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新潟市は秋葉区へ。

2024年5月3日(金曜日)

風麗しく香る憲法記念日の祝日、秋葉区金津へ行って来た。同所は今年3月上旬、寒風吹きすさぶ日に身をこごらせて行った。
それから二ヶ月、あの横殴りの冷たい雨は幻となって去り、今や春陽温かく心弾む季節に変わっている。風光の変わりようはまさに魔法だ。

以下秋葉区行きを並べてみました。

食べずにいた家の朝食を美術館へ持参しベンチで朝昼兼用として食べた。全体の分量が少ない分は春風に当たり麗しい大気を吸って栄養とした。

高速道路を燕三条で降り下道を走った。およそ1時間50分、丘陵地のフラワーランドや県立の文化施設群に着いた。美術館のスーパーリアリズム展は時間の関係で次回とし、県立植物園と民間施設のフラワーランドおよび初めてとなる県立埋蔵文化財センターを訪ねた。

まず植物園。

牡丹とつつじの規格展示
も行われていた。

熱帯植物ドームです。

初めて観る軽々とした植物。

流れの音を聞いているアンスリュウム。

オニバスが蕾をつけている。

前回と違い、たっぷり日光が入り全体が生き生きと冴え、一部で花が異なっている。

「車つつじ」も初めて。

以下埋蔵文化財センターです。商物円からゆるい坂道を北方向?へと歩きます。

坂道を歩いて新潟県立埋蔵文化センターへ。

奈良三彩の小壺
こんなきれいな器が埋蔵品とは。

 土偶は面白い。

遮光器土偶は植物への尊崇の意味合いが指摘されはじめた。しかし展示のような単純な造形をみていると「子供のオモチャ」「子供のお守り」だったのかと思ってしまう。死亡率が高かった縄文時代の子供は今よりさらに貴重な存在だったにちがいない。

50年近くも前の開業当初、ある薬剤問屋さんの若い営業マンが自ら見つけた土偶の完品を持っていた。何とか譲ってくれないかと持ちかけたが「絶対だめ」と取り憑く島が無かった。採取場所を教わり何度も歩いたが当然見つからなかった。日本に土偶は2万点ほどしかないと、かって書いてあった。

 

縄文から弥生、さらに鎌倉期まで土器~焼き物が空白無く並ぶ。生活を豊かにという願いが滲み出ていて遠い遠い時代へのシンパシーが湧く。

三つ目の施設はフラワーランド。

「無い物はない」ほど充実している。

ラベンダー、乙女百合、シラネアオイほかを求めた。花の育成は何度も失敗しているが、大反省を行った今回は最後の挑戦。植物はバイオ技術の発達のせいであろう、かってより安価になったものが少なからずある。

上越から秋葉区は遠い。ナビに従って三条燕ICから下道を走ったが、高速道路で秋葉区へ直接行く方が時間を短縮できるのではないだろうか。数多い信号、分岐の走行はやはり疲れる。いずれにしても植栽が楽しみ。

27日日曜の種々(くさぐさ)。

2024年5月1日(水曜日)

去る4月28日日曜日は午前の開館前の美術館で芝生に目土をし施肥した。良く晴れた春の午前の庭仕事は気持ち良く予定通りに終了、残り時間に雑草を取った。
目土や施肥は足腰の負担を考え1回の分量を軽くし回数を増やした。

終わると開館時間になり、次々お客さんが来られた。


普段の昼は美術館でサラダを食べているのを、お腹がすいたのでベンチでホットサンドセットを食べた。

吹き渡る風、木漏れ陽が
清々しかった。

食べ終えて予定の木村茶道美術館へと柏崎市に向かった。

緑うるわしい松雲山荘。
木村茶道美術館入り口。

坂を歩いて美術館へ着く。

始まったばかりのお席に加えて頂いた。

床に副島種臣「龍」の大字軸。
広やかな一幅で、
種臣は能書家と説明を受けた。

香合は楽一入作「立瓜(たちうり)」。
可愛く畏まっていた。

柿右衛門の色絵水指。

 

