樹下だより

明日から2025年度の開館。

2025年3月14日(金曜日)

明日から今年の開館。昨年12月15日、冬期休館に際して来年の開館までの3ヶ月は“長いようだがあっという間だろう”、というような事を述べました。まだまだある、と考えていると例年文字通りあっという間にその日を迎えることになります。

今年は小山作之助生誕160周年と茶道の会の講演があり、気分はゆっくりではありませんでしたが、一方で冬鳥の探鳥を精一杯行うことが出来ました。

今年の二人の作家の展示趣向は、倉石隆「男性像展」、齋藤三郎「茶道具展」です。
以下作家別に展示概要と本日終了した館内の様子を掲載しました。入り口順です。

【倉石隆】

「男性像展」
13点なので混雑しました。

倉石隆の絵画
今年は「男性像」です。倉石隆は生涯主に人物画と取り組みました。
人物は表情、個性、年令などいわゆる“特徴”のバリエーションが際限なく、それらはいずれも“微妙”ですから難しい仕事に違いありません。しかしその分やりがいがあったではと創造されます。
倉石作品は女性が多く、2023年には「倉石隆のお嬢さん展」を企画しましたのでこのたびは男性です。男女でいうと当館の男性像は女性に比べ少ないのですが、私なりに男性の一般性が見られるものを選んでみました。
頑張り、欲張り、見栄も張り、妙にはしゃぎ、我が身を見つめ直し、孤独に耐え、妻に促されながら、自我とストレスの狭間にもまれ人生の起伏を重ねる。
展示の男性像は男から観ればなにがしかの理解が可能と思われる一方女性には一見滑稽に写るかも知れません。しかしいずれも“本人は一生懸命”であることが伝わります。
技術的なことはともかく、作品について正確に述べることはかなり難しいことです。ここではひとまず男性に共通する“らしさ”について作品に漂う印象から簡単に触れてみました。
小さめの絵画スペースに目一杯の13点。お楽しみ頂けたら有り難く思います。

【齋藤三郎】

齋藤三郎のお茶道具
今年の齋藤三郎(号:陶齋)はお茶道具です。
茶道具と言いましても何かを作るものではありません。茶道のお茶は先ずお大菓子を食べ、茶わんに取った抹茶に湯を注ぎ、茶筅を振って茶を点て、お客様に“美味しく”飲んで頂くのが目的です。
それだけのことですが、より“美味しく飲んで頂く”ため床の間に書画を掛け、部屋にお香を焚き、花を飾り、時には食事や酒の振る舞いもあります。またいざお茶を点てる段には茶碗や茶杓を清め、道具を移動させたり、器に水を足すなどをします。この度の展示では会場入り口の「香合」から左へ焼き物による茶道具類を配しました。
陶芸家の道具ですから種類は限られますが、美味しくお茶を飲むために様々工夫を凝らした作品をご覧下さい。
簡単な道具類の用語
○香合(こうごう):お香を入れる小さな器 ○向付(むこうづけ):食事で菜を盛る主な皿類 ○花生(はないけ):花瓶のこと ○茶入れ:抹茶を入れる小さなふた付きの器 ○蓋置き:釜の蓋や茶巾を置く小さな道具 ○水指(みずさし):水が入る大きな器。
※入り口に焼き物以外の小さな道具数点をお盆に展示しました。

向こうに棗(なつめ:抹茶を入れる器)、手前に茶碗に組んだ茶筅(ちゃせん:振って茶を点てる竹製の道具)、茶杓(ちゃしゃく:棗や茶入れから茶をすくう竹製の道具)、茶巾(ちゃきん:茶わんを拭く木綿の白布)、帛紗(ふくさ:道具類を拭くための絹の布)。

茶会のお知らせ:6月と10月の毎月4回の日曜日に1日2席の薄茶席を設ける予定です。どうぞ気楽にご参加ください。
6月は第2,3,4,5日曜日開催。参加費:1000円(作品鑑賞の入館料込み)。時間詳細は調整後間もなくお知らせいたします。

キーボードにお茶をこぼした日,患者さんを送る 同じ日に時代劇の八幡堀が二篇 最近の夕食から。

2025年3月11日(火曜日)

近時手にしたものを落とす、あるいはこぼす事が多くなった。
私の場合、左手親指の付け根の痛みが原因の一つだと考えられ、長年のゴルフによる結果ではないかと思っている。

