樹下だより

「冬の旅」と父。

2018年1月26日(金曜日)

寒さと風は続き、何年ぶりかで冬らしい冬になっている。
雪道の面倒を考えて在宅回診を減らしたが、本日はイン
フルエンザと狭心症の急な往診が加わり、四カ所を回っ
た。

 

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本日の道。厳しいがこのような風景は嫌いではない。
車から降りて撮った。

さて先日、停電のことで父が登場した。
冬の父の思い出はとにかく大変、というイメージしか残っ
ていない。
昭和30年代半ばまでの往診は自転車からスクーターに
変わっても雪道は歩くしかなかった。
夜中に電話があると、しばらくして母が重い扉をギーと開
け、父が寝ている二階へと階段を上ってくる。
「あなた、、、、、ムニャムニャ、、」と母の声がする。
「うん」と低く父が答え、時に舌打ちが聞こえた。
父は大抵すぐには起きず、しばらく時間を置いた後、決心
したようにトン、、トン、、とゆっくり階段を降りていく。
不安な気持ちで耳を澄ませている私たちはまた眠った。

翌日母は前日の往診について、5キロ先の農家まで歩き、
途中雪の田んぼに嵌まってしまい、ずぶ濡れになって帰っ
て来たなどと話すことがあった。

苦労が多かった父だが、たまに見せる笑顔はこよなく甘く、
後年、母を悩ませた女性問題があったことを知った時は、
さして驚かなかった。

そんな父がある日突然ピアノに譜面を置き、歌うようにな
った。
鍵盤の中音部に数本の指を置き、悲し気な音を鳴らして歌
った。

それが何の曲なのか分からなかったが、シューベルトの「
の旅」だと後で姉から聞いた。
父が歌ったのは全24曲のうち2曲半くらいか、伸びのあ
る良い声だった。
私の小学校高学年~中学生の頃ではなかったか、すでに
漠然としてしまった。

 


最終曲「Der Leiermann(ライヤーマン、辻音楽師)。
旅の最後に村角で犬に吠えたてられながらオンボロ楽器を
凍える手で奏でている老楽師と出合う。
誰も相手にしない彼に“一緒に旅をさせてほしい、そして貴
方の伴奏で私の歌を歌わせてくれないか”と歌う。
音楽師は死の象徴なのだ。
伴奏のボローン、ボローンと単調に響くピアノと、メロディー
の長い休止が脳裡に残っている。

もう一曲は20番「Der Wegweiserm、道しるべ」だった。
旅人はあえて道しるべに示されていない道を歩き始める。
両曲のテンポは異なるものの曲調はよく似ている。

悲しい調子の歌をつかえ、つかえ弾いて歌っていた父。
ある日、私は父の後ろに座ってずっと聴いたことがある。
ピアノが上手くなっていて、声を響かせ、感情込めて二曲を
歌った。あまりにしばしば聴いたのでメロディなどはすっか
り覚えてしまい、弟と真似して歌った。

何十年も経って、ある人が、お宅へ伺った時、貴方のお父さ
んがピアノを弾いて冬の旅を歌ったのを聴いたことがあると
話してくれた。

父がなぜ冬の旅を歌ったかは謎めいているが、思い当たるふ
しが無いわけではない。

 


冬の旅の最初の曲「Gute Nadht(おやすみ)」。
父は当初これも練習していたようにも思うが、はっきりしない。
主人公は恋人の家を去る時、戸口におやすみと書いて失意
の旅に出て、最後に辻音楽師と出合う。

 

さて私たちの心のどこかにこれらの歌に同一化できる感情があ
るのではないだろうか。
悲しいが、それによって他者に共感し、自らも生きることをを促
されているように思われる。

ヴィルヘルム・ミューラーの詩に感動したシューベルトの作曲だ
が、互いに会うことが無かったという。二人は夭折の点で共通し
ている。
二つの動画ともディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの歌。

 

