北野美術館 栗の木美術館 リンゴ

2011年11月3日(木曜日)

昨日の婚礼後、紅葉の軽井沢で一泊した。本日は午前中に長野市の北野美術館を見て、午後小布施へ行った。

  

秋を謳う展
 初めて訪ねた長野市の北野美術館は北野建設・北野家父子二代のコレクションを展示する財団法人格の美術館。大きな展示スペースが五室ある本格館で、「秋を謳う」展を行っていた。川端龍子、川合玉堂、片岡球子ら日本画巨匠たちの大作が最初に待っていた。

 

洋画も充実していた。穏やかなユトリロ、マリー・ローランサンのホワイト、ルノワールの意外に薄いマチエールなどなど、とても惹かれた。江戸時代の風俗を描いたチャールズ・ワーグマンとはかつて「逝きし世の面影」の参考図で出会ったことを思いだした。

 

日本人の洋画では、藤島武二、小山敬三、岸田劉生はさすがだった。木村荘八の気分に癒され、糸園和三郎の「かたぐるまの父と子」に父親の孤独を感じた。

 

彫刻では池田カオルの少女を包む穏やかな空気、朝倉響子と佐藤忠良の帽子は魅力的だった。

 

長野県は日本有数の美術館県だ。当館は私立としてそのさきがけとなり、シーンをリードした大きな功績を有している。
紹介文の一節「私的なコレクションは公的なそれに比すればはるかに自由と柔軟性をもっている」は、小館ながら樹下美術館の日頃と通底していると感じた。

 

小布施では町を散策後「栗の木美術館」に入った。心なごむ作品が展示され、桜井甘精堂本店の奥にあった。ここで寺田政明の三作品を見ることが出来て嬉しかった。氏の作品は小気味よく、少々疲れた心身は休まった。
作者は俳優寺田農さんの父で、樹下美術館の作家・倉石隆らとともに主体美術協会を創始されている。
小ぶりな美術館だったが、アプローチたる独特の庭は絶妙で、変化を漂わせながらしっとりとした空間を作っていた。驚いたことに入場無料だった。

 

混雑する小布施の町で遅い昼食に美味しい雑穀カレーをいただいた。例によって妻だけビール(地ビール)を旨そうに飲んだ。おみやげのリンゴは味、見た目とも素晴らしかった。

 

リンゴの木
手入れの良い広大なリンゴ畑は完熟のいい匂い。もいで食べたい衝動に駆られる。

 

小布施町は何故いつもこんなに人を集めるのだろう。

引き継がれる先人の文化?お金の使い方が上手?
農を生かし切る?高い地域個性と個人意識?
善光寺や周辺の温泉との行き交い?

甥の結婚式

2011年11月3日(木曜日)

昨日午後、甥の結婚式が軽井沢であった。披露宴はスピーチが一つ、謝辞が二つだけ、お色直しも騒ぎも無い簡素なものだった。

 

 ハートのディスプレイ

あんなにやんちゃだったのに、こんなに良いお嫁さんをもらうなんて。食事が美味しく、温かで良い結婚式だった。

 

テーブルディスプレイ
テーブルディスプレイ
バナナケース
バナナケース

目の前の坊やがバナナケースというものを持っていた。開けると中に本物のバナナが入っていた。傷まずにバナナを携行できるというもので、大小構わず入るという。バナナの湾曲度がほぼ一定なために出来るらしい、初めて見た。

 

終わって式場を出るととっぷりと日が暮れていた。 

きままな雲は高空で舞っていた。

2011年11月1日(火曜日)

日中は暖かで、雲が高い空を謳歌していた。

 

雲が舞う

 

ともすると雲は踊って笑って浮かんで跳ねて、ふさいで怒って暴れて泣く。その雲をあやつる天然は壮大で気まま。秋になって少々穏やかになったが、今年は随分激しく振る舞った。

 

