庭仕事と読書は似ている 新堀川の自然な桜。

2025年4月14日(月曜日)

今夕、外来を締める直前に救急案件があり急いで病院に電話をして紹介状を書いた。それで昨日記したような診療後の庭仕事(施肥)は短縮の止む無しになった。それでも一定の用土とトンプンをくべることが出来て満足だった。

庭仕事はどこか読書に似ている。寝る前や病院の待ち時間に本を開いたり、新幹線の2時間などを加えるうちに、いつしか読了が近づく。庭も同じで少しでもヒマをみて雑草を取り土や肥を足す間に、黙々と力を蓄えいつの日か見映えが良くなる。
それは特に大きな果実をもたらすわけではないが、いずれも「成長力」ともいうべきダイナミズムを有し、日々の手当によってしかるべき時が来たら、私達の胸を温かく膨らませてくれる点で両者は似ていないだろうか。

理屈をこねればこんなことでもあろうかと、仕事場から美術館に向かった。間もなく到着で新堀川を渡る時、堤の桜は眠りにつこうとしていた。そしてほんのひととき、昼間の色と異なった僅かな赤紫を帯びた。車を降りて写真を撮ると魅力的な色はすぐに消えてうす暗くなった。寝る前のお化粧なのかなと空想した。

暮れるいっとき
ひとしお鮮やかな桜。

昨年樹下美術館で展覧会をして頂き好評を博した高宮夫妻が本日金沢の帰りにお寄りになった。お二人の希望で妻が新堀川の桜を案内した。午後お会いすると“私達が観たかったのはああいう桜”と、喜んでくださった。それに比べればゆっくり眠ることも出来ない観光地の夜桜は少し気の毒である。

明日も仕事終わりから施肥を続けたい。

雨の今夜は満月だった 明日は晴れるので施肥。

2025年4月13日(日曜日)

昨夕日庭仕事を終えて観た月は丸く明るかったので満月かと思った。しかしググると本日がピンクムーンと呼ばれる満月ということ。あいにく午後以降特に夕刻はしっかり降ったので月を眺めることは叶わなかった。

夕刻の西の空。
前線通過の雲でしょうか。

そんな夕刻の庭で施肥をしたかったが風雨が強まり断念した。だが明日は晴れの予報が出ている。日も長くなったので仕事終わりでも小一時間はできそうだ。

昨夏来、庭全体に肥料が不足していると感じ今春から施肥に熱が入った。そんな折の過日、庭に詳しい方が来館され,カフェからご覧になり、申し上げにくいのですがと仰ったうえ、全体の肥料不足を指摘をされた。ジャストのご指摘通りで益々肥やしに力が入るようになった次第。
敢えてご指摘くださった方、本当に有り難うございました。

さて上記「ムーングロウ(月が上るの意味)」のピアノは亡き中村八代さん。氏は坂本九ちゃんの「上を向いて歩こう」の作曲者だ。あの良き時代、Piano With Stringsの録音スタイルが流行り、氏も穏やかな弦楽をバックにゆったりとスウイングし心癒やされる。
因みにムーングロウはウイリアム・ホールデンとキム・ノヴァク主演映画『ピクニック」の主題曲でした。

明日は少々臭いけれど、「田舎の香水」トンプンを沢山蒔こう。

長野からご来館のカップル様、遠路有り難うございました。拙ブログをご覧になってるということ、とても励みになりました。

居ながらの花見 スミレの好意。

2025年4月12日(土曜日)

暖かく晴れた土曜日。髙田の花見は大賑わいと伝わる。この時期いわゆる会場という所へ行かなくとも周囲で満開になった桜を眺めるだけでほどよく心が弾む。

樹下美術館の一本桜もそれなりに風情良く春の喜びを現していた。

美術館裏手のソメイヨシノ。

裏手のあぜ道のスミレ。
数限りない種類があるスミレ。

山路来てなにやらゆかしすみれ草

草花を見ると名前を知りたくなる。しかし奇しくも松尾芭蕉が詠んだように、このスミレは、“別に詳しく名を知らなくてもいいんです。ただ「なにやらゆかし」ければそれで十分なんです。分からなければわざわざ調べたりなさらず、どうかすみれ草とだけ呼んで春の訪れを喜んで下さい”と言っているのではと想像し、好意に甘えさせてもらった。