昨年下半期の「お声」をホームページに。

2018年1月16日(火曜日)

美術館では2007年の開館以来、館内にノートを
置かせて戴き皆様から自由にお書き頂いています。
記事を3~7月および8~12月の二期に分けてホー
ムページに掲載させて頂いてきました。

このたび昨年の下半期の分をまとめましたのでどう
かご覧下さい。

ちなみに、
“ここで、あそんでもいいですか”と書かれたお子さん。
“雨なのに気持ちが晴れているのは絵画の効果?”とお
書きの方。
“ここに来ると初めての体験ばかりなのでとてもわくわく
ます”と中学1年生さん。
“勤めが終わったら油絵をやってみたい”と書かれたお父
さん。
“貸し切り状態だった”と、キャンプ帰りの福井の皆様。
“樹木の語ることばに勝るものなし”と書かれた方。
“犀潟に途中下車して新堀川を散策して立ち寄られた”
東京の男性。
“半日休みを取り主人と初め来た”と書かれた長野の方。
“素敵な空間でいやされました。また来たいです”と金沢
市の方。
“小さく豊かな空間は素晴らしいです”と、旅人さん。
拙ブログをお褒め戴いた方や、記事を見て遠方から来館
された方。

120余筆、様々なお気持ちを沢山お書き戴きました。
癒やされたり心を解かれたり、楽しんだりされた様子が
良く分かりましたし、何より私たちが励まされている、と
感じました。

我慢や不快な思いをされなかったか、と心配もしています。
これからも磨きを掛けて営みたいと、心新たにしました。

“皆様有り難うございました”

昨夜の雨、暖かな風によって一晩で雪がちょっぴりになり
ました。

懐かしいメリー・ホプキンは可愛く凄い人だった。

2018年1月10日(水曜日)

本日日中2度まで下がったが、雪にはならなかった。

普段暖かな南西の方面で降ったのにここが避けられ
ているとは、不思議だ。

ところで冬になるとロシア民謡が浮かぶことがある。
「走れトロイカ」「ステンカラージ」「ともしび」
「カチューシャ」「黒い瞳」など、挙げれば色々ある。
中学時代に習ったものもあり、よく親しんだ。

本日特別に記事が無く、1960年代の若かりし時、
ラジオで流れたロシア風な曲があったので載せてみま
した。

 


メリー・ホプキンの「悲しき天使(Those Were The Days)」
ラジオで流れていただけなので、こんなに可愛い人が歌っ
ていたとは知らなかった。
眩しく、ただただ楽しいだけだった青春を懐かしんで歌われ
ている。ロシアに原曲があり、ジプシーが原点というような
記載がみられた。
ツィッギーがポール・マッカートニーに紹介した、という抜
群の毛並みにも驚かされた。

実は当時彼女の歌では、次の方が気に入っていました。

 


「Goodby」。ジョン・レノンとポール・マッカートニ
ー作曲。映像にポールマッカートニーが映っている。
別れの曲であるが、メジャーのキーでしかもテンポ良く歌
われているだけに余計悲しい。だが一種新鮮で如何にも
ビートルズらしい曲の構成になっていると思う。
(今は曲のことを大げさに「楽曲」というらしい)

冬もまた昔を懐かしむのに良い季節だ。

謹賀新年。

2018年1月1日(月曜日)

新しい年が明けました。
今年はどんな年でしょう、健やかな良い年にな
れば、と願っています。

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今年からブログのタイトルを「日頃草子」から
「樹下のひととき」に変えました。

堅い感じを変えてみたいと思ったからですが、
如何でしょうか。

今年もどうか宜しくお願い申し上げます。

館内の作品をかたずけた日。

2017年12月26日(火曜日)

昨日今年の営業を終えた本日は、館内後かたずけの日。
午前いっぱい掛けてスタッフがきれいにしてくれていた。

以下リセットされた館内に初心がよみがえる。

 

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絵画室。

 

