街の夕焼け ネマガリタケ 深雪花の新作ロゼ

2011年6月15日(水曜日)

 今夕齋藤尚明(二代陶齋)さんとお会いするのに高田へ行った。駅が見える通りでちょうど夕焼け雲がかかった。

海の夕焼け、山の夕焼け、里の夕焼け、そして街の夕焼けもいいな、と思った。

 

高田駅前の夕景 高田駅前の夕焼け雲

 

尚明氏に陶齋の図録初稿を監修して預いてからもう一度印刷屋さんに回す。ようやく一冊目の陶齋がゴールへ向かうことになる。
つぎは倉石隆氏、こちらはかなり進んでいる。作品の時代も陶齋よりもはっきりしているのでその点楽だ。楽しんで取り組みたい。


タケノコ
ご近所から頂いたネマガリタケ(ヤマタケコノ)
妻は涙を溜めながら、タケノコの皮をむいていた。
 

さて、高田を辞して家に帰ると妻が開口一番、興奮した様子で以下の話をした。この春、ある方へ贈った岩の原葡萄園のワイン「深雪花」の新作ロゼが信じられないほど貴い人のお口に入ったという手紙を受け取った、と。妻は涙ぐんでいて、私は息を止めて驚くような書面を読んだ。

 

岩の原葡萄園 文化が少し分かって 私の1930年代とは

2011年6月14日(火曜日)

私事で恐縮ですが、亡き父は明治39年2月1日の誕生で、存命の母は大正4年3月6日の生まれです。父の2月1日に偶々小生も誕生し、365分の1の確率に少々の不思議を感じています。

以前に少し書かせていただきましたが、父母が最も生き生きしていた頃、つまり二人の青春時代に漠然たる憧れを持つような事は私だけでしょうか。もしかしたらこのことは厳格なDNAの貴重なセンチメンタリズムかもしれないと思っています。

 

自分が1930年代のアールデコに惹かれるのは、そうだとすると少し幸せになります。

ところで今夕、直江津・センチュリーイカヤさんで、岩の原葡萄園の坂田社長をお向かえして「善兵衛の会」がありました。飲めない自分が岩の原のワインを頂き、流れに任せて二次会もして代行で帰って来ました。

代行は妻の車で、車中のCDにタンゴがかかっていました。「小雨降る径」は印象的でした。ご承知のようにドイツタンゴはコンチネンタルタンゴです。小雨降る径はフランスでシャンソンとなり、古くは淡谷のり子さんが歌ったそうで、昭和30~40年代でしたか、菅原洋一さんが歌ったと記憶しています。

 

作曲は1930年代ということ。私がこの曲を好きなのは曲の良さもありますが、父25才、母14才のころの音楽だったせい、と考えてみたくなります。

ならばその両親(祖父母)の青春である明治前~中期への憧れもまたどこかに?そして私の子どもたちは昭和のある時期を?

 

さて今夕の会は画家・小林新治先生とご一緒でした。先生からいくつもお話をお聞きすることが出来て、楽しくも有意義なひと時でした。

 

ちなみに先生は、

「アートは自然に還元されうる」「新潟県のエッセンスは自然と水」「文化は第二の自然」「教育の最終目的は文化」「政治の目する所は文化、しかし政治家にはそれを言い出せないジレンマがある」「それ故?この時代、文化は真っ先に削られる悲しい立場になっている」。

本当に胸に響くお話でした。さらに、

「食べれなくなったら、新潟県では隣の家に米を借りに行く。信州は子どもを大学へやる」。時代の流れとして「以前人の流れは地方→東京だった。今後は東京→地方の時代」「これまでは権威の文化、いまはローカルの文化」「文化は首長でも変わる、横浜市、石川県はその良いモデル」、と。

大勢の方にもお目に掛かれて、普段の引き籠もりを解消させていただきました。

お叱りを承知して1930年代のコンチネンタルタンゴ「小雨降る径」を付けました。申し分けありません、もたもたしているうちに日付を跨いでしまいました。

 