農道の一部ではヒメオドリコ草が集まり、美術館の桜を見上げて花見をしていた。


美術館が閉まってからテッポウユリの球根を植え、先日来続けている庭の施肥をした。いつしか明るい月が上っていたので本日分を終わりにした。

本日直江津、長岡、新潟からお見えのクラスメイトの皆さん、坂口記念館の帰り道はお分かりになりましたか。楽しいひと時をご一緒させて頂き有り難うございました。

良いご一家の話。

2025年4月10日(木曜日)

新学期が始まり小学一年生が横断歩道を渡る様子は何とも初々しい。
私は昭和23年、姉は21年に小学校に入った。入学の日姉が学校から持ち帰った教科書のあちこちはべったりと墨が塗られていたのを鮮明に覚えている。
戦後の一時期、新たな教科書が間に合わず戦前のものを用い、新制度にそぐわない部分は黒く塗られていた。お祝い気分だった姉はじめ家中ががっかりしていたのが蘇る。

ただ姉が買って貰った「下敷き」をきれいだと思った。初めて見た下敷きは、緑の丘の上に三角屋根の家とそこへ続く道が原色で描いてあった。簡単な図柄だったので真似てよく描いた。

ところで過日カフェでお会いした私と同年代の男性が語った教科書はそれどころではなかった。かつて父親の仕事で遠い西の地へと移られたご一家。お聴きした当持の話は逞しくも涙ぐましく、かつ微笑ましい戦後昭和のエピソードだった。

転地された時期は今ごろで小学校の教科書が間に合わなかった。そこで学校から借りると、字が得意な母が文字を写し、絵が得意だった父が挿絵を描いて何冊か教科書に代わるものを作ってくれたと聴いた。貧しい時代、遠くへ移られた皆さんの懸命な勤しみと時代ならではの灯下の幸せが浮かぶ。

その方は次のような話もされた。母は演歌が好きで上手かった。そんな母のために父は中古のアコーディオンを買ってきて独学で母の伴奏をはじめた。
両親の演奏を聴きながら自分も歌とアコーディオンを覚えた。アコーディオンは体力の無い小学生には重すぎたので仰向けに寝そべり、楽器をお腹に乗せて弾いた。

公園のベンチでもよく演奏したがある日通りかかった人が、坊や上手だね、と言ってお小遣いをくれた。家に帰って話すと父は、子供はいいな、私が弾いてもだれもそんなことをしてくれない、と嘆いた。

この方のご兄弟の何人かを知っているが、皆さん底のほうに明るさを秘めそれぞれ個性的。この日初めてお会いしたお兄さんも個性十分とお見受けした。
当館のお茶で、最初に字の話になった。すると居あわせた妹さんが「私は父親似で字が下手なんです」と仰った。
すかさずアコーディオンのお兄さんが
「それは違うよ、子供はどっち似ということはあり得ないさ、半分半分だ」
と、ぼそりと返された。
そこへ不遜にも私が入り、
「お兄さんは理系ですか、お話が科学的ですね」と言った。
「そうです、親子は半分半分。私は理科系で長く自動車のエンジンの仕事をしていました」と仰った。

面白い話をポツリポツリと語られるお兄さん。今では独学で覚えたチェロを子供達に教えているという。妹さんは絵画に関係され、この日皆さんは普段通りだったようだが亡き親御さんをはじめお話の人たちはみな一生懸命。内容もユニークで何て雰囲気の良いご一家なのだろうと思った。

近隣の花自庭の花 赤い動物のオルゴール。

2025年4月8日(火曜日)

近くの新堀川公園の桜が見頃になりました。両岸を彩る花は例年見事で、当館にお越しの方に是非観て頂きたいと思います。

樹下美術館前の左にあるコブシも満開を迎えました。設立時に2メートル少々だった樹ですが今は見上げるようになりました。今年は花付きが一段と良く真っ白です。

 