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陶芸室

 

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カフェ

作品が片付いた館内に一年間が、もっと言えば10年県が
無事過ぎてほっとしている表情がうかがえた。
来年の開館まで二か月と20日をゆっくり休んでもらいたい。

冬季を休むのはある種冬眠であり、その意味で樹下美術館
は動物のようにも感じられる。

昼には来年に向けたミーティングを行い、樹下美術館の第二
期が始まるとして、作品や作者の理解を一層深めることを皆
で確認した。
小さな規模ゆえ、意識を高めれば成果も上がりやすい、と考
えてみようと話しあった。
休館中にもう一度ミーティングを行うことにした。

今年の閉館日 新潟市からのお客様 クリスマスカード。

2017年12月25日(月曜日)

12月25日、雪は降らなかったが強風のひどいお天気
だった。
その本日、樹下美術館は今年の最終日を迎えた。
昨日、今日と名残惜し気なお客様が見え、新潟市のお二
人も荒天のなか駆けつけて来られた。

新潟の方は造詣深いお茶人で、主に斎藤三郎を観て頂
いた。
氏に関係した濱谷浩夫人・朝(あさ)さんのこと、高田の
古い茶人たちのことも非常に詳しく、驚かされた。
そんな新潟市の人なのに「高田(の文化?)は素晴らしい、
憧れの町」とも仰る。
この言葉は私の七不思議の一つで、新潟の方にお会い
すると同じ事を口にする方が少なくない。大都市、新潟の
皆様が何故、と考えてしまうが、かって高田に花開いた活
発な疎開文化のイメージが、今も名残としてあるのだろう
か。
これに対して高田の人はそれは「隣の芝生」でしょうと、
往々遠慮がちに仰るのもまた確か。

お二人はカフェでお茶を飲まれた後、二代陶齋・斎藤尚明
さんの「高田」の窯へと向かわれた。

そしていつものお客様からクリスマスカードを頂いた。
東京は恵比寿ガーデンプレイスの東京都写真審美術館
で行われている「生誕100年・ユージンス/ミス展」をご
覧になった方からのおみやげだった。

この世界的な写真家は、かって水俣病を告発的に発表した
貴重なマグナム集団の写真家。久しぶりにその名を聴いた。

 

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カードを開くとトナカイの切り絵が現れる。楽しいカードを
有り難うございました。向うの芝生にあった雪もすっかり消
えている。

さて、今年お越し下さった皆様、本当にありがとうございま
した。おかげ様で今年も無事終えることが出来ましたこと、
深く感謝いたしています。
来年の開館は3月15日(木曜日)です。遠いと思っていて
もあっという間にその日が訪れることでしょう。またお会いす
ることを楽しみに待ちたいと思います。

もう一度、「ありがとうございました」
館長のノートは休刊中も続けようと思います。

冬至の本日、今年の開館も残りわずか 冬は最も長い季節。

2017年12月22日(金曜日)

今日は冬至。6月下旬から本日までの半年は短かったよう
であるが、表向き真夏の暑さを越え、爽やかな秋を越え、
日ごと昼を縮めようやく冬至にたどり着いたことになる。
着いてみれば本日お天気も良く、決して日が短かった印象
にはならなかった。風雪の日よりよほど夕刻を明るいと感
じた。

今年の樹下美術館も23,24,25日の三日を残すだけ
になり、改めて展示室の写真を撮った。

 

2
絵画「カリカチュア風な倉石隆」は観やすかった、と思う。

 

1
陶芸「陶齋の色絵と鉄絵」も楽しかったのではなかっただ
ろうか。以上自画自賛させて頂きました。

 

3
夕刻の訪問診療のお宅の前の田んぼにマガンの群が
いた。普段鳥などは私が見つけるが、本日は看護師が
見つけた。
雁も冬陽が貴重なのか、皆その方を向いていた。間も
なくねぐらの朝日池に帰る時間だったであろう。