追記:善兵衛の会で拙弟が牧場コルティッホ・ソーナイで飼育したいばり仔豚が、“リエット”とメインの“煮込みカシスソース”として出されました。手前味噌ですがとても美味しく料理されていました。

マツモトセンノウ

2011年6月12日(日曜日)

虫が大好きな花、マツモトセンノウが咲いている。虫だけでなく私も好きだ。

 

この花は少々陰のある場所が合うようだが、コントラストが強く、やや奥まったところに居てもかなり目立つ。

 

夏、薄い色彩だけが涼しいのではなく、強く濃いものもハッとさせられそれなりに涼しい、と教えられる。

 

 

マツモトセンノウ絵 
マツモトセンノウの絵,色が薄めの種類
マツモトセンノウの写真 
マツモトセンノウの写真

 

左の絵は10数年前に描きました。葉に白をかけたらビロード状の感じが出て、自分でも気に入っていましたが、ある人の所へ行ってしまいしました。

 

三ヶ月経って 追悼 輸血と献血

2011年6月11日(土曜日)

白いバラ 

東日本大震災から3ヶ月が経った。宮城、岩手、福島の三県を中心に死者15000人を越え、8000人の方がいまなお行方不明だ。お元気なまま突然に遠くへと失われた方々とそのご家族の無念は察するにあまりある。

 

一方で、仮設住宅の整備は進みつつあり、宮城県は目標の約7割に当たる約1万5800戸が着工・完成済み。岩手は7月上旬までに全約1万4000戸の完成を見込み、福島は必要の約1万4000戸のうち約1万2000戸が着工したという。

 

但し仮設住宅の生活にも課題があることが浮かんでいる。さらに原発災害を被った福島県の避難生活者はいまだ約10万人におよぶという。簡単に故郷に戻れない実情は大災害の深刻な複合性を物語っている。

 

さて被災地復興は日本の復興と同義語となった。日本は重い傷を負い一気に血液を失ったまま倒れた状態と言える。
血液は資金そのものであろう。急性期の今、大量輸血が求められる。それによってまず立ち上がるに必要な意識回復が可能となろう。その後は中長期にわたる血液補給と増血剤投与、栄養など生活改善、並行してリハビリへと向かうのだろう。

 

今輸血は、あるところから全てをかき集め必要なら借りて、ドラスティックに行われなければならない。緊急輸血で死が避けられたら、慢性の血液不足の日本のこと、私たちにも根気のいる献血が求められるのではないだろうか。

 

なによりも今は瀕死を自覚し、一刻も早く血液を脳(被災地)に集めることだ。

 

敗戦復興は戦勝国の助けが大きかった。今度ばかりは自らの手で行わなければならない。負傷者自身が自らを助けるという構図だから長い困難になろう。価値観の転換を希望に、メリハリを効かせ、短気は禁物だ。

 

一方、現地への全力救済を横目に財界などが電力不足の不安を騒ぎ始めた。原発への未練を引きずったまま早々と負けいくさを宣言しているように見えて、情けない。

  

二輪のバラ 

 

被災と仮設住宅の進展状況はyahooニュースの河北新報のページなどを参照しました。

煙突女学校 世が世なら

2011年6月10日(金曜日)

この人は輪ゴムが好きで、ゴムをはめたままだったのでうっ血したんでしょうか?嫁ぎ先で100才近い実母をみている奥さんが言った。
ゴムの跡から先のお年寄りの手が赤く腫れていた。症状はさほど問題ないが、うっ血の言葉を正確に使われたので少し驚いた。

 

看護師さんをしていたのですか?と訊いた。
 「ああ恥ずかしい全然です。私は煙突女学校ですワ」と仰った。うっ血はテレビで聞いたかもしれない、ということ。それにしても煙突女学校とは。

 

「私ら中学校を出てすぐ富山の紡績工場へ就職しました。高い煙突がある大きな工場で、学校みたいに見えるので、煙突女学校と言ってました」。工場の寮生活ではお花や裁縫を習い、ある種学校の雰囲気もあったという。

