やはりそうだったのか、その2ピーナッツ?

2024年2月14日(水曜日)

一昨日のこと、珍しく家に殻付きのピーナッツ(落花生)がやってきた。粒が大きくからからと乾いている感じは食欲をそそられる。午後遅くパチンパチンとやりながら7,8個食べた。

当日夜遅くまでかけて倉石隆の告知資料やブログを上げると落花生のバチンバチン、カリカリを思いだした。五つ六つだと思うが手にとって美味し口にし、しばらくして寝仕度の後就寝した。

順調な睡眠だったが、早朝4時ころお腹がシクシク痛みはじめ目が覚めた。痛みは臍を中心にあちこちに来る。引っ張るように、縮むように、ツンツンシクシクと絶え間ない。
ゆっくりだが痛みは強さを増す気配。時に息をこらえなければならなこともあり、額にうっすら汗が滲んだ。

吐き気も無ければ下痢の気配も無くただ痛む。我慢しながら過去に似たことがあったか思いだしてみるが思い当たらない。
もっとも嫌なことだがイレウスが始まるのか?だが時々腸からググッという音が聞こえ、お腹のどこにも張りやガスの溜まりを思わせるものが無い。

一体何だろう?トイレへ行ってみる。入り口の鏡に映った自分は顔色を失い真っ青になっている。普通の便が普通に出たが冷や汗が止まず、急に立つと倒れそうなので万事ゆっくり動作した。

カサカサと唇が乾いているのでベッドサイドのポットから二杯の湯を飲み、念のため胃薬と整腸剤を飲んだ。3、40分するとほんの僅か薄らぐ気配だが痛みは続き、寝返りを繰り返すものの寝つくことは出来ない。
すると腸のある部分に食べたピーナッツがこなれずに塊としてじっと残り、腸が必至にあれこれ動いて消化を試みているのが映像の如く浮かんだ。さらにその辺りが薄赤くなり炎症を帯びているイメージも。
ピーナッツ?
再び胃薬と整腸剤と湯を飲んだ。しくしく痛みは続き、ついに西念寺さんの朝の鐘が鳴って6時になった。

そして7時になり、起きた妻に「腹痛のためあの方たちとの昼食は一緒出来ない」と告げた。当日昼、お二人の友人と食事の約束があった。
それから眠気に襲われ、昼近くに「行ってくるけど大丈夫?」と妻に訊かれ、大丈夫、行ってきてと返事をした。随分良くなっているのが分かりまた眠った。

目が覚めると午後3時を過ぎており、帰宅した妻に起こされた。花束が差し出され二人からのお見舞い、ということだった。
痛みはすっかり無くなり全く普通に戻り、夕食は粥を食べた。

恐縮至極のお花、バラ、デルフィニュウム、
カーネーション、アルストロメリア、、、。
本当に申し分けありませんでした。

さて調べてみるとピーナッツは優れた食べ物だが消化に時間がかかり、時に食べ過ぎなどで消化不良を起こし腹痛や嘔吐下痢を生じることがあると載っていた。
こともあろうに妻は「かってある検査を受けた時、寝る前のピーナッツは避けるように、と医師にいわれたことがある」と言った。

詳らかな証拠は無いが一件は「やはりピーナッツ」だったようだ。せっかくの約束と祝日を寝て過ごしてしまい、年も考えて厳に気を付けなければと反省の一日だった。今回痛みが主だったのは幸い軽症で済んだせいかもしれない。

やはりそうだったのか、その1暖冬。

2024年2月13日(火曜日)

「もしかしたら」そうかも知れないと思っていることが、何かに書いてあったり、誰かが語り「やはり」と思うことがある。最近それに類する事が二件あったので書いてみたい。

一つ目は2月になってハクチョウやハクガンなど冬鳥の姿がり見当たらないことの訳だった。
白鳥は11月上旬、ハクガンは12月下旬に初めて目にした。特にハクガンの群は大きく、その後の撮影を楽しみにした。