裏手のソメイヨシノは1,2分咲きででょうか、
田圃では春耕が始まりました。

数年前に東京のあるレストランで食事したときのこと、オーナーが自作のオルゴールを見せてくれました。赤い馬でとても気に入り、欲しいというと売ってくれました。一度出したことがありましたが、このたび思いだしカフェの丸テーブルに乗せました。

 

あるメガネやさんでもらったルパン三世の小さなフィギュアや大地の芸術際で求めた人形「マユビト」を乗せて賑やかにしました。どうかお好きに動かしてお楽しみください。

丸テーブルにはスケッチブックと色鉛筆などが置いてありますので、これも自由にお使い下さい。

吉川区の長峰城址 トランプショックに時代劇。

2025年4月6日(日曜日)

今日は日曜日、普段通り起きた。あっさり目の食事をし、風があり曇り空のため鳥というほどでもあるまいと決め、新聞を読んで溜まっている書類を書いた。

昼になり、吉川区長峰湖畔の長峰城址が良いと聞いたので行くことにした。現地の長峰池脇の駐車場までせいぜい10分ほどだ。駐車場からすぐの池に出て左手(西方)に道があり長峰城址と案内されている。

一帯は小学校の遠足以来、近時は探鳥などで何度も来ている場所。しかし城址へは行った事が無かった。

ゆっくりした上り坂の道に入ると右手に鳥の影。

ジョウビタキの雌。
いかつく派手な雄よりも
地味でもそそとして可愛い。

花が少ない印象を持ったが、昨日の大池いこいの森と違い早くもスミレが沢山咲いていた。

 

ヒサカキの花。
わずかにトイレの匂いに似ているが、
神聖な木。

見え隠れする長峰の池。

 

道中竹林を通った。
荒れてはいるが嵯峨野?
と言えないこともない。

城跡の案内板を見ているとお年寄りがさっさと通り過ぎて行く。

慣れた足取りの二人。

 

ヒオドシチョウ。

遺構にさしかかる。

道の左右に雪割草が植栽されている。おびただしい花が自然に溶け込んでいて癒やされる。

 

 

 

 

搦め手方面へ、
行く手はかっての舟着き場。

 

右の谷のような場所が
舟着き場への通路らしい。

土塁や空堀など一通り城跡を巡り帰路へ。帰路の途中で農道へ出る場所があり梅がきれいだったので寄った。

亡きおじいさんが結婚した頃に
植えられたものか。

初めて行った長峰城址。去年春現地を観られた一級建築士で新潟県まちなみネットワークの関由有子さんが帰路当館に寄られ素晴らしいと熱心に語られた。
本日もまた5000千歩足らずの行程を大変ゆっくり2時間もかけて歩いた(当然年令のせいですが(・・;)


昼食抜きの毎日なのでとてもお腹が空く。樹下美術館では我慢出来ず二つ入りにしてもらったアイスクリームを食べた。

車でわずか10分の所に江戸初期の城や人々の足跡が辿れる場所があるとは大変貴重なことだ。

僅か二年で廃城になった五万石の城址はやはりもの悲しさを禁じ得ない。しかしその二年間、城主は美しい長峰池と米山、尾神岳の雪月花を楽しんだのではなかったか。

この数年時代劇ばかり観るようになり本日日曜日は大河「べらぼう」を観た。うれしいことに「べらぼう」に続いてすぐ「あきない正傳 金と銀2」が始まる。
アメリカ大統領によって突然のように世界の商いが難しくなった。だがいずれ「精魂込めて作る売る」我が国ならではの「商いの真髄(近江商人魂)がじわじわと力を発揮される好機のようにも思われる。

高齢者ばかりではなくZ世代の皆さんもこぞって二つの時代劇を観て心奮わせてもらいたい。多くの人の期待を背に若き小芝風花さんはじめ重鎮の熱演も光っている。

頸城野にようやくの春 メダカの学校。

2025年4月5日(土曜日)

珍しく日射しが現れ少し気温が上がった土曜日。去る3月25日に訪ねたように、いこいの森公園に繋がる学習センターから入り大池側へと歩いた。
一帯の梅や早咲きの桜は前回よりも賑やかになり、ようやく春の眺めになってきた。