 

「家に金が無かったから高校へ行ってません、そのかわりの女学校ですね。みんなもそう言ってました」。
富山の紡績工場、、、呉羽かな、、、高校の地理で習った。この人はそれを実際経験している。聞いたことがない言葉も、、、。

私より二つ上の彼女は常におおらかで明るく、介護の要点を把握し、質問なども要領を得ていた。
「こんな年まで世話かけて悪いね」
ある日、一緒に入浴した母親が言ったという。彼女は“そんなことはない、長生きはいいことだって新聞に書いてあったよ”と答えた。新聞に書いてあった、の一言が効いたのか親は安心していました、と笑って話してくださった。
なるほど確かにそうだ、賢い人だなあと感心した。

 

F子さんは、高校や大学へ行かなくとも、何かと適切に振る舞う代表選手のようだ。もしかしたら富山では周囲や上司の信頼は厚かったかもしれない。明るくはっきりしている言葉からそう思った。

 

お顔もどことなく上品で、職人あがりの静かな旦那さんはいつも幸せそうに日曜大工に勤しんでる。

 

彼女もまた「世が世なら」の一人なのか。少なくとも余計なことを考えないで、現実に直面できる望ましい性格の人なのだろう。うっ血からそんなことまで考えてしまった。

 ブラッシングノックアウト 
ブラッシング・ノックアウト:清楚で強く美しい
 

多様な営みがあった大潟区潟町

2011年6月9日(木曜日)

上越市大潟区の家の前に旧国道が通っている。通りはかっての奥州街道であり、自分の小中時代(昭和30年ころ)までは商いと職人さんの家々が軒を連ねて賑やかだった。

通り
今日の通り

振り返ればその一軒一軒が浮かぶ。通りの200メートルほどを思い出してみた。
魚屋さん、鍛冶屋さん、鉄工場、石屋さん、時計屋さん、お醤油屋さん、塗師さん、お茶屋さん、床屋さん、新聞屋さん、提灯屋さん、棒屋さん、豆腐屋さん、粉屋さん、下駄屋さん、割烹、お菓子屋さん、自転車屋さん、左官さん、大工さん、蚕の集積、畳屋さん、酒屋さん、桶屋さん、蒲団屋さんなどなどだ。

遊ぶだけの子どもの毎日にあって、通りの仕事場を見ることも遊びの一つだった。ちなみに鍛冶屋さんは鍬や鎌などをつくり、棒屋さんはその柄をこしらえた。

鍛冶屋さんのフイゴでおこされる紫の火、提灯屋さんのあざやかな竹ヒゴ作りと修理なども印象に残っている。下駄屋さんは近くの工場(こうば)で成型し、店でカラフルな鼻緒などとともに商われた。

トラック運送の普及前は、牛車が材木などを運んでいた。空の車が来ると後ろから飛び乗って遊んだ。牛車のわだちを作る店も鍛冶屋さんとは別にあった。

カンカン、トントン、トンテンカン、シャッシャッ、ゴロゴロ、カチカチボーン、様々な音も聞こえた。

 

その昔潟町は、宿場黒井と柿崎の間があまりに離れていたため、新たに中間に設けられた宿場だった。1660年、明暦時代の開駅だったそうで、昨年350年の節目の行事があった。

仕事場を見るのは面白かったが、あまり近づくと大抵うるさがられた。しかし多様な営みがあった町で育ったのは貴重なことだった、と思っている。

往時から50年以上は経ったが、いくつかの店や仕事は続けられている。本当に立派なことだ。

初夏、上越市大潟区四ツ屋浜の夕暮れ

2011年6月7日(火曜日)

 障子が赤らんでいたので夕刻、近くの四ツ屋浜の海へ行った。雲の切れ間から陽が下りてきて漁船の背後に沈んで行った。北から佐渡汽船が静かに現れ、直江津港まで文字通りあっという間だった。

