柿のカラス対策、お彼岸のオハギ、今日の食事。

2025年9月23日(火曜日)

昨日は秋のお彼岸。春秋の彼岸に必ずオハギを差し入れされる方がいてもう15年も毎年この日に持参される。今年もかなと思っているとちゃんと届けて下さった。ゴマ、キナコ、アズキの三種は小ぶりで美味しくまた食べやすい。ほかのお客さまと分け合って食べた。

さて今年の当館の柿は豊作で5、60個は実をつけた。豊作は良いのだがカラスが来ては突っついて行くので見かねたスタッフがブドウ用の袋を被せたりカラカラ鳴るカラスよけを吊したりして、懸命に防御を試みてくれる。
今のところ袋を被せた実が20個、未だ被せてないものが20数個あるので、上手く行けば40ばかりの収穫がありそう。昨年のブログをみると10月10日に採れているのでもう少しすれば時期が来そう。

 

右の蒼い提灯のようなものが
カラカラ鳴るカラス避け。

昨年10月10日の収穫写真。
パリパリした甘柿は美味しい。

久し振りの食事写真です。

朝食の麦ご飯と目刺しと昆布巻き。
ほかにトマトとレンコンの唐揚げ。
トマトは同じ、他の野菜が変わることがある。

夕食の野菜とコーンのラーメン。
基本昼は抜き。気が向けば
美術館で紅茶にサラダを摂る。

美術館が終わると着替えて肥料入りの用土を作り、50分ほと蒔いた。雑草取りの妻が「ラーメンだから遅くならないで帰って」と言って先に上がったので早めに終えた。

美術館の庭は肥料っ気の無い砂の庭。常に赤玉土と腐葉土にトンプンなどを交ぜてこれから何度も蒔く。とにかく肥やしっ気を増やしていかないと草木が伸びないばかりか花数もいまいち。
ようやく涼しくなった今秋は今日で4回目、時間があれば少しずつ蒔いている。1回の量が少なくなったが来年の元気な庭に期待して楽しみながらくべているところ。

オハギのお客さま、大変ご馳走様でした。

遅くなりましたが上越市長の三田発言から「三田青磁」。

2025年9月21日(日曜日)

いささか旧聞に属しますが今年7月、上越市長はふる里納税に関連してかって住んでいた兵庫県三田市について”お酒は美味しい。でも米はまずい”といった主旨の発言をされました。全国ネットで取り上げられるなど大変な騒ぎになりましたが、その後三田市へ謝罪に訪れるなどしてようやく収まりました。
当時この件で三田と聞いてすぐ思い出したのが「青磁」、それも「三田青磁」でした。

三田青磁は中国の龍泉青磁、韓国の高麗青磁にならび世界三大青磁と言われるほど有名でした。この事は陶芸の書物には必ずと言っても良いほど載っています。しかるに上越市長の迷言から始まった三田と上越の騒動がお米だったので当初不思議な感じを受けました。

そもそも三田青磁は江戸時代、三田に釉薬の元になる青磁石が発見されたのをきっかけに栄えましたが、昭和の始めに途絶えています。
しかし後年再興の取り組みが行われ拡大しつつあるのはとても喜ばしいことです。

さて以下ちなみに樹下美術館で収蔵する青磁の一部からです。

高麗青磁の雲鶴(うんかく)茶入

この茶入れは二度ほど茶席で使ったことがあります。淡い褐色とうす曇りの空を思わせる青味が混じり合い、味わい深くとても気に入っています。来年6月に予定しているお茶席に濃茶を加え、是非この茶入れを用いようと考えています。

当館には龍泉青磁がありませんので、齋藤三郎の青磁面取り花瓶を掲載しました。

齋藤三郎作「青磁面取り花瓶」

青磁は釉薬に含まれる鉄分の濃度、焼成温度と還元の度合いにより黄味~褐色、そしてヒスイ色まで様々な発色をします。

その昔、陶芸に造詣深い方に、一体どんな色が最も青磁らしい青磁ですか、と尋ねた事がありました。すると“貴方の所にある齋藤三郎さんの青磁です”、と明言されたではありませんか。
上掲した花瓶がそれで、面取りの峰(角)と他の部分の緑のグラデーションの妙、そして色自体がとても深く静かです。一度聴いた言葉のせいもあり、以来青磁を見る時にはこの花瓶を基準として観るようになりました。