今冬12月29日の初ハクガン。

24年1月14日夕刻の朝日池。
ねぐら入りしたコハクチョウとハクガン。

ところがその後ハクガンを目にしたのは2回だけ、大きな群は1月30日中の朝日池が最後だった。

昨冬は2月15日まで近隣の田でしばしば観察されたので、今年2月、近辺へたびたび足を運んだ。しかし朝日池にも田にも姿は無かった。

 今期11月18日の朝日池の夕刻。
白鳥や雁で一杯だった。

2024年昨日空っぽの朝日池。
水だけは満々。

例年まだまだいる白鳥もいまや全く見当たらなくなっている。私だけが見損なっているのか。しかし知り合いの鳥好きも「せっかく池の水が満々になっているのに見ない」と同じ事を口にする。何とあっけない、例年とは様子が違う、、、。

暖冬のせい?だが冬鳥の餌場である当地の田は山間にかかる所などで十分な雪が残り、彼らが苦手な気温上昇はそれほどではないはず。どこかに沢山いるのではと本日日中も車を走らせた。

ところが今夕、妻が「新聞見た?」と朝日の天声人語を見せてくれた。そこには冬鳥の飛来地として有名な宮城県伊豆沼では、例年これから鳥たちの北帰行が始まるが、今年はすでに終わりかけている、と伝えていた。

私達は暖冬厳冬、大雪小雪、ドカ雪淡雪など色々経験しているので、たとえ暖冬に推移しても、「この先まだ降るかもしれない、そんな年もあった」などと考え即断を避け、常に用心深い。一方鳥たちは各年ごとに判断し、「そうと決めたら早い」のか。

数百の群も一羽が飛び立つと全羽が一斉に飛ぶ。さらに北帰行など大規模な移動を一体だれが決め、なぜ皆が従うのか、野性の仕組み(知?)は並のものではない。
デジカメなど電子部品満載のカメラを手に、去った鳥たちを探し右往左往していた自分。比べて暖冬と決めるやさっさと帰った鳥たち。その違いは滑稽でさえある。

思えば彼らがこの先伴侶をみつけ産卵し子育てする遙か北の地こそふる里なのであろう。当地は極寒期の一時避難場所であり、帰れるとなったら一刻も早く帰りたくなるのは鳥たちの人情なのだろう。

良い勉強になった。これでもう今冬の探鳥をお終いにしたい。彼らには来期も是非また沢山来てもらいたい。

 

ところで実は昨日祝日の建国記念日、夜半を過ぎて午前4時ころから恥ずかしながら腹痛に苦しみ、せっかくの祝日を寝て過ごした。
下痢嘔吐もなく、ただ痛かっただけ。明瞭な判断材料もなく「もしや」と考えていたことがどうやら「やはり」だったらしいので、次回そのことを書かせて下さい。

今年の倉石隆の展示。

2024年2月11日(日曜日)

作品点数がやや少なく展示場も狭い倉石隆の絵画。毎年一定の趣向を決めて展示するには智恵をしぼらなければなりません。

2011年まで5年間は特定のテーマを決めずに展示。その後毎年何らかのテーマ(趣向)で開催してきました。それらを眺めますと、男女、お嬢さん、挿絵、自画像と自己投影像、細長い絵、瞑目する人、カリカチュア風、朱色シリーズ、男性シリーズ、男女、多様性シリーズ、デッサンなどがありました。

スペースが狭いことに助けられなんとかクリアしてきましたが、アイディアが浮かぶとほっとし、ある意味楽しい作業でもありました。

さて今年の倉石隆のテーマです。氏が描いた人物は赤ちゃんからお年寄りまで一定の幅がありましたので“揺りかごからお年寄りまで“などを浮かべていました。するとこれでは羅列に過ぎず深みに欠けるように思われました。
そこであらためて候補の作品を眺めますと人物たちに“精一杯生きている印象”が濃く浮かび上がってきました。

その結果タイトルは「兎に角生きる」に決まり、うぶ湯や抱っこの赤ちゃんからお年寄りまで13点を選びました。

 

同ポスター、チラシファイル。

昨年12月、ある動画の対談で辛さを抱えながら生きるのは仕方が無いとして、かってボストンマラソン優勝、メキシコ五輪2位ほか数々の大会で優れた成績を残した君原健二選手の言葉が紹介されました。

氏はレース中、あまり他者との競争を意識せず兎に角「次の電柱まで走ろう」のくりかえしだったというのです。これを聞くと首をふりふり喘ぎながら走る君原選手が浮かびました。
ああそうかもしれない、確かに人生になにかしら目標はあってもその日々は“差し当たりあそこまで”を精一杯繰り返しているだけかもしれない。

