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10月8日(土曜日)はチェロとギターの美術館コンサート。

2016年8月17日(水曜日)

今秋10月8日(土曜日)の夕刻に音楽会
「チェロとギターの夕べ」を開催致します。

スイスとスペインで研鑽されたチェロの竹花加奈子さん、
ドイツとイタリアで研鑽されたギターの蓮見昭夫さん。

秋の夕べのひと時
心打つデュオを存分にお楽しみください。

場所:樹下美術館
時間:18時30分開演 

 

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2012および13年のお二人の演奏会は大きな好評を博しました。

 

今夕の月
夕刻日没のころ、明日満月を迎える月が穏やかに昇っていました。

釜蓋遺跡の出土品を見る 巡業中の力士と会う。

2016年8月7日(日曜日)

昨年3月に開業した北陸新幹線の新駅「上越妙高」
周辺の関連工事における2005年の調査時、弥生
時代~古墳時代の大規模な遺跡、遺構が発見され、
2008年度の国史跡に指定された。

遺跡は埋め戻されているが案内施設(ガイダンス)
に出土品や説明物が展示されている。
上越妙高駅の目の前であるが訪れたことが無く、本日
お近くの方の案内で念願が叶った。

どんなものでも身近なものは詳しく見たくなるし、
知り合いの音楽や絵画などに特有の親しみを
感じるのは自然であろう。

展示物は決して多く無かったが照明がほどよく、
土器類の質感や文様が良く見え興味深かった。

 

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↑展示の弥生土器から明るい印象を受ける。
縄文土器のおどろおどろしさ、須恵器の暗さ
からみると単純だが、当時の生活感も伝わる。

端正な器には一部でロクロ技術が用い
られていたのかと思うほどのものがある。
九州から始まったとされるクシ目模様もしっかり
施され、文化度の高さも十分ではないだろうか。

今後も周辺の発掘は続けられるが、いっそう
ダイナミックな展示が期待されるし、市県とも
もっともっとこの方面への注力を望みたい。

 

3
↑口作りにへらで模様を点けている。
肩の線も滑らかで美しい。

 

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↑5,6本の歯からなるクシ目で波形に模様を点けてある。

 

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↑10数本の細い歯のクシで円周に沿って複数ケ所模様を
施している。
ロクロが無かったとすると、一人で器を回して彫ったか、
もう一人の回す人と共同作業で櫛目を付けたのか。

 

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↑何重もの同心円を重複させて描いている。
クシを使ってコンパス式に回して彫り模様を付けたようにも
思われるが、フリーハンドで同心円を彫ったようにも見える。

 

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↑体験学習あるいは同好者が作成した弥生土器。
説明者が「どうやっても出土する土器のように薄
く作ることが出来ない」と仰った。
生活者の探求と技術は簡単に追従を許さない。

展示室にさらに南に下った吹上(ふきあげ)遺跡
で多く出土したヒスイの装身具が展示されていた。

ヒスイは日本海の糸魚川から、黒曜石は長野県
から運ばれたのであろう。

物物交換の原始経済であれば、当遺跡が属す
る妙高市の斐f太(ひだ)遺跡群の一つとして、当時ど
んな品(産物)が当地の交易材料だったのだろう。
主たるものは米だったにしても。

遺跡はいずれも山裾の扇状地に見られている。
低地の関川流域では洪水ばかりで稲作どころでは
なく、比較的高い土地の方が安定した農耕が出来たの
かもしれない。

弥生時代は争いが多かったとも言われるが、本日
見た土器の明るい生活感から、裕福では無かった
かもしれないが、平和な場所だったのではと思った。

さて本日上越市リージョンプラザで大相撲上越
妙高場所があり、ある力士にお会いした。

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終了直後にお会いした篠原関。
三段目全勝優勝の経歴を有し、
現在幕下で頑張っていらっしゃる。

学生時代に体操、テニス、ゴルフなどで極めて高
い身体能力を有し優れた成績を残した先輩がいた。

その先輩(医師)と仲良くされている篠原関。
このたび是非合ってみてと先輩から電話があった。

「結び」が終わった広い会場で主催の方にお
尋ねすると、清々しい笑顔で出て来てくださった。
ご挨拶をして一緒に写真を撮らせていただいた。
柔軟で賢そうな力士だった。