鉄分を多く含ませるためギリギリの厚さまで釉薬を掛けるため底の部分に分厚く釉薬(緑のガラス質)が溜まっているのも魅力一つではないかと思います。

当記事は上越市長の三田米に関する発言当時に書こうと思っていましたが、今や落ち着きましたので本日三田関連として記載した次第です。

2025年、樹下美術館秋の催し三題

2025年9月17日(水曜日)

2025年、秋の催し三題

10月の樹下茶会
長く暑かった季節を越え10月には爽やかな秋の風情が期待されます。樹下美術館では10月に以下の様に2回の薄茶茶会を催します。秋のひとときお暇をみてお気軽にお寄り下さい。
期日
10月5日(日曜日)  10時および11時30分の二席
10月11日(土曜日) 13時30分および15時の二席
会場:樹下美術館自宅茶室
客様数:一席7名様以内
参加費:お一人さま1500円
いずれも館長がお点前をさせて頂きます。

ケーキフェア(モンブランイベント)
樹下美術館のカフェが長くお世話になっている菓子工房「caramel・キャラメル」さん。美術館のホールでお菓子作りを実演し、食べて頂く会は二回目です。この度は三和区の栗農園で採れた栗の美味しいモンブランです。今年の栗ケーキはどんな味でしょう。
期日:10月22日水曜日
会場:樹下美術館
時間:10時30分から、 13時30分から、 15時から の3回
予定参加者数:1回15名様
参加費:モンブラン1個&プチケーキ1個と工程見学付き、お一人さま2500円(お茶代は別になります)
生産地の栗高騰のため参加費が2000円→2500円に急遽変更されました。
大変申し分けありません、どうか宜しくお願い申し上げます。

良寛さん講演会
越後が生んだ聖僧・良寛。長年良寛の足跡を追い探求される全国良寛会会長・小島正芳先生を講師としてお迎えし5回目の講演会です。複雑な現代こそ良寛さんのお話は心に響くことでしょう。お暇をみて振るってご参加下さい。
演題「佐渡島金山と良寛の母の愛」
期日:10月25日(土曜日) 14時開始
会場:樹下美術館陶芸ホール
予定参加数:50名様
参加費:大人お一人さま1000円

お申し込みはいずれも樹下美術館へ電話025-530-4155(良い午後)でどうぞ。

「小3の凄まじい体罰」をお読みいただいて。

2025年9月13日(土曜日)

本日昼すぎ美術館で元小学校教師の方とお会いしました。当館の貴重な常連さんのお一人です。彼女は小学校の言葉の教室の先生でした。

過日当欄で3回にわたり掲載しました「小3の凄まじい体罰」を読んだと仰いました。言語や諸発達を受け持つ先生ですから吃音については専門家です。様々な取り組みから理解や共感は勿論、二人で同じ物を読むトレーニングの有用さを教えられ、言葉に対して過度に「流暢さ」を求める弊害を指摘されました。

彼女が体罰と同じくらいびっくりされたのは佐藤トシ先生の事(「小学校に上がるまでジャンケンを知らなかったAちゃん」)」だと仰いました。敗戦でまだ貧しかった時代に1クラス60人もの低学年を受け持たれた事など普通には到底考えられない。そればかりか60人をまとめ、生徒から等しく慕われていた事に驚いたと言うのです。

その佐藤先生がなぜ3章の20才の会にお出になられなかったのかを、指摘されました。文中触れませんでしたが、会の際にはみな先生に会いたいと待ったのですが欠席だったのです。何故なのかそれぞれ思案しましたが結局分からずじまいでした。

中学一年の時に映画「二十四の瞳」を学年100人全員で観に行きました。しかし佐藤先生は60人の生徒をを毎日学校に行きたくなるように導かれました。元教員の女性はあの2年生のクラス写真にはしっかりとしたまとまりが感じられ担任の力量が伝わると仰いました。

昭和24年の2年生クラス写真の再掲。

写真の先生は右端でそっと佇んでおられるだけなのです。

上越市八千浦中学校の皆さま。

2025年9月11日(木曜日)

