いま四月馬鹿はどうなっているのだろう メギスの旬。

2025年4月1日(火曜日)

寒い三月が去ると本日4月1日も負けじと寒かった。
何十年も前ならば本日は「四月馬鹿・エイプリルフール」で、のどかなことにお互い騙しのようなことをしようとそわそわしていた。

今でもそのようなことをしているのだろうか。あまり耳にしなくなったのでもう止めたのかもしれない。

本日ある在宅のお宅で、お年寄りのトイレの汚しが話題になった。ええ汚します、うちでは犬のおしっこシートを敷いていますよと、介護者さんが言った。
犬のおしっこシート?
四月馬鹿? まさかと思って聞き直した。
介護者さんは、むかし犬を飼っていた時のが沢山余っているので使っています、と言って大きな犬のマークが付いた袋を持ち出してきてシートを見せてくれた。風呂敷ほどあり表裏が吸水、防水され大きなオムツの構造。なるほど便利そうだ。

今日まで犬のシートも知らなければ、お年寄りの汚しに対しトイレに敷くことも初めて聞いた。十人十色の介護では皆さんが思ってもみない努力や工夫をされている事をあらためて知らされた。

昨年植えた啓翁桜。
何も言わないので気がもめる。

夕食のメギスの煮付けと麩と
タマネギの味噌汁、野菜のゴマ和え。
昼食無しで朝夕は玄米です。

亡き妹はメギスが好きだった。メギスは産地が石川、新潟、愛知などに限定されているらしく妹が暮らしていた宮城には無かったようだ。それで一度やって来たときに妻が出すととても喜んで食べた。
なにしろ早く傷むため他に出せず主に産地のみで食されるらしい。

旬は4,5月と9,10月の年2回と出ていた。4月1日は人などを欺さずメギスを食べるのが当県の流儀に叶うようだ。昔好きではなかったが次第に美味しく食べるようになった。

3月30日の徳川美術館と豊田市美術館 そして富士山。

2025年3月31日(月曜日)

3月30日日曜日、午前は名古屋市内の徳川美術館へ、午後はこの旅のメイン豊田市美術館で「黒田辰秋展」を観た。

徳川美術館には開門前に着いた。清々しい園内は啓翁桜であろう箒状に立ち上がる鮮やかな桜が美しかった。美術館の裏手に続く変化に富んだ庭園を一巡りすると開門していて来館者で賑わい始めた。

水と樹木と石と橋が引き立て合う庭。
一部がすでに新緑。

婚礼写真撮影。

館内へ。

煌めく刀剣の光り。

能面の引力。

利休の茶杓。

おひな様の展示が行われていた。

大きな犬のひな飾り。

なまめかしい官女たち

次第に大きく豪華になる雛飾りを幕府が諫めるとミニチュアのような芥子雛が登場し、展示されていた。

時間通りに観て回り、地下鉄鶴舞線の伏見駅から11駅目、豊田市へ向かった。

伏見駅で赤い車体とスーツの人。

伏見から50数分で豊田駅。
新鮮な風光の都市。
トヨタ自動車のお膝元。

美術館は地方都市とは思われぬ大きなスケールの近代的な施設だった。

現在「人間国宝 黒田辰秋 木と漆と螺鈿の旅」が開催されている。終了した京都国立近代美術館と2カ所開催の貴重な展覧会。

案内物。

氏は分業が一般的だった木地師(形成)と塗師の仕事を一人で行った。木工出発の頃、朝鮮の棚に魅せられその模倣に40日間不眠不休で取り組み、金具を取り付け完成させると丸二日眠り通したという。

以下展覧会図録「黒田辰秋」のページからからです。

 

朱漆三面鏡。
繊細な場所に力強さと安定感。
木と漆の相性が造る第三の質感。

拭漆(ふきうるし)欅(けやき)大飾棚。

拭漆楢彫花文椅子。
氏の代名詞にもなる彫花文。

会場には203点の作品が展示されていた。あっちで数点、こちらで一点程度しか見ていない黒田作品が一堂に会されかくも沢山観られるとは夢のようなこと。
古くから黒田辰秋作品はファンが多く、今もって小さなペーパーナイフさえ手に入らない。氏は以下のような言葉を残されている。
・自分の作品には生涯責任をもちたい。
・地球と代えられるだけの作品を作りたい。
・用いられることで道具としての良さが引き立つように作りたい。