大相撲が楽しみになった。

 

中島幸子さんの追悼文集から。

2016年7月23日(土曜日)

前回7月21日に小山作之助のひ孫に当たる悲運のヴァイオリ
ニスト中島幸子さんについて書かせて頂きました。

彼女のバイオグラフィーはお母様の香織さんが1983年8月6日
に発行された幸子さんへの追悼文集「ヴァイオリンと共に」を主に
使わせて頂きました。

本書は幸子さんの恩師シャーンドル・ヴェーク氏、久保田良作、
板谷英紀の各氏、先輩の塩川悠子さん、ご友人たち、音楽関係
者など70人近い方々の寄稿によって構成されています。

 

ヴァイオリンと共に表紙
「ヴァイオリンと共に 中島幸子追悼文集」
画家・装丁家司修(つかさ おさむ)氏による表紙。
司氏は樹下美術館の常設展示画家・倉石隆の友人で、
倉石夫人・翆(みどり)さんは中島幸子さんの叔母です。

本日は書物から幸子さんの音楽と横顔についてかいつまん
で記させて頂き、最後に幾つかコメントを試みました。

【中島幸子さんの音楽】
ヴァイオリンは彼女の自然な生にの一部であり、楽器を完全
にしかも自然に自らの意のままに支配しきっていた/モーツ
アルト、シューベルト、ブラームス、バルトークはじめラベル
もものにしていた/モーツアルトに特別な親和力を有し、それ
は透明で清潔、軟らかく、生気に満ちた演奏だった/小柄だ
ったが楽器をとると数倍も大きく見え、信じられない迫力と大
きな音楽が湧き出した/音楽に対する自己規制の大きな力
を周囲に放っていた/厳しさとやわらかさのこもった演奏であ
り、伴奏をしながら心が震えるような感動を覚えた/優等生に
ありがちな偏った所がなかった/幼少から友人を大切にする
日常の中で完璧な基礎と専門性を身につけていたことが不思
議だった/神様がついているかのように成長し、才能を有した
者には人一倍の努力を行う義務がある事を具現していた/ブ
リリアントな音色、垢抜けしたリズ感覚/メンデルスゾーンの
ロマンを歌うに相応しく、パガニーニの閃光を自らのものとした
数少ないヴァイオリストだけに許された音楽/アンサンブルを
演奏していると桁が違いすぎると感じさせられた/最高のテ
クニック・深い精神生・音楽性・構成力・内的体験といったもの
の結合がみられた。/死はモーツアルトが神のもとへ連れ去っ
たと思うしか無い。

【幸子さんの人となり】
食通であり多彩な料理で人をもてなした/スキー、水泳から
野球、鉄棒、ボーリングをこなした/優しく、後輩をよく面倒み、
ザルツブルグでは日本の留学生の母のようだった/エキゾ
チックな風貌、キラキラ輝く大きな瞳/天真爛漫でお茶目だっ
たが、ヴァイオリンを手にすると別人のような鋭い眼差しに変
わり吸い込まれるような魅力を湛えていた/学ぶことも遊ぶこ
とも全力投球/物事の本質だけの世界に生き生きと生きる人
/筆まめ/みな内にしまって耐え、深い中心点から出てくる
恐るべき集中力/どんな時でも感情的にならなず、一言いう
と皆何も言えなくなった。

筆者からひと言。
早く父を亡くした幸子さんを音楽家として世界に輩出させた母
香織(かおり)さんの眼差しを思わない訳にはいかない。
幼少からの運動や遊び、学生時代の料理、円滑な友人間関
係などは、いずれも優れたヴァイオリニストへの全人的な養
育として意識されたものであろうと想像でき、大らかな中にも
厳しく困難な親子の日常が浮かぶ。
遠い目的地での成果の中で、突然訪れた幸子さんの急逝は
どんなに辛かったか、私などには想像もつかない。

それから30余年、失意に耐えられたお母様は数年前に亡くな
られた。
残されたお子、ヨナス・ルードナーさんはウイーンに於ける気鋭
のホルン奏者として活躍していることが伝わる。
またヨナスさんの父オラまたオーラ・ルードナー氏は、ウイーン
交響楽団のコンサートマスター,BBCほか交響楽団客員指揮
など活躍、経現在ウイーン・フォルクスオーパのヴァイオリン
奏者兼指揮者として活躍、度々来日されている。