 

5

 

さて本日60代の方が、「一年の中で冬が一番長いです
ね」と仰った。
そもそもかっての農家で、男衆は稲刈りが終わるとそそ
くさと出稼ぎに行った。途中帰るのは正月くらいで、長け
れば5,6ケ月は家を空ける。

家に残った者はワラ仕事や縫い物などをしながら春と
男衆を待ち続けなければならず、この間は冬なのであ
ろう。
残った者はもちろん、出かけた者たちにとって、それは
とても長かったにちがいない。
これは農家の方ばかりではない、最も強く次の季節、
春を待ち焦がれる点で点で、冬は私たちにも長く感じ
られる。

言葉の方は山間の農家のご出身だ。

ところで私は2月生まれであるため、祖父に玄(ふかし)
と名付けられた。
玄は五行説の冬であり、人生では晩年を指している。
これから何度冬を迎えるのか知るらないが、冬が来るた
び、(本当は嫌いなのですが)、これは私の季節だと思っ
て迎えるようにしたい。

再度話が変わり、私はワードが苦手で、今もって「一太
郎」の愛用者。
どういうわけか、現在使用している一太郎のソフトが「玄」
という名のバージョンなので余計に愛着を感じる。
ワードにも慣れなければということで、図録編集は倉石
隆分を一太郎、斎藤三郎をワードで行った。

冬至ではじまり一太郎で終わりました。

本日も晴れた。

2017年12月21日(木曜日)

昨日に続いて晴れた本時木曜日、美術館周辺の雪は消え、
わずかに残るばかりになっている。

 

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肝心な太陽はのんびり雲とかくれんぼ。

 

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美術館の芝生の雪は地図のようになっている。
青森県、鹿児島県、東京湾、愛知県?

 

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お隣の冬木立と白い雲。

 

 

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美術館の帰路、ほくほく線の西側に白鳥が沢山いて電車
が通過した。

同じ情景の日に特急はくたかがシャーっと通ったのは昔の
事。何事もそれはそれ、これはこれ、米山の雰囲気も良かっ
た。

妻のパソコンとキーボードに少しずつ慣れたが、そろそろ返
してと言われている。私のは買い替えになるらしい。

去る17日日曜日の「堀口大學展」のこと。

2017年12月21日(木曜日)

去る17日日曜日のこと、荒れ模様の午後長岡市へ
「堀口大學 展」を見に行った。
同展は12月2日~1月8日まで開催される。この
度大學のご長女堀口すみれ子さんから知らせがあ
り、当日お会いできる時間が約束約束されていた。
早めに会場入りして展示を見た。
審美眼に優れた詩人が著した膨大な書物と趣味の良
い遺品が館内いっぱいに展示され、一般の絵画展など
と一味異なる優れた個人の生活と生涯に触れることが
できた。

 

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会場入口のタペストリーはアポリネールの詩集
「動物詩集 又はオルフェさまの供揃い」から作品
「猫」とデュフィの版画挿絵が掲げられている。


我が家に在ってほしいもの、
解ってくれる細君と
散らばる書冊のあいだを縫って
踏まずに歩く猫一匹、
命の次に大切な
四五人ほどの友人たち。

 

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93ページの展覧会カタログ。表紙「鳥と雲」は長谷
川潔の版画であり、1921年の大學詩集「水の面に書
きて」の別刷、挿画。

会場には、終生心の父母と敬愛した与謝野鉄幹・晶
子の恋文、夫妻の短歌、遺品からはじまり、両親、家
族とともに若くして世界を駆けた15年間に於ける原稿
や写真および愛用品が続く。

館内を巡ると堀口大學の装幀へのこだわりがわかる。
大正期に始まる長谷川との表紙、挿画によr協働は熱
いものがある。
さらに昭和初期の絢爛とも言える装幀文化の中にあ
って、豪華な限定本など装幀は百花繚乱の趣が見て
とれる。
本とその装幀は当展の力点の一つで、古来西洋独特
のものだった革装幀について大學は、日本の古典には
馴染まないものとして、文化の根本的な相違を指摘して
いる。