 

夕陽 
 光りの中に船が入って、

佐渡汽船 
暮れると佐渡汽船が近づいてきた。
 

 さて、時間は夕陽の如く滑るように過ぎる。「間もなく」、などと図録のことを書いてからゆうに一年は経ってしまった。印刷屋さんに初稿を出したまでは良かったが、欲張ってアルバムの写真ページを追加することにした。そのクレジットなどの用件でもたもたもたした。メドがついたが、図録は思ったよりずっとずっと大変だ。

高田への三時間 精神に良かった午後

2011年6月5日(日曜日)

少しは家から離れたい日曜日。3時間のヒマをみて高田へ行った。三カ所を回って楽しむことができた。絵描きさんも呉服店さんも、バラ作りさんも、みな良い人たちでそれぞれ心こもりの品は気持ち良かった。

 

ああそれなのに、超危険物・原発の事故はまだ底なしの恐ろしい領域を残したままだ。近づけないほど危険な水は地下へ水脈へ、おそらく海へもしみ出ていることだろう。お前が悪い、言った言わない、うろたえる政治、確固としない関連学会。

加えて素人目ながら、一つの原発の来るべき精度疲労は部品を一つずつ替えれば済む問題ではないと写る。多分疲労・劣化は全体として一斉にくるのだろうし、それは巨大エネルギーシステムの最もデリケートで最も弱い点ではないのだろうか。

たとえ便利でも、恐怖を内包するシステムへの依存は少なくとも精神によくない。このたびの事故はそのことを極めて具体的に見せている。

時間と少々の不便はおそらく越えられる。もはやこれまで、今後は何事も精神に良い方を採用するこどだ。これこそ創意工夫の国、創意工夫の人、日本と日本人に相応しい過去と未来ではないのだろうか。

 

さて、高田の最初は遊心堂さん。小林新治・充也先生の親子展を見た。充也先生のさんさんたる色彩の雪、造形に虹彩を見るような日本画は魅力的だった。
新治先生はますますお元気だ。連日悩ましいアンバランスな政治とは好対照。そっとしたものから、晴々したものまで何とも気持ちのよい絵画だった。上越の風土はいかにもモチーフ豊かだなあ、とあらためて感じた。(充也先生の作品撮影は写真に室内が多く写ってしまい失敗、大変申し分けありません)。

灯台

大らかな大地と営みの風景画
花
優しい眼差しの生物画

次は「きものの小川」さん。いつも気にしながらお店の前を何度も何度も車で通っていた。さて今日は行くぞと、初めて伺った。高田の要所をきもので守る、とても貴重なお店だった。さわやかなご主人と奥様。先日樹下美術館へいらしてくださったお嬢様のお顔も見えた。ぜひまた来たい。

のれん非常にシックなのれん。何という色なのだろう、消し炭色?
あかり
吹き抜け天井からの灯り、山吹色かな
帯締め
帯締めのアラカルト

 

最後は陶芸家小川恵子さんのバラとお花の庭へ。以前少しご縁があったが、お会いするのは初めての小川さん。溌剌として美しい方だった。

バラまたバラの園内。妻と小川さんの会話は実に楽しそうであり、次々と出る花の名は私にはほとんどサッパリだった。下草もバラとよく調和していて、大変なはずの土の何気なさにやや驚いた。

IMG_0452
ばらその1
ばらその2
ばらその2

 ピエール・ドゥ・ロンサール
ピエール・ドゥ・ロンサール

 良い午後だった、また皆様のように頑張ろう。
樹下美術館も新潟の方々や何組もの若者さんたちでほどよい賑わいだった。

美しいネギ畑 最後の課題 第三の仕組み  

2011年6月2日(木曜日)

晴れたり降ったりの空模様、あすは晴天ということでまだ梅雨入りではなさそう。

 

ネギ畑
樹下美術館のすぐそば、大潟区渋柿浜のネギ畑

 

