祖母の姉の嫁ぎ先を訪ねた  そして野口孝治のこと

2010年11月25日(木曜日)

午後の休診日、上越市頸城区森本の遠い親戚S宅を訪ねた。祖母トワの姉タイの嫁ぎ先で、ご当主とははとこ同志、これまでは門前へ伺っただけだった。今日お庭を公開されると聞いて訪問した。ありし日の地主のお宅で、豪勢な屋敷構えに驚かされた。

祖母姉妹の実家は旧津有村(現上越市新保古新田)の開田地主だった。姉妹の兄で明治5年生まれの孝治(こうじ)は生涯を高田平野の用水保全や野尻湖の貯水と発電事業などに捧げている。また護憲の犬養毅を敬愛して大正時代に立憲国民党から出て衆議院議員を務めたこともあった。

孝治は高田学校(現高田高等学校)を出て福沢諭吉が健在していた慶應義塾理財科へ進んでいる。その人生は諭吉と犬飼の思想を実直に反映したものといわれ、孝治の自室には二人の写真が掲げられていたという。ちなみに孝治の長男は高田市議会議長を、甥の小山元一(かずもと)は初代上越市長を務めた。

 

門からの道
門から母屋へ続く通路
母屋正面
母屋
築山の道
濠(ほり)に沿って築山の道
東から見る家
築山から母屋の東側を見る
手水
手水と庭下駄
濠とモミジ
周囲にめぐらされた濠(ほり)

さて祖母の実家やほかの姉妹たちの嫁ぎ先も家が大きい。トワは医家の我が家に嫁ぐと木造二階建ての病棟のほかに10数部屋を有する住居が建った。本日尋ねた姉の嫁ぎ先が建って数年後の竣工は、姉に負けられない意識もあったのだろう。我が家の仏間は60畳(現在30畳)だった。

昭和28年、小生の小学6年時に亡くなったトワの通夜はその仏間で行われた。普段寡黙な父が座布団をくるんで背負い、赤城の子守歌を酔って歌って踊った。私は驚いて見ていたが、父には特別な日だったにちがいない。

 

実は祖父母は大きな家などで莫大な借財を作っていた。貸し主は祖父の叔母が嫁いでいた酒蔵だった。返済は医師になっていた父の肩に重くのしかかった。現金を求めて満州へ渡ることになる父。志していた大学での学問からの転換はまことに不本意なことだったろう。

勤務地の満鉄病院に佐賀県古枝(ふるえだ)村出身の看護婦・母がいた。
母によると、少々ふけた独身医師が病院にいたという。ある日、どうして結婚しないのかと尋ねると、
「僕には親の大きな借金があるから」と父が言ったらしい。

 

本日の見学は庭だけだった。是非とも屋内も拝見してみたい。外観を一見するだに貴重であり、調査や保護、利用を検討すべきではないかと思った。



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