去る22日(木)および23日(金)の梅見物 その1都内と熱海 懐かしくも嬉しいTVの浅田彰氏。

2024年2月24日(土曜日)

この4,5年の間に京都・奈良および鎌倉へ旅行した。その都度訪れた方々の社寺で梅の木を見た。特に2019年12月の鎌倉でそれに気づき、翌2020年2月に鎌倉を再訪し梅を観ようと宿泊・交通の予約も済ませた。ところが運悪く予定を見計らったようにコロナ禍が始まり旅行は中止となり4年が過ぎた。

一方木曜を休診にして一年、このたび金曜日が天皇誕生日だったので2月22,23日は連休となり、熱海で1泊、東京、熱海、鎌倉で社寺、梅園など梅の名所とされる場所を巡り、ほかに二つの美術館を訪ねた。ただ両日とも各地で気温が下がり行った先々は大変寒かった。

22日午前上越妙高駅を発って10過ぎに上野へ、そこから湯島天神と亀戸天神社を訪ねた。今冬は温かく、花期の長い梅とはいえ盛りが過ぎ、花は遅咲き中心の観梅だった。それでも両神社の花は風情良く周囲と調和し、冷たい小雨のなか飽かず眺め歩いた。

上野駅の千葉県フェア。
特に房総は花の産地、
明るい春の花が一杯。

構内の花屋さんも春が香っている。

当日最初の湯島天神は4年前の年末以来。随所の合格祈願の絵馬の棚はぱんぱんに膨らむほど。

文京区の湯島天神から江東区の亀戸天神社へ。以下の亀戸天神は初めてだった。
遅咲きの梅が見頃。

赤い太鼓橋が印象的な神社。
藤も有名らしく是非観たいと思った。

カメラと傘で手がかじかむ。例によって昼食を端折り13時ころの東海道新幹線で東京駅から熱海へ向かった。1時間45分ほどで熱海に着く。熱海は一度だけ学生時代に海岸を歩いたことがあった。このたび駅周辺のあまりの混雑に驚いた。見た目若い世代が特に目立っていた。移動はタクシーで行ったが運転手さんは、若い人達はほとんど日帰りだと仰った。

皆さんに勧められたMAO美術館へ駅から直行した。もう何十年も前の開館なのに初めての訪問、しかし大勢の来館者を集めている。黄色や青の大きなトンネル内のエスカレーターを乗り継いで美術館エリアへ上った。これだけで他で味わえない巨大な空間と色彩が楽しめた。

大きな万華鏡ドームに到着。
ここから美術館の通路へ。

秀吉公の黄金茶室の
忠実な再現と茶道具の階具。
ここで茶を飲むとはどうしてもピンとこない。

野々村仁清の国宝「色絵藤花文茶壺」

尾形光琳の国宝「紅白梅図屏風」

 

 

聖観音(上)と如来(下)

多くの寺院で本尊や諸仏が秘されるが、当美術館のように明るく公開されかつ撮影が出来るのは夢のようだ。

佐藤玄々「猫」。
佐藤氏は日本橋三越の巨大な天女像の作者。

当作品の台に影が無く、極めてこまやかな照明が施されている。猫はエジプト彫刻のパステド神を思わせ、柔軟で敏捷な気配を漂わせていた。

前田正博作「色絵銀彩角鉢}
当館に同氏の抹茶茶碗が二碗ある。
氏の作品が展示されていて喜んだ。

朝方の当地より東京や熱海の方が寒かった。そんな日に梅を観てああ日本人だなあと思い、MAO美術館を観て創設者の凄さに驚いた。

この晩入浴後、妻がBSで浅田彰が出ている番組を観ていて驚いた。もう一人のゲストは先崎彰容(せんざきあきなか)氏で番組はBSフジの「プライムニュース」だった。
論題は現代の戦争、原理主義、グローバル資本主義、格差、分断などが論点だった。一応左右の論客である両氏の説諭は思慮深く、激しい論争や制止、中断も無く相互に十分な発言が保証された良い番組だった。
ネット時代の初め頃、方法としての二進法原理がより深く社会に浸透し、世論も単純かつ二分化を強めるのではないかと危惧した。案の定、社会は複雑な理解を要とする中間的立場や中庸を許さない傾向を強め、思考、思想の単純、幼弱化と分断に落ちていくのを自分なりに心配していた。