扱う木に地球の全てをみて取り組む仕事。どの作品にも神域というような超越感が漂うわけだ。

今回訪ねた名古屋と豊田。どちらも開けて気持ち良く、さらなる可能性を秘めていると感じた。
当地から豊田市への交通は不便だ。名古屋市で色々な人に行き方を訊いたが、そらんじている人は少ない印象だった。そんな中でホテルのフロントと一部のタクシーさんは地下鉄伏見駅から直通が便利と説明してくれ、それに従って良かった。

その一人50代のタクシーさんは父親の介護のため地元に戻りドライバーをしながら見ていると話した。とてもきちんとした人だった。「親の介護は一大事業ですね、頑張って下さい」と言って車を降りた。

帰路の新幹線で窓正面に富士山が現れた。

週末は名古屋と豊田市へ 本日は名古屋の分です。

2025年3月30日(日曜日)

昨日午後から名古屋一泊で豊田市へ。
「生誕120年 人間国宝 黒田辰秋-木と漆と螺鈿の旅-」展を観に行った。「参りました」と言うほか無い木工の王・黒田辰秋。今もなお、いや、さらに高みで静かに力強く存在する人の大展覧会は京都国立近代美術館を終えて愛知県豊田市へ来ている。

数ヶ月前に妻がテレビで観て教えてくれた黒田展。何が何でも行かなければならないけれど、当地から豊田市行きは不便で珍しい名古屋一泊は必要かつ楽しみな行程だった。昨日午後、上越妙高から東京周りの新幹線で名古屋へ、午後5時少し前に着いた。

何処も閉まり、観るだけの名古屋城は開いていて桜も咲き始めていた。珍しい事に名古屋市はタクシーがとても多く移動は便利だった。

髙田の様にぼんぼりは
賑やかではない。

見事な枝垂れ桜の一角。

まじまじと城を観るのは初めて。
高く立派な石垣、重厚な天守閣。
夜の方がきれいではないだろうか。

ぐるりと城を回ったあとタクシーさんに聞いた界隈を歩き、食事処を探し、目に付いたお好み焼きに入った。
場所は宿の近くの納屋橋。堀川の両岸は「なやばし夜イチ日本酒祭 2025」というイベントで、屋台とキッチンカーがずらりと並び、若者達で一杯だった。

洋種の店もあった。

入ったお好み焼き屋はコンクリートのエントランスに水が流れるお洒落な作りで客もまた若者主体だった。

お好み焼きは50年以上も前の東京時代、先輩に連れられて蒲田で一度だけ食べた。器用な先輩は「エヘヘ」と笑いながらヘラでパンパンと叩くや鮮やかに返した。
作る前までは一人前の手付き。

何かまとまりがない。

自己流だが美味しい。

昔の先輩を思い出して作ったがかなりばらけ、一生懸命寄せ集めて食べた。

とても冷えた名古屋の夜、心身温まり楽しいひとときだった。城の行き帰りはタクシーを使ったが朝から数えて9000数百歩は歩いていた。

次回は翌日午前の名古屋市徳川美術館と午後の豊田市美術館を記載予定です。

自然の末席で。

2025年3月28日(金曜日)

気温急上昇から一転、昨夜から肌寒い空と雨に変わり一日中降り続いた。変わりようは同じ空のものとは思われぬほど無表情にひたすら降った。
雪国から南国へ急転、ここは何処だろうと書いたのを知っている如く空は落差を埋めてきた感じ。

斯くお天気は埋め合わせをしたり、突然裏切ったり自在な実力を見せつけてくる。大資本は不測の変化にダイナミックな備えで対応出来るが私達のような個人商店は慌てふためきながら付いて行くほかない。つまり素朴なまま自然界の一構成要素に甘んじることになる。

私には冬鳥のように分厚く強靱な翼や暖かな羽毛があるわけでもなく、寒空の空腹に耐える肉体もない。一点頼れるものはいくばくかの忍耐や楽観を交えた心の持ちようなものくらいだ。

その点で個人としての人は自然界の変わり者であろう。私もそれ以外無いのであたふたしながら自然の末席を汚しながらついて行ければと思う。
ジグザクする空のもと花や樹木は緩やかな時候のうねりに従い芽と蕾を膨らませている。

夕ご飯のオムライスと来客から頂いた
地のシジミの味噌汁。
美味しいシジミだった。

夜になり一旦止んだ雨は静かに降り直している。

三月にして真夏日 初ゴルフ アイスクリーム 啓翁桜 雪割草 内山雅子さんのCD。

2025年3月27日(木曜日)