人より骨が細いのに60年はやった結果で、この程度の問題は甘んじて受けなければならない。当座は指の問題だが全体では老化現象に違い無い。

というわけもあり、本日午後番茶を淹れ(パックですが)、湯呑を手にしようとした瞬間卓上にひっくり返し、こともあろうパソコンのキーボード直撃だった。
買い換えたばかりの品がびしょ濡れ。ティッシュペーパーを当て、壁に向かって強く振って水分を飛ばし(左手親指は痛かったが)、ドライヤーで裏表を温めた。完全に乾いたとみてパソコンに繋ぐと全く問題無く回復していた。事は不運だが何か幸運があったのかもしれない。

本日ELECOM社製と知った
4980円のキーボード。

さてそんな夕刻、まもなく終了という時間帯に救急扱いが必要な高齢者さんの事例があった。病院連絡と紹介状を書いたが、必要なタクシーは1時間待ちで家族の到着までは3,40分かかるという。本人の身支度やスタッフの帰宅時間もあったので私の車で一旦自宅まで送った。道中話も出来て良かった。

患者さんを乗せたり、救急車の同乗は忙しい昔に何度かあった。事案によっては周囲にそれ向きの人がいても、自分がさっさと行うのが簡単で結果も爽やかなことがよくある。

昨日のことで恐縮です。夜、二つの時代劇番組でそれぞれ近江八幡の堀の場面があった。

「柘榴坂の仇討ち」の八幡堀
(原作:浅田次郎「沈まぬ太陽」から)

明治維新後、安政の大獄に関連して主君が命じた仇討ちを「侍の本懐」として敵を探索しては実行する中井貴一演じる主人公。最後の仇,阿部寛役の侍は車夫に身をやつしていた。長い斬り合いの結果勝負は付く。
しかし侍は主君の「懸命に生きるものは殺すな」の言葉どおり車夫を許し「新しい時代を共に生きよう」と和解する。時代背景と内容が悲しくも美しく、胸打つ物語だった。

もう一篇はいつもの「鬼平犯科帳」
八幡堀は本当に時代劇で人気だ。
今冬ここへ寄ってよかった。

最近の夕ご飯。

マガレイの煮付け(下)と豆腐とコマツナの
炒めもの。
同じ魚でも宗八鰈よりも美味しい。

20年も昔には春になると地でも見事なカレイが採れて、毎年漁師さんが下さった。その方は亡くなられたが近年カレイはさっぱりダメになったと耳にしている。

 

カモ南蛮(上)とトマトの卵炒め。

ハクガンの姿無く白鳥は少なくなり 庭仕事を始めた。

2025年3月8日(土曜日)

午後水鳥たちを探しに回ったけれどコハクチョウもガンも小さな群を観ただけ、あのハクガンの長い列も見当たらなかった。私の探索範囲は狭いため何とも言えないがかなりの鳥は北へ帰ったようだ。ただマガンはまだ多く留まっている印象があった。

今冬はハクガン、コハクチョウに十分楽しませて貰い、最後は思ったもみなかったシジュウカラガンと二度出会い、カメラにも収めた。後半は思ったよりも厳しい冬だったが鳥に感謝し、来年また沢山来てもらいた。

溜め池にいたミコアイサ。
かなり悪いヒモ風。

ほぼ雪が消えている美術館で少しばかり庭仕事。
昨秋に元スタッフのAさん宅から貰っていたタカサゴユリの種を蒔いた。

花殻を割り種を採る。
何千何万?という数の種。
まだ沢山残っている。

用土にまぶして蒔きざっと撒水。

かって同じ種を貰って蒔いたがA宅では花が咲き、我が庭はダメだった。多分出た芽を雑草と見て皆取ってしまったらしい。今年こそは慎重に扱い夏の終わりはタカサゴユリの園にしたい。

一旦蕾を付けたクリスマスローズはその後積もった雪の下になっていた。もう大丈夫なのだが随分変形している。寒かったことだろう、ご苦労さまでした。間もなく温かになるので一休みしてください。

2月1日、雪の前の同じクリスマスローズ。多雨、雪、乾燥、寒暖etc、どんな花もコンスタントに維持するのは難しい。

春を待っていたのは雑草も同じ。
昨春は大変だった。

今冬後半の雪により例年に比べてずっと遅くなったが一先ず庭に関わった。長時間ではなかったものの急に始めたので足腰が傷む。
もう少し暖かくなってもらいたい。

今年の齋藤三郎は「茶道具展」です。

2025年3月6日(木曜日)

今年度の齋藤三郎(陶齋)の展示は茶道具です。茶道具には鉄器、竹細工、漆芸、木工など多くの分野の道具が含まれます。三郎の制作には陶芸と書画がありました。

この度はお茶会で用いられる齋藤三郎の陶芸作品を中心におよび床の間に掛けられる書画も併せてご覧頂くようにしました。
倉石隆の絵画とともに年間を通しての展示になります。季節館あふれるさわやかなお茶道具をお楽しみください。

齋藤三郎「お茶道具展」のポスター
私にしては上出来?

