じゃね 宿題  北斗星 雨

2011年4月7日(木曜日)

 夕刻、二人の女の子の声が聞こえた。曲がり角の向こうとこちらで大きな声。

「じゃね!」

「じゃね、すぐ宿題するから、バイバイ!」

「私もする、バイバイ」

「あっ、理由はあの二つだよね」

「そう、あのふたつ、じゃね、バイバイ!」

「バイバイ!」

小学校の高学年のようだった。二つの理由のことは分からないが、なんとも可愛く頼もしかった。

この子達は、ガングロやひどい茶髪などは歴史で習うだけになることだろう。

 

北斗星 夜7時半ころの天頂に近い北東。北斗星と下方に北極星とこぐま座。
被災地の人も見ただろうか、澄んだ夜空だった。

 

患者さんたちの畑がはじまってそれぞれに忙しい。

そろそろ雨がほしいところだ。

しかし東京電力による被災地の雨は洗浄、浸透、濃縮、拡散など複雑な問題があるにちがいない。時期、時期で影響は変わるだろうが、出来れば雨についても伝えられるべきだと思う。

風評 人は心理・感情にもしたがう 月が謝っていた。

2011年4月5日(火曜日)

どんどん薄められるから大丈夫。

こんな風に毎日いわれながら

次第に恐ろしさにならされている。

事実も恐ろしいがこのことも怖い。

 

そして風評、しかし怖いものは怖い

人は物理だけでなく心理・感情にもしたがう。

ぶつからなくとも向かってくる車はよける。 

選べるなら原発の近くでは泳がないだろう

 

都合の悪いことを風評と呼ぶのは

ある意味人を軽く見ることにほかならない 

東電事故は“当分”いくら真剣に考えても

考えすぎることはないように思われる。

 

全てを実害として認め

国は財をしぼって救済・復興すべきだ。

 

きょうの月 
月が精一杯身を縮めて謝っているように見えた。

可哀想に誰かの替わりに、せっかくの清明を。

猫ちゃん  そして平和

2011年4月3日(日曜日)

少しお天気がでるようになった。

ボール遊びをしていると猫ちゃんが相手をしにきた。

しかしなんか集中しません。

猫ちゃん1 
よそ見ばかり。

猫ちゃん2 
やっぱりやっぱり。

猫ちゃん3 
ボールやーめた。

猫ちゃん4いい雰囲気ですね。

 

“猫ちゃん、ちょっと聞いて下さい” 

 

主な人間の一人、キュリー夫人は立派な人だったようです。

今やだれかは原子力で安全保障などと語ります。

悪賢くて立派に見えません。

主な人間は立派なのですが、、、。

 

だれかの安全保障は

主な人間の不安全保障になっていませんか。

100年後の世界などもうどうでもいいのでしょうか。

主な人間は立派なのですが、、、。

 

近々だれかが地球を食い尽くすのでしょうか。

今たらふく食えればそれでいいのでしょうか。

最後は自爆ですか。

主な人間は立派なのですが、、、。

 

御礼  拙画展の終了 水仙

2011年4月1日(金曜日)

 ご報告が遅くなりましたが、2月18日からの拙画展が一昨日3月30日に終了いたしました。

 

 主催いただいた新潟市・知足美術館様の知らせでは697名のご入場者ということ。皆様には大変お世話になりました。心から御礼申し上げます。

水仙温かかった一日、水仙がしっかりした花をつけていました。

夕方の冷気とともに自分たちの香りも下りてきてみな満足そうでした。

日暮れても素顔の気品水仙花 

 

がんばれ介護保険

2011年3月31日(木曜日)

 昨夜の要介護認定審査会を最後に審査委員を終了させてもらった。審査委員は止めたが、意見書はじめ患者さんがお世話になっている制度とはまだお付き合いが続く。同制度は医療と共にある重要な両輪の一つだ。

 介護保険には思い出が多い。、

 平成12年制度発足まで数年間を地域福祉計画策定委員会、それを引き継いだ介護保険計画策定も会議責任者としてしぶとく議論を重ねた。

 

 完成した計画案は平成12年の施行に向けて町の議会で承認された。承認に当たって陳述をもとめた。いまだ介護保険を忌む空気が一部にあったからだった。悲惨な現実に対応する制度概念とサービス項目の優先順位などを精一杯訴えて責務を果たした。

 

 前後してスタートする制度に対応すべく要介護認定作業が始まった。頻回な研修や模擬審査会が連続し、語りぐさになるほど疲労困憊した。医師審査委員の選任も重要であり、総動員に準ずるルール作りを急いだ。