定期の休診日で今年最初のゴルフに行った。夕刻のニュースで知ったが午後2時過ぎの最高気温が30,0度で真夏日だったという。
今朝7時半に家を出る時は少々寒くウインドブレーカーを羽織り、スタートの8時過ぎに気持がいいですね、と言った。午後2時前に上がったのだがその頃が最高気温だったらしい。

さほどの風も無かったので30度と知っていたなら、暑い暑いとぼやいたかも知れない。知らぬが仏だった。
3月の真夏日は本州では観測史上初めてだという。雪国→南国、一体当地はどうなっているのだろう。

以下本日の写真です。

私にしてはそこそこまとまった
スコアだった。

美術館で食べたりアイスクリームが
美味しかった。

啓翁(けいおう)桜が開花していた。
昨年5本植えた小ぶりな桜は
今後さらに楽しみ。

上掲は昨年秋葉区で求めた雪割草。
株が一段と大きくなった。

夕刻の飛行機雲。

大雪や山火事などの気象災害はすでに露わになっている。考えると切りがないができるだけ穏便に願いたい。

 

さて夕刻、今月下旬にオリジナル2曲を新潟市で吹き込みCDデビューをした内山雅子さんがカフェに来られた。
みなで視聴したが柔らかな声に秘められた情感と確かな音程は生来の才能だと思った。物語を秘めた詩もとても良い。
才能と言えば画才がありセンスの良いイラストは独特で地域の催事には欠かせない存在。控えめだが何でも出来る貴重な人ではないだろうか。

樹下美術館でCDをお預かりしていますので、視聴ご希望の方は仰って下さい。どちらか1曲をお掛け致します。

春の公園、過日の大潟水と森公園と本日の大池いこいの森公園 その付近でクジャクチョウ。

2025年3月25日(火曜日)

暖かな天候に恵まれている。本日の当地髙田で最高気温22,5度と出ていた。1週間前に寒いと感じていたのが、日時によって暑いと言わなければならなくなった。

陽気に誘われて一昨日は大潟水と森公園へ、本日は頸城区の大池憩いの森公園に隣接する自然学習実践センターへ行った。いずれも景観は水辺を有する自然公園でどちらかと言えば水と森公園の方が良く手入れされている。

以下まず一昨日の大潟水と森公園からです。

オオイヌフグリ。
この先もっと盛大に咲こう。

多くのミズバショウの中で
一番きれいだった花。

あちらこちらに伐採された樹木。
海苔巻きのようで、見るとお腹が空く。

見え隠れしていたジョウビタキ。

撮らせていただきました。

帰路の蜘蛛ケ池。

当日は日曜日、美術館へ帰ると田んぼ脇のベンチでベビーカーを交え賑やかなお子さん連れがくつろいでおられた。

そして本日午後は大池いこいの森公園の東隣にある日本自然学習実践センター里やま学校というややこしい名だが素朴な場所へ行った。まず鳥を観れるかと、公園に沿った山裾の農道を走った。

春風が吹く未舗装の道で舞う小さな影は落ち葉でなさそうだった。車から出て近づくと美しい蝶が路上にいた。初めて見る赤い蝶は4つの眼模様を持ち、何とも華やかだった。
越冬場所から出たばかりなのか陽に温まろうとしている風だった。

翅裏は黒いので表がいっそう
あでやか。

差し渡し5㎝前後の大きさ。帰って調べると「クジャクチョウ」とあった。主に高地や北海道で見られるらしいが近時平場にも現れるようだ。

お目当ての学習実践センター(水場をあしらった自然公園)は残雪があり、そこそこ歩けたが西向こうの大池いこいの森へは僅かのところで雪に阻まれた。園内の明るい雑木林。

厳しい冬のためまだミズバショウ、スミレ、イワカガミなど予想した花の姿は無かった。だが特別華やかなチョウに出会えて大満足。

帰路何年振りかの庚申塔。
頸城区日根津願成寺

庚申塔の向こうに早咲きの桜と寺院。

東風(こち)の昼庚申塔の日射しかな

帰路のお宅の桜。

近い所でも出かけてみれば自然はお土産を用意してくれる。例年どおりであっても変わらぬことがお土産になる。まして本日のクジャクチョウは「冥土の土産級」だった。

大好きな濱谷浩作「ホンヤラ洞で歌う子供たち」とその絵はがき。

2025年3月23日(日曜日)