ところで冬はと、みな心配している。テレビはあくびをするように「平年なみ」、と言った。ともあれどうかお手柔らかにと、高空で踊りに興じる雲を眺める。

秋のバラ  

2011年10月31日(月曜日)

数日続いた良いお天気が終わって雨の一日、一時は雷が鳴った。自宅庭でバラがぽつんぽつんと咲いている。花数は少なく形も小さい。孤独を漂わす花をみていたら一句浮かんだ。

 

旅人の休むに似たり秋のバラ

 

秋のバラ

遠くから来て休んでいる感じ。

 

それから先日のチャリティに出した油絵「いもけんぴ」は売れませんでした。次回新潟→上越と巡回することになろうと思います。人と同じように拙絵も旅をするんだ。

秋晴れの秀麗 柏崎市のお茶 新潟市の驚くべき展覧会

2011年10月29日(土曜日)

二日続きの秋晴れの一日だった。週末の午後、柏崎市の木村茶道美術館へ寄って新潟市の會津八一記念館へ行った。柏崎市では最初に懐かしいヨットハーバーへも寄った。

 

 1ヨット
柏崎市沖合のクルーザー。秋風を受けて近づいて来た。

同市は昔からヨットが盛んだ。ハーバーでは7割がた陸揚げされていたが、懐かしい「ミス日本海」号はまだポンツーン(係留のための共有通路・桟橋)に居た。大きかった同ヨットはその昔、ナホトカ市への友好航海やハワイへの遠征を行って有名だった。およそ4年間、当時皆さんにはレースなどでお世話になった。

お目当ての一つ木村茶道美術館は昭和62年春、茶道を始めるきっかけとなった所。ヨットを終えてからだったが、以来何度通ったか分からない。
初めての人もお菓子をいただき文化財級のお茶碗で抹茶が飲める。掛け軸、香合、棗(なつめ)、茶杓、風炉・窯、棚飾り、みな文句なしの文化財。私の茶碗は御本刷毛目(ごほんはけめ)、大振りで明るく、うっとりするような器だった。
妻は秋らしい趣の絵唐津の筒茶碗で、初めてというご一緒したお二人も備前や灰釉の名碗だった。

茶室のある松雲山荘の四季も道具類に負けずご馳走だ。なかでも間もなく錦となる紅葉はかってニュースステーションで中継されている。

ここでは未経験者でも気楽にお手前のもてなしを受け、御抹茶が楽しめるのでお勧めしたい。

2刈り込み
松雲山荘:ドウダンツツジの刈り込み。
この数百メートルも真っ赤になる。

 

4リーフレット
驚嘆の展覧会リーフレット

3茶箱
茶室の棚飾りは竹籠。
古い唐物(からもの:中国の伝来品)

 

5會津八一記念館
展覧会場・會津八一記念館

本日のお目当て「北大路魯山人VS會津八一」はまれに見る充実の展覧会だった。サブタイトルは“傲岸不遜の芸術家”とあった。思い切ったキャッチ、しかし傲岸に秘められた限りない美意識と探求、ナイーブな精神は天からの贈り物だと思わずにはいられなかった。

単に贈り物と言っても、本人達は血のにじむ思いで制作と格闘したことだろう。しかしその結果が私たちへの贈り物(あるいはもてなし)ともなっているのだ。

二人の共通項は先ず時代と書、なにより強烈な個性(自我)ではないだろうか(巨躯とユーモアも)。両者の特異として魯山人は美食の具現と陶芸、八一は短歌と美術史でそれぞれ巨峰をなした。
お互いは同時代にも拘わらず、意識しあっても決して交わることは無かったという。つきつめた個性とはそのようなものかもしれない。

さて八一は新潟県の人であるが、魯山人と新潟県の関係も新鮮で興味深かった。その一つ貴人、良寛への熱中が示されていた。新潟県の文化人達へ良寛を所望する痛々しいばかりの手紙などに陶酔ぶりが伺われる。
糸魚川の歌人相馬御風や柏崎市のコレクター吉田正太郎との交流等々、同県人として誇りを禁じ得ない。