本日午後、上越市の八千浦中学校から同校で発信する地域の文化施設についての取材のため、1年生の生徒さんが来館されました。

熱心に展示を観て説明を聴いて頂きました。

挨拶の後
早速絵画の鑑賞と説明です。

皆さんのリュックが重そうでした。重いバッグを床に降ろして再開です。絵画では人物画の面白さ、鑑賞法などを説明させてもらい、陶芸は染附と色絵の技法をお話ししました。

最後に
冷たいお茶を飲み設立のいきさつや
作品保存法など質問を受けました。

引率の先生を含めて9名の皆さま。熱心な取材有り難うございました。とても嬉しかったです。

上越妙高駅前の釜蓋遺跡を見学した後の来訪ということ、疲れていたのではと思っています。
でも軽々とした足取りで帰る様子を見て若いっていいなあと思いました。

どうか情報発信の方を宜しくお願い致します。皆さんのことを立派だなあと感じ、私もまた頑張ろうと胸に誓いました。

小3の凄まじい体罰 その3 終章。

2025年9月9日(火曜日)

二十歳になった初夏でしたか、在京のE君が連絡してきて二十歳の祝い会を分校の級友みんなでやろうと言いました。二人が落ち合った場所は渋谷ハチ公前でした。

E君ほかの皆さまの世話で1962年のお盆、私達はまだ新しい鵜の浜温泉の旅館に集合しました。約60名いたクラスから23人が出席しました。中学生になると髙田の学校に行きましたので、10年振り、社会人の人が沢山いて僅かの間にみなすっかり大人びていることに驚きました。

C君の顔が見えました。心配だったB先生も出席でした。また後に防火用水の一件を話した才女Dさんも出てきたではありませんか。嬉しい事です、本欄に書いた物語の人達が10年後揃って集まっていました。

私の知る限り幼少の忌まわしい話題に触れる人はだれもいませんでした。
しかしC君とB先生はどのように挨拶し再会したのでしょう。当日C君はB先生を避けたかもしれませんし、先生が歩み寄った光景もありませんでした。もしかしたらB先生には少し辛い時間だったかもしれませんが兎に角皆で先生を囲んで記念写真を撮りました。

63年前の集合写真。
以来この会は生徒だけで長く続きました。

写真でC君と私は肩を組んでいます。彼は相変わらずどもっていました。しかし皆C君と話したがりました。彼は周囲から多く声が掛かる人気者であるばかりでなく、腕が立ち良い弟子を育てる職人として早くも尊敬される立場になっていると聞きました。

さらにお酒が強く座持ちが良くて歌が上手かったと先日のAちゃんが言っていました。とくに彼の「嫁自慢」は有名で会えば必ず「うちの嫁は良い嫁」だと自慢をしたそうです。何から何まで素敵なC君ではないでしょうか。

彼にとって吃音などはあたかも何の問題でもなかったようであり、彼の素質と強靱な精神に驚かざるを得ません。また後年の見聞などから愛すべき素晴らしい人だと感心させられます。

人生は分からないものですね、今でもそうですが、色々大事なことに気が付かずに過ぎます。
B先生はかなり前、C君はその後、近時Dさんが故人になりました。生きながらえて皆さんのことを書いている自分には彼らのように真剣な物語があったものか不甲斐なさを感じざるばかりです。

本日で分校時代小3で目の当たりにした体罰の物語は終了させてください。
登場した亡き皆さまはじめ分校の亡き級友すべてに対しまして心からご冥福をお祈りいたします。

小3の凄まじい体罰 その2。

2025年9月8日(月曜日)

昨日はB先生によるC君の吃音に対する暴力的な振る舞いを記しました。先生が行った方法は軍隊やかつて話題になった戸塚ヨットスクールのそれに類する教育あるいは矯正だったのかもしれません。

しかし私達には決してそんな風に見えませんでした。行為はC君を徹底的に痛めつけ疲労困憊させれば忌まわしい吃音も姿を消すだろうという妄想的な執念に包まれた暴走にしか思われません。

その後の私は運動場の一件で事態は終わっていたと長年考えていました。また後年級友たちと話す場合一様に話題は運動場の柔道場面だけ、それで十分でした。
しかしたまたま2013年と15年に樹下美術館を訪ねてきた分校同級生D子さんによってまだ続きがあったこと、それはさらに深刻だった事を聞くことになります。

東京在住のDさんについて少し触れますと彼女は分校、本校、中高などを一貫して非常に優秀な成績で通し、都内の最難関女子大を現役で突破する秀才でした。そのうえスポーツ面でも花形、何より際立っていたのは声の良さと美しさでした。