この畑を耕しているのは昔いっしょにヨットに乗った仲間だ。よく手入れされて見映えも良く、今日は終わりのアカシアが香っていた。

 

さて、復興を傍らにして休みなく続く政争。普段ヒマそうにしている政治家でも争いになると俄然生き生きとしてくる。つくづく争いが好きな人達なんだ、と考えさせられる。いや争いが好きだから政治家になるのか。
その昔、世の父母たちが精一杯慈しみ育て、苦労して学び懸命に働く人を、殺し合いの場へかり出す戦争を決めてしまうのも、彼らの悪しき闘争性分に因するのかもしれない。

 

そもそも政治の行き着くところは、粘り強い交渉による妥協である。つまり知性と理性の仕事だ。それが出来ないからだらだらと執行が滞り、最後はこどものように争いを始める。

 

いま身を切って行われるべきは「復興」以外にない。政治家が好きなことば「国難」は、皮肉にも与野党によって行われる貧しい政治そのものを指している。被災者ご本人、さらにボランティアや寄付さえも萎えさせる不幸だ。

 

薄い分別と品格および理性と知性、ののしりと心に響かない言葉。政治は国民の姿を写していると言われると本当につらい。

日本の民主主義はまだまだ若い、これだけ恥を掻けば少しましなものへと向かうのだろうか。それがダメなら、もはや政治はやりたい人にやらせてはいけない事になる。

 

その場合、国民の善良さと純粋な学問が反映される、全く新しい無駄のない第三の仕組みを、時間をかけて真剣に考える時になろう。
722人もの衆参議員が国会に群がって不毛なずヤジを飛ばし合う。こんなアナクロニズムはもう過去へと葬るべき時なのかもしれない。

 

Iさん、ネギ畑はよく手入れされて美しかったですよ。 

デミタスで珈琲を2 そしてオオヤマレンゲ 勝手な政治

2011年6月1日(水曜日)

昨日のデミタス紹介の続きです。

 

デミタスの続き
リモージュ(フランス)6客1960年頃とコールポート(イギリス)3客1930年頃。
いずれもすっきりした筒型の、CAN(キャン)タイプといわれるものです。

オオヤマレンゲ
雨の庭でひっそり咲き始めたオオヤマレンゲ。
美しさは完成されているように見えます。

ところで、この花はかって進化の途上でどのような形状だったのでしょう。またこの先、何か問題があって新たなものへと変わるのでしょうか。

現実には、どの花もこれ以上ないと思われるほど微妙で独自の魅力を完成させているように見えます。

中立説などと、ただ聞いたことがあるだけの進化論ですが、目の前の自然を見るだけでは、その移ろいを実感しにくく、いつももやもやしています。例えば、80万年前の自然にあっても、おそらく生き物たちはそれぞれ一見完成されたように見えていたにちがいありません。

もしかしたらどの進化途上でも、生物はいつも一見完成されているように見える?そのことがとても不思議に思われるのです。

それともオオヤマレンゲでさえ本当は、かなり曖昧で、不完全で、それでけなげ、、、。それらが(もまた)魅力として見えているのでしょうか。

なんだか、訳の分からないことを書いてしまいました(汗)。

さて、今日一日医療の仕事は大変でした。被災地はさらに途方もなく大変な毎日でしょう。

 

こんな時に一体とならならず、ひどいゲームをしているような政治とは一体何なのでしょうか。日本のいくつかの地域を中心に被災者さんが移住して、地域と共に新たな町作りを独自に試みる動きがあるように聞いています。熱意がある分、よほどこちらを応援したくなります。

デミタスで珈琲を1

2011年5月31日(火曜日)

寒くて一枚余計にはおらざるをえなかった一日でした。

お陰様で、5月からの樹下美術館はお客様が少し増えているように感じられて、感謝致しております。

展示作品、カフェ、庭、自然、など視覚と少々の味覚をお楽しみ頂ければ、と思っています。

デミタスサイズ
左:ローゼンタール(ババリア・ドイツ)1920年ころ
右:ロイヤルドルトン(イギリス)1920年ころ

器の裏、窯印もご覧下さい

ローゼンタール
ローゼンタール

ロイヤルドルトン
ロイヤルドルトン

さて、今年のカフェはドイツ食器を加えていましたが、6月12日(日曜日)からデミタスでのサービスも始めることに致しました。

 