倉石隆の人物たちにもそれが感じられ、それぞれの日々を生きる中で、ふとその手を離した時の表情に普段の生活努力が滲じむように浮かぶのを感じるのです(赤ちゃんにも、少女にも、大人にも、老人にもです)。

「兎に角生きる」あるいは「兎に角生きた」。年を重ねると、生活は余計そのように瞬間的な感覚の連続であるかのように思われてくるのですが、皆さんは如何でしょうか。

本日の三和区行き 小澤征爾さんが亡くなられて。

2024年2月10日(土曜日)

本来ならば本日は晴天となり、遠くへ行かなくても妙高山がきれいに見える三和区へ行くつもりだった。ところがまあまあの空だったが妙高山は雲に隠れたまま。それでも運が良ければ山は見えるかもと期待して出かけた。

本日はもうひとつ、一昨年まで仕事でお世話になった三和区のAさんに急遽お会いして、お目当てのカフェ「喫茶去」と近くの山高津の池へご一緒することになっていた。伺うと思いもかけず「上がって」というお言葉でお茶をご馳走になった。

手入れをされた旧家の風情が漂うお宅。周囲の水田、遠くの杉木立。小学一年生のころ一度だけ訪ねた清里区にあった親戚の家を思い出した。あるいは満州からの引き揚げで、フラフラになってたどり着いた佐賀県の母の実家の安堵が蘇るのか、山が見える田舎の集落の家には一種思慕のようなものを覚える。

お茶を頂きながら昔話や土地のことなどお話しして喫茶去と山高津の池へ向かった。

いっとき日射しに映えた
三和区の赤い屋根。

このたびで五回目の「喫茶去」。
いずれも晩秋か冬なのが不思議。

結局妙高山は姿を現さなかった。カフェで美味しい茶を飲みながらAさんと妻は女子校の同窓であること、共通の知人が何人もいることなど思わぬ縁に驚かされた。

本日妙高山の雪景色が撮れればヴィヴァルディの「四季 冬」の第1楽章を掲載する予定も叶わなかった。

さてさる6日、偉大な小澤征爾さんが死去された。私は2回しか氏のコンサートを聴いていません。しかし周囲には年に複数回聴きに行かれる方や氏とのツーショット写真をお持ちの人もおられ、とても羨ましかった。


チャイコフスキー「弦楽セレナーデ第1楽章」
アカデミー -スイス-によるサプライズアンコール曲。
美しい音階と和声、若者育成への情熱が伝わる。

そんな私だが小澤征爾さんと唯一わずかな共通点がある。氏は1935年満州国奉天市生まれ、不肖私も7年後同じ奉天市で生まれた。どこか心の片隅でそのことに恥じないように、出来れば誇りにしなければと、思い直している次第です。

今年の齋藤三郎(陶齋)の展示。

2024年2月9日(金曜日)

樹下美術館の冬期休館は早々と中ばを過ぎました。ようやく齋藤三郎(陶齋)と倉石隆の展示のテーマが決まり、数日かけまず齋藤三郎のホームページバナーやポスター、チラシ原稿が出来ましたので本日とりあえず掲載致します。

ホームページ用お知らせバナー。

今年の齋藤三郎は「齋藤三郎の文様」に致しました。昨年上越市立小林古径記念美術館で「生誕110年 齋藤三郎展」が開かれまし。その期間中、ギャラリートークでお話しさせて頂いたテーマの一つです。

文様は齋藤三郎お得意の「椿」「梅」「牡丹」「ざくろ」「秋草」はじめ「スイセン」「コブシ」「ぼけ」「竹」「どんぐり」「露草」「芙容」「ドクダミ」「野イバラ」ほか「トロロアオイ」や「葉っぱ」などの草花や「松」などの植物。さらに民家、山などの「風景」、「雪華」及び「麦わら文」や「文字」がモチーフとなったものなど、多岐にわたります。

椿やざくろ、あるいは秋草などを沢山集めて出しますとスペースが全く足りません。それで相当ごちゃごちゃすると思いますが、多くあるものは数を絞り、出来るだけ多様なモチーフを並べたいと考えています。