倉石隆の絵画とともに年間を通しての展示になります。齋藤三郎(号・陶齋)の温かく柔らかみのある器と書画をお楽しみください。

 

今年の倉石隆は「男の肖像展」です。

2025年3月4日(火曜日)

本日ようやく樹下美術館今年の倉石隆展の告知とポスター、チラシ原稿が出来た。
スタッフたちも材料などを渡せば出来ると考えるが手を付ければ足りない材料、資料が出てくるのでやり取りしなければなない。
それで下手くそでも自分がやるのが早かろうということで今年も自分で作った次第。

今年の倉石隆は「男の肖像展」にしました。わずかな作品を集めてテーマを決めるのですが、作品の持つ雰囲気を繋いで並べ男性の半生をストーリー的に表現してみた。個人的に気に入った展示になろうと期待しています。

ポスターはアピールポイントを決め、ある程度抽象化してインパクトを出すのが大事だと思われます。しかるに出来上がったのは展示作品全てを入れ、技術も無く説明的いわば実用的になってしまいました。子供のころからの性分で抽象化というとどうも頭が回らないのです。

実は収蔵作品に大変大きな男性像が一枚あり、それは恐いほど圧倒的なので、あまりのことにこの度は止めました。

展示には作品の原題や制作年を表示します。しかし結果として上掲のファイルではほぼ制作年に沿って並びました。一般に作品にご自身を投影されたものが多くみられる倉石氏ですから、孤独を愛し、何度も夫人を描いた氏なりの半生が滲む会場になるとに思われます。
ファイルの右下に真っ白なカンバスを立てた画室の隅に奥様がモデルとして立つ絵をいれました。倉石さんは画面のこちら側に居て、さあ描こうかと言っているのでしょう。姿はありませんが、自分が主人公でもある作品ではないでしょうか。

今年は企画展なしで最終の12月15日まで同じ展示をする予定です。
齋藤三郎の「茶道具展」は明後日に掲載させてください。

フカミ美術の懇親会が髙田であった 霧を抜けて三和区の喫茶去へ。

2025年3月2日(日曜日)

本日終日静かに雨が降った日曜日。髙田は寺町の長養館でフカミ美術主催の懇親会が催された。過日の小山作之助行事に続き挨拶と講話のお鉢が回っていた。

会場は寺町長養館、さすが海辺の大潟と違い髙田は雪が多い。

寺町の風景。

40人ほどのお茶人が集まる会なのだが教養的な解説話は苦手。ならば2017年4月に新潟市を来訪された裏千家お家元への呈茶の体験談談に決めた。
かってのブログに掲載済みの8年前の前代未聞の出来事。前もって不確かな事を当日同行した妻に尋ねて仕度した。
時間は15分程度と短く、要点を拾って話した。会場にはその日新潟市でお手伝いをして下さったお二人方も参加されていて懐かしい話でしたと仰った。

ブログを読むと8年前の自分がとても若く感じられる。
まあいい、人生いつでもその時々に「何かを始める」事を重ねれば、気持だけでも若くいられるのではと思った。

長養館の行事を終えて三和区にある「喫茶去」へ行った。どういう訳かそこへは寒い季節に行く。本日は道中霧が立ちこめ雪も多く例年とまた違った三和区山高津行きだった。

髙田を出ると途中濃い霧がかかっている。

 

山高津は霧が晴れていた。

 

喫茶去。

GACKT氏が来店して10数年が経ったという。

店内はアンティークが一杯。
時計の棚の奥にアール・デコが見える。

 

古民家の店内。

私は病院からカフェインを止められているのでデカフェをお願いすると対応して下さった。

ご自慢のフレンチトースト。

プレートにはアイスクリームや天津甘栗などがあり見た目から美味しそう。詳細はとにかく自分への褒美として食べ、夕食はサラダだけにした。

このところ何かと忙しく予定の美術館の告知は来週に回りました。
今年の齋藤三郎は「齋藤三郎の茶道具」、倉石隆は「倉石隆の男性」です。
遅れて本当に申し分けありません、どうか宜しくお願い致します。

懸案の小山作之助生誕160周年記念イベント最終回が終わった。

2025年2月23日(日曜日)