 デミタスはフランス語demitasseで→デミdemi(半分の)-タスtasse(カップ)ということのようです。

デミタスはミニチュア感やデリケート感があって、また楽しめます。カップをお選び頂きますと、およそ二杯分のポットでサービスをさせて頂きます(大きめのものでは一杯半ほどの時もありますが)。

また食事メインの場ではありませんのでエスプレッソでなく、一般の珈琲にさせてください。料金は略々デミタス2杯の珈琲で400円の予定です。

ハンドルを指先でつまみ、小ささをお楽しみ下さい。ひと味違った珈琲になろうかと思います。器の年代は19世紀後半から20世紀中ごろ(ミットセンチュリー)までです。およそ10年前から5年ほど集めました。当初、美術館のカフェで使うことなど思ってもみませんでした。

明日はほかのカップをもう少し掲載致します。

早く逝きたい 自然な長生きを

2011年5月29日(日曜日)

「先生、早く逝かせて」。初めて訪ねるころの超高齢者が口にされることは希ではない。この場面にはいつも悩まされ、「また言っている」、とそばのご家族が叱るように仰る。

 

前なら、“二十歳で戦死した兵隊さんたちのことを思えばもったいないですよ” “事故や病気で若く亡くなった方もいるじゃないですか” “仏様がもう少しそっちに居てと仰ってますよ”などと言っていた。

 

その後理屈はダメだと思い、がらっと変えた。まずは「そうですよね、長生きも退屈なんですよね」など同情から始めて見る。それから伺う度に、

「子どもの頃はどんな風に遊びましたか」、「子どもも田んぼを手伝ったのですか」、「昔の浜はイワシやカレイが沢山とれたそうですね」、「奉公に行ったことがありますか」、「新婚旅行はどこでしたか」、「東京へ行ったことがありますか」、「寒くないですか」、など答えやすい質問を試みる。

 

すると死にたいと仰った人が色々話しだす。新婚旅行は無かったと大抵否定されるが、否定は元気な証拠だ。東京が無ければ善光寺は?と聞いてみる。おばあさんなら、実家のこともいい。さて帰ろうかというころ「また来ますよ」と言うとしばしば「ありがと、また来てくんない」が返る。
お年寄りのスイッチは比較的簡単に切り変わる。ご家族が少しでも真似るようになると、落ち着く傾向がみられて前進する。

 

ところで、この2月末頃から不整脈を悪化させ、連日苦しまれた方がいた。昼夜の往診を続けたあと、一両日かもしれません、とご家族に告げた。まもなく100才になられる方だった。お嫁さんは、薬や飲食のことを心配され、せがれさんは涙をいっぱいためて、お世話になりました、と仰った。

 

それが、その日を境にゆっくりと回復に向かわれた。往診の日など「先生の前で粗相するといけない。トイレに行く」と這っていって用を足されるという。無口で黙々と自立され、散歩も欠かさない方だった。長生きと気丈をあらためて振り返った。

 

上越市は介護保険料や重度の要介護者率は全国でもトップクラスという報告がある。財政への重圧は事実だろうし、大震災以後なおさらかもしれない。
しかし、私たちは目の前で苦しむ人や、死にたいと言う人をみると何とか助けたいと思う。苦しむ人を見るご家族の心配も自然に感じる。

 

今日、心身への気遣いや医療・保健・介護によって、元気に90、100へ長生きが可能になった。ただ超高齢における安易な管類挿入は避けたいし、戸外を促し、事情によって良心的な施設が選べるようになればもっと安心にちがいない。

乙女百合 

 