長く仕舞っていた追悼本を取り出してこの度再読した。
作之助の音楽が死後90年近く経っても脈々と密かに、そして
輝かしく生きていることを喜び、この先へも希望を託したい。

小山作之助の曾孫のヴァイオリニスト、亡き中島幸子さん。

2016年7月21日(木曜日)

去る7月18日、海の日の祝日に卯の花音楽祭が上越市大潟区
で催されました。
大潟区出身で、荒城の月の瀧廉太郎を育て、夏は来ぬや川中島、
漁業の歌などを作曲した我が国の教育音楽の母と称される小山
作之助を讃える音楽会でした。

作之助の母はわたくしどもの高祖父、蘭学医杉田玄作の二女トヨ
で、作之助の弟で医師となった直次郎は当家に養子に入りしました
ので小生はその孫の一人、作之助は大叔父に当たります。

自分は作之助にいくばくか血縁ある身ですが、音楽の才能は無く、
卯の花音楽祭に際してわずかの寄附をさせて頂くだけ、あとは盆
に当家墓所の隣にある作之助の墓掃除くらいで、何もしていない
恥ずかしい縁者です。

ところで作之助に関する業績展示や顕彰事業は折々行われていま
すが、その子孫、特に音楽関係の後人についてあまり知られてい
ません。

実は直系の曾孫(そうそん・ひまご)に1949年2月27日上
越市大潟区生まれで、生後70日後に上京した故中島幸子(なか
じまさちこ)というヴァイオリニストがいます。
幸子さんは国立(くにたち)音楽大学付属幼稚園から同付属小、
中、高、そして同大学でヴァイオリンを学び、その間に久保田良
作氏にも師事しました。
※久保田良作:1928年-1997年のヴァイオリニスト、皇太
子徳仁親王のヴィオラ、ヴァイオリンの教師を務めた桐朋学園大学
教授。

幸子さんには以下のような輝かしい経歴がありました。
・1966年:学生音楽コンクール高等学校の部全国1位。
・1970年:第39回日本音楽コンクール2位。
・1971年:皇居に於ける御前演奏会に出演、海外派遣コンクー
ル入賞。
・1972年:ザルツブルグのモーツアルテウム音楽院のマスター
クラス入学、シャンドール・ヴェーク教授に師事。
・1973年:モーツアルト音楽祭にソリストとして出演。
・1974年:ヴェーク教授のアシスタントとなり後進の指導に関
わる。
・1975年:米国のマルボロ音楽祭に参加、同年東京でデビュー
リサイタル。
・1977年:パガニーニ国際コンクール2位。
・1976年からザルツブルグ・カメラータアカデミカ合奏団でコ
ンサートマスター兼ソリストを務めるようになる。
・1978年:ヘンリク・シェリング賞受賞。
・1979年:東京で二度目のリサイタル、また東京都交響楽団、
東京フィルハーモニー交響楽団と協奏曲を演奏(後にNHKテレビ
で放映)、NHKFM「夕のリサイタル」に出演。

 

中島幸子さん写真
1979年、チャーミングな中島幸子さん31才のポートレート。
(ヴァイオリンと共に 中島香織1983年8月6日発行 から)

・1979年12月スウェーデンにてヴェーク教授の門下生だった
ヴァイオリニスト、オラ・ルードナー(オーラ・ルードナー)氏と
結婚。
・1980年:夫ルードナー氏およびリチャード・レスター氏と
「ザルツブルグ・ストリング・トリオ」を結成、ヨーロッパ各地で
演奏。
1981年:東京でトリオの演奏会、その後東北、四国、中国地方
の各地新聞社主催による演奏会に出演。
・1982年8月5日:ザルツブルグで長男ヨナス(陽)を出産。

1982年8月6日:長男出産10数時間後、突然肺梗塞を発症、
33才で夭折。
素晴らしい音楽歴を経て、新たな幸福に向かう時に何という悲運で
しょう。本当にこんなことがあったとは、とても信じられないこと
です。