二回目の来館の折、B先生とC君の話を知ってる?と訊かれました。柔道で投げ飛ばした話でしょう、と言うと、実はあの後も続いたんです、と言って以下のような驚くべき話をしたのです。

私)まだあったの。
Dさん)そう、校舎の前に深い防火用水があったでしょう。あそこへC君を連れ行って投げ込んだの。
はーっ?
泳げないCちゃんは浮いたり沈んだりおぼれそうになり、先生はあわてて服のまま飛び込んでC君を陸に揚げたのよ。
えー!完全に事件だね。
そうですよね、、、。
※防火用水池::縦5メートル横3メートルほどの池で大人でも背が立たないと聞いていました。

彼女は驚くべき話をある種淡々とまた最後には一種しんみりとした口調で終わったのです。運動場での柔道事件については大抵の級友が知っていますが防火用水の一件を耳にしたのは初めてで大変驚きました。もしもDさんだけが見ていたならそれも謎ですが、残念ながら来訪時に聞き漏らしました。

以後10年ほどが経ち私達は二十歳を迎えました。幼年だった同級生は郷土の希望、新しく出来た鵜の浜温泉の一室に集まって祝いをしました。

時間がかなり過ぎましたので続きは次にさせてください。

小3の凄まじい体罰 その1。

2025年9月7日(日曜日)

時々ここに書いている小学校低学年(昭和23年:1948年入学)の3年間通った分校時代。そのなかで特に記憶に残るのは体罰(教育?)事件です。もう75年も前ですし、時代は変わり私も年取り、不思議なことに関係する方たちはみな亡くなりました。もう書いても構わないかなと感じるようになりましたので本日机に向かった次第です。

小3になると担任は優しい佐藤先生から怖い顔の男性B先生に変わりました。B先生は軍隊上がりで図工が専門、浪花節が得意という方でした。

ある日、国語(読本)の授業でC君が当てられました。C君のことは皆知っていましたがかなり重度の吃音(きつおん:どもり)がありました。私達は固唾を飲んで見守りました。
C君は最初の字はおろか続く文もまともに読めません。ただ「ス、ス、ス、、、」などと顔を歪めて苦しそうにするばかりでした。
どうしたんだ!と先生が急かします。

しかし先生が手本を示そうが、落ち着け!と言おうがC君は進めません。
困った先生はショックを与えれば直ると考えたのでしょう、C君の胸や背中を叩きましたがそれで変わるのでしょうか。悪いまま事態は続きました。

先生はC君を階下にある小さな運動場へ連れて行きました。柔道で直してやるというのです。私達はゾロゾロと後に続きました。

運動場では凄まじい場面が始まり、みな唖然となりました。
背負い投げだ!と言って痩せたC君は床に叩きつけられ、巴投げだ!と言っては激しく投げ飛ばされました。柔道ワザは繰り返されワーワーと泣き叫ぶC君。
何度か「勘弁してくれ」と言ったような気がしましたが、もしかしたらそれはC君の代わりに皆が心の中で叫んだ声かも知れません。

普段は独特の楽しい雰囲気を醸し出しみんなにCちゃん、Cちゃんと親しまれる彼は嗚咽をもらしながら先生の足許にうずくまっていました。先生に帰るように言われたのか、残酷な出来事をみた後私達は三々五々家に帰りました。

しかし実はこの後もっと大変なことがあったというのです。それを語ったのは7年ほど前、東京から樹下美術館を訪ねてきた非常に優秀な級友D子さんでした。

続きは次回に、本日はここまでにさせてください。

去る9月5日、前々日の大雨の後の空。

小学校に上がるまでジャンケンを知らなかったAちゃん。

2025年9月6日(土曜日)

去る9月3日の豪雨が上がると一両日は涼しくなり本日は30度止まり。長く続いた厳しい暑さとは別の空だった。
あの激しい雨は患者さん達の菜園を襲い,出水を免れたがせっかく世話した秋野菜の苗や種を流し、盛り上げたウネを平にしてしまったと聞いた。

ところで私の所には小学時代の同級生たちが10数名通って来られる。もう83と84才になるが、短い診察ながらそれぞれ年取った姿に小学生のあどけない面影が重なり、何だか愛おしいような不思議な気持になる。

そんな昨日Aちゃんが見えた。亡きお母さんは和裁の先生で、冬になると遠くの里の生徒さんたちは泊まりがけで習いに来たと聞いたことがあった。Aちゃん自身は洋裁が上手く、母が残した着物を洋服にしたりバッグにして人前に出るほど腕が立つ。