  非公式な活動では、
 旧大潟町の医師達もまとまった。介護保険施行の数年前、訪問入浴車の重要性を訴えて皆で役所に補助の請願をして認めてもらった。また制度周知のため費用を出しあって専門家を招聘し、住民説明会を行った。個人的には自院の患者さん達にアンケートをお願いし、結果報告と説明会を催した。40ページの小冊にして臨んだ。

 

 夢中で書いた投書が新潟日報“窓”欄と朝日新聞“声”欄に載ったのも懐かしい。

 

説明会 
介護保険前年、平成11年6月、アンケートに基づく制度説明会。
患者さんはじめ大勢参加いただいた。男性も多く見えて頼もしかった。

始めにSPレコードで歌を聴き、終了に「誰か故郷を想わざる」をレコードとともに皆で歌った。

 

 町の計画策定会議では真摯な課員のお世話になった。ある制度見直しの年、保険料の財源不足が見込まれて大きな課題となった。
 保険料を一様に増やすと低所得者へしわ寄せが強くなる。この緩和のため高額所得者の負担増を目して5段階の負担区分を6段階に上げることを検討した。

 

 くだんの担当者は全国の状況を調べて6段階の自治体をいくつか見つけた。やりますか、やろう、と承認を得て計画に盛り込んだ。

 

 総じて介護保険は苦境の中で開かれた制度として頑張ってきた。考えられないことだが、遊び半分の人間達がメチャクチャにした年金などとは全く違う。この震災で当制度もさらに厳しい環境になろう。苦しいが、みなが110%働くことで正念場を乗り越えられると思う。

 

長くなってしまいました。

歌が共有されていた時代 昭和の素朴なやさしさと力

2011年3月30日(水曜日)

今は昔、昭和よき時代の歌はだれ彼なく一緒に聞いた。次の復興・発展に向かった時代、みな何処かで貧しさや悲しさを共有し、美しいメロディを愛した。

 

ザ・ピーナッツ「心の窓にともし灯を」
1959年(昭和34年)NHK歳末助け合い運動のから生まれたという。
まだ新幹線も高速道路もなく、未舗装の道路が多く、東京タワーが出来たころ。
病に見通しがついた私は、上越市寺町の下宿でおじさんおばさんとちゃぶ台を囲んで食事をしていた。

 このところ患者さんたちは沈みがちで血圧も高い。私も同じ、大震災、原発災害の深刻さに感染している。

掲載した曲のハーモニー、メロディとも美しく、昭和ならではの丁寧さに力も感じられます。いつも古いものばかりで恥ずかしいのですが、どうかお許しください。

神話の東北 失神した子ども 温かく着実に

2011年3月28日(月曜日)

  夜半過ぎ、仙台で二泊した妻が帰宅した。バス(仙台→新潟)と電車(新潟→柿崎)を乗り継いで“ただいま”と言って帰ってきた。

 

 どこか別の国から来たような印象。仙台に2家族、南三陸町に1家族、話を聞くと親たちはみな再出発に直面して大変そうだ。

 

小さな子どもたちはそれぞれに打ちのめし、喪失、怒りなど複雑なダメージを受けてる様子。 高学年の子ども達には、ある種挑戦の芽生えを感じたという。

 

P1000163 
 
P1000170 
妻が撮った写真
アーティストの一部は昨日までこのような光景を作品などと呼んでいたように思う。

 南三陸町の小学生である姪の一人はこう話したという。学校は町を見下ろす高台にある。

 津波が来て、先生は子どもたちが外を見ないように教室のカーテンを急いで引いた。しかし、そっと覗いた子どもがいて、あー、と叫けぶと気を失ったという。

 

 荒波に水没する我が町と子どもの感受性、胸が締め付けられる。親を失った子供たちも少なくない。辛い親、悲しむ子どもを無理矢理笑わせるようなことは慎重にしたほうがいい。

 

“私たちは一緒“は、はたして通じるだろうか。

現地の人は心身が裂けるほど疲労している。

“頑張れ”というのは加虐的であり耳障りな雑音かもしれない。

 温かく手応えある支援と、着実で夢いっぱいの復興計画が待たれる。

新潟の作品展最後の日曜日 国道116号 良寛

2011年3月27日(日曜日)

 新潟の拙作品展最後の日曜日。雪の上越を発つと午後の新潟は晴れ間が見えていた。毎週末手伝いをしていただいたIさんご夫妻、本当にお疲れ様でした、感謝しています。今日はかなり賑やかだったということでホッとしました。

 