上越市は合併で日本一人口の多い過疎地になったと聞いていた。介護費用がかさむのもやむを得ない。いっそうの疾病予防と、国費の支援は当然ではないだろうか。

 

花々は夏の夕べも見頃なり

2011年5月26日(木曜日)

花々は夏の夕べも見頃なり宵に浮かぶも溶けるもありて

 

先日、樹下美術館隣接の庭の白花を掲載しました。ほかにも色々な花が日一日と移ろい、いよいよ最も賑や時期を迎えます。

 

間もなく夏、日は長くなり凪いで、夕刻の庭には昼間とひと味ちがう、ほっとした時間が流れるようです。

1
オオツユクサ・盛りです 
3 
ツキヌキニントウ・しばらく続きます
5 
シャクヤク・和物、洋物盛りです

2 
オオツユクサ(白)・盛りです
4 
ミヤコワスレ・もう少し頑張りそうです
6 
アヤメ・盛りです

 

福島県からのお子さんたち  そして夏は来ぬ

2011年5月25日(水曜日)

あらいそ・絆   学校医をしている大潟小学校のPTA誌「あらいそ」。今年から始まったミニコラム絆のスタートに書いて、ということで駐在さんと一番バッターをしました。

福島県から上越市に避難されたお子さんの多くが、新学期から大潟区の小中学校に転校されました。それで福島の友達とのことを書きました。

 

わずかなスペースをなんとかうめて拙文とし、本日それが届きました。

新たな人との関係は、なにかとこちらの事ばかりを話したくなりますが、ぜひ相手(福島のみなさん)のことも聞いてほしい、一心を書きました。※文中の大潟町→大潟区でした(汗)。

 

そして本日は地元の保育園で春の健診。小中学校だけでなく、保育園にも10人ほど福島県からの園児が通っていることを知りました。

こうしてみますと、避難された方たちの中に如何に若いご夫婦が多いかが、あらためて分かります。職業のこと、教育、不慣れな生活、、、大変だろうなと思いました。まず何よりお子さんたちが当地でのびのび出来ることをお祈りしています。

 

どうかみな様頑張ってください。御地の回復、そして時には当地で楽しんでいただければと心から願っています。

 

卯の花 さて写真は、今日の保育園に咲いていた卯の花の植え込みです。

卯の花の匂う垣根に、、、♪の「夏は来ぬ」は大潟の人、小山作之助の作曲です。作曲は古く明治29年でした。曲は音階を上げていって高らかに終わります。

このことについて、團伊玖磨氏が随筆集「好きな歌・嫌いな歌」で曲の斬新さを賞賛されていました。確かに季節にふさわしい晴々としたエンディングだと思います。ちなみに以前にも書きましたが、作之助は小生の祖父の兄です(再汗)。

夏を迎える満開の白い花を見ますと、あらため花も曲もいいな-、と思いました。

スズメの旅立ち ナニワイバラの満開 何気ないあの店

2011年5月23日(月曜日)

今朝はスズメが居たサカキのすき間は空っぽ。足を痛めていたヒナは自由に飛べるようになったのだろう。

 

1  昨日のヒナ

彼が過ごした暗くて湿った小さな空間は、一瞬にして未知で壮大で自由な世界へとひらけたにちがいない。

 

動物は一気に変わる側面を見せる。もたもたしていたと思うとパッと飛び立つ。

 

 それにしても辺りは急に静かになった。雀たちは二番子の抱卵を始めたのだろうか。 巣立ったヒナはまとまってどこかにいるはず、どこだろう。

 

車庫のバラ 
 車庫のナニワイバラが咲いている。植物も一気を見せる。

 

この花は8年ほど前、新潟市の何気ない園芸屋さんで求めた。

妻がバラに目覚めた第1号の花

ご主人がこよなく花を愛され、どの鉢もポテンシャルが感じられた。

当時二つ三つ花を付けて、背丈は50センチほどだった。 

 

古く何気ないあの店。  
大騒ぎもなく、いいご主人の店だった。

 

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