診察を終え、分校時代のB先生がC君に行った凄まじい体罰(教育?)の事を知っているかと尋ねると知らないと言った。その時目にした現場の話に目を丸くしたあとAちゃんは分校の1,2年生の受け持ちだった佐藤先生の話をした。

初めて聴く話は短いながら心温まるものだった。
以下Aちゃんの話です。

 私は小学校に上がるまでジャンケンというものを知らなかった。担任の佐藤トシ先生はそれに気がつき、わざわざ家まで来て母と私にやり方を教えてくれた。母も知らなかったとみえ習った後で二人で練習をした。
大通りには同級生が沢山いたが通りから離れた家の周りには遊ぶ友だちがなく、ジャンケンを知らずに育ったのだと聞いた。

 

筆者はもちろんジャンケンをしますがそれを何時覚えたかなどはまったく思い出せません。しかしAちゃんのようにきっかけが明瞭で心温まるエピソードを持つ人は珍しいのではないでしょうか。聞きながら羨ましく思いました。

ちなみに担任の亡き佐藤先生はクラスの誰もが懐かしい表情になり、良い先生だったと述懐します。
良い先生とは、少なくとも生徒たちを毎日学校へ行きたくさせる人のことではないでしょうか。

2年生の記念写真。
佐藤トシ先生は右端に座っている。
Aちゃんはそのそばに立っている。

佐藤先生のすぐ後ろに立ったAちゃんにとって佐藤先生は特別な存在だったかも知れません。
本校、分校の教室事情があったにしても、これだけ大勢(60人)のちびっ子を先生一人がみていたとは。しかも生徒たちはみな佐藤先生が大好きでした。

夕刻に登っていた月。
満月はあさって9月8日ということ、
皆既月食だそうです。

次回から文中触れたCちゃんに対するB先生の激しい体罰をDさんのことと共に記してみます。

台風直後の上野駅から大潟町へタクシーに乗る その2。

2025年9月4日(木曜日)

さて昨日の続きです。昭和40年代、父の急な入院で急遽帰省することになる。秋だったのか、大きな台風が去ったばかりの上野駅は全面運休。意を決して駅前に並ぶタクシーに声を掛け、直江津まで行ける車を探し乗車した。本日はその続きになります。

道中記憶のあるエピソードは夕暮れの大宮からだった。大宮が近づくと運転手は駅に寄っても良いですか、と聞いた。こんな日の駅には足が無くなった人が大勢いる、もし良ければ相乗りは構わないかという。
車中色々話ながら来たが運転手の人柄については不安を否めなかった。災害時だ、一先ずいいですよと言うと車は駅に着き運転手は降りて行った。激しく雨が降るなか二人の中年女性を連れて戻ると私が助手席に移り三人の相乗りになった。

車中のことは詳しく覚えていないが、かなり走って相客の二人は雨の中を18号線沿いで降りた。私は再び後部座席に移動しウトウトした。

何度もうたた寝をくりかえしながら高崎市に入った。深夜の街で、碓氷峠の状況を聞いてみます、と言って車は電話ボックスの脇に停まった。雨のボックスでなにやら話す運転手。間もなく戻ると、110番で聴いてきました、峠は大丈夫のようです、と言った。

深夜際限なく曲がる雨の峠は怖くて眠られなかった。そもそもすれ違う車も無く暗い峠は不気味だった。
なんとか峠を越えると今度は千曲川の安否確認だった。小諸と上田でそれぞれ電話あるいは無線を使って道路状況を尋ねたように思う。
長野市を越えたあたりから夜が明け道路沿いに泥をかぶった水田や果樹園が続いた。

まんじりともしないまま上越市に入ると目がしゃんとしてきた。直江津駅近くの18号線は一部冠水し、迂回しながら浜線に向かうと港町の佐渡汽船周辺も水浸しだった。そこを慎重に越え一晩かかけたタクシー帰郷が終わった。

家に到着すると3万何千円が掛かっていた。運転手は相乗りをしたので3万円でいいと言い、母から残りを出してもらい、礼を述べて別れた。

上野駅で燃料と距離を計算したうえ乗車を引き受け、大宮で困っているであろう客を拾い、峠や川の状況を確かめながら当地まで無事運んでくれた運転手さん。不安を払拭出来ないまま乗車したのが途中から責任感のある人だ、と印象が変わった。