次回はお母様が1983年8月に発行された幸子さんの追悼文集に
ついて掲載させて頂きたいと考えています。

合理的でユニークだった大橋巨泉さん。

2016年7月21日(木曜日)

「今日の話は昨日の続き 今日の続きはまた明日」。
これは1961年(昭和37年に予備校入学のため上京して以来、
学生時代を中心にしばしばラジオで聴いた番組の冒頭フレーズ
だった。

番組名は忘れたが、出演者は大橋巨泉、前田武彦、富田恵子
(草笛光子の妹さん)が中心のおしゃべり番組だった。
話し上手の面々が、毎夜時流の話題をまこと饒舌に語り合って
いた。
放送局は音楽番組が多かったラジオ関東という局で、巨泉氏ら
のおしゃべりに「さすが都会」を実感した。

その巨泉氏が亡くなられた。
氏には独特のポリシーがあり、一言で言えば見事な合理主義者
であろう。
シビアで無駄の無い金使い、多趣味を良しとする生活、社会の不
合理を嫌い、健康に対する科学的な理解など明快な人だった。

その氏は学生時代からジャズに明るく、雑誌の執筆、ラジオ出演
やジャズコンサートの司会など多方面で活躍された。

ジャズコンサートにはよく行ったが巨泉氏の司会は声が良くユ
ーモアがあり、同じ良い声の久保田二郎氏、いソノてルヲ氏ら
とともに人気があった。

巨泉氏が司会をされたコンサートで忘れられないのに「オスカー
ピーターソントリオと日本のジャズメンたち」という、有楽町ビデを
ホールで行われた変わったコンサートがある。
(1960年代後半だったと思う

巨泉氏が構想、構成したと考えられる演奏会で、司会も同氏だ
った。
オスカーピーターソンの黄金トリオが最初に数曲演奏した後、ク
ラブなどを終えた日本人ミュージシャンたちが次々集まってきて、
トリオとセッションするという雑然として楽しい演奏会だった。

ちゃんとしたプログラムが有ったのか無かったのか、いきなりトリ
オが長々としたアドリブを演奏し終わると、虚を突かれた形の巨泉
氏は「今のは“On Green Dolphin Street”ではないかと思い
ますが、、、」と慌てアナウンスしたたのが印象に残っている。

テナーサックスの西条孝之助や松本英彦、ギターの横内章次、ピ
アノの中村八大や前田憲男、ドラムスの猪俣猛や白木秀雄、ベー
スの原田政長、名は忘れたが自分が好きだったトロンボーン奏者
ほか沢山のジャズメンが深夜から早朝まで入り交じって舞台に上
がった。

これも巨泉氏のアイディアだと思われたが、踊り場などに酒類が
売られ、演奏者もお客さんも一体となり夜が更けるのも忘れて楽し
み一番電車が出る時刻まで熱いセッションが続いた。

 

チケット
上掲のコンサートの切符。詳しい年が書かれていないが、
1960年代後半であろう、演奏開始時間が夜12時とある。

外国人ジャズマンのコンサートで、時に客としてきている巨泉氏を
見たが、賑やかなグループの真ん中にいつもご機嫌な姿があった。

若き日の「今日の話は昨日のつづき今日の続きはまた明日」。
その前田武彦、永六輔、大橋巨泉、特別に快活だった人たちが亡
くなっていく。
皆さん何事も自前で楽しみ、権力を嫌い、清々しく貴重な人だった
と思う。

楽しかった第15回卯の花音楽祭。

2016年7月18日(月曜日)

本日月曜日は海の日の祝日、午後に第15回卯の花音楽
祭が開催された。
上越市が輩出した音楽家故小山作之助を讃えて行われて
いる
音楽会が出身地の大潟区はコミュニティプラザで催された。

 

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本日のプログラム。

大潟区のオカリナやギターのアンサンブル、近隣を交えたコー
ラスに加えて折々ゲストが参加する。

器楽は技術のほか和声が高度化したり、曲調の陰影が深ま
ったり、素人の自分にも毎年進化を感じることが出来る。

コーラスでは大人のドラマティックさ、中学生の若人らしさ、
小学生の胸打つ純真さが真っ直ぐに伝わった。

ゲストのソプラノ、アルト、テナー、バスの四人の「よろずやリ
コーダカルテット」は唱歌から民謡、クラシックそしてピアソラ
までとても楽しかった。

上越教育大学大学院教授の後藤丹先生が編曲された「故
郷」と「夏は来ぬ」は、伴奏のピアノも美しく、卯の花合唱団
のコーラスはオーケストラを聴くようにこまやか、かつ壮大
だった。