茶は岡部嶺男の志野茶碗で頂いた。
銘「石清水(いわしみず)」だった。

「石清水」はのどかさと緊張が絶妙に調和した素晴らしい一碗。
最上屋さんのお菓子を食べ心こもったお点前で頂いたお茶は美味しく、幸せな一服だった。

齋藤三郎作「こぶし文鉢」菓子器。

この菓子器は大きな深鉢で、当日の席はもう一人の男性先客と二人だったため以下の南京赤絵皿に菓子が盛られた。相客をさせて頂いた方、有り難うございました。

瑞雲と梅枝のさわやかな菓子皿。
柿右衛門の水指と風合いが似ている。

櫂先が大きいのが特徴という瀬田掃部の茶杓と柏崎の塗師内田宗寛の黒大棗(おおなつめ)。同館は常に地元の宗寛作品を重んじているのはとても良い事だと思う。格調高い作品も十分それに応えている。

お茶のあと展示室で人間国宝の茶碗展を観た。
作品はみな驚嘆だったが以下お二人のが特に気に入った。

藤本能道の赤絵茶碗。
地肌の質感と赤絵の風合が絶妙。

田村耕一の鉄丸茶碗。
氏の記号的な文様はとても静か。

美術館を出て緑いっぱいの庭園を歩いた。

途中、シャガの花が咲いているところがあった。傍らの水草の中で蛙がグッグッと鳴いていた。

赤坂山の東斜面を使った山道。個人の山荘というけれど流れあり赤欄干の橋が掛かり、昔人の何と贅沢なことだろう。

木村茶道美術館と松雲山荘庭園を辞して帰路、柏崎コレクションビレッジ「風の丘」に寄った。
遠く日本海を望む丘に三棟の大きな施設があり、その一つ「同一庵藍民藝館」を訪ねた。
多くのコレクターを生んだ柏崎市。同館はその一人、染めや食器など庶民の日常にあった藍色の生活用品にこだわった正法寺住職・松田政秀の内外にわたるコレクションを主体にしていた。

 

かっての職人さん達の仕事着、
印半纏(しるしばんてん)。

中国、アジアのものまで
はば広く展示されている。

以下は同館で企画されていた柏崎市の作家作品展から、吉田正太郎の版画。


濱谷浩が撮影した吉田正太郎と齋藤三郎のツーショット写真がある。氏は柏崎における齋藤三郎の支援者の一人だったが、このように愛すべき作品を生み出す方とは思ってもみなかった。ちなみに風の丘、コレクションビレッジ三館の一つ「黒船館」は正太郎と弟・小五郎お二人のコレクションが展示されている。

懐かしい「幻灯」のコレクション室もあるなど多彩で面白かった藍民藝館でした。

樹下美術館に帰ってクリームソーダーを飲み、閉館後は幾つかの花の苗を植栽した。

ホトトギスの苗。
秋にはどんな風に咲くのだろう。

色々忙しく動いた一日でした。翌28日みどりの日、今度はゴルフで明日掲載予定です。
明日木曜は休診日なので5連休が始まる。一泊でよいから今から行ける所があるだろうか。

色々載せました。

にいがた観光ナビのインタビュー。

2024年4月20日(土曜日)

本日昼前からにいがた観光ナビのお二人が当館の取材に来られた。開館当初に一度お訪ね頂いて以来二度目ということ、大変熱心に取材して頂いた。

美術館開館の動機、齋藤三郎および倉石隆との縁、作品の見どころ、庭やカフェなどのことも聞いて頂いた。二人のメイン作家さんの齋藤三郎では父から始まった収集と幼少期から続く作品への憧憬、倉石隆では出会いのきっかけとなった血縁に興味をもって頂いた。

自身の志向である自然への親しみについて尋ねられ、高校時代の肺結核と療養生活で体験した森林散歩が原点とお答えした。

カフェを中心に揃えたデンマーク椅子と照明ほかカモグリや天童木工の名椅子、洋食器などもよく御存知で、インタビューは楽しいひとときだった。
久し振りに当初の高揚した気持が蘇り初心にかえろうという思いを新たにした。
お二人様、ほんとうに有り難うございました。

お話とお茶会 寒さが方向転換 庚申待ちの大河ドラマ。

2024年3月24日(日曜日)

