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齋藤三郎ゆかりの人々 展 その1 富本憲吉。

2022年6月1日(水曜日)

今後、6月23日からの「齋藤三郎ゆかりの人々 展」に向けて展示予定作品のお知らせと作者についてのコメントを記します。
本日は富本憲吉です。

富本憲吉:1886年(明治19年)奈良県生まれ 78才没。
東京美術学校で学び在学中にイギリスに留学。ウイリアム・モリスが提唱したアーツ・アンド・クラフト運動に影響される。帰国後、来日中のエッチング版画家で英国人バーナードリーチと親交。リーチが陶芸に興味を持つと、憲吉も同じ道を目指すこととなる。実家の奈良県内の安堵村に築窯し楽焼きから始め、白磁および染め付け作品を発表。1915年(大正4年)東京都祖師谷に移り昭和10年代には九谷を訪ね北出塔次郎宅を宿として色絵磁器をさらに探求。1946年(昭和21年)に京都へ移り精緻な金銀彩に取り組む。1955年(昭和30年)色絵磁器で人間国宝となり1961年(昭和36年)文化勲章を受章。

齋藤三郎は1935年(昭和10年)、22才の時に最初の師である近藤悠三から推されて富本憲吉のもとに2年余入門。厳しい師のもとロクロを挽き、絵付け焼成および陶芸の精神を学び、この間師に添って九谷行きにも同行した可能性が伺われる。近藤悠三はかつて富本氏の許で修業をしているので兄弟子にあたる。

●以下展示予定の富本作品から

染附「竹林月夜」皿。
図柄は故郷の安堵村の風景で、長く好んで描かれた。
アイディアはバーナード・リーチとの外出から生まれている。

 掛け軸「安堵村小倉」から。
月、竹林、倉の図案は「竹林月夜」によく似ている。

 染附並用中皿「風景」5枚。
安堵村の「曲がる道」がモチーフ。
後年、実用と普及を願って並用と称し、工芸的な数もの作品に熱心に取り組んだ。

右・富本憲吉最初の著書「窯辺雑記」 初版 1925年(大正14年)文化生活研究会発行
および左・文化出版局版、1975年(昭和50年)発行。
初版本に昭和12年春 松尾禎三氏恵與 齋藤三郎と自書している。
松尾禎三を調べたところ同名の豆本作家があったが、同定は出来なかった。

●「窯辺雑記」について
安堵村に窯を築き試行錯誤が続いた時代の志と生活の実状が書かれている。生活はかなり苦しかったらしい。理解者(陶芸愛好家)として新潟県旧西頸城郡能生の素封家伊藤助右衛門のことが触れられている。

以上4点に銀彩蝶文香合と梅竹湯呑2器を加えて正面のテーブルと壁面に展示の予定。
※スペースに余裕があれば並用作品「花の字」中皿5点も展示致します。

次回「齋藤三郎ゆかりの人々 展」からその2として、齋藤三郎の最初の師・近藤悠三および九谷焼きの北出塔次郎の二人を予定しています。

東京の人 北陸道の側道に白い花々そしてアザミとコミスジという蝶 「私のアルベール」。 

2022年5月31日(火曜日)

昨夜少し雨が降ったため植えたばかりのラベンダーとベゴニアには恵みだった。そして本日は少々の風とともに折々陽が射した。

昼休み古径記念美術館館長さんが東京の大手出版社のエディターさんとお寄りになった。ある企画のために当地へ来られた旅の人は物静かな方。しかし心身には美術の感覚と知識がぎっしり詰まっている印象を一瞬にして受けた。

その方は庭で満開のヤマボウシに目を止められ、ロイヤルドルトンのカップを選ばれた。コロナが和らいで、時折都市部や遠隔からち寄られる方をお見受けするようになったが張り合いであり、嬉しい。