 

会場

演奏は編曲と指導者によって大きく変わる。
良くなればさらに楽しく練習出来るにちがいない。
音楽をする人を羨ましく思った。

本日は後藤先生と相席し、終了後樹下美術館でお茶をご一緒し
た。
音楽について、作之助について、お話は面白くためになった。

主催される実行委員会の皆様、後援のまちづくり大潟、大潟の子
どもを育てる会、大潟ボランティア連絡協議会の皆様、有り難うご
ざいました。

地域の慎ましくも暖かな音楽祭、また来年も楽しみにさせてくだ
さい。

夏、疲れを知らないこども。

2016年7月17日(日曜日)

雨模様の午前が昼になる頃晴れてきた。
一番小さな孫が来ていて近くの鵜の浜温泉海水浴場へ一緒
に行った。

知り合いの浜茶屋「みやこや」(海の家)でラーメンやおでん
などをゆっくり食べてから三才の孫は日本海初デビューとな
った。

初めは波に怯えて、帰ると言っていたが根気良い親が時間
を掛けて馴らすと、浮き輪無しで波に向かって行くようになっ
た。

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鵜の浜は多少深めだが楽しみながら海の泳ぎを覚える事が出
来る。
監視所のアナウンスも適切だった。

さてこどもというのは本当にアクティブだ。
海から帰って昼寝をすると夕食前のひと時はダンス。
家にある卓上型蓄音機で1940年代のレコードを掛けてみた。

 

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ベニー・グッドマン クインテットの「世界は日の出を待っている」が
回っている。

 


ユーチューブに同じレコード演奏がありました。

 

非常に早いテンポですが一生懸命腰を振って踊ります。
そのあとフリッツ・クライスラーのヴァイオリンでベートーベン
のクロイツェルソナタ第三楽章を掛けました。

 


やはりユーチューブにあった同じ盤の演奏です。
テンポに合わせてご機嫌でした。

“疲れを知らない子供のように”
はシクラメンのかほりの歌詞でしたね。

日本音楽コンクールに出場される少女。

2016年7月16日(土曜日)

本日夕刻外出から戻り車を降り立つと美術館からまことに妙なる
ヴァイオリンの音色が聞こえてきた。
樹下美術館の何処から聞こえるというのではなく、全体が鳴って
いる音だった。

普段カフェのBGMは小さいし、SP盤もこんなに鳴らない、音は
極めて本格的だった。

恐る恐るはいると、一人の少女が陶芸ホールでヴァイオリンを弾い
ている。
胸がすくような音がホールを自在に満たしている。
これはただ者ではない、一体誰なのだろう、そしてどうしたのだろう。

傍らにおられたご両親が、8月末の日本音楽コンクールに出場する、
弦楽器が良く鳴りそうな樹下美術館で一度弾かせてやりたかった、
と仰った。

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絵画ホールで、中学二年生のSさん。
陶芸ホールのパガニーニのあと絵画ホールでバッハを弾かれた。

確かに樹下美術館はコンクリート一体駆体で残響が良く(良すぎる?)、
弦楽器の演奏に向いている。
陶芸ホールは角張ってやや閉鎖的な形状だが、広めなので音楽会
はそこでさせてもらっている。
一方、絵画ホールは小さいながら天井が複雑で高く、カフェにも陶
芸ホールにも音が行き、多様なピッチをこなし、もっと良いかもしれ
ない。

Sさんに絵画ホールで弾いてみたらと勧めると、バッハを弾かれた。
思う存分に歌い素晴らしかった。
絵画ホールの方が良かった、とご自分で仰った。
響き渡る自らの音のすみずみを究極まで聞き取られたにちがいな
い。

3才からというヴァイオリン、どんなに練習されたことだろう。
どうかコンクールではがんばって、と心から祈った。

演奏のあと、高鳴りを静められるように三人で夕刻の水田が見える
テラスに向かわれた。

ああ先人、佐渡に骨を埋めた都会の女医さん。

2016年7月3日(日曜日)