文様は50種類前後の予定です。古径美術館ではプリントでお話ししましたが、この度は器をご覧頂くことになりました。初めてお目に掛ける作品も混じりますのでどうか宜しくお願い致します。

倉石隆作品は「赤ちゃんから老人まで」という風な趣向で考えています。来週末にはご紹介させて頂く予定です。

ホームページにおける「齋藤三郎の文様」のお知らせは連休明けになりますので宜しくお願い致します。

さて第3、第2楽章を載せましたヴィヴァルディの「四季」から「冬」。残り第1楽章は晴れた雪景色の写真と一緒に載せたいと考えていました。何とか妙高山が見える日に三和区のお目当ての場所へ行き、良い感じに写せればと思っている所です。

表現と愛着。

2024年2月7日(水曜日)

本日も雪模様。積もることは無かったがびしゃびしゃ水っぽい雪が降ったり止んだりしました。
何度も書きましたが毎水曜日は特養の回診日。早めに終了したため、また冬鳥、特にハクガンの探鳥に辺りを走りました。

何カ所か見当をつけた場所はいずれも外れ、一羽のハクチョウも雁も、当然ハクガンも見ませんでした。こんなことは珍しいですし数日降った雪が鳥たちをどこかへ追いやってしまったのでしょうか。

柿崎からの米山。
いっとき雲が切れました。

外出時はなにがしかのカメラを持参し、面白そうなチャンスがあればレンズを向けます。本日は天気が悪く肝心な風景も今一でした。

当地は特別風光明媚な観光地はないので見た目良い写真を撮るのは簡単ではありません。それでも自然や雲など季節ごとの情景や電車あるいは花鳥を写すことで満足している次第です。
本当は妙高山が近くに見える地域であればなあと思っていますが簡単な事ではありません。

ところで地域の景観の美しさは、そこで生まれ育った人であれば他をあまり知らなくても、ここは素晴らしいと自覚するのではないでしょうか。
さらに世界的に風光明媚な所の人が自ずと「ここは世界一」だと考えるのはそう外れていないのも不思議な事です。

私の場合は特別な場所ではないのですが、愛着というのでしょうか、微妙なことですが何かしら心に響く光景や風光に出会えれば撮ってみているだけ。たまたま当たりのようなことがあれば、いつか又と単純に期待してレンズを向けるという風です。


ヴィヴァルディの四季から
「冬」。本日は第2楽章です。

最後に一つ、もし風光明媚な所へ行って撮ったとしても、どこか平板で心こもらないものばかりだったという経験も不思議といえば不思議なことです。表現の場合、何かに付け愛着というようなものは大切な要素の一つかもしれません。

今後行ってみたい所は東北の名山が見える里のような所で、その次は山陰で、果たしてどんなでしょうか。

2月の雪。

2024年2月5日(月曜日)

昨日の当欄で、過去5年間に書いた2月のブログ記事の事を最後の方に載せました。その中で、思わぬ雪が降ること、を挙げていました。

今のところ今年の冬は暖冬、小雪でしたので、本日の雪は「降ることがある」風に思われました。そんな日の午後遅く在宅訪問で二軒回りました。

最初のお宅は雑木林を行きますので道中は美しい景観でした。

雑木林の雪道。

伺った二カ所の距離は市街地を入れて8キロほど離れていましたが、このあと回った国道はまだ除雪が必要ない状況でしたので助かりました。でも雪道は良くても悪くても何が起こるか分かりません。早め早めにブレーキを踏み、時にはエンジンブレーキを効かせて走りました。

 

今夜仕事場前の道。
豪雪レベルではなさそうです。

2月、3月は普通に、時には4月上旬に雪が降ることがあります。今後は淡雪と言いますか、地上をうっすらと白く染める降り方もよく見られます。但しこの時期から大雪になることがありまだ油断出来ません。
本日の雪は明朝までには一旦止むようです。その後どうに推移するでしょう。


ヴィヴァルディ「冬」
第三楽章。

この度は太平洋岸にも降ったようでした。

 誕生日の追加 週末の鳥 2月とは。

2024年2月4日(日曜日)

2月1日が誕生日で、はや4日目です。自分の事をいつも老人とか高齢者と書くのはモヤモヤしますし、第一誕生日を記しながら何才と記さないのも失礼なようででもあります。それで恥ずかしさもあり以後何度も申しませんが、お陰様で82才になりました。