 

当センターには小さな流れがいくつもあるが、その一つでメダカとおぼしき群を見た。群は何十年振りかも知れない。童謡のメダカや雀は学校になぞらえら、一斉に揃って動くのでとても可愛い。

雪が消えたばかりの園内はまだ僅かな花しか見えない。少ない分ゆかしい風情がある。

 

 

 

 

早咲きの桜が
野に品を添えている。

この辺りの樹木に名札が付いている。

ナツツバキ。
庭木と異なりとても大きい。
後方の白いものは残雪です。

案内札によるとタカノツメというらしい。
ナツツバキとともに木肌が美しい。

以下は本日の鳥です。相変わらずで申し分けありません。一羽だけエナガを見ましたが間に合いませんでした。

ヤマガラ。

 

シジュウカラ。

 

先々で顔を出したジョウビタキ。

ゆっくりのろのろと2時間ほど歩き、美術館に帰ってきました。

 

美味しかった紅茶とショートケーキ。

真っ盛りになったクリスマスローズ。

四月といえども野はようやくの春。これから一気に花の足が速くなるのでしょう。


童謡「めだかの学校」

1980年代からメダカは減少し、2003年5月に環境省のレッドデータブックで絶滅危惧種に指定された。本日目にしたメダカはいわゆる在来種であるか否かは分からない。
外来種や商品種が多勢を占めた現在ビオトープへの放流なども慎重を求められ魚類学会の厳格な判断が必要とされているという。
減少の原因は農薬による汚染、水田環境の自動化、捕食魚の増加などが指摘され、いずれももっともと実感される。

出かければ何かと新たなものに出会える。先般は貴重なクジャクチョウ、本日はメダカだった。

久し振りの好天の土曜日、美術館はいつもより大勢の方にお見えいただきまことに有り難うございました。

いま四月馬鹿はどうなっているのだろう メギスの旬。

2025年4月1日(火曜日)

寒い三月が去ると本日4月1日も負けじと寒かった。
何十年も前ならば本日は「四月馬鹿・エイプリルフール」で、のどかなことにお互い騙しのようなことをしようとそわそわしていた。

今でもそのようなことをしているのだろうか。あまり耳にしなくなったのでもう止めたのかもしれない。

本日ある在宅のお宅で、お年寄りのトイレの汚しが話題になった。ええ汚します、うちでは犬のおしっこシートを敷いていますよと、介護者さんが言った。
犬のおしっこシート?
四月馬鹿? まさかと思って聞き直した。
介護者さんは、むかし犬を飼っていた時のが沢山余っているので使っています、と言って大きな犬のマークが付いた袋を持ち出してきてシートを見せてくれた。風呂敷ほどあり表裏が吸水、防水され大きなオムツの構造。なるほど便利そうだ。

今日まで犬のシートも知らなければ、お年寄りの汚しに対しトイレに敷くことも初めて聞いた。十人十色の介護では皆さんが思ってもみない努力や工夫をされている事をあらためて知らされた。

昨年植えた啓翁桜。
何も言わないので気がもめる。

夕食のメギスの煮付けと麩と
タマネギの味噌汁、野菜のゴマ和え。
昼食無しで朝夕は玄米です。

亡き妹はメギスが好きだった。メギスは産地が石川、新潟、愛知などに限定されているらしく妹が暮らしていた宮城には無かったようだ。それで一度やって来たときに妻が出すととても喜んで食べた。
なにしろ早く傷むため他に出せず主に産地のみで食されるらしい。

旬は4,5月と9,10月の年2回と出ていた。4月1日は人などを欺さずメギスを食べるのが当県の流儀に叶うようだ。昔好きではなかったが次第に美味しく食べるようになった。

3月30日の徳川美術館と豊田市美術館 そして富士山。

2025年3月31日(月曜日)

3月30日日曜日、午前は名古屋市内の徳川美術館へ、午後はこの旅のメイン豊田市美術館で「黒田辰秋展」を観た。

徳川美術館には開門前に着いた。清々しい園内は啓翁桜であろう箒状に立ち上がる鮮やかな桜が美しかった。美術館の裏手に続く変化に富んだ庭園を一巡りすると開門していて来館者で賑わい始めた。