番組の最後に二人は今後日本の処方箋は?と問われた。
浅田氏は「処方なし」とボードに書き、“良いといわれる薬はニセ薬が多い。今後もみな苦しみながら生きる”と追加した。
先崎氏は「寛容」と一言ボードに書いた。

昭和50年代、辛さが続いたころ、浅田彰や柄谷行人などの本に拓けた頭脳と思考にまぶしさを覚え、繰り返し読んだ。当日のTVから浅田氏が随分分かり易くなっていることが伝わり嬉しく思い、一方で沈着なポジションが一貫されているのを知り立派な事と心打たれた。

また「右」と自ら述べられた先崎氏も広い足許に立たれ、談中この先大切なのは「理念」jと指摘されて共感した。最後の「寛容」は高校時代の恩師渡辺フミ先生が繰り返し説かれた二文字で、これを右寄りの人が言及されるのを聞き、日本はまだ希望を持てるかもしれないと思った。

番組を視聴していた妻に感謝だった。

次回は23日午前の熱海梅園と澤田政廣記念美術館を記す予定です。

齋藤三郎、新旧初窯作品が一緒に。

2024年2月21日(水曜日)

旧聞になりますが昨年のある日、上越市本町の遊心堂さんへ寄った折、染附の盒子(ごうす:香合)と色絵の湯呑を求めた。
香合は縦×横×奥行きが3,9×4,6×3,9×3,4センチ、民家の絵柄が描かれている。香合だから小さいが上品さが漂っていた。

道の先の家は蔵のようであり木は竹林に思われ、恩師富本憲吉作品に見られる奈良県安堵村の風景文様を彷彿とさせた。蓋裏の署名は戦前に続く早い時期の雰囲気を引き継ぎ何より嬉しかったのは器の底と箱の裏書きに「初窯」と記されていることだった。

 

蓋裏の署名。

 器の底。

箱の蓋は立ちが取られ
とても丁寧に作られている。

髙田に於ける昭和23年の初窯は初々しさと目出度さがあり、ひとしお嬉しい。署名に「陶齋作」とあり初窯から陶齋を名乗っていることにやや驚いた。

さらに初窯作品がもう一器。こちらは市松模様の色絵湯呑で、花を散らした明るい模様に「五壽年初窯」と縦書きされている。五壽年は昭和50年のこと。、

高台に見える初窯と署名。

齋藤三郎は昭和23年髙田に登り窯を築き奮闘活躍を重ねた。駆使された窯は昭和50年に新工房とともに新たな登り窯に作り替えられ、二度目となる初窯作品が焚かれている。

樹下美術館には飾皿、菱皿セット、鉢、香合、盃など最初の初窯作品があり、二回目の作品として染附妙高山の角皿がある。収集を続けながら、突然のように出会う初窯作品は賓客のようであり格別な感慨を覚える。

上記二作品は3月15日から展示致します。数が多くなりますが見つけて下さい。

温かな週末 連日雪囲い外し バッハのアリア。

2024年2月18日(日曜日)

二日続きの好天。朝は寒かったが上越市髙田の最高気温が19,5にまで上がり上っ張りいらずだった。

 

様々な飛行機雲が見えた。

昨日庭の囲いを外したが、本日の空をみて午後から続きをやろうという事になった。

再度私が囲い縄を切り竹を抜き、家内が結び目を切り取る手順。

カラカラ、ガラガラと乾いた竹の音が庭に響いた。後に妻はクリスマスローズの葉を切り落とし、私は芝生でゴルフボールを打った。

夕刻の四ツ屋浜。

陽は少しずつ北に移動している。その方向に能登半島があるはず。本日皆さんはどう過ごされただろう。


1995年1月24日NHK交響楽団定期演奏会、
阪神淡路大震災への追悼演奏
「バッハのアリア」。


2024年1月9日小澤征爾さんへの追悼演奏
ボストン交響楽団による
「バッハのアリア」

庭の雪囲いを外してみた。

2024年2月17日(土曜日)