この先は、いくら先人の通った道といえ私にとっては全てが初体験(これまでもそうですが)。弱気を口にしたらキリがありませんので、出来れば年のことは知らぬ振りをしながら生活し、出来るだけブログも続けたいと考えています。

さて蝋梅に触れました1月24日には「冬本番のさ中」と記しました。それから10日、この週末は寒かったのですが日が伸び、かつ高くなるのが感じられ、外に出ると僅かながら春の気配を感じました。

このところ沢山飛来しているはずのハクガンに中々お目に掛かれません。
一昨日土曜日午後は柿崎、吉川、大潟、頸城の各区から三和まで観て回りましたが、主にコハクチョウとマガン、ヒシクイを見るだけでした。

頸城区で雁に混じって
10羽ほどいたハクガン。

上掲の場所に次々と雁が舞い降りたが期待したハクガンは一羽も現れなかった。一体何所にいるのやら。

上掲は道中の溜め池にいた
オオバンの家族の一部。

オオバンはカラス、カワウと並び黒い鳥の代表ではないでしょうか。僅かな尻尾とくちばしの上に白い額板という部分があるのが愛嬌です。枯れ草の下に生えているらしい若草を食べているようでした。

本日午後しばらく陽が射しました。

米山(上)と尾神岳。

久し振りのツグミ。
どこか人懐こい鳥。

鴨なんそばのネギは頂き物。
セリはお店のものという事です。

先ほど2019年から毎年2月のブログをざっと目を通してみました。
2月は日射しが強くなること、クリスマスローズが咲くこと、思わぬ雪が降ることなどがよく見られていました。
また2020年2月に、新潟県で初めてコロナ感染者が出たと記されていました。
先の事が全く理解できずあたふたと過ごした当時を懐かしく感じました。ただ5年目に入りましたが相変わらず集団的な発生は止んではいません。

この数年ハクガンを沢山見るのも2月でした。今期はこれまで最大の群が来ているようなので期待したいと思います。

いつしか今年の開館までもう少しとなり、毎年緊張する時期です。近いうちに今年の展示予定を掲載致しますのでどうか宜しくお願い申し上げます。

本日誕生日だった。

2024年2月1日(木曜日)

本日2月1日は不肖私の誕生日。今年1月の人口推計では日本の人口は1億2409万人ということなので同じ日の生まれの人は一先ず365日で割って約34万の方がおられることになる。

するとこんなに大勢の人と同じ誕生日ということで何か心強い気持がしてきた。しかし同じでも最も高齢に属する方なので一番尻尾にくっついている、というかお邪魔している感じがする。いずれにしてもあらためて精一杯頑張ろうと思ったし、それ以外無い。

上掲は去る1月29日午後5時頃、美術館の庭にあったウサギの足跡。ウサギは冬眠をしないようだがこの辺りで巣穴を見たことがない。どう寒さを凌いでいるのだろう。
お客様が通る庭を今はウサギが行き交っている。悪くないと思った次第です。

昨日の夕食は宮城の弟から届いたマダラだった。弟も2月生まれで1才しか違わない。いや今や同じ年のようなもの。この一、二年は「さん」付けで呼ぶようになったし、長年、年長ぶっていたことを詫びたい気がする。

上掲写真は本日運転免許の更新で行ったセンターで使用される立体駐車場。以前は豪雪のことも度々あり駐車場で苦労し、更新には良い思い出が無い。

2月生まれの人に会うと年は違っても普通以上のシンパシーを感じる。「同じ星のもと」という感じなのだろうか。

初めてのコウノトリ 若草の田にコハクチョウの群。

2024年1月31日(水曜日)

本日午後は特別養護老人ホームの回診。比較的皆さまが落ち着いていて早めに終わった。予想以上に良いお天気。田んぼへ鳥を探しに回った。

1月14日のねぐら入りを見て以来、ハクガンを目にしていない。数百羽という規模で来ているようだが、田の食事風景を見ることが出来ないままである。
大きな群で広がり、無心に田んぼで過ごすハクガンとその子らは迫力があろう。出会えないのは残念だ。

しかし本日、その代わりというのを二つ目にした。一つはコウノトリで、朝日池の付近で農道の先に思いも掛けず二羽が待っていた。初めてだったが、吉川区の橋爪さんのブログで度々見ていたのですぐに分かった。