水と樹木と石と橋が引き立て合う庭。
一部がすでに新緑。

婚礼写真撮影。

館内へ。

煌めく刀剣の光り。

能面の引力。

利休の茶杓。

おひな様の展示が行われていた。

大きな犬のひな飾り。

なまめかしい官女たち

次第に大きく豪華になる雛飾りを幕府が諫めるとミニチュアのような芥子雛が登場し、展示されていた。

時間通りに観て回り、地下鉄鶴舞線の伏見駅から11駅目、豊田市へ向かった。

伏見駅で赤い車体とスーツの人。

伏見から50数分で豊田駅。
新鮮な風光の都市。
トヨタ自動車のお膝元。

美術館は地方都市とは思われぬ大きなスケールの近代的な施設だった。

現在「人間国宝 黒田辰秋 木と漆と螺鈿の旅」が開催されている。終了した京都国立近代美術館と2カ所開催の貴重な展覧会。

案内物。

氏は分業が一般的だった木地師(形成)と塗師の仕事を一人で行った。木工出発の頃、朝鮮の棚に魅せられその模倣に40日間不眠不休で取り組み、金具を取り付け完成させると丸二日眠り通したという。

以下展覧会図録「黒田辰秋」のページからからです。

 

朱漆三面鏡。
繊細な場所に力強さと安定感。
木と漆の相性が造る第三の質感。

拭漆(ふきうるし)欅(けやき)大飾棚。

拭漆楢彫花文椅子。
氏の代名詞にもなる彫花文。

会場には203点の作品が展示されていた。あっちで数点、こちらで一点程度しか見ていない黒田作品が一堂に会されかくも沢山観られるとは夢のようなこと。
古くから黒田辰秋作品はファンが多く、今もって小さなペーパーナイフさえ手に入らない。氏は以下のような言葉を残されている。
・自分の作品には生涯責任をもちたい。
・地球と代えられるだけの作品を作りたい。
・用いられることで道具としての良さが引き立つように作りたい。

扱う木に地球の全てをみて取り組む仕事。どの作品にも神域というような超越感が漂うわけだ。

今回訪ねた名古屋と豊田。どちらも開けて気持ち良く、さらなる可能性を秘めていると感じた。
当地から豊田市への交通は不便だ。名古屋市で色々な人に行き方を訊いたが、そらんじている人は少ない印象だった。そんな中でホテルのフロントと一部のタクシーさんは地下鉄伏見駅から直通が便利と説明してくれ、それに従って良かった。

その一人50代のタクシーさんは父親の介護のため地元に戻りドライバーをしながら見ていると話した。とてもきちんとした人だった。「親の介護は一大事業ですね、頑張って下さい」と言って車を降りた。

帰路の新幹線で窓正面に富士山が現れた。

週末は名古屋と豊田市へ 本日は名古屋の分です。

2025年3月30日(日曜日)

昨日午後から名古屋一泊で豊田市へ。
「生誕120年 人間国宝 黒田辰秋-木と漆と螺鈿の旅-」展を観に行った。「参りました」と言うほか無い木工の王・黒田辰秋。今もなお、いや、さらに高みで静かに力強く存在する人の大展覧会は京都国立近代美術館を終えて愛知県豊田市へ来ている。

数ヶ月前に妻がテレビで観て教えてくれた黒田展。何が何でも行かなければならないけれど、当地から豊田市行きは不便で珍しい名古屋一泊は必要かつ楽しみな行程だった。昨日午後、上越妙高から東京周りの新幹線で名古屋へ、午後5時少し前に着いた。

何処も閉まり、観るだけの名古屋城は開いていて桜も咲き始めていた。珍しい事に名古屋市はタクシーがとても多く移動は便利だった。

髙田の様にぼんぼりは
賑やかではない。

見事な枝垂れ桜の一角。

まじまじと城を観るのは初めて。
高く立派な石垣、重厚な天守閣。
夜の方がきれいではないだろうか。

ぐるりと城を回ったあとタクシーさんに聞いた界隈を歩き、食事処を探し、目に付いたお好み焼きに入った。
場所は宿の近くの納屋橋。堀川の両岸は「なやばし夜イチ日本酒祭 2025」というイベントで、屋台とキッチンカーがずらりと並び、若者達で一杯だった。