拙樹下美術館の人間として印象に残ったのは八一が揮毫し、齋藤三郎が形成・焼成した抹茶茶碗だった。蝋で書かれた力強い文字、染め付け(藍色)の色合い、寸法、、、。二人の天賦と努力が一点に注がれた夢のようなお茶碗だった。

會津八一の没後55年となる当館の今年度特別展。希な芸術家の篆刻、書画、手紙、器、看板、写真等々が二度と見られないであろう切実さと品格をもって心に迫った。本日は全てを見たとは言い難い日程だった。11月30日までなので願わくば何度も見たい。

同催事は新潟県民の誇りを確認させてくれる異例のものではないだろうか。是非沢山の方に見ていただきたいと思った。

 

6ディスプレイ

 懐かしいイタリア軒のラウンジで見たディスプレー

すっかり暮れてイタリア軒で食事をして帰った。夏来体調が良くなかった妻は快気のビール。運転の私は食べるだけ、美味しそうなお酒の色合いを鑑賞させてもらった。

何度か書き直しをしました。

司修氏講演会

深夜まで庭仕事  ああ鳥や山、そして田

2011年10月28日(金曜日)

昨日は夕食後から夜中一時すぎまで庭仕事をした。

 

ユリやチューリップの球根、新着のアジサイなど、植え込みはまごまごしていると時期がすぎてしまう。次第に暗所となったムクゲやシュウメイギクの移植もミゾレの中ではだめだろう。ことのついでに中低木の枝払い、アプローチの落ち葉掃除まで始めたらキリがなかった。

灯りを点けて深夜の庭をウロウロ、、、。その昔同じような事をしていたらパトカーが来たことがあった。

さて一昨日のこと、昼休みに田んぼへ行った。コハクチョウが居てマガンが飛んで来て素晴らしかった。

白鳥

雁

妙高連山
昨日の妙高連山の夕景

鳥や山、それらとつり合う田のなんと美しいことだろう。世界と進化はもともと彼らのものだ。我が儘な私たちの道連れなどには絶対ならないでください、絶対に。

あらためて福島県から避難されている方々のこと

2011年10月26日(水曜日)

 昨日午後、地元の保育園の健診に行きました。例年ならば秋の健診は年長さんたち(6才児)を診ません。来月に予定されている小学校入学前健診で別に診るからです。
 

しかし今日は10人の年長さんを診ました。福島県からの子どもさんたちでした。来年4月に迎える小学校の入学先がまだ決まらないため今回の受診ということでした。園全体ではまだ17人のお子たちがいらっしゃいます。

 

5月の健診ですでに福島の皆さんを診ていました。5ヶ月が経った年長さんは特に大人びた印象でした。明るく活発に振る舞っているのに、いまだ安定しない立場に胸が痛みました。

 

家であらためて調べてみてみました。例えば原発地元の大熊町の人口は2010年の国勢調査時で11511人。放射能汚染のため役場は早くから会津若松市に移動し住民も居ません。全町民は県内に約7300名、県外に約4000名の方が避難されているといいます(大熊町役場ホームページ臨時サイトから)。今更ながら驚くべき現実だと思いました。

 

県外の避難先として埼玉県、東京都に次いで新潟県は三番目に多い513人でした。当地、上越市大潟区には福島県内数カ所の自治体からまとまって来られていて、ここまで何度か移動を余儀なくされた方も大勢いらっしゃいます。

 

将来設計、被災や汚染など故郷の心配、健康のこと、学業、初めて迎える雪国の冬、、、。この方たちの不安を思うと、国は文字通り1人1人を包むように全力で助けなければならないと思いました。そして私たちもまたあらためて支援や原発のことを考えなければならないのではないでしょうか。

 

上越の水田と雲

昨日10月23日のギャラリー沙蔵

2011年10月24日(月曜日)

昨日午後、長岡市ギャラリー沙蔵へ展示を見に行った。展示作品は売れ始めていたが私のいもけんぴはまだ買い手を待っていた。26日が最終日、嫁ぎ先はきまるのかな?