さすがの寒さもS氏の言う通り彼岸を過ぎたら変わり、本日は温かだった。そんな日髙田仲町の「百年料亭 宇喜世」でフカミ美術主催の「お話と茶席」の会があった。

心づくしの食事の前、長野県須坂市「豪商の館 田中本家博物館」から来越された田中家12代当主田中宏和氏が話をされた。苦労の末商いを拡張し須坂藩を支えた田中家。20人分のお膳が8セットも必要だった豪商の生活と藩と浮沈を共にし荒波を乗り切った勤勉な信州人の骨頂は一種カルチャーショックだった。

茶席は二席で最初は井上宗皋(そうこう)先生の濃茶席から。味わいを高めるお軸とお道具類は重厚、一方お花の春蘭、炉縁の赤味と先生の応答に春の明るさが漂っていた。

向こうから古薩摩の茶入れ、
珠光青磁、左入の黒楽、木米のお茶碗。

次は佐藤宗佳先生の薄茶席。点茶盤によるお点前で私達は椅子に座る立礼(りゅうれい)だった。

席主さんが好きだと仰った七宝の杓立てと建水の青は、ようやく現れた青空の色だった。二席で頂いたお茶とお菓子はとても美味しく席主さんの人柄が表れた温かなお席だった。

 

そして今夕の大河ドラマ「光る君へ」は道長の結婚ばなしが「庚申待ち」の夜長とともに様々繰り広げられた。

庚申の夜、
道長の結婚に沈むまひろ。

まずドラマに庚申待ちが登場してびっくりした。当時から中国伝来の道教思想の一つとして、身体に密かに住む虫が60日に1回庚申の日の真夜中、就寝中の体から抜け出して天に昇り、自分がいた人の悪行を天帝に告げるという信心が始まっていた。これを防ぐため人々は夜遅くまで寝ずに過ごした「庚申待ち」の習慣。
後に庶民に広く浸透した行事は当初僧や貴族から広まったと聞いていたが、登場人物たちが自身の問題を抱えながら様々にその夜を過ごすのを観て、ああこんな場面があったのか、と興味深かった。

2019年2月に訪ねた
京都八坂庚申堂
今夜紹介されていた。

偏りもあろうが主に地方では時折社寺や路傍に庚申塔を見る。京都、奈良の中心的な古都では少ないと聞いていたが2019年の旅行で“本家”と言っても良いような立派なお堂を両市で見て喜んだ。

今夕久し振りの近隣、
四ツ屋浜の夕陽。

悪天候の春彼岸 本「良寛の生涯と芸術-慈愛に満ちた心-」。

2024年3月21日(木曜日)

10日も前から昨日春のお彼岸と翌本日は悪天候と予報されていた。お彼岸と言えば穏やかな日和を一瞬思い浮かべるが両日は雪マーク付きの悪天候が知らされていた。

20日の昼の駐車場。
寒風の中お客様が見えていた。

 そして本日朝方から寒さがつのり仕事場では積雪がみられた。

仕事場の庭の水仙。

 昼前、いっとき陽が射して美術館の窓際で「良寛の生涯と芸術」を読んだ。

つかの間の日射し。

 何のマユだろう。
強靱な糸で編まれていた。

午後、ウィキペディアを書いてくれる方が見えご一緒した。優しいのに突破力のある人で作業がはかどった。

午後再び美術館でサラダを食べ本を読み、お客様と話しをした。

良寛の生涯と芸術」。
小島正芳著
令和6年1月1日考古堂書店発行

本著は本文500ページという大著ながら文、活字とも柔らかく非常に読みやすい。著者小島正芳氏は新潟大学教育学部書道科を卒業され新潟県立文書館や教職を歴任、この間50余年もの歳月を良寛研究に捧げされ,多数の論考、著作を重ねられている。

まだ60ページを過ぎたばかりだが、北前船と佐渡金山に向けて開けた港町出雲崎で要職を継ぐ名家に生まれた良寛。学問への勤しみの傍ら親子共々理不尽かつ激しい競争が繰り広げられる港町の勢力争いの惨さをまともに受け追い詰められ、ついに出家を決心する。

たまたま備中(岡山県)玉島円通寺の国仙和尚と巡り会い、いよいよ同寺での修行のため二人で旅立つ所まで読み進んだ。両親と別れ際の詩、特に母の場面は涙無くして読めない。