仕事に戻る道(北陸道の側道)で何種類か白い花と最後にアザミと出会い、初めての蝶を見た。

卯の花(ウツギ)。
この花を歌った「夏は来ぬ」の作曲者小山作之助は小生の大叔父。

7人もいた叔母達は集まる度に声を揃えて「夏は来ぬ」歌った。「夏は来ぬ」とは言わずに、「叔父さんの歌」を歌いましょうと言っていたように思う。

冠のようなのでこどもの頭に載せてやりたいガマズミだが、
白い粉のようなつぶつぶが沢山落ちそうだ。

ノイバラの白さも美しい。僅かな香がある。

道が大潟スマートインターに近づく頃アザミに出会った。

 

ここでアザミを見るとは思わなかった。
過日アザミを見た道はこの雑木林の南の反対側なので
あってもおかしくないが、ちゃんと咲いているとは。

アザミを見ているとヒラヒラと蝶がやってきてそばに降りた。
日を浴びてじっとしている。後で調べるとコミスジという蝶だった。

明日は6月1日、文字通り「夏は来ぬ」になる。
「齋藤三郎ゆかりの人々展」の作品を適時掲載したい。明日は三郎の二人の師、富本憲吉と近藤悠三作品で始めたい。

最後に昭和29年(1954年)の歌。


「私のアルベール」 歌・松島詩子

昭和29年の私は中学一年生。歌は当時のNHKラジオ「のど自慢」でとても人気だった。男性も歌ったように思う。
ロンドンやニューヨークでもない、パリが舞台のシャンソン風の曲。
ペーブ(ペーブメント:石畳)、ミモザの花、セーヌ河、シャンソン、、、。戦争で途切れた「花の都」パリへのあこがれが再び繋がった喜びが伝わる。

アザミのペンダントヘッド 柿の実の赤ちゃん 鵜の浜の夕暮れ 弟の豚肉 とても良かった義経。

2022年5月15日(日曜日)

去る5月7日のブログで農道のアザミを記載した。その日お着物で来られた方の写真を撮らせて頂きそれも載せさせてもらった。

すると昨日その方たちが再び来られ、実は自分が付けているペンダントヘッドは王冠が無いだけで、デザインはスコットランドの紋章によく似ていると仰った。

着けているペンダントをはずして見せて頂いたが、なるほどなるほど、確かにその通りだった。
彼女は長年それとは知らず、彼の王家の紋章であり勲章や貨幣デザインでもある花を胸に飾っていたということになる。身につけていた遠い国の誉れと旅情。拙くあってもブログには何でも書いてみるものだと思った。

 

 

上:スコットランド王家紋章、下:お客様のペンダントヘッド。

話変わって美術館東側にまだ小さな柿の木がある。昨年10数個実をつけたが夏の間に皆落ちてしまい、一個も実らなかった。昨日枝を見たところ、実の赤ちゃんとおぼしきものが数十ついていた。私は甘柿が大好きなので、今年は一個でもいい、赤く実ってくれないかなと思っている。

矢印が実の赤ちゃん。

日中地元大潟区の同好会の皆さまとゴルフをした。後半スコアが落ち着き、この先の楽しみに繋がりそうだった。楽しいパートナーの皆さん、ご一緒有り難うございました。

そして鵜の浜の夕焼けは美しく穏やかだった。

沖に幾つも漁り火が見えていた。

 

夕食は弟が南三陸町で放し飼いしている豚肉を食べた。
言葉が出ないほど美味しかった。

 

今夜の大河ドラマの義経はとてもとても良かった。
あの猛りの人が今夜は切ない哀愁の人に変わった。
役者さんて凄いものだと思った。

少し肌寒むかったが、草木はおろか私達にも丁度良いお天気だったのではないだろうか。

A Whiter Shade of Paleという歌。

2022年5月14日(土曜日)

自分の年令を考えるとまったく不似合いだが、ほろ苦くも懐かしく、何度も聴いて飽きない不思議な曲に英国のロックグループ、プロコルハルムが世に出した「青い影」がある。

「青い影」は「A Whiter Shade Of Pale」が原題で、“青白い彼女の顔がさらに青ざめる“というような意味のようだ。
かって「青い影」に漠然とロマンティックな雰囲気を感じていたが、ネットの時代になって歌詞や解説を目にするに従い、実は恋人の心変わりを突然知った時の状況と心境が歌われたものだと分かった。