白鳥やハクガンではないが、当地ではもうさして雪は降らないと決め、本日午後美術館の庭の雪囲いの一部を取り外した。今冬雪らしい雪が降ったのは昨年のクリスマス前だけだった。

まだ降るかもしれない、といえばその通りだが陽気に釣られて外してしまった。但し囲いの中で木を縛っている縄はそのまま残した。

約二時間半外周の縄を切り囲いの竹を抜き、妻は結び目を切り解いた。

本日は7割方外した。作業量として、囲う手間の10分の1よりも楽ではないかと思った。囲って下さったお手伝いのお二方、済みません、黙って外してしまいました。

終わりころにお茶を飲んだ。

一番乗りしているクリスマスローズ。
このところの好天で。
3月15日開館まで持つか心配。

以下、この冬庭に落ちた枯れ枝です。細かい物はまだ沢山あります。

やはりそうだったのか、その2ピーナッツ?

2024年2月14日(水曜日)

一昨日のこと、珍しく家に殻付きのピーナッツ(落花生)がやってきた。粒が大きくからからと乾いている感じは食欲をそそられる。午後遅くパチンパチンとやりながら7,8個食べた。

当日夜遅くまでかけて倉石隆の告知資料やブログを上げると落花生のバチンバチン、カリカリを思いだした。五つ六つだと思うが手にとって美味し口にし、しばらくして寝仕度の後就寝した。

順調な睡眠だったが、早朝4時ころお腹がシクシク痛みはじめ目が覚めた。痛みは臍を中心にあちこちに来る。引っ張るように、縮むように、ツンツンシクシクと絶え間ない。
ゆっくりだが痛みは強さを増す気配。時に息をこらえなければならなこともあり、額にうっすら汗が滲んだ。

吐き気も無ければ下痢の気配も無くただ痛む。我慢しながら過去に似たことがあったか思いだしてみるが思い当たらない。
もっとも嫌なことだがイレウスが始まるのか?だが時々腸からググッという音が聞こえ、お腹のどこにも張りやガスの溜まりを思わせるものが無い。

一体何だろう?トイレへ行ってみる。入り口の鏡に映った自分は顔色を失い真っ青になっている。普通の便が普通に出たが冷や汗が止まず、急に立つと倒れそうなので万事ゆっくり動作した。

カサカサと唇が乾いているのでベッドサイドのポットから二杯の湯を飲み、念のため胃薬と整腸剤を飲んだ。3、40分するとほんの僅か薄らぐ気配だが痛みは続き、寝返りを繰り返すものの寝つくことは出来ない。
すると腸のある部分に食べたピーナッツがこなれずに塊としてじっと残り、腸が必至にあれこれ動いて消化を試みているのが映像の如く浮かんだ。さらにその辺りが薄赤くなり炎症を帯びているイメージも。
ピーナッツ?
再び胃薬と整腸剤と湯を飲んだ。しくしく痛みは続き、ついに西念寺さんの朝の鐘が鳴って6時になった。

そして7時になり、起きた妻に「腹痛のためあの方たちとの昼食は一緒出来ない」と告げた。当日昼、お二人の友人と食事の約束があった。
それから眠気に襲われ、昼近くに「行ってくるけど大丈夫?」と妻に訊かれ、大丈夫、行ってきてと返事をした。随分良くなっているのが分かりまた眠った。

目が覚めると午後3時を過ぎており、帰宅した妻に起こされた。花束が差し出され二人からのお見舞い、ということだった。
痛みはすっかり無くなり全く普通に戻り、夕食は粥を食べた。

恐縮至極のお花、バラ、デルフィニュウム、
カーネーション、アルストロメリア、、、。
本当に申し分けありませんでした。

さて調べてみるとピーナッツは優れた食べ物だが消化に時間がかかり、時に食べ過ぎなどで消化不良を起こし腹痛や嘔吐下痢を生じることがあると載っていた。
こともあろうに妻は「かってある検査を受けた時、寝る前のピーナッツは避けるように、と医師にいわれたことがある」と言った。