折々の発句、詩歌および関連資料や写真が次々掲載され、現実感を伴う波乱を追いながらいくらでも読めそうな気がする。生地の困難と出家、遠地への旅、修行と印可、長い行乞行脚、京都に於ける父の入水、帰郷、ふる里の人々と子らとの日々、晩年の貞信尼との恋、、、。

本書あとがきに「良寛の研究はやればやるほど更に深みが広がり、奥深い」とあった。ますますトゲトゲしく混迷し不確定化する時代。本著の「慈愛に満ちた心」をテーマに「良寛」がNHK大河ドラマで取り上げられるなら何と素晴らしいことかと思った。

今年の倉石隆の展示「兎に角生きる 展」の仕度が終わって。

2024年3月14日(木曜日)

開館して18年目の今年、倉石隆の展示準備が終わりました。

今年のテーマは「兎に角生きる」です。果たして作品がテーマに添っているか、倉石氏はそのつもりで描いたか、私には確固たるものがあるわけではありません。

ただ開館して17年が過ぎ、一種はたと気がついたのが、かなり多くの作品は尊大な(偉そうな)雰囲気や主張があるわけでは無く、氏の周辺で生活している人々の「普通さ」を一生懸命に描いているのではないかということでした。

人生になにがしか目的や目標はあろうと思われます。しかし知る限り、普段その日々は「兎に角生きる」の連続なのではないでしょうか。

大家が好んだ美人モデルや舞妓さんに踊り子さんなど鑑賞を伴う特別な対象とは異なり、ひごろ駅や街中で見かける人たちの「生活感」や「普通さ」を敢えて「肖像」として描こうとする。これは挑戦であり、一面容易な仕事ではなかったのではと思うのです。

現実にそれをする時、作者の技術もありますが、なにより自身が如何に真剣に周囲の人(自分を含め)を見てきたかが問われたのではないでしょうか。

 それぞれの年代を
精一杯「兎に角生きる」。

さあ出発のうぶ湯。
まずは兎に角生きる。

青春、壮年、
みな「兎に角生きる」。

時として人は「孤独」かもしれません。しかし作品を架け眺めますと、日々精一杯「兎に角生きる」点でみな一緒という「共通項」が浮かび「安心」が生まれるように感じました。

わずか12点の展示です。ご覧頂ければ有り難く存じます。

裏の桜に来ていたカワラヒワ。

本日午後、外は暖かく鳥たちの声が聞こえていました。温かくなると早速現れる小鳥たちは今まで何処にいたのでしょう。

「三月冬の尻尾」 ヴィヴァルディ「四季」の冬の楽章が3、2、1へ。

2024年3月9日(土曜日)

本日はせいぜい3~4℃で午後寒風が吹き雪が舞った。大抵の人は2月の方が温かかったと仰るようにこのところ空は荒れ模様です。これまで3月のことを「冬の後始末」と呼んできましたが本日「三月冬の尻尾」に変えました。かように昨今とても春とは言える気象ではありません。

そうは言えば午前中は日射しがありました。

今朝玄関にあった寒桜の枝。

時々玄関先に野菜や花が届き有り難いことと感謝しています。

午後から一転小雪が舞いいっとき辺りは白くなりました。

路傍の緑が一人春だと告げている。

今年2月5日に第3楽章、2月7日に第2楽章を掲載させてもらったヴィヴァルディ『四季」から「冬」。逆行でしたがようやく本日第1楽章を載せて終わりました。

リアルな冬もこれでお終いになればと願っていますが、まだ寒波は来るのではないでしょうか。

今年の開館15日までわずかとなりました。このところ開館準備のほか今年3月で週一通った特別養護老人ホームを止めることになり、後を継ぐ方に30人分ほどの情報提供書を書きましたので気ぜわしい期間でもありました。

3月15日(金)から始まる今年の開館。倉石隆「兎に角生きる 展」、齋藤三郎「齋藤三郎の文様 展」、そしてカ「フェ」はじめ「庭」を今年もどうか宜しくお願い申し上げます。
開館前は毎年緊張します。どうか無事な一年でありますように。