ギャラリー沙蔵よく磨かれた入り口のガラスドアに沙蔵と書かれている。
近くにあったオーナー家の蔵を、けん引の大作業をして移されたという。

 館内
館内は小品ながら力作がびっしり、二階にもいっぱい。
96人の作家と180点を越す作品は表現の自由を喜び、
さらに開かれる社会を一心に願っているようでした。

いもけんぴ
小生のいもけんぴ、8000円は高いかな。 
作品は半額が、絵葉書は全額が地震支援のチャリティにされます。

絵はがき
10枚持ち込んだ花の水彩絵葉書は残り三枚になっていました。
5歳になるギャラリーオーナーのお嬢ちゃんが右のを一枚買ってくださった、と。

お嬢ちゃん、ありがとうございました。

 

高田、直江津 暮色

2011年10月22日(土曜日)

本日、親鸞聖人七百五十回忌記念茶会があった。宇喜世と浄興寺の二会場で行われたが、時間が迫って後者の会場のみ伺った。

濃茶、薄茶両席の待合で聖人等身影と恵信尼(えしんに)公御文の貴重に浴した。晩秋の茶会は賑わいと共に、随所に名残の風情が漂い心に沁みた。

 

濃茶は妻の知人がお点前をされた。濃茶に相応しい緊張が伝わり心こもった茶が美味しかった。宗泉先生、宗米先生、有り難うございました。

 

高田小町にて

時間まで高田小町を見学

茶会
茶会
新しい道
初めて通った新しい道

白花ホトトギス
あるお寺に満開の白花ホトトギス
船
Harbor Light

シロダモ?

浄興寺の境内、シロダモらしい花。
穏やかな黄色に惹かれた。

 

夕刻から高田世界館で「煙突の見える場所」を見る予定。時間まで車を置いて寺町を歩いた。
山野で減りつつある照葉樹林は社寺林とも言われ寺などでまだ大切にされている。シロダモらしき樹もそうだが、高田寺町界隈では雪国には珍しい常緑広葉樹が見られるようだ。

いくつかの寺院を訪ねてみた。樹木も珍しかったが、ある境内で一面にシロバナホトトギスが咲いていた。自分など一株育てるのに苦労しているのに、こんなに群生するとは。今度はもっと明るい時間に歩いてみたいが、黙って境内に入ってもいいのだろうか。

 

映画は胸を打った。戦後、砂利道の東京下町、正義や権利という言葉が生々しく息をしていた時代の物語だ。美男美女が貧しさの中の真心を引き立たせ、あっという間に時間が過ぎた。
高峰秀子は劇中二回あくびをして、二回とも釣られた。森雅之にはまったく反応しなかった。高峰秀子は迫真だった(夜叉のごとき田中絹代もまた)。

 

映画館は滅多に入らない日頃、今日は高田世界館に来て良かった。

 

夜の直江津港、船舶の灯りは印象的だ。灯りの下でクルーたちはどんな時間を過ごしているのだろう、羨ましくもありいつ見ても楽しい。

新潟県長岡市 二つのイベント

2011年10月21日(金曜日)

午後休診日の昨日、二つの用件で長岡市へ行った。一つは本日から26日までギャラリー沙蔵で開かれる「アート&アーティストの底力」長岡展に向け拙作品の搬入。もう一つは長岡市立中央図書館で30日まで開催されている「長岡ゆかりの詩人 堀口大學 生誕120年展」を見るためだった。

 

初めてのギャラリー沙蔵は駅前・大手通りを進んだ市の中心部、分かり易くて助かった。展覧会は県内外から100名近い作家が出展し、小品ながら一人3点までなので膨大だ。事務局の堀川さんたちが懸命に展示作業をされていた。モダンな作品の中で私の「いもけんぴ」は明治時代の油絵のようだった。 