一羽が飛び立った。
すだれのような翼の模様。

じっとしている。

残った一羽は餌を漁っている。

間もなく歩き出す。
赤い足が印象的。
標識の足環が見える。

躊躇無く車の先を横断。
ぬいぐるが歩いているよう。

コウノトリに出会う前、一様に草が生えた水田にコハクチョウの群がいた。普段水鳥を見るのは雪上か水上、あるいは雪の無い枯れ田が普通で、この田のように水が滲みた新鮮な草地で見るのは初めてのことだった。

牧場で飼われているうような
爽やかな眺め。

昨日は晴天、本日も静かでまあまあのお天気だった。見たいと願っていたコウノトリが突然行く手に現れ、草の水田に広がるコハクチョウの群も初めてだった。

 今夜うどんを食べて思う。

2024年1月30日(火曜日)

本日の夕食は天ぷらうどんで鉄鍋で熱くして出されました。
乾麺を湯がいたので後口に僅かに粉っぽさが残るのは仕方ありませんが、タレが美味しく胃腸にも優しく有り難いことでした。


それにしても思い出すのは高松の夕ご飯の「讃岐うどん」です。
ただのうどんと言ってしまえばそれまでですが、何故心に残ったかを述べるのは少々難しいかも知れません。

長い長い伝統、混じりけの無さ、ひたすら重ねられた競争と研究の味、、。そのようなことがひと口ごとに感じられすっかり感激したという訳です。

もう少し加えるなら、知る限り「黒うどん」や「赤うどん」あるいは「豚骨うどん」などは無くひたすら白一色。バリエーションが比較的限定されている潔さもありました。

食事時、低血糖気味というのも消化吸収の良い讃岐うどんには打って付けだったかもしれません。また入店後あれこれと選ぶ必要もなくただ「うどん」を食べれば良いという直線的なポジションも希有な事だったと思います。

話変わりますが、ひたすら手入れ良く美しい「松」と「石垣」を見せる「玉藻公園」にも似たような感慨を覚えました。

最後ですが、色々と手を出したがる自分は、「讃岐うどん」や玉藻公園の「松」と「石垣」のように対象を絞って取り組まれている高松の清々しさに心打たれた、というのが本日のテーマだったようです。

季節などにも左右されない安定した魅力ということでしょうか。

 扁額「第一義」は母校高田高等学校にも。

2024年1月28日(日曜日)

昨日ここで、身体など不自由な方や高齢者が鉄道を利用する際、それを手助けをする幾つかのシステムを書かせてもらいました。
ところで先般の旅行記の1月11日当欄で黄檗宗・万福寺を訪れた際に見た総門の扁額「第一義」について記載しました。

万福寺総門。

 総門の扁額「第一義」。

その時「第一義」は小生の地元、上杉謙信公ゆかりの寺院春日山林泉寺の山門にも掲げられていること、さらに出身校髙田高等学校の体育館にもあったような気がすると、記しました。

 春日山林泉寺山門の
「第一義」

その折、母校の「第一義」はうろ覚えで自信がないのでどなたか教えて欲しい、と書き、いわば宿題になりました。

すると去る1月中ば、所用でお会いした特別養護老人ホーム「しおさいの里」施設長竹田氏がブログを読んでおられ、「第一義」は確かに体育館の正面右手の壁にありました」と仰るではありませんか。
同氏は私より3世代は若く、同じ髙田高等学校の卒業生です。さっそく明解にお答え頂いて有り難うございました。

実は現在林泉寺山門に掲げられる「第一義」は元の扁額から複製されたものだそうです。こうなれば是非謙信公が揮毫したとされる原物を見たいところです。
近いうちに林泉寺を訪ね、収蔵されているという宝物館で謙信公筆のものに出会えればと期待しています。

正月の旅の宿題はまだ続くようです。
ちなみに「第一義」は禅の教本「碧巌録(へきがんろく)」にある重要な公案ということで、これまた宿題でしょうか。

 高齢者や不自由者に向けた交通機関のサービス。

2024年1月27日(土曜日)