歌詞は英国のカンタベリー物語の粉屋のエピソードや古代ローマのウェスタの処女の神話、さらに実演で歌われるポセイドンの海、そしてアリスの物語の鏡などが現れるのでいっそう難解。本当は何を歌っているのか近時解説を当たるまでよく分からなかった。


1967年のプロモーションフィルム。
ベトナム戦争への反戦歌のイメージそのものになっている。
プロコルハルムのリーダーであるゲイリー・ブルッカーが歌っている。
ムスリム風の帽子の意味は何だろう。

だが曲はジョン・レノンによって特別な曲として絶賛され、世界で1000にもなるカバーが出され、触発された松任谷由実が「飛行機雲」を作ってデビューし、レコード屋に走った山下達郎はその日のうちに100回は聴いたというほどの衝撃を生んだ。
ちなみに2012年11月、松任谷由実は念願のプロコルハルムとの共演を果たしたという。


2006年デンマークで歌うブルッカー。

この人ブルッカーは本年2月22日に76才で逝去しているのを最近知った。


今Emily Lingeさんも愛らしくピアノを弾いて歌っている。
彼女は声が良くロック調のこぶしは自然でとても上手。

プロモーションフィルムから反戦歌という解釈もあり、作曲された時代の背景が如実に伝わる。
だがパーティーの馬鹿騒ぎ中、ふとした会話から恋人の不実を知るという歌。ちょっとした事かも知れないが、天地がひっくり返るほどに感じる出来事が突然起きるのも青春であろう。バッハの曲調をもつ壮大なスケール感が若者の心を捉えたのも、いわく言い難い必然だったのかもしれない。
終盤に向け惨めさが祝福に昇華して行くような調子はバッハの素晴らしさであろうし、今も聴かれることの要因ではないだろうか。

昨日のこと、6月23日から始まる「齋藤三郎ゆかりの人々展」の相談に齋藤尚明氏を訪ねた。途中、車の定期点検が早く済んだため時間が余り、中ノ俣方面へ車を走らせた。春風吹きタニウツギが咲く道で何故かずっとこの歌が脳裡に流れて、止まなかった。

ちなみにプロコルハルムとは“Beyond these things“。“物事を越えて”というような意味のラテン語らしい。
また歌の解釈について後年作詞者は、単に捨てられた男の歌、と述べたようだ。

本日2回目の肺炎ワクチンを接種した。コロナの時代、老人には合併症の予防にこれも重要で、前回からの期限を大幅に過ぎていたが気がついて打って良かったと思っている。ほんのわずかチクリとしただけだった。

連休半ばの好日。

2022年5月3日(火曜日)

ようやく5月の空らしく安定して晴れた。少し寒かったが清々しく風が渡り良い日だった。

連休は半ばになっているが「齋藤三郎ゆかりの人々展」が一ヶ月余に迫り、秋の拙作品展はそう遠いものでは無くなってきた。それで本日昼に美術館で食事をしたほか殆どそれらの準備に費やした。

そんな日の昼のベンチにお二人の方がいらしてた。

三つある庭の席で
真裏のアイアンテーブル&椅子は日が射し風が和らぐ場所。
東京から新潟県を訪ねた足でお寄りになった。
「とても気に入った」と仰り、拙ブログを御存知で恐縮した。

周辺の雑木林の白フジ。

 


アルフレード・クラウスのエストレリータ(小さな星)。

お一人具合の悪い方がおられ、昨日から連日往診が必要になった。詰まって来た美術館の二つの予定と患者さんのケアで家に居た方が良い連休.。ひと様と我が身のためと納得。

昨日加茂市の加茂山公園を訪ねた。

2022年5月1日(日曜日)