詳らかな証拠は無いが一件は「やはりピーナッツ」だったようだ。せっかくの約束と祝日を寝て過ごしてしまい、年も考えて厳に気を付けなければと反省の一日だった。今回痛みが主だったのは幸い軽症で済んだせいかもしれない。

やはりそうだったのか、その1暖冬。

2024年2月13日(火曜日)

「もしかしたら」そうかも知れないと思っていることが、何かに書いてあったり、誰かが語り「やはり」と思うことがある。最近それに類する事が二件あったので書いてみたい。

一つ目は2月になってハクチョウやハクガンなど冬鳥の姿がり見当たらないことの訳だった。
白鳥は11月上旬、ハクガンは12月下旬に初めて目にした。特にハクガンの群は大きく、その後の撮影を楽しみにした。

今冬12月29日の初ハクガン。

24年1月14日夕刻の朝日池。
ねぐら入りしたコハクチョウとハクガン。

ところがその後ハクガンを目にしたのは2回だけ、大きな群は1月30日中の朝日池が最後だった。

昨冬は2月15日まで近隣の田でしばしば観察されたので、今年2月、近辺へたびたび足を運んだ。しかし朝日池にも田にも姿は無かった。

 今期11月18日の朝日池の夕刻。
白鳥や雁で一杯だった。

2024年昨日空っぽの朝日池。
水だけは満々。

例年まだまだいる白鳥もいまや全く見当たらなくなっている。私だけが見損なっているのか。しかし知り合いの鳥好きも「せっかく池の水が満々になっているのに見ない」と同じ事を口にする。何とあっけない、例年とは様子が違う、、、。

暖冬のせい?だが冬鳥の餌場である当地の田は山間にかかる所などで十分な雪が残り、彼らが苦手な気温上昇はそれほどではないはず。どこかに沢山いるのではと本日日中も車を走らせた。

ところが今夕、妻が「新聞見た?」と朝日の天声人語を見せてくれた。そこには冬鳥の飛来地として有名な宮城県伊豆沼では、例年これから鳥たちの北帰行が始まるが、今年はすでに終わりかけている、と伝えていた。

私達は暖冬厳冬、大雪小雪、ドカ雪淡雪など色々経験しているので、たとえ暖冬に推移しても、「この先まだ降るかもしれない、そんな年もあった」などと考え即断を避け、常に用心深い。一方鳥たちは各年ごとに判断し、「そうと決めたら早い」のか。

数百の群も一羽が飛び立つと全羽が一斉に飛ぶ。さらに北帰行など大規模な移動を一体だれが決め、なぜ皆が従うのか、野性の仕組み(知?)は並のものではない。
デジカメなど電子部品満載のカメラを手に、去った鳥たちを探し右往左往していた自分。比べて暖冬と決めるやさっさと帰った鳥たち。その違いは滑稽でさえある。

思えば彼らがこの先伴侶をみつけ産卵し子育てする遙か北の地こそふる里なのであろう。当地は極寒期の一時避難場所であり、帰れるとなったら一刻も早く帰りたくなるのは鳥たちの人情なのだろう。

良い勉強になった。これでもう今冬の探鳥をお終いにしたい。彼らには来期も是非また沢山来てもらいたい。

 

ところで実は昨日祝日の建国記念日、夜半を過ぎて午前4時ころから恥ずかしながら腹痛に苦しみ、せっかくの祝日を寝て過ごした。
下痢嘔吐もなく、ただ痛かっただけ。明瞭な判断材料もなく「もしや」と考えていたことがどうやら「やはり」だったらしいので、次回そのことを書かせて下さい。

今年の倉石隆の展示。

2024年2月11日(日曜日)

作品点数がやや少なく展示場も狭い倉石隆の絵画。毎年一定の趣向を決めて展示するには智恵をしぼらなければなりません。

2011年まで5年間は特定のテーマを決めずに展示。その後毎年何らかのテーマ(趣向)で開催してきました。それらを眺めますと、男女、お嬢さん、挿絵、自画像と自己投影像、細長い絵、瞑目する人、カリカチュア風、朱色シリーズ、男性シリーズ、男女、多様性シリーズ、デッサンなどがありました。