昨日の小林古径記念美術館行きの際、受付前の壁面に濱谷浩氏の「ホンヤラ洞で歌う子供たち」が展示されていた。氏の作品でどれが最も好きかと聞かれればこれと言うかも知れない。

いいですね、と受付で言うと、絵ハガキきもありますよ、と仰る。ほ、ほんとうですか、頂きます、頂きますと思わず口走った。それくらいこの写真が、この絵はがきが好きだった。
7,8年前のことか、古径美術館がまだ無い頃,上越歴史博物館のショップで「ホンヤラ洞で歌う子供たち」の絵ハガキが売られていた。喜んで10数枚だったかあるだけ求めた。当持は今より筆まめで、ハガキもよく使っていたので瞬く間に手許から無くなった。

一、二度再入荷したが残念ながらその後入らなくなった。ネットで調べると京都の便利堂という絵はがき屋さんの品で、コロタイプ印刷という古い伝統的な技法で刷っていることが分かった。
今度はそちらから10枚、15枚と求めているうちリストに載らなくなり、時期をみて当たったが長く出てこなくなった。

私に「ホンヤラ洞で歌う子供たち」は一種夢にまでみる絵ハガキ。それが昨日目前に一杯あるという。20枚、、、いや30枚お願いしますと言って買った。一枚165円だった。

夢の絵はがきが30枚。

机に置いて写真を撮った。
幸福で不思議な写真。

ところで同じ作品の絵はがきでも便利堂のものと少し異なり古径美術館のは縁取りがない。昨日久し振りに便利堂のホームページを見たところ、こっちにも出ていた。一枚275円である。

白ふちで囲むのとカットするのでは印象が異なる。カットされるとコントラストが効いてシャープになり、白い縁が付くと柔らかな印象になる。濱谷氏作品は縁があったほうが氏らしくて良いかも知れない。

さてハガキを良く観てみると、
大きなホンヤラ洞(かまくら)はロウソクが焚かれ、やかんが掛かり餅が焼かれている。手前にはミカンだろうか子供の数だけある。入り口にはゴツゴツと靴が置いてあり、後方の壁に小棚が穿たれ小さな雪だるまなどが供えてある。

ロウソクはじめ内壁、やかん、餅、ミカン、壁の小棚および子供の顔が明瞭なハイライト、一心に歌う子供たちの顔は雪洞とほぼ同じ明るさで髪や衣服、口および靴の黒とはっきりしたコントラストを作っている。さらに精一杯に開かれた口からは歌声が聞こえそうである。
ここに到るまで極めて丁寧な演出を施し何度もリハーサルを行ったのではないだろうか。明るいロウソクがポイントだと考えられるが、こまやかな照明はどのように工夫されていたのだろう。さらに歌をリードしているような左側の大人は誰なのだろう。

それにしてもよく子供たちがこのように自然で幸福な表情になったものだと感心する。そのことを含めて濱谷浩氏の写真は、あの夜の桑取の鳥追いといい、神がかっているとしか言いようがない。

「ホンヤラ洞で歌う子供たち」
昭和31年(1956) 新潟県十日町猿蔵 撮影:濱谷浩

小林古径記念美術館「生誕110年記念 濱谷浩展」と講演会。

2025年3月22日(土曜日)

現在小林古径記念美術館で開催中の写真家・濱谷浩展。本日午後から講演会「濱谷浩・人と作品」が二の丸ホールであり参加した。
戦前、グラフ社から派遣され髙田連隊の冬期演習を撮影した折、地元の研究家から紹介され谷浜の桑取谷に伝わる小正月の伝統行事を撮影。密かで力強い風土の概念を目の当たりにして取り憑かれ、長い写真家としての出発点となっている。

その後大衆、名士それぞれの持ち味、国内外の光りと影、風俗の新旧、地の果てそして告発etc、何かしら人間が関わる森羅万象をあまねく撮らんと世界を駆けられた。

講演会の第1部の講師は多田亜生(つぐお)氏(編集者、濱谷氏の作品管理者)で「濱谷浩 写真の魅力」を、第2部は齋藤尚明氏に学芸員の市川さんが加わり三人で「濱谷浩の髙田時代」を鼎談され多くの興味深いエピソードが語られた。
第一部でブラッサイやキャパの名が出て私のような年令には懐かしくも安心だった。