洋種の店もあった。

入ったお好み焼き屋はコンクリートのエントランスに水が流れるお洒落な作りで客もまた若者主体だった。

お好み焼きは50年以上も前の東京時代、先輩に連れられて蒲田で一度だけ食べた。器用な先輩は「エヘヘ」と笑いながらヘラでパンパンと叩くや鮮やかに返した。
作る前までは一人前の手付き。

何かまとまりがない。

自己流だが美味しい。

昔の先輩を思い出して作ったがかなりばらけ、一生懸命寄せ集めて食べた。

とても冷えた名古屋の夜、心身温まり楽しいひとときだった。城の行き帰りはタクシーを使ったが朝から数えて9000数百歩は歩いていた。

次回は翌日午前の名古屋市徳川美術館と午後の豊田市美術館を記載予定です。

自然の末席で。

2025年3月28日(金曜日)

気温急上昇から一転、昨夜から肌寒い空と雨に変わり一日中降り続いた。変わりようは同じ空のものとは思われぬほど無表情にひたすら降った。
雪国から南国へ急転、ここは何処だろうと書いたのを知っている如く空は落差を埋めてきた感じ。

斯くお天気は埋め合わせをしたり、突然裏切ったり自在な実力を見せつけてくる。大資本は不測の変化にダイナミックな備えで対応出来るが私達のような個人商店は慌てふためきながら付いて行くほかない。つまり素朴なまま自然界の一構成要素に甘んじることになる。

私には冬鳥のように分厚く強靱な翼や暖かな羽毛があるわけでもなく、寒空の空腹に耐える肉体もない。一点頼れるものはいくばくかの忍耐や楽観を交えた心の持ちようなものくらいだ。

その点で個人としての人は自然界の変わり者であろう。私もそれ以外無いのであたふたしながら自然の末席を汚しながらついて行ければと思う。
ジグザクする空のもと花や樹木は緩やかな時候のうねりに従い芽と蕾を膨らませている。

夕ご飯のオムライスと来客から頂いた
地のシジミの味噌汁。
美味しいシジミだった。

夜になり一旦止んだ雨は静かに降り直している。

三月にして真夏日 初ゴルフ アイスクリーム 啓翁桜 雪割草 内山雅子さんのCD。

2025年3月27日(木曜日)

定期の休診日で今年最初のゴルフに行った。夕刻のニュースで知ったが午後2時過ぎの最高気温が30,0度で真夏日だったという。
今朝7時半に家を出る時は少々寒くウインドブレーカーを羽織り、スタートの8時過ぎに気持がいいですね、と言った。午後2時前に上がったのだがその頃が最高気温だったらしい。

さほどの風も無かったので30度と知っていたなら、暑い暑いとぼやいたかも知れない。知らぬが仏だった。
3月の真夏日は本州では観測史上初めてだという。雪国→南国、一体当地はどうなっているのだろう。

以下本日の写真です。

私にしてはそこそこまとまった
スコアだった。

美術館で食べたりアイスクリームが
美味しかった。

啓翁(けいおう)桜が開花していた。
昨年5本植えた小ぶりな桜は
今後さらに楽しみ。

上掲は昨年秋葉区で求めた雪割草。
株が一段と大きくなった。

夕刻の飛行機雲。

大雪や山火事などの気象災害はすでに露わになっている。考えると切りがないができるだけ穏便に願いたい。

 

さて夕刻、今月下旬にオリジナル2曲を新潟市で吹き込みCDデビューをした内山雅子さんがカフェに来られた。
みなで視聴したが柔らかな声に秘められた情感と確かな音程は生来の才能だと思った。物語を秘めた詩もとても良い。
才能と言えば画才がありセンスの良いイラストは独特で地域の催事には欠かせない存在。控えめだが何でも出来る貴重な人ではないだろうか。