スペースが狭いことに助けられなんとかクリアしてきましたが、アイディアが浮かぶとほっとし、ある意味楽しい作業でもありました。

さて今年の倉石隆のテーマです。氏が描いた人物は赤ちゃんからお年寄りまで一定の幅がありましたので“揺りかごからお年寄りまで“などを浮かべていました。するとこれでは羅列に過ぎず深みに欠けるように思われました。
そこであらためて候補の作品を眺めますと人物たちに“精一杯生きている印象”が濃く浮かび上がってきました。

その結果タイトルは「兎に角生きる」に決まり、うぶ湯や抱っこの赤ちゃんからお年寄りまで13点を選びました。

 

同ポスター、チラシファイル。

昨年12月、ある動画の対談で辛さを抱えながら生きるのは仕方が無いとして、かってボストンマラソン優勝、メキシコ五輪2位ほか数々の大会で優れた成績を残した君原健二選手の言葉が紹介されました。

氏はレース中、あまり他者との競争を意識せず兎に角「次の電柱まで走ろう」のくりかえしだったというのです。これを聞くと首をふりふり喘ぎながら走る君原選手が浮かびました。
ああそうかもしれない、確かに人生になにかしら目標はあってもその日々は“差し当たりあそこまで”を精一杯繰り返しているだけかもしれない。

倉石隆の人物たちにもそれが感じられ、それぞれの日々を生きる中で、ふとその手を離した時の表情に普段の生活努力が滲じむように浮かぶのを感じるのです(赤ちゃんにも、少女にも、大人にも、老人にもです)。

「兎に角生きる」あるいは「兎に角生きた」。年を重ねると、生活は余計そのように瞬間的な感覚の連続であるかのように思われてくるのですが、皆さんは如何でしょうか。

本日の三和区行き 小澤征爾さんが亡くなられて。

2024年2月10日(土曜日)

本来ならば本日は晴天となり、遠くへ行かなくても妙高山がきれいに見える三和区へ行くつもりだった。ところがまあまあの空だったが妙高山は雲に隠れたまま。それでも運が良ければ山は見えるかもと期待して出かけた。

本日はもうひとつ、一昨年まで仕事でお世話になった三和区のAさんに急遽お会いして、お目当てのカフェ「喫茶去」と近くの山高津の池へご一緒することになっていた。伺うと思いもかけず「上がって」というお言葉でお茶をご馳走になった。

手入れをされた旧家の風情が漂うお宅。周囲の水田、遠くの杉木立。小学一年生のころ一度だけ訪ねた清里区にあった親戚の家を思い出した。あるいは満州からの引き揚げで、フラフラになってたどり着いた佐賀県の母の実家の安堵が蘇るのか、山が見える田舎の集落の家には一種思慕のようなものを覚える。

お茶を頂きながら昔話や土地のことなどお話しして喫茶去と山高津の池へ向かった。

いっとき日射しに映えた
三和区の赤い屋根。

このたびで五回目の「喫茶去」。
いずれも晩秋か冬なのが不思議。

結局妙高山は姿を現さなかった。カフェで美味しい茶を飲みながらAさんと妻は女子校の同窓であること、共通の知人が何人もいることなど思わぬ縁に驚かされた。

本日妙高山の雪景色が撮れればヴィヴァルディの「四季 冬」の第1楽章を掲載する予定も叶わなかった。

さてさる6日、偉大な小澤征爾さんが死去された。私は2回しか氏のコンサートを聴いていません。しかし周囲には年に複数回聴きに行かれる方や氏とのツーショット写真をお持ちの人もおられ、とても羨ましかった。


チャイコフスキー「弦楽セレナーデ第1楽章」
アカデミー -スイス-によるサプライズアンコール曲。
美しい音階と和声、若者育成への情熱が伝わる。

そんな私だが小澤征爾さんと唯一わずかな共通点がある。氏は1935年満州国奉天市生まれ、不肖私も7年後同じ奉天市で生まれた。どこか心の片隅でそのことに恥じないように、出来れば誇りにしなければと、思い直している次第です。