日本人初のマグナム写真家の証。
氏のヘルメットと腕章に身分証。

鼎談の最後の方で桑取取地区に「濱谷浩記念館」構想が起きた時の話になった。意見を求められた濱谷氏は“作品というのは時代により評価が異なる。何時でも常に光っているとは限らない”というような主旨から構想に同意されなかった事が話題になった。
誰も彼も残したがる世にあって氏の慧眼と謙虚さに驚かされた。晩年はひたすら作品の綿密な整理と記録に打ち込まれたという。マグナム写真家集団への貴重な参加といい、明晰な氏の頭脳と立派な生涯にあらためて畏敬の念を覚えた。

入り口幕。

融雪される古径邸の庭。

膨らむ紅梅の蕾。

濱谷氏筆:古径邸の床「裂古破今」
如何なる時も満足するなの意味か、
厳しい言葉だ。

午後遅く美術館の雀。

髙田で最高気温が20,6度にもなり近づくお彼岸の威力はさすがだ。

春分の日、肌寒いが日が長くなった 啓翁桜はいつ咲くか。

2025年3月20日(木曜日)

本日春分の日は久し振りの晴れ間で皆さまには出足良くして頂いた。新潟市からお忙しいAさんが寄って下さり,Who’s Who(今どきこんな言葉が使われるだろうか:名士たちのこと)などを話し、お互い元気を分け合いましょうと快活にお別れした。

例年大池いこいの森公園に初めて出向く時期であり行ってみた。湖畔のビジターセンターから橋を渡ったのは良いが降りた先は積雪しいていて行き止まりだった。
仕事場の大潟区や頸城区の樹下美術館一帯は全く雪が無いが同公園の山あいはまだ無理な模様。今冬の大雪をあらためて知らされた。

患者さんからの瑞々しい大根。

 

美術館の桜で囀っていたホオジロ。
澄んだ声を響かせていた。

 

こちらは4,5日前のカワラヒワ。

 

 

上掲は本日のクリスマスローズ。
いつもより遅く、これから。

寒いとは言え一応春分の日は近い。日が長くなり美術館終了の17時からでも庭仕事が出来る。本日は昨年植えた5本の啓翁桜(けいおうざくら:小型の桜)のうち陽当たりに問題があった苗2本を心込めて移植した。
まだ背丈はいずれも60~70㎝。今年蕾を付けるかどうかとても楽しみ。あと二年もすれば少しは目に付くようになることでしょう。

柏崎から佐藤さん、明静院の大日如来坐像  いしだあゆみさんの訃報

2025年3月18日(火曜日)

 

一昨日のこと髙田文化協会事務局長の宮崎さんが来訪され、途中から元柏崎市博物館学芸員の佐藤さんが加わられた。佐藤さんは2007年当館開館時に来られ、小生の植物精密画のハガキを同博物館のショップに置いて下さりその後も時折訪ねて頂いた。

氏の話から写真、特に生物写真、わけてもトンボを撮っていることをお聴きした。私は拙い植物を描き鳥や雲などを撮り、一時日本自然科学写真協会(SSP)に入っていたと話すと私もですと仰りさらに親しみを増した。驚いたことに僧籍を有しておられ家は寺院で真言宗豊山派(ぶざんは)ということ、当家も同じ宗派なので二重三重にびっくりだった。

五智のさらに向こう山中に位置する明静院(みょうじょういん)の話となりお二人からスマホの写真をみせて貰ったが、同寺の大日如来坐像は国重文で大変美しく今春中に是非とも訪ねたいと思った。上述の明静院と如来像が載る上越タウンジャーナルを是非ご覧下さい。

さて今朝は間もなく消えたが、いっとき雪が降り仕事場周辺はうっすら雪化粧になっていた。

間もなく融けた淡雪。

話変わりいしだあゆみさんが亡くなった。

彼女のデビュー昭和43年は私の卒業年であり医局入局年でもあった。同年京都で行われた糖尿病学会に参加した。すると東京駅の待合室だったかテレビで彼女の「ブルーライトヨコハマ」が映っていた。5つ上のA先生が盛んに「この子可愛いね、いいね」と言った。京都の宿は円山公園でそこでも彼女が流れ、繰り返し「可愛いね、いいね」と目を細めた。

溌剌としたブラスの伴奏や一種こもったような歌声は演歌でも無く好きだった。

女優で活躍するようになると痩せ始め、演技はいっそうシリアスを深めた。

甲状腺機能低下症だったという。確かに外見はそのように見えホルモン補充療法が奏功するはずなのだがそれが死因とは。よほど劇症か、あるいは中途半端な治療たっだのだろうか。デビュー時代のイメージが強く未だまだ若いと思っていたのにとても残念だ。