昨年来懸案の小山作之助生誕160集記念事業の三つ目最終回が本日開催され“無事”終了した。心配された長期寒波は小康となり新潟市からのゲストの皆さんも無事に到着された。

本日昼の潟町の通り。

上掲はプログラムの一部です。

ロビーにおける作之助の資料、写真の展示及び講演、さらに演奏の準備は大変念入りに行われ進行は完璧だった。市長、実行委員長の挨拶に続いて私の講演。
荷重くも記念講演と冠されているので粗相は許されない。折角だからほとんど語られることが無かった事柄を中心にタイトル「小山作之助の系譜・中島幸子と欧州」を話した。
緊張しながら作之助誕生前後の時代背景と生誕に関係する親族の状況を前半に、後半は作之助のひ孫、ヴァイオリニストの亡き中島幸子の生涯と残された音楽の系譜に言及した。

残りの時間は一昨年春、幸子さんの国立音楽大学の先輩で音楽研究家、指揮者、音楽プロデューサーの中島良史氏から届けられた4枚組レコードアルバムからモーツアルトのバイオリンコンチェルト第3番第1楽章に針を落とし、皆さんと聴いた。

ザルツブルグで高名な教授のもとに学び、師を支え、ほどなくリサイタルに立ち、トリオを結成、ヨーロッパを巡り各地で絶賛を博すことになる中島幸子さん。日本でも何度かのリサイタルとオーケストラとの共演、NHKの放映やFM放送出演など、短い生涯にも拘わらず明瞭かつ大きなスケールで美しい足跡を残された。

彼女は大潟区潟町の小山作之助の実家で誕生している。
僅か二ヶ月余の潟町だったが上越市大潟区は彼女の立派な生誕地。この先作之助とともに語り継がれることを心から望み、この地で音楽がより親しまれ先人に続く音楽家が多く生まれる事を期待したい。

会は進行し後藤丹、上越教育大学名誉教授のお話は作之助が作曲した音楽の構成上の特徴と先進性をピアノに触れながら語られた。お聴きして、なるほど研究者の脳はこのようなことも理解するのかと驚いた。

ゲスト演奏は後藤先生が新潟から呼ばれた声楽家の梅沢ゆきのさんの歌、ピアノ伴奏は高橋雅代さんだった。日本の美しい四季を7曲、アンコールは「夏は来ぬ」だった。
作之助が育てた滝廉太郎の二曲、わけても「荒城の月」はやはり素晴らしかった。中田喜直「むこうむこう」は中田氏らしく心に響いた。数メートル先の席で聴く声楽家の命の歌声は圧倒的で聞き飽きることが無かった。

お終いにコーラスおおがたのみなさんが作之助の曲三曲と「海」を歌い有志が加わり相馬御風作詞小山作之助作曲の「潟町青年團歌」が高らかに歌われて終わった。

そう、そう、作之助イベントに捕らわれていましたら、今年の開館準備をすっかり後回しにしていました。遅くなりましたが急いで取り掛かりますのでどうか宜しくお願い致します。
開館しましたら中島幸子のレコードを皆さんと聴く機会を持ちたいと考えています。

後日記プログラムの掲載が重複し文が分かれましたこと、申しわけありませんでした。

石破首相は果たしてトランプ大統領の受容に叶うのか 雪見舞い。

2025年2月7日(金曜日)

石破首相がトランプ大統領と会談をするため渡米した。このたびは交渉ではなくまず会談(挨拶)である。立場はおのずから相手が上。どのように受け入れられるかが先ず大要点であろう。その上でどんな約束や課題がどんな風に話題になるのか気になる。

受容、信頼は人間関係の基礎であり、正直さが鍵だ。重要なことは虚勢をはらず自らの信条を吐露する姿勢であろう。その点クリスチャン同士であることは幸運材料になろう(特に珍しいことではないが)。
具体的な話では成功体験よりも失敗談がお互い好印象になる。トランプ氏はそんな話を好むように見受けられる。幸い石破氏はその点の材料に不自由がないので、ある種あっけらかんとして体験を吐露し胸襟を開きあう材料にしてみてはどうだろ。

信念とその遂行は次元が異なる。トランプ氏もこの点での苦労はあったに違いない。時間があればエピソードを打ち明けて職の厄介さや面倒を語りあってはどうだろう。

ところで石破氏にはあどけなくも良い趣味があり、鉄ちゃんである。一方トランプ氏はゴルフだ。晩餐会かお茶会で石破氏にはぜひその楽しさをを語ってもらいたい。
どこか少年の意気を残すトランプ氏が、鉄ちゃんの楽しさに触れ、ゴルフの楽しさを語り出すなら「友」としての一歩が踏み出せるかも知れない。
関係性は敵か味方か、友かライバルかで交渉ごとの末端まで根底を左右しよう。複雑で長い今後のために是非とも良好な船出をしてほしい。