樹下美術館でCDをお預かりしていますので、視聴ご希望の方は仰って下さい。どちらか1曲をお掛け致します。

春の公園、過日の大潟水と森公園と本日の大池いこいの森公園 その付近でクジャクチョウ。

2025年3月25日(火曜日)

暖かな天候に恵まれている。本日の当地髙田で最高気温22,5度と出ていた。1週間前に寒いと感じていたのが、日時によって暑いと言わなければならなくなった。

陽気に誘われて一昨日は大潟水と森公園へ、本日は頸城区の大池憩いの森公園に隣接する自然学習実践センターへ行った。いずれも景観は水辺を有する自然公園でどちらかと言えば水と森公園の方が良く手入れされている。

以下まず一昨日の大潟水と森公園からです。

オオイヌフグリ。
この先もっと盛大に咲こう。

多くのミズバショウの中で
一番きれいだった花。

あちらこちらに伐採された樹木。
海苔巻きのようで、見るとお腹が空く。

見え隠れしていたジョウビタキ。

撮らせていただきました。

帰路の蜘蛛ケ池。

当日は日曜日、美術館へ帰ると田んぼ脇のベンチでベビーカーを交え賑やかなお子さん連れがくつろいでおられた。

そして本日午後は大池いこいの森公園の東隣にある日本自然学習実践センター里やま学校というややこしい名だが素朴な場所へ行った。まず鳥を観れるかと、公園に沿った山裾の農道を走った。

春風が吹く未舗装の道で舞う小さな影は落ち葉でなさそうだった。車から出て近づくと美しい蝶が路上にいた。初めて見る赤い蝶は4つの眼模様を持ち、何とも華やかだった。
越冬場所から出たばかりなのか陽に温まろうとしている風だった。

翅裏は黒いので表がいっそう
あでやか。

差し渡し5㎝前後の大きさ。帰って調べると「クジャクチョウ」とあった。主に高地や北海道で見られるらしいが近時平場にも現れるようだ。

お目当ての学習実践センター(水場をあしらった自然公園)は残雪があり、そこそこ歩けたが西向こうの大池いこいの森へは僅かのところで雪に阻まれた。園内の明るい雑木林。

厳しい冬のためまだミズバショウ、スミレ、イワカガミなど予想した花の姿は無かった。だが特別華やかなチョウに出会えて大満足。

帰路何年振りかの庚申塔。
頸城区日根津願成寺

庚申塔の向こうに早咲きの桜と寺院。

東風(こち)の昼庚申塔の日射しかな

帰路のお宅の桜。

近い所でも出かけてみれば自然はお土産を用意してくれる。例年どおりであっても変わらぬことがお土産になる。まして本日のクジャクチョウは「冥土の土産級」だった。

大好きな濱谷浩作「ホンヤラ洞で歌う子供たち」とその絵はがき。

2025年3月23日(日曜日)

昨日の小林古径記念美術館行きの際、受付前の壁面に濱谷浩氏の「ホンヤラ洞で歌う子供たち」が展示されていた。氏の作品でどれが最も好きかと聞かれればこれと言うかも知れない。

いいですね、と受付で言うと、絵ハガキきもありますよ、と仰る。ほ、ほんとうですか、頂きます、頂きますと思わず口走った。それくらいこの写真が、この絵はがきが好きだった。
7,8年前のことか、古径美術館がまだ無い頃,上越歴史博物館のショップで「ホンヤラ洞で歌う子供たち」の絵ハガキが売られていた。喜んで10数枚だったかあるだけ求めた。当持は今より筆まめで、ハガキもよく使っていたので瞬く間に手許から無くなった。

一、二度再入荷したが残念ながらその後入らなくなった。ネットで調べると京都の便利堂という絵はがき屋さんの品で、コロタイプ印刷という古い伝統的な技法で刷っていることが分かった。
今度はそちらから10枚、15枚と求めているうちリストに載らなくなり、時期をみて当たったが長く出てこなくなった。

私に「ホンヤラ洞で歌う子供たち」は一種夢にまでみる絵ハガキ。それが昨日目前に一杯あるという。20枚、、、いや30枚お願いしますと言って買った。一枚165円だった。