4月中旬の新潟日報おとなプラス紙に「彫刻の森」が取り上げられた加茂市、加茂山公園。
内容から公園の風趣の良さが伝わり、昨日土曜日午後やや遅かったが出かけた。

県央に縁の薄い身。走ると加茂市は案外遠かった。だが遠い分旅気分がよぎり短時間の滞在ながら楽しめた。

 

市の東部の加茂山一帯が広大な公園になっている。
入園して間もなく噴水に出る。

坂道を上りはじめ右側の最初に「Silent Languageⅴ」
(作者・安田明長)

 

子どもたちを中心に若い人の姿が多く、雰囲気に活気がある。
いえ川の鯉のぼりのせいか、通りも人と車があふれていた。

 

「風のしらべ」(作者・松永勉)

 

「転 90-S」(作者・山西俊彦)

 

「楕円 ⅱ(電車ごっこ)」(作者・荻野耕一)

 

リス園の外観
リスは訪問の目的のひとつだったが4時終了で見られなかった。
ぜひまた訪ねて見てみたい。

「イリュージョン(作者・山里和典)」

 

「森の詩(作者・藤巻秀正)」

 

帰り道右側最後の「GEN」(作者・今溝訓)

 

公園の順路の脇に青海神社へ上る石段。

 

茶店の一つ。

 

神社の鳥居を望む。

さて短い時間だったが新緑眩しい公園を楽しく歩いた。花は終わっていたが5万本という椿が迷路のように整備され、幾つか茶店があった。清々しい晴れ間に誘われ園内は多くの人の姿があった。賑わいのほか静かな道もあり、さまざまに楽しめるようになっていた。

16点の彫刻作品が雪椿園と児童公園周辺に設置されている。それぞれの作品は環境調和が意識され、個性的だが分かりやすく親しめた。このような場合、あまり周囲との調和、同調を意識すると逆に環境に飲み込まれてしまい冴えなくなる、という結果が懸念され、そのような作品も一、二あった。

始まりはふるさと創世事業の1億円を原資に公募したという。野外彫刻は建物が要らないうえ環境と管理に配慮すれば作品はより生きる。当公園の環境は十分であり、新聞によればたゆまぬ管理が継続されているという。
成立に非常に多くの手間が掛かったと考えられるが、ふるさと創成事業の成功例ではないかと思った。

歩きながら、ここはどこかに似てるぞ、と思っていたところ、「北越の小京都」という看板。ああなるほど、と思った。
雰囲気は一部東山界隈を彷彿とさせるし、加茂川(あちらは鴨川)もあれば近くにこぎれいな料亭もあるようだ。リスも見たいのでこの度結婚式出席で叶わなかった妻を誘って是非とも再訪したい。

去る日ウクライナ出身の名チェリストが演奏する「祈り」を聴いた。

2022年4月25日(月曜日)

去る日にカフェでA氏らとSPレコードを掛けた。その一枚にかって100万ドルトリオと呼ばれたトリオのチェリストであるピアティ・ゴロスキーが演奏するブロッホ作曲「祈り」を聴いた。

ピアティ・ゴルスキーは旧ソ連時代のウクライナ出身で1942年に米国市民権を得ている。「祈り」を作曲したエルネスト・ブロッホはユダヤ系のスイス生まれ、同じく米国で活躍した。

SPレコードを回して、
ピアティ・ゴルスキーのチェロ演奏で
ブロッホ作曲「ユダヤ人の生活」から第2楽章「祈り」を聴く。

以下の動画で演奏するチェリスト、ミッシャ・マイスキーはソビエト連邦生まれ。1970年代に家族の一人がイスラエルに亡命したことなどから逮捕、18ヶ月間、収容所の強制労働の後に米国に移住している


ピアノはリリー・マイスキー。

マイスキーはピアティ・ゴルスキーの最後の弟子と言われ、米国移住後世界で演奏しています。

ユダヤ人、ソ連生まれ、ウクライナ生まれ、、、。独裁者がいなければ深く美しい芸術が生まれるのに。独裁者はどれだけ世界を駄目にすれば気が済むのでしょうか。

野鳥が水浴びをするようになった 懐かしい「Moon River」

2022年4月8日(金曜日)