宮崎俊英さんとあらためて倉石隆を観た。

2025年3月16日(日曜日)

本日も肌寒く午後遅くからシトシトはじまり、春雨にしては冷たい雨。髙田文化協会事務局長の宮崎俊英さんが待っていて下さり、今年の展示は両方とも面白いと褒めて下さった。

齋藤三郎は茶道具のバリエーション及び茶道へ理解の促しが良いと指摘され、倉石隆は男性についてのストーリー仕立てが面白いと仰った。

倉石作品は幼年から老人まで副題をつけて並べてみたのだが、思ったよりも脈絡が繋がった。これは倉石隆の力量あらばこそ成立したことににちがいない。
因みに、スタートの幼少から老年まで以下の順で副題を付けました。
「毎日一生懸命」→「勉強もして」→「お腹を空かし」→「不安もあった」→「大きく見せたり」→「おどけたり」→「時には詩人」→「しかし自分は自分」→「意を決し」→「我を見つめ」→「孤独も修行」→「繰り返し妻を描き」→「いつしか年取った」です。

当然こんなことをしては倉石氏に失礼なのですが解釈や副題および展示順については私自身も問うて反映させてもらいました。ご覧になった皆さまのご意見は如何でしょうか。

「大きく見せたり」
(原題:男の像)

「時には修行」
孤独も修行と考えました。
(原題:黄昏のピエロ)

最後から2番目「繰り返し妻を描き」
(原題「画室」)

ところで「男性像展」とはいえ上掲の最下段「繰り返し妻を描き」は男性が見当たりません。しかし画中の大きなキャンバスの前(モデルの妻を見いているこちらこちら側)に絵筆を持って立つ倉石氏本人がいるのですから「男性像」として取り上げました。

人物を描くのはある意味“人間の本質”あるいは“自分自身”を描く事になるのでかなり大変な作業。おそらく描く時間だけではなく、生活のほぼ全て(ある意味生涯)を費やして取り組む課題なのでしょう。

「レンブラントは最大の師」とは氏の口癖だったようです。どうか人物画の面白さと深さをお楽しみ下さい。

25年初日 A君の書と芸術。

2025年3月15日(土曜日)

本日、2025年度の開館を迎えた。肌寒い日にもかかわらずご来館の皆さま、有り難うございました。お馴染みさんは冬の間に健康に過ごされたと見受けられ元気なお顔に安心しました。

その中の一人、中高時代の同級生A君ご夫婦と一緒して観て回った。それまで熱心に付き合ったことが無かったのが2007年の開館からよく顔を見せてくれるようになり、この数年は月に何度も来てくれる。
新潟大学教育学部書道科で学び、夫婦で2年間ドイツの日本学校に派遣され、県内の校長職と教育委員会の要職を歴任している。堅い肩書きを有しながら屈託なく万事謙遜の自然体、一緒する時間の話は勉強になり尽きない。

互いに年なのだが今のところあまり同じ話が出ないのはまださほど惚けていないのかもしれない。

齋藤三郎「搔き落とし牡丹文水指」
と風炉先屏風にした消息。

本日展示を観て回りながら“俺はまだ書いているがどうしても芸術的にならない”という事を盛んに口にした。“大体書を芸術に入れない分類まである”と言い、「しかしそれを意識するとわざとらしくなるしね」と話す。

対して“書の文字が持つ意味は芸術として大きなアドバンテージ”とういような事を返すと、“同じ書でもここにある齋藤三郎さんのようにどれを観てもその人らしい自然な味わいを出せれば”と言う。
“いやいや、もっとと思う気持ちは大事だが、自分らしさは、すでに出ているのでは”などと続けた。

妻同士も友人なのでカフェでお茶を飲み高校時代の学校火事にまつわるエピソード、学生時代の先輩後輩のありさま、小林古径記念美術館で始まる写真展の作家濱谷浩氏や朝夫人の話などに時を忘れた。

因みにA君は7年ほど前に遊心堂で個展を行っていて樹下美術館でも「喫茶去」を収蔵している。書は立派な芸術であり、作者が満足し何より人に喜んで貰えれば一大幸福ではないだろうか。

A君(一嶽)の「喫茶去」
とてもいい。

話しながら思った、こうなったら来年はA君の書と私の植物画で二人展をやろうと。一昨年に拙作品展を行っている。だが良いではないか、こうして顔を出してくれる級友は益々貴重で本日の話など芸術家の悩みそのものだ。館長の我が儘を許して頂きぜひ来年は一緒にやろうと思った。