今年の齋藤三郎(陶齋)の展示。

2024年2月9日(金曜日)

樹下美術館の冬期休館は早々と中ばを過ぎました。ようやく齋藤三郎(陶齋)と倉石隆の展示のテーマが決まり、数日かけまず齋藤三郎のホームページバナーやポスター、チラシ原稿が出来ましたので本日とりあえず掲載致します。

ホームページ用お知らせバナー。

今年の齋藤三郎は「齋藤三郎の文様」に致しました。昨年上越市立小林古径記念美術館で「生誕110年 齋藤三郎展」が開かれまし。その期間中、ギャラリートークでお話しさせて頂いたテーマの一つです。

文様は齋藤三郎お得意の「椿」「梅」「牡丹」「ざくろ」「秋草」はじめ「スイセン」「コブシ」「ぼけ」「竹」「どんぐり」「露草」「芙容」「ドクダミ」「野イバラ」ほか「トロロアオイ」や「葉っぱ」などの草花や「松」などの植物。さらに民家、山などの「風景」、「雪華」及び「麦わら文」や「文字」がモチーフとなったものなど、多岐にわたります。

椿やざくろ、あるいは秋草などを沢山集めて出しますとスペースが全く足りません。それで相当ごちゃごちゃすると思いますが、多くあるものは数を絞り、出来るだけ多様なモチーフを並べたいと考えています。

文様は50種類前後の予定です。古径美術館ではプリントでお話ししましたが、この度は器をご覧頂くことになりました。初めてお目に掛ける作品も混じりますのでどうか宜しくお願い致します。

倉石隆作品は「赤ちゃんから老人まで」という風な趣向で考えています。来週末にはご紹介させて頂く予定です。

ホームページにおける「齋藤三郎の文様」のお知らせは連休明けになりますので宜しくお願い致します。

さて第3、第2楽章を載せましたヴィヴァルディの「四季」から「冬」。残り第1楽章は晴れた雪景色の写真と一緒に載せたいと考えていました。何とか妙高山が見える日に三和区のお目当ての場所へ行き、良い感じに写せればと思っている所です。

表現と愛着。

2024年2月7日(水曜日)

本日も雪模様。積もることは無かったがびしゃびしゃ水っぽい雪が降ったり止んだりしました。
何度も書きましたが毎水曜日は特養の回診日。早めに終了したため、また冬鳥、特にハクガンの探鳥に辺りを走りました。

何カ所か見当をつけた場所はいずれも外れ、一羽のハクチョウも雁も、当然ハクガンも見ませんでした。こんなことは珍しいですし数日降った雪が鳥たちをどこかへ追いやってしまったのでしょうか。

柿崎からの米山。
いっとき雲が切れました。

外出時はなにがしかのカメラを持参し、面白そうなチャンスがあればレンズを向けます。本日は天気が悪く肝心な風景も今一でした。

当地は特別風光明媚な観光地はないので見た目良い写真を撮るのは簡単ではありません。それでも自然や雲など季節ごとの情景や電車あるいは花鳥を写すことで満足している次第です。
本当は妙高山が近くに見える地域であればなあと思っていますが簡単な事ではありません。

ところで地域の景観の美しさは、そこで生まれ育った人であれば他をあまり知らなくても、ここは素晴らしいと自覚するのではないでしょうか。
さらに世界的に風光明媚な所の人が自ずと「ここは世界一」だと考えるのはそう外れていないのも不思議な事です。

私の場合は特別な場所ではないのですが、愛着というのでしょうか、微妙なことですが何かしら心に響く光景や風光に出会えれば撮ってみているだけ。たまたま当たりのようなことがあれば、いつか又と単純に期待してレンズを向けるという風です。


ヴィヴァルディの四季から
「冬」。本日は第2楽章です。

最後に一つ、もし風光明媚な所へ行って撮ったとしても、どこか平板で心こもらないものばかりだったという経験も不思議といえば不思議なことです。表現の場合、何かに付け愛着というようなものは大切な要素の一つかもしれません。

今後行ってみたい所は東北の名山が見える里のような所で、その次は山陰で、果たしてどんなでしょうか。

2月の雪。

2024年2月5日(月曜日)