 さて帰りは高速道路をやめて国道116号を使った。道中は寺泊、出雲崎、与板、刈羽、柏崎と良寛ゆかりの土地が続く。もう少しヒマだった昔、よく一帯をウロウロし、「良寛の里美術館」を何度も訪ねた。

 

和島の夕暮れ 

 春浅き和島(わしま)の里の夕まぐれ ふいの良寛夢か幻

さわらじのみ足冷たく春暮れて 畦の家路に歌如何ならむ

歌は歌 我が身は我が身 春寒むの 手足そぬくめ 息そ暖め

空(から)よりも 君のいませば 草の家も げに温かき 五合庵かな  

 

 良寛のせいか土地柄なのか、山裾を巡る里の風情はゆかしく、詩情を感じる。随所にまずい歌をお許しください。

 

 少し話変わりますが、過去をさかのぼって、三人の誰かと会えるとしたら誰がいいでしょう。あえて言えば、私は曾祖父玄作と良寛、それに信者ではありませんがキリストです。玄作とは話をして、後者二人は遠くからひと目だけでも見てみたいと思っていました。

 

 樹下美術館も館内の照明を半分に落としました。

妻は仙台へ 大阪の救援車輌群 神話的な災害 

2011年3月26日(土曜日)

寒かった三月、今後の暦は三月までを冬と名付けては、と考えた。新潟市の拙作品展は厳しい環境の中で間もなく終わる。後半は圧倒的な震災によって作品展どころではなかった。

そんな中、お見えくださる方がいらっしゃて感謝している。午後会場を訪ねた。閑散としていたが、やむを得ない。

   給油

 道中では大阪、堺、なにわ、、、など大阪府ナンバ-の復旧車輌が多数給油していた。パーキングエリアの売店は休みと間違えるほど暗く節電してあった。
半分くらいの自販機に使用中止の張り紙。

 ところで私たちには宮城県に住んでいる親族が三組いる。昨日妻は大きな荷物を持って高速バスで仙台へ向かった。7時間はかかったようだ。二泊3日の強行軍、深いショックを受けないか心配だ。

 

          夕焼け
帰りの夕焼け。

毎日知る過酷な状況、神話とはこのようなことなのだろうか
神話から世界が生まれるとして
よい国づくりが始まることを祈りたい


昔の音楽を聞いてみた。
ジェームスディーンの写真とFausto Papettiの“小さな花”

現場は精神論なのか 復興でなく政治闘争なのか まったく泣きたくなる

2011年3月25日(金曜日)

 前回の左網膜剥離からおよそ10年がたっていた。このたびは新潟の作品展のために数点の花の絵のリメイク、そして被災地の弟の安否を知るため多くの時間をインターネットに費やした。眼にいいわけがなかった。

 

 今日の受診で眼圧と視力は保たれていると聞いて一安心だった。院長には眼底を丁寧にみていただいた。網膜の一部に軽微な変化はあるが経過をみていくことになった。やや心を軽くしてもらい100%患者となって帰ってきた。

 

 

 

 ところでついに原発災害で作業員3人が治療の必要な被ばくをした。汚染水による足の直接被ばくだった。全身を防護することなく短靴!しかも若年世代が含まれ、彼らの精子と将来にも問題を残した。水、若者、被ばく、心配したことがあまりに簡単に起きる。

 

 わずか3人と言うなかれ。今や課題は我が国の科学と哲学をかけたシンボリックな国家的マターだ。それがチェルノブイリでなければ何でもありとは、あまりにお粗末ではないだろうか。恥ずかしくて泣きたくなる。

 

 毎日スタジオには無数の学者・専門家がズラリと並ぶ。しかし福島の現場は学問も理性もへったくれも無い精神論でやっているように見える。作業員の美談など全くいらない、上が、学者がもっと命をかけるべきだ。情けなくて泣きたくなる。

 

 そしてメディアは政治的ノイズをますます濃くしている。一大復興なのに一大権力闘争の場になりさがった。被災者を、国民を犠牲にして何のつもりなのだろう、薄汚くてまた泣きたくなる。

 

 時間はかかっても仕方がない、文字通り一丸となって科学と誠意に徹すれば克服できる。それが日本の価値だったのではないだろうか。

 

 最後に環境の放射線量は毎日変わる。情報開示を求めながら、振り回されると言って嘆くのは止めよう。科学は便利だが根気もいる。

 

最後の介護保険審査会 シェルブール  網膜剥離

2011年3月24日(木曜日)

資料が送られてきて、今年最後の介護保険審査会が来週で終わる。次年度中に70才になるので規定に甘えて今回を最後に委員を下ろさせていただくことにした。介護保険にはよく付き合ってきたと思う。