ますます謙遜と向上心を秘めるA君に出会えて幸せだと思った。

明日から2025年度の開館。

2025年3月14日(金曜日)

明日から今年の開館。昨年12月15日、冬期休館に際して来年の開館までの3ヶ月は“長いようだがあっという間だろう”、というような事を述べました。まだまだある、と考えていると例年文字通りあっという間にその日を迎えることになります。

今年は小山作之助生誕160周年と茶道の会の講演があり、気分はゆっくりではありませんでしたが、一方で冬鳥の探鳥を精一杯行うことが出来ました。

今年の二人の作家の展示趣向は、倉石隆「男性像展」、齋藤三郎「茶道具展」です。
以下作家別に展示概要と本日終了した館内の様子を掲載しました。入り口順です。

【倉石隆】

「男性像展」
13点なので混雑しました。

倉石隆の絵画
今年は「男性像」です。倉石隆は生涯主に人物画と取り組みました。
人物は表情、個性、年令などいわゆる“特徴”のバリエーションが際限なく、それらはいずれも“微妙”ですから難しい仕事に違いありません。しかしその分やりがいがあったではと創造されます。
倉石作品は女性が多く、2023年には「倉石隆のお嬢さん展」を企画しましたのでこのたびは男性です。男女でいうと当館の男性像は女性に比べ少ないのですが、私なりに男性の一般性が見られるものを選んでみました。
頑張り、欲張り、見栄も張り、妙にはしゃぎ、我が身を見つめ直し、孤独に耐え、妻に促されながら、自我とストレスの狭間にもまれ人生の起伏を重ねる。
展示の男性像は男から観ればなにがしかの理解が可能と思われる一方女性には一見滑稽に写るかも知れません。しかしいずれも“本人は一生懸命”であることが伝わります。
技術的なことはともかく、作品について正確に述べることはかなり難しいことです。ここではひとまず男性に共通する“らしさ”について作品に漂う印象から簡単に触れてみました。
小さめの絵画スペースに目一杯の13点。お楽しみ頂けたら有り難く思います。

【齋藤三郎】

齋藤三郎のお茶道具
今年の齋藤三郎(号:陶齋)はお茶道具です。
茶道具と言いましても何かを作るものではありません。茶道のお茶は先ずお大菓子を食べ、茶わんに取った抹茶に湯を注ぎ、茶筅を振って茶を点て、お客様に“美味しく”飲んで頂くのが目的です。
それだけのことですが、より“美味しく飲んで頂く”ため床の間に書画を掛け、部屋にお香を焚き、花を飾り、時には食事や酒の振る舞いもあります。またいざお茶を点てる段には茶碗や茶杓を清め、道具を移動させたり、器に水を足すなどをします。この度の展示では会場入り口の「香合」から左へ焼き物による茶道具類を配しました。
陶芸家の道具ですから種類は限られますが、美味しくお茶を飲むために様々工夫を凝らした作品をご覧下さい。
簡単な道具類の用語
○香合(こうごう):お香を入れる小さな器 ○向付(むこうづけ):食事で菜を盛る主な皿類 ○花生(はないけ):花瓶のこと ○茶入れ:抹茶を入れる小さなふた付きの器 ○蓋置き:釜の蓋や茶巾を置く小さな道具 ○水指(みずさし):水が入る大きな器。
※入り口に焼き物以外の小さな道具数点をお盆に展示しました。

向こうに棗(なつめ:抹茶を入れる器)、手前に茶碗に組んだ茶筅(ちゃせん:振って茶を点てる竹製の道具)、茶杓(ちゃしゃく:棗や茶入れから茶をすくう竹製の道具)、茶巾(ちゃきん:茶わんを拭く木綿の白布)、帛紗(ふくさ:道具類を拭くための絹の布)。

茶会のお知らせ:6月と10月の毎月4回の日曜日に1日2席の薄茶席を設ける予定です。どうぞ気楽にご参加ください。
6月は第2,3,4,5日曜日開催。参加費:1000円(作品鑑賞の入館料込み)。時間詳細は調整後間もなくお知らせいたします。

キーボードにお茶をこぼした日,患者さんを送る 同じ日に時代劇の八幡堀が二篇 最近の夕食から。

2025年3月11日(火曜日)

近時手にしたものを落とす、あるいはこぼす事が多くなった。
私の場合、左手親指の付け根の痛みが原因の一つだと考えられ、長年のゴルフによる結果ではないかと思っている。