 

作品をお願いして堀口大學展の中央図書館へ向かった。
堀口大學は上越にもゆかりがある。
明治25年(1982年)東京本郷で生まれた氏は、2才から17才まで父・九萬一(くまいち)の故郷長岡市で育っている。外交官・九満一は東京帝大を出て第一回外交官試験に合格する異才で、母・政は大學三才の時に結核で夭折した。

 

慶應義塾へ入学した大學は吉井勇の短歌に打たれ、与謝野鉄幹、晶子の門下となり、友・佐藤春夫を得る。吉井勇への傾倒は生涯続いた二日酔い、と述べられている。 

 

図書館とポプラ美しいポプラ並木がある中央図書館(右手建物)

 

2中央図書館正面
堀口大學の大きな写真が飾られた
会場
4鉛筆
筆記用具を忘れたら
鉛筆を貸していただいた
3階段
会場の二階へ続く階段は
タイトルシールが貼られている
5米百俵号
さすが長岡市
移動図書館は米百俵号

 

●堀口大學生誕120年展は素晴らしかった。父九萬一の明治人としての気骨と教養は並外れている。魂の外交官が生涯を通して行った「疲れを知らない読書」は印象的だった。

 

大學のこまやかな感受性が、長岡市周辺の豊かな自然と雪国の生活実感から出発していることを知った。またそのみなもとの一つは母への思慕であり、幼少で失った母の面影のことは胸に迫る。病室の窓ぎわに佇む横顔は花火の明かりに照らされたものだった、と。

 

戦前戦後のおよそ6年間に居住した妙高市と上越市における生活も濱谷浩氏の写真とともに詳しく紹介されていた。貧しい時代の中でも詩集は刊行されており、敗戦によって国と人が洗われていること、深く戦争を憎む心が伝わる。
和20年1月、戦禍を避けて夫人の実家である現妙高市(旧名香山村)関川へ移住、同21年11月から同25年6月まで現上越市(旧高田市)南城町に居住。

 

なかほどに、上越市西城町のT氏宅に4人の文学者が集い揮毫した木製の茶入れ(箱筒状のもの)が展示されていた。小田嶽夫は薫風と書き、堀口大學が花を描き龍瓜の文字を、坪田譲治は名園荘別天地、松岡譲は融雪煎香茗と記していた。
話に聞いた茶入れだったが突然現物に出会って胸躍った。ありし日の高田は大変なことになっていた事をあらためて知らされた。

 

三島由紀夫ほか多くの著名人をファンにもっていた大學。美しい装丁が施された著書の数々が展示されていた。それぞれの表紙にルビー、紫水晶、ヒスイ、猫目石などがはめ込まれた限定本の豪華さに驚かされた。

 

筆記用具を忘れたため受付で来館者向けの鉛筆を貸して頂いた。ボールペンは作品を汚す危惧があるため、鉛筆にしているということだった。こまやかな配慮だった。

 

最後に読みやすいパネルの詩のコーナーを出ると、階下のロビーに子どもたちの詩が展示されていた。堀口大學詩賞の受賞作品で小学生の作品がとても良かった。「言葉は浅く 意は深く」、大學が語った言葉を思った。

 

樹下美術館は昨年、今年と堀口大學のご長女・すみれ子さんの講演会を致しました。来秋もまた予定しています。
樹下美術館が収蔵する戦後妙高・上越時代に発行された詩集です

堀口大学詩集
左から山嶺の気:昭和21年11月30日発行 冬心抄:昭和22年1月21日発行
人間の歌:昭和22年5月5日発行 雪国にて:昭和22年7月7日発行 あまい囁き:昭和22年5月10日発行

 

●堀口大學の会場を後にして再びギャラリー沙蔵に寄ると展示準備が終わったところ。事務局の労を執られている堀川さんはじめ舟見さん前山さん、オーナーさんほかの皆様、遅くまで本当にお疲れ様でした。