 

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当館収蔵「水の面に書きて」。長谷川潔にの表紙。
水の面に書きて、は何刷もあり長谷川による異なる表
紙や扉絵が施されているようだ。

 

当展は「美と文学の探究者」の副題の通り親交した画家
たちとともに永井荷風、西條八十、三島由紀夫、佐藤春
夫青柳瑞穂など文学者との交流を示す関係資料も豊富
に展示されている。
1920年代、世界的な人気を博していた詩人ジャン・コク
トーとの交流が生まれている。大學は彼の詩集訳詞に積
極手に取り組み紹介している。コクトーは絵にも優れ、そ
の書籍は流麗な人物デッサンによって飾られ、会場で独
特の流れるような線で描かれた人物画を多数見ることが
できる。
また1930年代にはサン=テグジュペリの「夜間飛行」ほ
かを翻訳していることを知った。

さて大學は1945年7月妻の故郷である新潟県の関
川村(現妙高市)に疎開、
同地で終戦を迎え、時経ず
して父を失くしている。
翌1946年1月に高田(現上越市)
南城町に移ったが、
1950年6月神奈川県葉山町に転居するま
での足か
け6年上越地方に仮寓したことになる。
敗戦による混乱と物資困窮時代にも拘わらす、当地方
に於いて気力を振り絞り一気に5点の詩集を
刊行した。.

以下はいずれも樹下美術館が収蔵する関川および高田時
代に出版された詩集。

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左より「山嶺の気」、「冬心抄」、「雪国」。

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同じく当館収蔵の「あまい囁き」と「人間の歌」。

いずれも1945~47年(昭和20~22年)の発行で「山
嶺の気」は31ページの小冊である。「あまい囁き」の
表紙は東郷青児の細い線とわずかな着色で刷られて
いる。

もう一冊の「人間の歌」の経緯が少し切なかった。
つまり、あとがきによれば、自身のの作詩集は1925年
の「砂の枕」以来20年ぶりということだった。もちろん
その間に何篇もの訳詩集を刊行しているし、きわめて部
数が限定された私家本「ヴェニュス誕生」はあったが、一
般的な発行は長く途絶えていたという。
私にはその訳を知る由もないが、やや辛さが感じられる。

だが上越地方の仮寓中、多くを作詩し過去分も含め集中
して出版を重ねた。
終戦によって重しが取れたのか、疎開先の食べ物が、それ
とも人情が良かったのか、あるいは妙高山の雄姿に押され
たのか、生活ひっ迫だったのか、いずれにしても詩人は当
地で心奮い立たせた。

展覧会会場まで60キロ、再度県立近代美術館を訪ねそ
の人柄に触れてみたい。

慣れないパソコンで四苦八苦し、ミス文が多く失礼しました。
まだあるかもしれません。

降っては消える雪模様の年の瀬。

2017年12月20日(水曜日)

朝日の中の雪がきれいだった水曜日、午後いつもの
ように特養ホームの回診があった。
学校ではインフルエンザが流行している。当特養は今
のところ免れているようだがやはり心配だ。

 

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午後の樹下美術館。例年トクサを短く刈るが今年は常
緑性を当てにしてそのままにしてみている。

 

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蕾をみせていたクリスマスローズ。

 

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はりはり漬けが食卓に出ると年が暮れ新年が近づく。

 

去る17日に訪ねた長岡市の新潟県立近代美術館の
「堀口大學展」を書いているが、妻のパソコンを借りて
Windows10で書くのは難しい。
カーソルがあちらこちらへ跳ねたり、ひょっこり余計な
ウインドウが現れたり、文字が急に大きくなったり、記
事が消えたりする。
普段から操作が下手なので流行りの自己責任であろ
う。

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