見舞った父はイレウス管が挿入され回復に向かい手術を免れたが退院まで代診を続けた。

あたかも台風を追うように一晩走ったタクシー帰郷。50数年経ったが二度と無いことだろう。

仕事場のブットレアに来ていたキアゲハ。
アゲハ類はこの花が大好き。
去ってはまた戻る。

今朝方の雷雨 その昔、台風直後の上野駅から大潟町へタクシーに乗る。

2025年9月3日(水曜日)

深夜の寝床で激しい雷鳴で目覚めた。音はゴロゴロ、ゴロゴロと遠く近く鳴り続けた。ウトウトしているといつもと違い恐怖感はなく壮快な打楽器のようだった。同じことが早朝にもあって似た感覚で聴いた。その後目覚めたのは激しく降る雨音で、ザーザー、ザーザーひっきりなしの土砂降りだった。

仕事が始まると直江津に近いスタッフが出勤の模様を興奮気に話してくれた。激しい雨中、家まわりから国道を含め相当に深い水を跳ね分けながら走り、とても怖い思いをしたということ。朝寝坊の私が知らないだけで、外はそんなに酷かったのかとびっくりした。

昼のテレビニュースで上越市、とくに直江津一帯の豪雨被害の状況が大きく取り上げられ、あらためてその凄さを知った。氾濫と違っていずれの映像もあふれ流れる水が澄んでいることで何故か余計に恐ろしく感じた。

当地頸北地域で近隣の水害をj直接目にすることは滅多に無い。ところで昭和40年代のある日父が腸閉塞症状で緊急入院した。一般に腸閉塞は重病、急遽当地実家へ駆けつけなければならなくなった。
当日は台風が去ったばかりだが雨風は続き、夕刻の上野駅ではほとんどの列車が運休になっていた。意を決して駅前に並ぶタクシーに、どうしても直江津方面まで帰らなければならない、出してくれないかと聞いて回った。

何台も断られた後、ある運転手が燃料と距離を計算し、待つ事しばし、行きましょうと言ってくれた。サイフには2万円ほどあり、足りなければ家に着いてから助けてもらうつもりで乗車した。

さて大変申し分けありません、時間が来ました。
続きは明日掲載するつもりです、どうか宜しくお願い致します。

厳しい残暑のなか頸城野の稲刈り。

2025年9月2日(火曜日)

9月になっても酷い残暑が続いています。このところ当地域の最高気温が35度前後で推移、本日の髙田は36、3℃で、在宅訪問時の暑さは大変でした。

気象庁は1日、今夏三ヶ月の全国平均気温は平年より2.36度高く、統計のある1898年以降で最も暑かったと発表しました。異常で特別な暑さだったということになります。

今夏はコロナも多く拙医院でも毎日のように、日によっては何人も診ました。5類になりかつ軽症化しているとはいえ高齢者では症状が長引く方もいて重症化を心配しました。夏の発熱感染症は消耗がきついのでこの先まだ油断は出来ません。

暑さ寒さも彼岸までと言われます。これまで暑さが遠のいたと感じるとお彼岸だった事がよくありました。今年は9月いっぱい暑いという報道がありますので本当に参ります。

そんな猛暑でしたが近隣の田では稲刈りが始まっています。刈り入れは朝露を避けるようですので日中暑さの中でも果敢に行われるのですね。

以下は昨日の頸城野です。

 

 

10年前にくらべると機械は大型化しかなりの処理が自動化されているようです。また運転席はしっかり囲われエアコンが効いていると聞きました。

中にはエアコン無しのコンバインや上掲のように手作業で草刈りのような仕事をする方も見られました。

多機能、自動化するコンバインの操作法などを聞くと高齢者にはもう現場は無理という気がしました。

一方米の買い取り価格が今年も飛躍的に上がるようです。儲かる農業として従事者の若返りが生じるならそれはそれで良い面かもしれません。でも高騰しすぎて消費者の米離れが広がらなければという生産者の正直な心配も聞きました。

どんな分野も常に平坦という事ではないのですね。

ほくほく線のポストカードで。

2025年8月29日(金曜日)

昨日に引き続きやや過ごしやすかった本日。気温は髙田で32,9度ということ、気温は普段とそう変わらなかったのに過ごしやすいとは不思議なことでした。
皆さまにも同じような感想が聞けたのは、陽が短くなり日射しが斜めになたことがあるのでしょうか。