昨日の当欄で、過去5年間に書いた2月のブログ記事の事を最後の方に載せました。その中で、思わぬ雪が降ること、を挙げていました。

今のところ今年の冬は暖冬、小雪でしたので、本日の雪は「降ることがある」風に思われました。そんな日の午後遅く在宅訪問で二軒回りました。

最初のお宅は雑木林を行きますので道中は美しい景観でした。

雑木林の雪道。

伺った二カ所の距離は市街地を入れて8キロほど離れていましたが、このあと回った国道はまだ除雪が必要ない状況でしたので助かりました。でも雪道は良くても悪くても何が起こるか分かりません。早め早めにブレーキを踏み、時にはエンジンブレーキを効かせて走りました。

 

今夜仕事場前の道。
豪雪レベルではなさそうです。

2月、3月は普通に、時には4月上旬に雪が降ることがあります。今後は淡雪と言いますか、地上をうっすらと白く染める降り方もよく見られます。但しこの時期から大雪になることがありまだ油断出来ません。
本日の雪は明朝までには一旦止むようです。その後どうに推移するでしょう。


ヴィヴァルディ「冬」
第三楽章。

この度は太平洋岸にも降ったようでした。

 誕生日の追加 週末の鳥 2月とは。

2024年2月4日(日曜日)

2月1日が誕生日で、はや4日目です。自分の事をいつも老人とか高齢者と書くのはモヤモヤしますし、第一誕生日を記しながら何才と記さないのも失礼なようででもあります。それで恥ずかしさもあり以後何度も申しませんが、お陰様で82才になりました。

この先は、いくら先人の通った道といえ私にとっては全てが初体験(これまでもそうですが)。弱気を口にしたらキリがありませんので、出来れば年のことは知らぬ振りをしながら生活し、出来るだけブログも続けたいと考えています。

さて蝋梅に触れました1月24日には「冬本番のさ中」と記しました。それから10日、この週末は寒かったのですが日が伸び、かつ高くなるのが感じられ、外に出ると僅かながら春の気配を感じました。

このところ沢山飛来しているはずのハクガンに中々お目に掛かれません。
一昨日土曜日午後は柿崎、吉川、大潟、頸城の各区から三和まで観て回りましたが、主にコハクチョウとマガン、ヒシクイを見るだけでした。

頸城区で雁に混じって
10羽ほどいたハクガン。

上掲の場所に次々と雁が舞い降りたが期待したハクガンは一羽も現れなかった。一体何所にいるのやら。

上掲は道中の溜め池にいた
オオバンの家族の一部。

オオバンはカラス、カワウと並び黒い鳥の代表ではないでしょうか。僅かな尻尾とくちばしの上に白い額板という部分があるのが愛嬌です。枯れ草の下に生えているらしい若草を食べているようでした。

本日午後しばらく陽が射しました。

米山(上)と尾神岳。

久し振りのツグミ。
どこか人懐こい鳥。

鴨なんそばのネギは頂き物。
セリはお店のものという事です。

先ほど2019年から毎年2月のブログをざっと目を通してみました。
2月は日射しが強くなること、クリスマスローズが咲くこと、思わぬ雪が降ることなどがよく見られていました。
また2020年2月に、新潟県で初めてコロナ感染者が出たと記されていました。
先の事が全く理解できずあたふたと過ごした当時を懐かしく感じました。ただ5年目に入りましたが相変わらず集団的な発生は止んではいません。

この数年ハクガンを沢山見るのも2月でした。今期はこれまで最大の群が来ているようなので期待したいと思います。

いつしか今年の開館までもう少しとなり、毎年緊張する時期です。近いうちに今年の展示予定を掲載致しますのでどうか宜しくお願い申し上げます。

本日誕生日だった。

2024年2月1日(木曜日)

本日2月1日は不肖私の誕生日。今年1月の人口推計では日本の人口は1億2409万人ということなので同じ日の生まれの人は一先ず365日で割って約34万の方がおられることになる。