人より骨が細いのに60年はやった結果で、この程度の問題は甘んじて受けなければならない。当座は指の問題だが全体では老化現象に違い無い。

というわけもあり、本日午後番茶を淹れ(パックですが)、湯呑を手にしようとした瞬間卓上にひっくり返し、こともあろうパソコンのキーボード直撃だった。
買い換えたばかりの品がびしょ濡れ。ティッシュペーパーを当て、壁に向かって強く振って水分を飛ばし(左手親指は痛かったが)、ドライヤーで裏表を温めた。完全に乾いたとみてパソコンに繋ぐと全く問題無く回復していた。事は不運だが何か幸運があったのかもしれない。

本日ELECOM社製と知った
4980円のキーボード。

さてそんな夕刻、まもなく終了という時間帯に救急扱いが必要な高齢者さんの事例があった。病院連絡と紹介状を書いたが、必要なタクシーは1時間待ちで家族の到着までは3,40分かかるという。本人の身支度やスタッフの帰宅時間もあったので私の車で一旦自宅まで送った。道中話も出来て良かった。

患者さんを乗せたり、救急車の同乗は忙しい昔に何度かあった。事案によっては周囲にそれ向きの人がいても、自分がさっさと行うのが簡単で結果も爽やかなことがよくある。

昨日のことで恐縮です。夜、二つの時代劇番組でそれぞれ近江八幡の堀の場面があった。

「柘榴坂の仇討ち」の八幡堀
(原作:浅田次郎「沈まぬ太陽」から)

明治維新後、安政の大獄に関連して主君が命じた仇討ちを「侍の本懐」として敵を探索しては実行する中井貴一演じる主人公。最後の仇,阿部寛役の侍は車夫に身をやつしていた。長い斬り合いの結果勝負は付く。
しかし侍は主君の「懸命に生きるものは殺すな」の言葉どおり車夫を許し「新しい時代を共に生きよう」と和解する。時代背景と内容が悲しくも美しく、胸打つ物語だった。

もう一篇はいつもの「鬼平犯科帳」
八幡堀は本当に時代劇で人気だ。
今冬ここへ寄ってよかった。

最近の夕ご飯。

マガレイの煮付け(下)と豆腐とコマツナの
炒めもの。
同じ魚でも宗八鰈よりも美味しい。

20年も昔には春になると地でも見事なカレイが採れて、毎年漁師さんが下さった。その方は亡くなられたが近年カレイはさっぱりダメになったと耳にしている。

 

カモ南蛮(上)とトマトの卵炒め。

今冬の冬鳥見おさめ。

2025年3月9日(日曜日)

ほどよい日射しのもと風に暖かみが感じられた本日日曜日。週末は探鳥と覚え宜しく近隣を巡った。昨日土曜日はコハクチョウとマガンのまばらな群を観て、少なくなったな、そろそろ終わりと感じて帰った。

2日目の本日は昨日とほぼ同じ場所を回ったところ、いやいや頸城区で広い範囲にずらりとした群が何カ所も見られた。
本日はコハクチョウやガンの飛翔を中心に掲載しました。

上掲2枚は群の様子。

見ていると次々にガンや白鳥がやって来る。

コハクチョウとガン。

オオヒシクイのようです。

 

クチバシの先が黄色でオオヒシクイ。
(モニターで拡大して判別しました)

コハクチョウやガンなど大型の冬鳥の飛翔は伸びやかで気持がよい。手許のモニタを拡大すると自分が飛んでいるように錯覚する。
動くのでピントあわせが難しくカメラの設定や動作に訓練が必要なようだ。

下段の白鳥は特に白い。恐らく彼らがいる場所の水に空が反映されて青白くなったと思われる。このくらいだと大変爽やかに感じられる。

さて昨日少なかった鳥たちは本日沢山見られた。それは昨日の探索が足りなかったか、あるいは西方から北帰行の鳥が新らたに加わったせいかもしれない。いずれにしても“鳥たちの都合”というしかないようだ。

明日からしばらく10数度と気温が上がり最大18度も予報されている。
鳥が北へ帰るのは、体内暦や気温などを複合させて決まるようだ。

今後北のふる里では伴侶探しと産卵、子育ての充実した日々が待っていよう。
今冬の当地は一時雪が多かった。これに懲りずどうか来期もまた大勢で来て欲しい。

およそ4ヶ月、楽しませてくれてありがとう!

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