介護保険が産声を上げたのは平成12年度。その5年ほど前に突然、新潟県庁から何人かの役人さんが尋ねて来た。在宅医療や介護についてのヒアリングだった。色々聞かれた中で、保健婦さんの福祉マインドと介護技術を尋ねられた。あまりの急所に正直びっくりした。

来られた人達はみな若くよく勉強していた。何かが始まる気配を感じたが、まさか介護保険という壮大なシステムが想定されているとは思ってもみなかった。

昭和50年から総合病院の無い町での開業。忙しい外来のほかに往診用件が多く、在宅の看取りは当たり前だった。寒い部屋で糞尿にまみれ息子さんを待っていたおかあさん。一日中おかゆの手ナベ一個が枕元に置かれているだけのおじいさん。窓を開けて、お嫁さんの悪口を毎日叫ぶおばあさん、、、、。これでいいとはとても思われなかった。

欲を言ったらきりがないが、介護保険は世界に誇れる制度だと思っている。まがりなりにも理想が論じられた結果ではなかっただろうか。

 

シェルブールの雨傘:ピアノ・山田紗耶加さん

映画シェルブールの雨傘は

雪のガソリンスタンドと子どもの名前が切ない物語だった。

 今シェルブール一帯は原子力関連の施設を多く抱えていて、

別の意味で悲しい。

 ところで介護保険の前夜、福祉の事になると、以下のような話をよく耳にした。

 「福祉、福祉というけど、その前にまず経済をよくしないと」
「昔から地域には必ず気の毒な人たちが居たもんです、今さら騒がなくても」
「体を鍛えて介護保険などの世話にならないようにすることが大事です」

地域の慈善団体の長と、町の要人の話だった。
一番目の人は景気が良くても同じ事を言う。
奇異かもしれないが原子力発電のマターと福祉はどこか似ている。

不景気のアゲインストの中、ケアマネを育て社会のマインドを上げて
介護保険は頑張った。

数日前から右眼に網膜剥離の症状が出ている。

本日午後の眼科を予約した。

100発前後のレザーは覚悟しているが、手術だけは勘弁してもらいたい。

丈夫でもないのに、35年間病気を理由に仕事を休んだことがなかったので。

南三陸町から手紙 無視できない水汚染

2011年3月22日(火曜日)

南三陸町の拙弟から手紙が届いた。15日に出したというから一週間かかって着いたことになる。それにしてもこの段階で手紙が届くとは信じられない気持ちだ。一体どんなルートで来たのだろう。

彼の家は山あいにあったのでなんとか無事でいられた。清水を利用する簡易水道が使えて、薪を焚いて暖をとり風炉も入れるという。町で避難生活をされる方たちを交替で迎えているらしい。

届いた封書の切手 手紙には服用している薬の依頼が書かれていた。

共同の土葬を見守るご家族の氷る表情が胸に突き刺さる。

 ところで19日に心配した東電原発周囲の水と海水は、無視できないレベルで汚染されていると本日報じられた。一帯の農水産業や飲料水への長く深刻な影響が危惧される。

 また放射線は生殖器官を好んで標的にする。現場処理に赴く隊員の防護服はいっそう機密が厳重になるだろう。お子さんを作りたい若い隊員達を任務から外すか、著しい短時間などの配慮がされていることだろう。

 防護服の着用は相当つらいはず。現場に関して言えば、夏でなかったのがせめてもの救いではなかったか。重大な被ばく事故がさけられることを切に祈りたい。

アイソトープ  そして水 

2011年3月19日(土曜日)

 一週間が過ぎて仮設住宅が着工した。何よりの知らせだ。きっと被災地の見えない所に建設されるにちがいない。

 

 明るい知らせの一方で、今もって親族を探す方たちや避難所の人たちの辛さが浮き上がる。

 

 そして懸命に続く原発の冷却作業。一定の効果が伝えられているが、予断を許さないとも報じられる。その通りだと思う。私たちは台風や大雨、大雪に地震など自然をコントロール出来ない。人が作り出したもう一つの太陽、原子力もまた管理を越える本質を見せている。

 

 17日に、フランスがホウ酸100トン、放射能の防護服1万着、手袋2万組、防護マスク3000個を日本に送ったと報じられた。悪戦苦闘する現場で直ちに助けになる支援だと感じた。

 

 フランスは原子力大国と呼ばれている。しかし芸術と思想の国のこと、強いジレンマも内包しているのではないかと思うがどうだろう。

 放射能といえば、小生も大学病院時代の研究室で放射性物質を扱っていた。写真のノートは1968年のもの。フランスと聞いて、押し入れの奥を探すと出てきた。

 実験ノート

 人のホルモン濃度は血清1ミリリットル当たり10億分の何グラムというレベルのものが少くない(中には一兆分の数グラムも)。その超微量のホルモン測定また方法の開発が仕事(研究)だった()。