先週末の新潟市秋葉区訪問その1 フラワーランド、新潟市新津美術館。

2024年3月4日(月曜日)

昨日日曜日、新潟市は秋葉区金津へ行った。同区の新潟市新津美術館を訪ねること、隣接するフラワーランドと向かいの県立植物園が目的だった。

かなり遠距離なので出来るだけ高速道路が良いのだが、ナビは予想に反しずっと手前の燕・三条インターで下りるように指示した。しかし過去の秋葉区行きに従い、距離は長くなるようだったが磐越道を走った。

懸案の三施設は丘陵地の入り口でお互いが隣り合うようにあり、私は初めての訪問だった。
近い順からまず花の街、秋葉区の新津フラワーランドに入った。

新潟県最大を自称する大きな施設。

沢山あった雪割草、1万円前後の高価なものが揃っていたが自分たちは千円ほどの3点を選んだ。それでもきれいなものがあった。

 驚くほど大きな実をつけたヤブコウジ。
見るだけにした。

黄色が美しい花が多く付いたクリスマスローズを2鉢と樹下美術館駐車場脇に植える予定で白梅の苗木1本を求めた。冷たい雨降りにも拘わらず館内は鮮やかな花々と人で賑やかだった。

続いてお隣の新潟市新津美術館へ、傘を差せないほど強風の空。

スケールの大きさに圧倒される。
一階のアトリウムは白色大理石の
造形的な階段だった。

 同館では「笹岡了一と新潟光風会の作家たち」展が1/20(土)~3/10(日)の間、開催されている。
以下いずれも展示されていた笹岡了一作品のごく一部です。撮影OKでした。

「習作」(左)1931年と少女の習作(右)
優れたデッサン力は生来の賜物では
ないだろうか。

タイトルを見損ねた戦地のひとこま。
従軍した者でなければ描けない
転戦の合間に訪れた時間。
優れた構図の大作だった。

「纏足」
1946年 116,7×91,0㎝

「丘の村(ESPEJO」
1982年

笹岡了一氏は1907年(明治40年)生まれ。早く画業に勤しみ20才から38才まで繰り返し応召、頻回の戦場体験は生涯深く作品に反映されていると感じた。
氏は精力的な発表の傍ら日展審査員、日本美術家連盟委員を歴任、新聞小説ほか挿絵、美術書で活躍、他方後進と地域貢献に注力され、光風会館建設を主導されている。

79才の没年には600名が参列する流山市の合同葬が行われ、夫人によって163点の作品が新津市に寄贈され同館の中核である笹岡作品の礎になりました。

本日はこの辺でお終いにし.て次回新潟県立植物園を記載する予定です。
昨夜から今朝に掛けて雪が降り当地周辺では5~15センチは積もって除雪車が出ました。

文中誤記多く申し分けありません、視力が落ちていて近々受診を予定しています。

小学校の地域学習をされたKさんから。

2024年3月2日(土曜日)

先日大潟区土底浜のKさんが小学校の地域学習で大潟と棟方志功についてお話された。その折樹下美術館収蔵の棟方作品「米大舟頌」をお貸ししました。昨日無事終わりました、と返しにこられました。

一緒に頂いた当日の資料は1.棟方志功の紹介、2.昭和35年に大潟町小学校文化祭で棟方志功版業展が開催されたこと、3.郷土の芸能「米大舟」を見るため昭和25年大潟町渋柿浜「専念寺」さんに泊まられたこと、4.専念寺で志功が米山の絵を描いたこと、5.海岸を地域のファンと散歩したこと、6.志功が海岸を走り、同行していた写真家濱谷浩氏がその姿を撮影したこと、6.戦後大潟町土底浜に直木賞作家小山いと子さんが疎開されていて、棟方が表紙を担当していたこと、など分かりやすく図入りで作成されていました。

掛け軸の「米大舟頌」

頂いた資料によると、米大舟頌が掲載されている東方出版の書物には“昭和34年ニューヨークのロックフェラー財団に招かれた際この作品を名刺代わりに使用した”旨書かれていました。
なお大潟海岸を走る志功の写真は、青森市の棟方志功記念館入り口に掲げられているということです。