6ギャラリー沙蔵にて
大震災支援チャリティと「無謀の無い豊かな国」を願うアーティスト達の思いをお汲みください。
同展は今後新潟市、上越市の開催が予定されています。

 

7暮れる長岡市おそばを食べて帰った。小嶋屋さんの駐車場から見えた夕焼け。

 

「アート&アーティストの底力」長岡展 

「堀口大學 生誕120年展」

 

長々と書きましたので日をまたいでしまいました。
心ひらかれた秋の午後でした。

秋の柿崎海岸 まぶしい若者

2011年10月19日(水曜日)

コンニチハコンニチハと波がやってきて

サヨナラ サヨナラと消えて行く

 

コンニチハとカモメがやってきて

サヨナラ サヨナラと消えて行った

 

カモメ
  

渚の若者に波がコンニチハ
1

 

若者も負けずにコンニチハ
2

それからオーイと仲間を追いかける
4
 

司修氏講演会

取材 樹下美術館のいわれ リンドウ

2011年10月18日(火曜日)

火曜日、休館の本日午後、長岡市・県央地域のフリーペーパー・ 新潟日報住まい通信「すまっしゅ」さんから取材を受けました。

 

およそ取材では樹下美術館の名の由来を最初に尋ねられます。しかし、それがいつ決まったのか少々ハッキリしないのです。

 

開館は07年6月ですが、大橋秀三氏に設計をお願いした2005年初夏にはすでに樹下美術館と書類に書いてあります。
名付けのいきさつは多分こうでしょう。自分は樹木が好きだから樹の字を付けよう、ならば樹下?樹下は人が憩うし仏様も座られて、樹下美人もある、響きもいいし立地に樹木も多い、、、。深い訳も迷いもなく即決だったと思います。

樹下美術館今日の貴重な好天

 

本日来られた三人のクルーから丁寧に取材していただき感謝に堪えません。最近新潟市や長岡市・県央からお客様がぽつぽつお見えになります。
先日も新潟市のご夫婦が結婚37年の記念に寄りましたと、ノートにお書き下さいました。

 

費用がかさむ広告よりも取材はずっと反応が良いと実感しています。開館4年目の秋の取材、本当に有り難いと思いました。

 

りんどう庭の片隅でようやくリンドウの蕾が見頃になりました。

 

司修氏講演会 

賞品の財布 「いもけんぴ」の終了

2011年10月16日(日曜日)

日中は強い風が吹いた日曜日、ゴルフコンペに出た。今年三回目のゴルフは、わずか二組の小さなコンペ。それが年一回、18年間続いている。

 

ダブルペリアのハンディは制限無しの優しさ。今年の優勝者は44,4のハンディがついて腕時計の賞品だった。小生は55-53で四位、二つ折りの財布をもらった。20年間使った財布を今日で止め、賞品を使うことにした。ほかに大波、ニアピンの賞をもらって上出来だった。実は私が主催するささやかなコンペの話でした。

 

財布
 

さて当ノートに何度か出させていただいた「いもけんぴ」。今夜加筆、サインをして終了としました。用意した額に入れて記念写真をとりました。
SMサイズの小品ですが、30数年ぶりの油絵の完成でした。植物画の精密水彩をしていたことや、年を取ったことで昔よりも上手く描けたような気がしました。

 

9月上旬からはじめて一ヶ月半、憧れの油絵を描くことは苦労もありましたが、総じて楽しく描けて幸せでした。

 

いもけんぴ 

作品は20日に長岡市のギャラリー沙蔵さんへ搬入、震災復興支援のチャリティにする予定です。売れればお別れです。

午後はもみがら焼きの煙  夕刻は牧田由起さんのコンサート

2011年10月15日(土曜日)

昨日午後は小雨混じりでやや温暖。往診に出向いて田んぼに出ると凄まじい煙が目に入った。火事と見まごうそれは、もみがら焼きか。

もみ焼き?