地震と旅行で始まった2024年1月は早くも下旬に入っています。

すでに遠いものとなりつつある西国への正月旅行。見聞したことの興味は尽きませんが、一つに不自由な人や高齢者について交通上の配慮が良くなされていることが印象に残っています。

車椅子向けの段差解消
スロープを持って出迎える駅員。

JR奈良線の優先席表示。
高齢、障害、妊娠、疾病、赤ちゃん連れ。

JR山陽本線の優先席。

車椅子、ベビーカーが続いた
構内エレベーターを待つ列。

特に欧米人のベビーカーの多さが目に付きました。彼らは数泊などではなく10日、2週間と長期滞在することが多いといいます。日本のほか前後して他国も旅しているようですので連日の移動は大変だろうと思いました。しかし淡々と落ち着いて行動する様子からタフさに驚かされました。

私達はJR奈良線とJR山陽本線を利用ましが、常に乗り口脇の優先席に喜んで座りました。いつしかそうするようになった自分たちですが、そのことに驚かなくなっているのに驚きます。

寒波に咲く蝋梅。

2024年1月24日(水曜日)

西日本まで巻き込む今年最大の寒波が来ている。幸い当地の雪は10センチ程度で今のところは助かっている。が寒さは身にしみる。本日午後は特養の回診日、駐車場に車を置いて建物まで吹雪の中を走った。

冬の荒天は数分おきに青空になったり黒雲に被われたりする。

ところで昨年冬あるお宅から頂いた蝋梅の枝が誠によく香り、思いついて今年春ホームセンターにあった残り1本の蝋梅を購入し、診療所の庭に植えた。

購入時の苗。

植えると、土が良いこともあり活着し、早くも今年1月中ばに上品な匂いを漂わせて開花した。

一枝切って水仙と一緒に
玄関に生けてある。

この花が咲けば春が近いという訳ではなく、むしろ冬本番のさ中であることを示している。
それゆえ素性の強さに驚き、「雪国の人を励ます優しい花」という点で「春秋の花」とはちょっと違うと感じている。
(上掲文は翌日少し手を加えました。)

正月旅行の最終日、聖僧良寛が修行した備中玉島円通寺。

2024年1月22日(月曜日)

備中(岡山県)倉敷市の西南端である玉島は北前船で大いに栄えた商都です。瀬戸内海を望む玉島の高地に正月旅行の最終地、曹洞宗円通寺がありました。
江戸後期、我が越後の人良寛(以後良寛さん)は、生地出雲崎で巡り会った円通寺の高僧国仙和尚に付いてはるばる玉島まで旅し和尚のもとに入門、
22才から11年間にわたり禅の修行をしました。

国民宿舎「良寛荘
団体さんで賑わっていました。

タクシーで坂道を上り良寛荘に到着すると、地域振興と良寛顕彰に熱心に取り組まれる葛間さんと早川さんのお二人に迎えて頂きました。

良寛荘を出て見た瀬戸内海。良寛さんの当時、海岸線はもっと手前まで接近していたそうで、埋め立ても無く眺めはさらに絶景だったに違いありません。

円通寺境内には老いて樹勢が衰えつつある「良寛椿」と呼ばれる白椿の古木があります。良寛さんの修行時代からあるといわれ、現在それを挿し木などで増やし、上掲の場所で「良寛椿の杜」を目指して植樹されていました。

山門にて。

円通寺の山号は補陀洛山(ふだらくさん:観音様の降りてこられる場所の意味)です。寺院があるのは白華山という山の中腹で参道は少々急な山道でした。

国仙和尚に従って参道を上る図。
右下に師と良寛が描かれています。

参道途中、納骨堂である覚樹庵の前に太い幹の良寛椿。白椿だそうですが、これだけ太く大きな木が椿とは。しばらく前から花が途絶え、関係者の努力で僅かながら開花をみるようになったそうです。現在新たに採った苗は前述の「良寛椿の杜」で熱心な植樹に用いられています。

竹林の脇を通る最後の坂道。

円通寺の竹林のことは、禅のシンボルの一つとして良寛研究家の小島正芳先生からかねて伺っていました。

 

創建当時のままの端整が維持されている壮大な茅葺きの本堂は倉敷市の指定重要文化財。良寛堂への角に良寛像が安置されていました。

 