 

 当時の測定では、アイソトープで標識した抗原(ホルモン)と動物から得た抗体の相に人の血清を加え、競合的な免疫反応を利用して測定する方法(ラジオイムノアッセイ:RIA法)を用いていた。

 

 時にはアイソト-プ(放射性同位元素)をフランスの原子力機関から直接購入することもあり、この面の先進性をやや奇異に感じていた。

 

 私が使用したのは主にヨウ素125で、時には131を用いた。線量は許容範囲で、ガンマー線を測定したのは懐かしいウェル型シンチレーションカウンターだった。トリチウムなどの液体シンチレーションカウンターは半ば自動化されていたが、ヨウ素は一本一本試験管を小さなウエル(井戸型穴)に入れて測定した。
 当時の認識と管理はまだ甘かった。

 

 ある日の測定でスイッチを入れるといきなり異常に高い数値がカウントされた。普段私が測る10倍近い値だった。まさか誰かが汚染させた?それとも私?何もしていないのに?

 

 ウエルの内壁も、試験管も手も、考えられるもの全てをペーパーで拭いた。しかし異常なカウントは続く。深夜の鉛の部屋に1人、パニック同然だった。

 

 突然ある先輩医師が入って来た。部屋は紙クズだらけ、カウンターに異常な数字、慌てる私。

 

「まだ時間かかる?じゃ僕は後で」と先生は言った。そして入り口の机から10数本の試験管を立てたケースを取り、部屋を出て行かれた。

 

 そこに試料があったの?初めて気がついた。異常なカウントはピタッと止んでいた。空のカウンタホールは数メートル先にあった先輩のサンプルを測っていたことになる。放射線の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。学内でコンプライアンスを高める作業を進めているころの話だった。

 

「スギちゃん、あのころは呑気だったなあ」、と毎年会うようになった研究室の同僚は言う。彼は私のヨウ素よりずっと半減期の長いトリチウムを扱っていた。笑っていはいるが長く不安だったにちがいない。

 

 今回、懸命な消防士や自衛隊員は私たちよりも浴びている可能性を否定できない。40数年経って防護や養生も進んでいる。それでも生々しい映像にあらためて心配を禁じ得ない。

 

 ついでの心配は水。発電所の容器や管に漏れはなかったのか、放水された水は海水は?現場の水について知らせる報道をまだ見ていない。

 

4人の無事 小室等さんから

2011年3月17日(木曜日)

 今夜午後70時45分ころ、南三陸町の弟一家4人がともに無事であることがはっきり知らされました。

 

 電話を下さったのは弟がお世話になっている歌手・音楽家の小室等さん 。 連絡は、南三陸町の山中にある家を尋ねてくださった方から歌手の李政美さんへ、そして小室さんへと経由されました。

 

 豚の放し飼いを営む弟一家はあたかも「大草原の小さな家」を思わせる暮らしをしていました。生活は最近になってようやく一台の携帯とパソコンを買ったというローテクぶりです。しかし多くの友人に恵まれ、このたびのことへも繋がったと思われました。

 

 色々とご心配して下さった方々に心から御礼申し上げます。そして、いっそう被災された方々のお気持ちに思いを巡らすようになりました。

 

 樹下美術館では6月16日(木曜)午後6時30分から小室等さんのコンサートを催す予定です。被災地エイドの募金箱を置かせていただきたいと考えています。

 

 上越市へも福島県から大勢の方たちが避難されます。診療では、今日、若いお2人がA型インフルエンザと判明しました。ともに体に気をつけて困難と付き合って行きたい、と考えています。

 

懐かしく辛い訛り  アマポーラ

2011年3月16日(水曜日)

今日の外来のAさんは全く元気がなく顔色は青冷めていた。長期出張のAさんは仙台からこられている。地震の話になった。

「仙台はもとより三陸一帯は営業で非常にお世話になった」「三陸はきれいで食べ物が美味しい、こんなことになるとは」「テレビで懐かしい訛りを沢山聞けたが、辛いです、、、」、一気に話されると言葉に詰まった。

 

「先生もお元気で」と帰り際に言われて、こちらがつまった。

 

 
ナナ・ムスクーリのアマポーラ

 羊飼い的なスペイン生活を経験している弟。乾いて花の少ないスペインではアマポーラ(ひなげし)がきれいだった、と聞いたことがある。

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