清々しい日射しが僅かな肌寒さを包んだ日。桜をはじめ花は開花を急がず春の最も丁度良いお天気だった。

気になっていた方が快方に向かわれたので4軒の往診、訪問の予定が3件に減った。かっては7,8件も苦ではなかったが今は4件が一つ減るだけで随分気が楽に感じる。

昼休みの美術館の庭で水浴びするシジュウカラとホオジロの姿があった。

 

しばしば庭のどこかで営巣するシジュウカラ。今年は何処になるのか。

 

 

梢の先端で鮮やかに鳴くホオジロが水浴びをしていた。

 

 

 ソメイヨシノの直前に満開になるホウキザクラ。
濃いめの色が冴える。

 


「Moon River」。上京したころの緊張感と希望を思い出す。

1961年公開の映画『ティファニーで朝食を』で、主演女優のオードリー・ヘプバーンが劇中で歌った曲。1961年のアカデミー歌曲賞を受賞、グラミー賞では最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀編曲賞の3部門を受賞した。
特に波乱のストーリーも無く、ニューヨークのアパート生活のほかオードリーの生活感と魅力に満ちた作品という印象がある。

映画と音楽は浪人時代の発表で、そのころの正月、ホレス・シルバーとクリス・コナーの来日公演を大手町サンケイホールに聴きに行った。
正月の静かな大手町のビル街が映画の朝の通りによく似ていて、通りを「ムーン・リバー」を口ずさみながら東京駅まで歩いた。
小田和正が音楽の道に入るきっかけとなった曲と書かれている

能登町の蕪寿司 春のお菓子 心に響く歌、響かない歌。

2022年3月29日(火曜日)

予報ではもっと良いお天気になると伝えられた。しかし比較的温かかったが日射しのようなものは無く終日曇った。

弟がお付き合いしている能登町の方の蕪寿司。
研究が重ねられた素晴らさ。

本日かってのスタッフが寄ってくれ、お菓子を頂いた。

菊廼舎(きくのや)の富貴寄(ふきよせ)の「桜色缶」
というもの。
開けると春満開だった。

 

食後お抹茶のお伴に頂きました。

 


心込められた薬師丸ひろ子の「Wの悲劇より」。
さすがプロの作詞作曲だけある。
彼女の「セーラー服と機関銃」もとてもいい。

一方、
“貴方に会って素直になれた
この思い抱きしめて
めくるめく季節の中を明日を信じて
前を向いて歩いて行こう”

かってゴルフの練習場でスピーカーから次から次とこのような歌が聞こえて来て参ったことがあった。どの歌も同じような歌詞(作文)で苦痛になり途中で帰った。
いつの頃からか四方に聞こえるこの歌。聴きようによってはとても幼い内容に写る。ある報道特集のテーマ曲も似たようなものだったのには驚いた。

私でも(誰でも)ちゃちゃっと作ることが出来、後世で何の評価も受けないような気がする。

春の嵐 複雑な今日ゆえ。

2022年3月26日(土曜日)

本日土曜、朝から荒れ模様だったのが午後一段と激しくなった。
雨はポツポツだったものの風は凄かった。

木々はうなり枝は飛ばされ花は腰をかがめて耐えていた。
風は南から吹き気温は20度近くにもなり草木には最悪だった。
毎年春にはこんな嵐の日があり、散々なゴルフだったこともあった。

本日午後近隣の畑。


かって幸せな二人が歩いた緑の野
時も場所も帰らぬが
いつか昔に戻れる日を待ちたいと歌われる。

1960年代は何事も質素で分かりやすかった。学校帰りに駅前の食堂でメザシ定食などを食べて十分満足だった。
今はあれこれあまりに多く耳目と口中に入り、そうかも知れないが違うかも知れない、と悩ましい。

それで当時単純すぎると思っていた上掲の歌などは今は親しめ、かってあまり聴かなかったモーツアルトが優しい。
時代のせいもあるだろうが、一番は歳のせいに違いない。

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