車は煙の中を逃げるように走り抜けている。もみがらは田にすき込み、焼くのは原則禁止。例外の燻炭は一定の配慮を、とされている。

  

10年以上も前の三ヶ月間、交換留学生のステイを引き受けた。清澄の国ニュージーランドの高校生だった。通学には電車やバスの便が悪く車で送り迎えをした。秋、田に登る煙を見ると、「信じられない」、と彼は涙さえ浮かべて怒った。

 
まさか常態ではなかろう。COPD、ダイオキシン関連、交通などへの悪影響。農を応援している者にとって昨日のあまりの煙は少々残念だった。行政から指導などがあったかも知れない。 

 

牧田由起ヴァイオリンコンサートチケット
午後7時から牧田由起さんのヴァイオリンコンサートがあった。ヴァイオリンとヴィオラを佐々木友子さん、ピアノは金子陽子さんが共演された。大潟音楽協会の主催でまちづくり大潟が支援していた。

 

第一部のプログラムは二曲。「二つのヴァイオリンのためのコンチェルト(ヴィヴァルディ)」と「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲(モーツアルト)」だった。

 

三人の息はぴったりで、弦楽器は歌いに歌い、ピアノは縦横に奏でられた。モーツアルトは饒舌かつロマンティックで、演奏者と聴衆へのもてなしでいっぱいだった。会場は我が家のすぐ近く、楽しいコンサートだった。

倉石隆氏 1975年の雑誌から

2011年10月13日(木曜日)

前回のボザールよりさらに10年前の雑誌アトリエの1975年9月号。特集“油絵のテーマと制作の実際”で倉石隆氏のモノトーン「若い男」の制作過程が18ページに渡り掲載されていました。氏の考えの一部とともに紹介させて頂きました。 

 

●発想:僕は何となくこういうものを描きたいと思って描くだけです。(途中省略)自然に何となくこういうものを描きたかったと言うときこそ信じるに足りるものと思っています。概念的な作意が感じられる絵は好みません。

アトリエ表紙
1975年9月号アトリエの表紙
「若い男」の描き始めが表紙に。

 若い男の扉写真
同号のとびら絵を飾っている作品のネガ写真

 余白:このたびのように情景を排して人間だけを描こうとすれば周りは当然ただの余白と言うことになります。油絵ではこれが大変むずかしい。
東洋の場合は周りに何も描かなくても余白が不思議と空間に見えます。デッサンも同様ですが、油絵の背景はただ白く塗ってもそれは空とか壁とかつまり物質を持ったものに見えるから困るのです。

制作中の倉石氏

 デッサンを参考に油彩へ

 綿密なデッサンを通してモチーフが頭に入る。
油彩の段階ではデッサンを見るがモデルはもう見ない

モチーフ:この数年人間ばかり描いています。何となく描きたいから描いているのです。老人・女・子供・性別が判然としないものまで、色々描くけれど若い青年の絵というものが少ない。多分弱い人間のほうが興味をもてるのかもしれません。

「若い男」のモデルについて:現代の青年が持つ一面の性格、気負い、弱さ、傲慢とふてくされ、何かを欲しがっているいる姿勢と怠惰、そうしたものをむき出しにしている面白さがあります。
(今回のモデルは)せがれと言うことで、どうしても親近感が先にたち、それほど客観的に突き放して見ることは出来ませんが、それはそれで何か描けそうな気がして仕事にかかることにしました。

 

倉石隆は自他の自然さを大切に作意なき制作に徹した人だと、あらためて思いました。描きたいから描く、描くのが好き、、、画家らしい画家ですね。

氏は背が高くハンサムな人でした。私は脳梗塞(1987年7月発症、右半身麻痺と失語症)の後でしかお目に掛かっていませんが、お洒落な方だと思いました。懸命な介護をされる翠夫人も心に残ります。

倉石氏と

1996年正月、娘と練馬のご自宅を訪ねた時

司修氏講演会

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