かって修行僧が居住した庵。
現在良寛堂と呼ばれています。

良寛さんが杖と共に
国仙和尚から印可の偈を
附与された高方丈南間。

1790年(寛政2年)良寛さん33才の時、この部屋で修行の終了を宣言する印可の偈を国仙和尚から与えられました。聖僧良寛の誕生です。偈とともに頂いた杖を頼りに世俗に飛び込む新たな修行が始まりました。

仁保哲明ご住職から
お話を聞いた一室。

ご住職には貴重なお時間を割いて頂きました。静かな自然体が滲むお人柄で、いっときでしたが修行をさせて頂いた気持ちがしました。

若き良寛像。
新潟県内で見る彫像より
ずっと若く溌剌としている。

高方丈から見た巨大な
花崗岩の石庭「千畳岩」。

高く続く石庭。

良寛さんを偲んだ
種田山頭火の句碑。

     岩のよろしさも良寛さまの思いで

昭和11年、円通寺を訪ねた山頭火。石庭で修行に勤しむ良寛さんを偲んで詠んでいます。

さてもっともっとと思いましたが時間が迫り泣く泣く円通寺を後にすることになりました。帰路は「新倉敷駅」まで早川さんが車を出して下さいました。途中の市内で越後長岡藩の名家老河井継之助の若き日の足跡を案内してもらいました。

河井継之助逗留地の碑。
倉敷ロータリークラブなど
によって建立されている。

河井継之助は1859年(安政6年)、当時借金に苦しみ続けた備中松山藩を劇的に再興させた漢学者山田方谷の門下として学ぶべく隣接する港町玉島へ上陸しています。児島屋はその時に逗留した船宿ということでした。

さて正月旅行の最終地、備中玉島円通寺の見聞を終了する時間となりました。私の準備不足で新倉敷-玉島の交通を、倉敷-玉島にしたため滞在時間を短縮せざるを得なくなりました。
にも拘わらず、早川、葛間両氏と仁保ご住職には大変手厚くして頂き感謝に堪えません。また旅行に先立ち、円通寺でお世話になったお三人に連絡をして頂いた全国良寛会会長、良寛研究家・小島正芳先生に深く御礼申し上げます。

話変わりますが40年前、自分には少々悩み多き時代がありました。なんとか越えなければと色々本を読んだり考えたりしましたが、畏れ多くも良寛さんには幻のように手を差し伸べてもらった気がしています。

当時、もしもこの目で見ることが出来るなら、次の三人を見たいと思っていました。
一人は良寛さんの少し前の時代、1818年生まれの我が高祖父玄作で、火鉢に手を焙りながら来客と話すのをすぐそばで。もう一人はイエス・キリストで、使徒を連れ荒野を歩くのを遠くから。最後は夕暮れの山裾の村を一人帰る良寛さんを遠くから、でした。

このたび円通寺から見た瀬戸内の冬陽は春のように明るく海は軽やかな青色でした。どんより重く暗い日本海との違いに師はどんなに驚いた事でしょう。険しい石庭もありました。ここで思いっきり修行しよう。若き良寛さんは勇んで意を決したにちがいありません。

悟り、強靱な足腰、師の教えと杖。印可の偈(いんかのげ)を授かった後、これらをを拠り所に、いずれ帰りたい越後を胸に仕舞い長い旅路に就いた良寛さんの円通寺。深い感慨をもって正月旅行の最終地玉島を後にしました。

後日早川さんから届いた良寛椿の苗。とても楽しみです。失敗する人もいるようですが、是非ともちゃんと育てたい。

御地倉敷市はじめ玉島および円通寺は諸行事、記念碑および像の建造、椿の杜づくりなど良寛さん顕彰の熱心さがとても良く伝わりました。古来豊かな商都であり茶の湯が盛んで戦後早くから「良寛茶会」も催されているとも聞きました。

晴れの国と雪国の妙、北前船の寄港地同士。良寛さんが繋いだ岡山県と新潟県は良縁にちがいありません。

さて以上、正月の拙い旅行記は長くなりました。一方で年明け早々の大地震。大災害は日が経つに連れ新たな問題が深刻化しています。
政治は各自懐にしたパーティー券代をまとめ、一刻も早く被災地へ届けたらどうでしょう。政治改革とはこのようなことから始まるのではないでしょうか。

2024年3月
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31  

▲ このページのTOPへ