丁寧なK氏は御礼と言って風呂敷を下さいました。風呂敷は、「棟方志功作 龍胆(りんどう)柵 版画風呂敷 光徳寺」と書かれた箱に収められていました。

箱の外観。

大きくて丈夫そうな風呂敷。

棟方志功は先の大戦で昭和20年から26年まで足かけ7年、東京を離れ富山県福光町(現南栃市)の光徳寺へ疎開しています。躅飛山(ちょくひさん)高徳寺とその地を気に入り小庵「鯉雨画齋りうがさい」を建てて居住し、福光時代と呼ばれる貴重な期間を過ごしました。

風呂敷にはお気に入りの桑山と光徳寺が描かれ和歌がしたためられていました。

桑山も躅飛の院も秋ならむその裾やまの龍胆(りんどう)咲けるや

この和歌は「桑山も」の題で歌になり南砺市で歌われているようです。

それにしても昭和35年、大潟町小学校文化祭に棟方志功展が催され、22点の版画、4点のヤマト絵、3点の色紙、6点のふすま絵と屏風絵ほか書籍、色紙や手紙類など多数が出品されたことに驚かされます。大潟から直江津にかけて熱心なファンが大勢おられ、昔の方が地域に豊かな文化があったと言われれば今や一言も無く、何か申し訳ない気がします。

一方学校で懸命に児童に地域の話をされるKさんに頭が下がります。

さて話変わって食べ物です。以前から肉無しニンニク無しの餃子をネットで探していました。すると先日見つかって注文。昨夜早速頂きました。このような餃子は昭和30年代に母がよく造り、未だにそれ以上の餃子は無いと思っている次第です。

素朴で美味しかった餃子。
台湾産でした。
少々焼き過ぎでした。

髙松の讃岐うどんもそうでしたが、美味しさの要素に「素朴」が挙げられないでしょうか。“体に馴染む美味しさ”という感じですが、如何でしょう。

去る22日(木)および23日(金)の梅見物 その2熱海梅園と澤田政廣記念美術館。

2024年2月26日(月曜日)

去る22,23日は強い寒波の中、雨降りの小旅行。電車以外の現地移動はタクシー、そのほかは寒い中を歩いた。せっかくなので文句も言わず各所を巡った。
本日は前回に続き2日目の午前で、熱海梅園とそこに接する澤田政廣(せいこう)記念美術館へ寄った。

澤田政廣は文化勲章を受章された人で、氏の晩年になる爽やかな仏像が展示されている我が糸魚川市の「谷村美術館」が浮かぶ。館内には彫刻のほか絵画や書が展示され、鮮やかな色彩と素早い動的なスケッチに目を奪われる。建物は糸魚川の方が早く、ここの全体には谷村美術館の外観と内部構造に類似した雰囲気が感じられた。
庭の展示は谷村美術館にないもので、雪の有無の違いが現れたのかと考えられ、楽しく印象的な美術館だった。

美術館前の「海の讃歌」S38年。

庭の「黄泉のしこめ」S31年。
逃走と生成の神話的なイメージ。

館内、「あたみニュース」から。
「人魚」昭和44年。

 

外壁から見える「ともしび」昭和21年。
戦争直後の慎ましさが伝わる。

外観は中央アジアの砂漠に現れる
構造物のイメージ。
谷村美術館を研究したようだ。

何度訪ねたかもう覚えていないが春になったら谷村美術館を訪ねたい。何度でも行きたい美術館だと思う。

さて澤田記念美術館を出るとすぐ熱海梅園(むしろ梅園内にある)。かなり急な川に沿った谷間があてられ、滝や橋が景観よく配置されている。お天気が良ければいっそう清々しかったに違い無い。

ヒヨドリがウロを覗き、傍らに
クリスマスローズが咲いていた。

梅はほぼ盛りを過ぎていた。寒いため売店で温かなお汁粉をた飲んだ。これだけ寒ければ余計思い出に残ろう。

昼に熱海を発ってJR東海道線でほぼ1時間大船へ。横須賀線に乗り換えて隣駅が鎌倉だった。
鎌倉の梅めぐりは次回予定させて下さい。

本日こちらは風が吹いて荒れ模様、関東一円のあの寒さはどうなったのでしょう。

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