夢の絵はがきが30枚。

机に置いて写真を撮った。
幸福で不思議な写真。

ところで同じ作品の絵はがきでも便利堂のものと少し異なり古径美術館のは縁取りがない。昨日久し振りに便利堂のホームページを見たところ、こっちにも出ていた。一枚275円である。

白ふちで囲むのとカットするのでは印象が異なる。カットされるとコントラストが効いてシャープになり、白い縁が付くと柔らかな印象になる。濱谷氏作品は縁があったほうが氏らしくて良いかも知れない。

さてハガキを良く観てみると、
大きなホンヤラ洞(かまくら)はロウソクが焚かれ、やかんが掛かり餅が焼かれている。手前にはミカンだろうか子供の数だけある。入り口にはゴツゴツと靴が置いてあり、後方の壁に小棚が穿たれ小さな雪だるまなどが供えてある。

ロウソクはじめ内壁、やかん、餅、ミカン、壁の小棚および子供の顔が明瞭なハイライト、一心に歌う子供たちの顔は雪洞とほぼ同じ明るさで髪や衣服、口および靴の黒とはっきりしたコントラストを作っている。さらに精一杯に開かれた口からは歌声が聞こえそうである。
ここに到るまで極めて丁寧な演出を施し何度もリハーサルを行ったのではないだろうか。明るいロウソクがポイントだと考えられるが、こまやかな照明はどのように工夫されていたのだろう。さらに歌をリードしているような左側の大人は誰なのだろう。

それにしてもよく子供たちがこのように自然で幸福な表情になったものだと感心する。そのことを含めて濱谷浩氏の写真は、あの夜の桑取の鳥追いといい、神がかっているとしか言いようがない。

「ホンヤラ洞で歌う子供たち」
昭和31年(1956) 新潟県十日町猿蔵 撮影:濱谷浩

小林古径記念美術館「生誕110年記念 濱谷浩展」と講演会。

2025年3月22日(土曜日)

現在小林古径記念美術館で開催中の写真家・濱谷浩展。本日午後から講演会「濱谷浩・人と作品」が二の丸ホールであり参加した。
戦前、グラフ社から派遣され髙田連隊の冬期演習を撮影した折、地元の研究家から紹介され谷浜の桑取谷に伝わる小正月の伝統行事を撮影。密かで力強い風土の概念を目の当たりにして取り憑かれ、長い写真家としての出発点となっている。

その後大衆、名士それぞれの持ち味、国内外の光りと影、風俗の新旧、地の果てそして告発etc、何かしら人間が関わる森羅万象をあまねく撮らんと世界を駆けられた。

講演会の第1部の講師は多田亜生(つぐお)氏(編集者、濱谷氏の作品管理者)で「濱谷浩 写真の魅力」を、第2部は齋藤尚明氏に学芸員の市川さんが加わり三人で「濱谷浩の髙田時代」を鼎談され多くの興味深いエピソードが語られた。
第一部でブラッサイやキャパの名が出て私のような年令には懐かしくも安心だった。

日本人初のマグナム写真家の証。
氏のヘルメットと腕章に身分証。

鼎談の最後の方で桑取取地区に「濱谷浩記念館」構想が起きた時の話になった。意見を求められた濱谷氏は“作品というのは時代により評価が異なる。何時でも常に光っているとは限らない”というような主旨から構想に同意されなかった事が話題になった。
誰も彼も残したがる世にあって氏の慧眼と謙虚さに驚かされた。晩年はひたすら作品の綿密な整理と記録に打ち込まれたという。マグナム写真家集団への貴重な参加といい、明晰な氏の頭脳と立派な生涯にあらためて畏敬の念を覚えた。

入り口幕。

融雪される古径邸の庭。

膨らむ紅梅の蕾。

濱谷氏筆:古径邸の床「裂古破今」
如何なる時も満足するなの意味か、
厳しい言葉だ。

午後遅く美術館の雀。

髙田で最高気温が20,6度にもなり近づくお彼岸の威力はさすがだ。

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