するとこんなに大勢の人と同じ誕生日ということで何か心強い気持がしてきた。しかし同じでも最も高齢に属する方なので一番尻尾にくっついている、というかお邪魔している感じがする。いずれにしてもあらためて精一杯頑張ろうと思ったし、それ以外無い。

上掲は去る1月29日午後5時頃、美術館の庭にあったウサギの足跡。ウサギは冬眠をしないようだがこの辺りで巣穴を見たことがない。どう寒さを凌いでいるのだろう。
お客様が通る庭を今はウサギが行き交っている。悪くないと思った次第です。

昨日の夕食は宮城の弟から届いたマダラだった。弟も2月生まれで1才しか違わない。いや今や同じ年のようなもの。この一、二年は「さん」付けで呼ぶようになったし、長年、年長ぶっていたことを詫びたい気がする。

上掲写真は本日運転免許の更新で行ったセンターで使用される立体駐車場。以前は豪雪のことも度々あり駐車場で苦労し、更新には良い思い出が無い。

2月生まれの人に会うと年は違っても普通以上のシンパシーを感じる。「同じ星のもと」という感じなのだろうか。

初めてのコウノトリ 若草の田にコハクチョウの群。

2024年1月31日(水曜日)

本日午後は特別養護老人ホームの回診。比較的皆さまが落ち着いていて早めに終わった。予想以上に良いお天気。田んぼへ鳥を探しに回った。

1月14日のねぐら入りを見て以来、ハクガンを目にしていない。数百羽という規模で来ているようだが、田の食事風景を見ることが出来ないままである。
大きな群で広がり、無心に田んぼで過ごすハクガンとその子らは迫力があろう。出会えないのは残念だ。

しかし本日、その代わりというのを二つ目にした。一つはコウノトリで、朝日池の付近で農道の先に思いも掛けず二羽が待っていた。初めてだったが、吉川区の橋爪さんのブログで度々見ていたのですぐに分かった。

一羽が飛び立った。
すだれのような翼の模様。

じっとしている。

残った一羽は餌を漁っている。

間もなく歩き出す。
赤い足が印象的。
標識の足環が見える。

躊躇無く車の先を横断。
ぬいぐるが歩いているよう。

コウノトリに出会う前、一様に草が生えた水田にコハクチョウの群がいた。普段水鳥を見るのは雪上か水上、あるいは雪の無い枯れ田が普通で、この田のように水が滲みた新鮮な草地で見るのは初めてのことだった。

牧場で飼われているうような
爽やかな眺め。

昨日は晴天、本日も静かでまあまあのお天気だった。見たいと願っていたコウノトリが突然行く手に現れ、草の水田に広がるコハクチョウの群も初めてだった。

 今夜うどんを食べて思う。

2024年1月30日(火曜日)

本日の夕食は天ぷらうどんで鉄鍋で熱くして出されました。
乾麺を湯がいたので後口に僅かに粉っぽさが残るのは仕方ありませんが、タレが美味しく胃腸にも優しく有り難いことでした。


それにしても思い出すのは高松の夕ご飯の「讃岐うどん」です。
ただのうどんと言ってしまえばそれまでですが、何故心に残ったかを述べるのは少々難しいかも知れません。

長い長い伝統、混じりけの無さ、ひたすら重ねられた競争と研究の味、、。そのようなことがひと口ごとに感じられすっかり感激したという訳です。

もう少し加えるなら、知る限り「黒うどん」や「赤うどん」あるいは「豚骨うどん」などは無くひたすら白一色。バリエーションが比較的限定されている潔さもありました。

食事時、低血糖気味というのも消化吸収の良い讃岐うどんには打って付けだったかもしれません。また入店後あれこれと選ぶ必要もなくただ「うどん」を食べれば良いという直線的なポジションも希有な事だったと思います。

話変わりますが、ひたすら手入れ良く美しい「松」と「石垣」を見せる「玉藻公園」にも似たような感慨を覚えました。

最後ですが、色々と手を出したがる自分は、「讃岐うどん」や玉藻公園の「松」と「石垣」のように対象を絞って取り組まれている高松の清々しさに心打たれた、というのが本日のテーマだったようです。

季節などにも左右されない安定した魅力ということでしょうか。

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