さて前回8月26日の当欄でほくほく線のポストカードとお客さまの事を載せました。すると翌日東京からブログの写真を観たら急に「鉄心?」が動いて訪ねたくなりましたと仰る。

ある意味ご常連の方で、2018年5月に催した塩﨑貞夫「桜のレクイエム展」を機に来館され、以来よく当館を訪ねて来られます。亡き塩﨑氏と交流があり氏と同様独自の茶心をお持ちで、茶や懐かしい「桜のレクイエム展」などの話を楽しくご一緒しました。

話変わって、過日掲載しましたほくほく線の写真ですが、実は樹下美術館ではそのほかに以下の特急「はくたか」を含めて4種のポストカードを販売しています。

春の普通列車。

 

夕暮れの「はくたか」。

白鳥と「はくたか」。

あらためて写真を見ますと、わざわざ撮影地点を見に出かけたお客さまにとって場所の同定が可能だったのだと思われました。さらに掲載した電車写真に旅情を促され、翌日早速ほくほく線で来館された東京のお客さにもびっくりした次第です。

いつか「はくたか」を含めた頸城野を行くほくほく線電車の写真展を行ってみたいと思いました。

気に入って頂いたほくほく線電車の写真。

2025年8月26日(火曜日)

樹下美術館ではほんの小規模ながら物販を行っています。常時一定の売り上げがあるものに恥ずかしながら私が撮影した写真の絵はがきがあります。

本日お見えのお客さまの一人が妻に以下の話をしたそうです。
“娘が館長の写真絵はがきが好きで、特にほくほく線のものを気に入っていた。以前、数枚購入した電車の葉書の場所を一緒に探しに行ったことがあり、それらしい場所を見つけることが出来て嬉しかった”と。

特にこの写真がお好きだったようです。
2014年9月撮影。

夕食時に聞いたのですが有り難くも嬉しい話でした。
上掲のものに似た状況の電車、あるいはもっと旅情のある場面を撮りたいと夕暮れ時によく通いました。しかし時刻、空と雲、乗客の影などこれ以上のものは撮れませんでした。

当時沿線で撮っていると近づく電車が音を鳴らしてくれるようになり、余計に喜んで出かけていました。今は無き特急「はくたか号」は格好良くて夢中になりました。

拙い写真ですがいつか「はくたか号」を交えた頸城平野の高架を通過するほくほく線電車の写真展を行ってみたいと思っています。

さて雨が遠のき再び乾燥しきっていた当地。午後パラパラと来て夜にはかなり降り始めました。お米にはもう要らないかも知れませんが庭には有り難い雨です。出来れば朝までしっかり降って欲しいところです。

今年初めての赤倉CC 仕事上の最年長になっている。

2025年8月24日(日曜日)

再び雨が遠のいて暑い日が続くようになった。本日はあるご夫婦から声が掛かりゴルフをした。上手なお二人には手も足も出なかったが平地より数度は気温が低い久し振りの赤倉を満喫した。

コース傍らの白樺。

ここの景観がお勧めというアングル。

過日近所の理髪店に行ったところ、店主から「玄(ふかし)ちゃんが上越医師会で最年長の開業医だって聞いたよ」と仰った。思ってもみなかったことにびっくりである。
※ふかしちゃん:幼少から床屋さんではそう呼ばれています。

この話はよく来店られる医師から聞いたということ。私より一つ上だという髙田のA医師が少々前に閉院されたためそうなったらしい。病院勤務医はみな私より若いし、施設勤務医の中には私より年上の方がお一人はおられる。だがA先生がお止めになったならたしかに開業では私が一番年長かもしれない?にわかに信じられなかった。

本日赤倉を一緒した同業ご夫婦もそのことを知っておられ、知らぬは本人ばかりなりのような話だった。

能力や疾病など色々な年の取り方があるが、こんなこともあるのかと不意打ちをくらったような気持だった。
しかし確かならそれも良しとしよう。年などどうでも良い、健康を維持し、皆さまが来て下さる限り“やろうじゃないか”と妙に元気が出て来た。なによりも来院してくださる皆さまに深い感謝の念が湧くのを覚えた。

そう言えば最近励ましを仰る方が増えているような気がしていた。私よりも先に知っておられたのかも知れない。

2025年11月
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30  

▲ このページのTOPへ