先日、佐渡へ向かう汽船待ちという東京のご家族が当館にお
寄り
になった。
お孫さんご夫婦と一緒の高齢のご夫婦、93才の老紳士は可
愛い犬を連れ、庭を巡られた奥様には、羨ましいと仰って頂い
た。

別れ際にお会いしただけだったが、ご自分の早稲田中学時代、
會津八一の講義を聴いたことがあると仰った。
カフェに會津八一の本があったことからそんな話になった。

それから一週間ほど経って、思いも掛けず會津八一の本が8
冊送られて来た。

同封のお手紙からご本人は長年地域に尽くされた大正生まれ
の産婦人科医だった。
激変する経済と社会、大陸進出、太平洋戦争、戦後の大混乱。

荒波に翻弄される進学事情、兵役、仕事、家庭の様子が垣間
見られる。

大正生まれの方達は苦労されている、とはかってある僧侶がし
みじみ語った言葉だ。

恵送本
↑我ら新潟県民の誇りの一人、會津八一の関連書物。
幾冊かの本から八一が如何に教え子たちから敬愛されたか、が
分かる。
書物は適時カフェの図書に入れさせて頂くことにしました。

お手紙に、自らの出兵を前に訪ねた奈良薬師寺のことと、八一の
短歌がしたためられていた。

末尾に、時代の波に押される如く昭和15年に東京から佐渡に渡
り、僻地医療に携わり平成14年89才で同地に骨を埋めた女医
である姉の記載が見えた。

この度の佐渡行きは彼女が眠る羽茂の祭と墓参りが目的だったと
いう。
戦時下の医師達は次々軍医として出征したため、地域は極端な医
師不足に見舞われたはずである。
姉君は帰郷の機会を失いながら、無医村化した佐渡で60余年間、
最後まで献身的な医療を遂行、昭和52年に勲五等宝冠章の叙勲
を受けられている。
傍ら手紙主の学費も支え、恩人に値する存在だった。

ハイヒールで颯爽と都会を歩いた女医さんは、羽茂において袴に
下駄の往診姿で納棺されたという。

思いもよらぬ先人の足跡を読み目頭が熱くなった。

蓄音機で聴くクラシックSP盤の至福。

2016年7月1日(金曜日)

ある方のご好意で樹下美術館のカフェにコンソール
タイプの大きな蓄音機が置いてある。

時々持ち主がレコードを持参して来館され、一緒に聴く。
たびたび聴くうち、クラシックSPを聴くのは特別な時間だ
ということが分かるようになった。

昨日木曜日は午後休診の日、有志が5人カフェに集った。

 

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↑窓辺のレコード盤。
(ほかに組みアルバムも聴きました)

SP盤の音楽は優しく哀しく、あるいはふつふつと喜びを
伝える。
往時の名手の演奏が箱から私たちに向かって再現され、
カフェは良き音楽の時代そのままの空気に包まれる。

以下は昨日かかったレコードです。
「幻想曲(K475)とソナタ(K457)」(モーツアルト)
/ ピアノ:リリー・クラウス
・「弦楽四重奏曲(死と乙女)」(シューベルト)
/ ブッシュクヮルテット
・「エレジー」(フォーレ) /チェロ:ピエール・フルニエ
・「愛の喜び」「愛の悲しみ」(クライスラー)
/ヴァイオリン:フリッツ・クライスラー
・「ワルツ(No11、12)」(ショパン)
/ ピアノ:ディヌ・リパッティ
・「アヴェマリア」(シューベルト)
/ヴィオラ:ウィリアム・プリムローズ
・「歌の翼に」(メンデルスゾーン)
/ヴァイオリン:ヤッシャ・ハイフェッツ

ほかに3人のお客様がおられましたが、皆さん喜んで加
わってくださり、最後まで楽しまれました。

庭の花たちも耳をそばだてて聴いている風情、コーヒーが
一段と美味しく感じられました。

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テッポウユリも、

 

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今年初めて植えたリアトリスも、

 

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ナツツバキも、

花や草が一緒に聴いていたようなひと時でした。

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