唯一つ、この度現地到着後、石破氏は飛行機から降りる際、オーバーコートのボタンと止めず、前を空けたままタラップを降りた。僭越ながら如何にも行儀悪く見えた。
金の亡者とはいえ、トランプ氏には上流人として人前のマナーの備えは十分であろう。粗野、だらしない人などと見られ会談の入り口も叶わなぬようでは本当に勿体ない。アドバイスするお付きは居なかったのだろうか。枝葉末節として杞憂に終わればいいのだが。

以下今夜のごはん。

メンタイパスタ。

 

カブと牛肉と野菜のトマトソース煮。

立春寒波は新潟県をしっかりターゲットとして猛威を振るっている。気温は-2℃から2℃ほどで降雪の条件は揃っている。山間部の積雪は2から3メートルに届く所もあり大変な思いをされている。一方で私達の沿岸は猛烈な風だが今のところ積雪は30㎝少々で済んでいる。
電話で雪見舞いなど頂戴するがお陰様で沿岸の当地に限って豪雪を免れている。

細くなった雪道を運転して本日在宅二カ所を回った。雪道の走り方、駐車の場所など私達でなければ分からない事もあり、長年の経験をやりくりをして回ってきた。最も肝心なのは初歩的なことで、とにかくスピードを控えることと、すれ違いでは可能な限り端に寄って待つか、そろそろと用心深く走ることではないだろうか。

早くも立春、蕗のトウ。

2025年2月2日(日曜日)

本日二回目の投稿で本当に気まぐれです。

本日はそれほど暖かく感じなかったのですが、髙田で最高気温が7,2℃。各地はもっと高い所が多かったようです。

言われてみれば立春、美術館に落ちた枯れ枝を片付けた後、ちなみにと裏の土手を見たところ蕗のトウが沢山でていました。

 

 

 

夕食に天ぷらにした大きめのもの。

以前小雪と書くと憚れると書きましたが、もう立春になりました。暖冬と言っても良いと思いますが、まだ油断出してはいけないのが雪国の定めでしょうか。

今夜のテレビ新・居酒屋百選で近江八幡がでました。昨年末に歩いたばかりの八幡掘が映り、あらためて行って良かったと思いました。

鬼平犯科帳に出てくる場所ですね、
と仰iっていました。

音楽家飯吉さんご兄弟、兄汐澤靖彦さんのご逝去。

2025年1月11日(土曜日)

当欄でかってお載せしました指揮者の汐澤靖彦さんが去る7日にお亡くなりになりました。当日Yahoo!ニュースに出ていましたが、本日お載せ致します。

汐澤さんは本名飯吉靖彦と申され、中学時代からピアノで有名でした。お父さんは潟町中学校の校長先生だったと思います。当持の同中学校は吹奏楽が盛んで、近所の同級生たちはピッコロ、小太鼓、トランペットなどで一緒に演奏していました。
学生服の靖彦さんは時に我が家でピアノを弾いてくださりスターの雰囲気がありました。

直江津高校から進んだ東京藝術大学卒業後は読売日本交響楽団の創立時のバストロンボーン奏者として長く活躍、その後著明な吹奏楽団の指揮者とともに広く後進の指導に関わられ、東京音大名誉教授に任ぜられました。

当ブログには2015年、上越タイムス首都圏版での記事掲載2023年の白金フィルのコンサートの記事を書かせて頂きました。
23年には氏の友人から是非楽屋でお会いしてと勧められていましたので、当日お訪ねしますと、非常に喜んでくださり、お元気なのと「兄がお世話になりました」と仰ったのが心に残っています。

お兄さんの馨氏は新潟大学芸能科で学ばれた後ジャズに進みピアニスト、作曲、アレンジャーとして活躍され、NHKにもレギュラーとして出演されました。
私どもにも何度かお寄りになり、氏のライブ演奏をよく聴きに行きました。

一昨年指揮後の汐澤靖彦氏と
東京芸術劇場の楽屋で。

東京で演奏する馨氏。

馨さんは既に亡くこのたび靖彦さんもお亡くなりになられ本当に残念です。お二人の歩まれた道は違いましたがそれぞれの音楽に捧げられた情熱は熱く、幸せなご兄弟ではなかったでしょうか。

この度の汐澤靖彦さんのご逝去に対し心から哀悼の意を申し上げます。

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