕刻、土日の上京から帰りました。10月7日に見残した国立新美術館のピカソ展を観てきました。いつものように東京のN、浜松のK、上越から小生で同級生夫婦が集りました。年に一度のつもりが、今年は先回の2ヶ月後にまた会ってしまいました。
 

土曜の夕刻はKの提案で、虎ノ門・智美術館(とも美術館)で加藤陶九郎・重高・高宏の三代展を観ました。美術館では魅惑的な階段に導かれて地下へ下ります。光を落とした館内で、志野・黄瀬戸を中心に織部、黒織部など一統の優作が高質な照明に映えて楽しめました。
翌日曜日、開館直後に入ったピカソ展は最終日です。大勢の来館者がありました。人生を共にした女性が変わるたびに変化を遂げたピカソ芸術。しかもそれぞれが時代を切り開いたのですから驚きます。徹底したデッサンと線の訓練、さらに貴重な天賦があったに違いありません。余談ですがここでも額が簡素だな、と感じました。地元の美術館が修復中の海外巡回展ですから、額も仮のものなのでしょうね。少し残念でした。

 

土曜は夕食を4時間、そのあとK夫婦と前回のシガーバーで2時間。沢山話をして冬の宵を惜しみました。松永弾正のきわどさを語り、脂質の最前線を説明した学者N。兼続を知っていて嬉しかったです。探求の人Kは加藤陶九郎の永仁の壺事件とその背景を話し、ジャズを聴くようになったと語りました。
ありきたりながら、小生は映画「ファニー」と「シェルブールの雨傘」です。よく似たストーリーと音楽の良さなどを話し、若きレスリー・キャロンとカトリーヌ・ドゥヌーヴを懐かしみました。

 

最後にフランス映画「田舎の日曜日」(1984年カンヌ映画祭監督賞)をKに勧めました。1912年、パリ郊外に年老いた画家が住んでいます。秋晴れの日曜日、汽車に乗って新興サラリーマンの一家が父である画家を訪ねて来ます。遅く一人、新しい車でやってきた娘は実は失恋したばかりでした。娘は父を川辺の賑やかなカフェに誘います。カフェで娘は父の手を取って立ち上がり、楽師のワルツに合わせて踊ります。
哀愁をおびた素朴なワルツは、100年前の現場から聞こえてくるようです。ルノアールが描いたような人物たちが居るこの場面、不思議と胸が熱くなります。ほかにフォーレのピアノ5重奏曲が落ち葉や過ぎゆく時を慈しむように奏でられます。やや退屈かもしれませんが、忘れられた過去の人々と時間を共有できる不思議な映画です。

 

     
夕刻の智美術館入り口 付近の桜坂
   
        

膝掛けと温風/桜坂のカフェ

国立新美術館の壮大なカフェ
   
             

智美術館/切符

ピカソ展/絵はがき

   

続・大手町のムーンリバー

2008年11月15日(土曜日)

 前回「大手町のムーンリバー」でジャズにまつわる拙い思い出を書いた。書きながらある本が気になっていた。「モダンジャズ入門 THE FIRST BOOK OF MODERN JAZZ」。高校3年生の時に朝日新聞の広告を見て買った本だ。わくわくする記事、写真のプレーヤーの格好良さ、飽かず読んで見入った。ところが、これが高校、大学、そして帰郷から今日までおよそ50年、手元にあったと思えば消え、消てはまた出てくる不思議な本だった。

 

先日の記事を書いた後、案の定本棚に無いことが分かった。そういえば長く見ていない。今まで何度か徹底した押し入れの整理をしたが、この本の記憶はまったく無い。どこへ行ったのだろう、代わりがあるのかネットの古書検索を試みた。検索で出たのは重版であまり興味を持てなかった。年のせいだろうか、若い自分に繋がる本がよけいに必要に思えた。

 

実は古い我が家には9カ所の押し入れがある。多すぎて何かと探し物はおっくうになる。ところが昨日、駄目もとでその一つを探してみたところ、案外あっさり出てきた。10年以上も前に積み上げた古い医学雑誌の中に埋もれていた。ネットによれば、当時詩人や知識人たちが求めた本とあった。その初版を高校生の自分が持っていたなんて、出てきてくれてことさら嬉しい。

 

4/6版の可愛いサイズ(18,8×12,8㎝)ながら、いちおう角背にミゾが施されたハードカバーだ。ひどく傷んでいた背にノリをすり込んでヒモで縛って直してみた。本日ヒモを解くと見た目は今いちだが、かなりしっかりしてきた。
因果な本はこれまで何度も消えては現れを繰り返した。昔から自分は大事なものほど失くしてしまう傾向がある。だからいつかまた消えてしまいそうで怖い。今度ばかりは油断しないようにしよう。

内容の写真は「モダンジャズ入門 THE FIRST BOOK OF MODERN JAZZ」/油井正一編・荒地出版社・1961年初版から。

発見捕縛 開放
   
        
フォーマルのMJQ 若き日の大御所たち

大手町のムーンリバー

2008年11月11日(火曜日)

 1962年、上京した年の正月、私は生まれて初めて憧れのジャズ演奏を聴いた。場所は大手町の東京サンケイホール。ホレス・シルバーのクインテットだった。当時モダンジャズは世界で縦横に場を広げ幸福な時代を迎えていた。ホレスの演奏はうぶな自分にもNica’s Dreamの華やかな激しさを伝えた。
公演が終わって頭を冷やすため、人影の無い正月のオフィス街を歩いた。歩きながらムーンリバーのメロディーを口ずさんだ。あたりは、映画「ティファニーで朝食を」で見た朝のシーンに似ていた。ビルの谷間の誰もいない細い路地へわざと入って、都会っていいなと思った。

 

サンケイホールの正月は、前年にアート・ブレーキーが公演していた。以来しばらくきら星のごときジャズメンたちの公演が続いた。キャノンボール・アダレイ、ホレス・シルバー、アートブレーキーの再演、、、。

 

大手町で地下鉄を降りてサンケイホールの外階段に並ぶ。ニューヨークから着いたばかりのジャズマンの演奏が聴けるのだから、正月の寒い階段も平気だった。演奏は音で世界を埋め尽くさんばかりで、スーツを決める黒人プレーヤーたちは格好良かった。そして終わるとガランとした大手町を歩き、決まったようにムーンリバーを口ずさんだ。誰も居ないビル街を独り占めしているようで楽しかった。ジャズのため何度か正月に帰省せず、親に叱られた。

 

ところで昨夜11時前、テレビで「ティファニーで朝食を」の最後のパートをやっていた。陽気なシーンもいいが、悲しげなヘップバーンは本当に素晴らしい。そしてエンドタイトルへ、ムーンリバーが流れて静かな朝のニューヨークが写る。あらためて正月の大手町は似ている気がした。私は海外旅行の経験がほとんど無く、もちろんニューヨークへも行ったことがない。MJQ、セロニアス・モンク、カウント・ベーシー、ヘレン・メリル、オスカー・ピーターソン、そして秋吉敏子もだったかな?正月以外もジャズを聞きに通った大手町。そこは自分なりのささやかなニューヨークだったのかもしれない。

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