黄檗山万福寺を訪ねた、その2。

2024年1月12日(金曜日)

午前早くから訪ねた平等院のあと近くのお茶の店「神林」でお抹茶を頂き、同じ宇治の万福寺までタクシーに乗った。
同寺は主要建物23棟と諸回廊を有する中国の明朝様式を取り入れた黄檗宗の大規模な禅宗寺院。

多くの参道で平石が菱形に敷かれている。
これも中国式。

寺は江戸前期開山の隠元禅師から長く中国渡来の僧が管長を務め、徳川幕府からも大切にされた。

12月恒例のランタン祭で使われた飾りが参道の随所にあった。

桃は魔除けと招福の象徴。
すでに十分異国的。

最初の像、天王殿の「布袋尊像」
でびっくり。
中国では弥勒菩薩の化身とされ、
実在した高僧のようだ。

布袋尊を守る四天王
のうち韋駄天。優美な容姿。

 

壮大な大雄宝殿。

明朝式を伝えるなかで特に驚かされるのは大雄宝殿の十八阿羅漢(羅漢)だった。和風の釈迦三尊像を囲むように安置され、釈迦の国インド風というのであろうか、異国の容姿、風貌が目を引いた。

この像は自らの胸を開きそこに釈迦がいることを示している。

賓頭廬(びんずる)尊者。参拝者が自らの不自由な部分を触ると患部が良くなると伝えられる。

勾欄が卍崩しの開山堂。
隠元禅師が祀られている。

開山堂の門「通玄門」
私の名が一字入っていた。

“山門を出れば日本ぞ茶摘うた” 境内にあった句碑。
前後しますが、宇治一帯は古来茶の一大生産地。上記の句は江戸中期、松尾芭蕉を慕い全国行脚をした尼僧の俳人・田上菊舎のもの。私達は平等院のあと門前通りでお茶の名店「上林(かんばやし)」で抹茶を服しました。

通路で見た茶箱と茶壺。

普段同店のお抹茶をよく飲んでいる。
とてもしっかり点てられていた。
万福寺はお煎茶で有名。

さて万福寺を辞しJR「黄檗駅」から電車で京都に戻った。
京都から12:43のこだまで岡山へ。岡山で山陽本線に乗り換え、14:25倉敷着の行程を無事に終え倉敷国際ホテルに到着した。

かなり前から私達の旅行はまず昼食を食べない。そもそも昼食を摂ると眠くなったり疲れが出る、普段そうしていることや、食事場所を探す、待つ、食べるで費やす時間が勿体ないことがある。浮いたお金はタクシー代にもなり、お腹が空くので美味しく夕食を食べれるということもある。

その日、夕刻まで大原美術館を観る、夕暮れの美観地区を散策、近くの店で食事の予定だった。次回その様子を書かせていただければと思っています。

平等院のあと黄檗山万福寺を訪ねた、その1。

2024年1月11日(木曜日)

だれに訊いても勉強の虫としか返ってこなかった父は、昭和11年に大学を卒業すると学問を捨て、渡満し満鉄病院に勤務医として就職した。祖父が知人友人の事業協力などの結果莫大な借金を負い、債務返済のため現金を求めて泣く泣く大学での研鑽を諦め望みもしなかった満州行きを選んだ。

高祖父、曾祖父とも医師で文化の人だったらく、家には貴重な書物や書画が沢山あったという。しかしそれらは借金返済の金作りに東京から呼んだ商人がみな整理し、家にはほとんど何も残っていないと、父母から何度も聞いた。

くだんの商人は客用の布団まで持って行ったようだが、田舎にこんなに良い書画や書物があるとは、と驚いていたとも伝わっている。そして当の祖父母もまた返済を埋めるべく現金を求め、公が募集した北海道の寒村の診療所へと転地している(二人には借金のほかに11人も子供がいて父は長男でした)。

満鉄病院で勤務医となった父は佐賀県出身で看護師の母と知り合い結婚。後年母は父について「病院に賢そうだが年を食い貧しい風采の独身医師がいた。なぜ結婚しないのかと聞くと、“大きな借金を背負っているから”と答えた」と述べている。

そんな訳で父には、江戸末期、高野長英を匿った嫌疑で取り調べを受けた蘭学医の高祖父・玄作や叔父に教育音楽の母・小山作之助がいる一方、人の良い医師である祖父(祖母の見栄や贅沢もあったようだが)によって苦しい前半生を余儀なくされたという因縁があった。

幸い借金は10年掛かって戦後間もなく完済された。
返済ですっからかんになった我が家だが、かろうじて残ったものに臨済宗黄檗派(おうばくは)・万福寺二代管長・木庵性瑫(もくあんしょうとう、1611年- 1684年)の掛け軸と良寛筆と伝えられた書があった。
良寛と伝わるものは品が良く終生父の寝室に掛けられていた。落款は無いが父の死後良寛のお墨付きが付いた。無落款のため商いを逃れたと思われる。
逆に木庵と無落款ながら良寛が残ったということは、ほかに如何に良いものがあったか、ということになり、一方で布団が選ばれたのは当時を被った不景気の深刻さを覗わせる。

父は子供の私でも分かるほど祖父を恨み、私が知っている限り墓や仏壇を参るのを見たことが無かった。
ただ一度変わった事といえば、普段の寡黙に反し大勢の親族が集まった祖母の通夜で、丸めた座布団を背負い東海林太郎の「赤城の子守歌」を歌いながら踊ったことだ。
みな転げるほど笑い私も笑ったが、なぜ父が踊ったのか、なぜ皆があれほど笑ったのか小学5年の私にはよく分からなかった。
昭和19年に祖父が亡くなっていて、祖母は昭和27年だった。振り返れば思いも寄らない父の歌踊は祖母の死をもって借金の呪縛から開放された酔いだったとしか思われない。

それから70年近く過ぎたある日、何気なく仏壇を整理していると祖母の小さな写真立ての裏に隠すようにして祖父の写真が重ねられているのを見つけた。
「どんなに恨もうと親は親だった」。めまいのようなものを覚え異様に胸が熱くなった。

このたびの西国旅行に黄檗山万福寺と玉島円通寺が行程に入った。何とは無しにだったが、いずれも家に残った書に縁があることに気がつき、不思議なことだと思っている。

木庵性瑫筆「山雲石寺鐘」

黄檗の三筆と呼ばれた木庵。淀みなくゆったりしていてとても気に入っています。万福寺は毎年全国煎茶道大会が開催されるほど煎茶で有名です。宇治の寺でもありますので余計でしょうか。

万福寺総門。

軒下に「第一義」の扁額。

第一義といえば何をもっても我が上杉謙信公終生の信条。謙信公ゆかりの春日山林泉寺山門にその扁額が掲げられています。

林泉寺山門の「第一義」

門に同じ扁額を掲げる林泉寺と万福寺の因縁は分かりません。偶然でしょうか。ちなみに万福寺の開祖・隠元禅師は中国からの招かれた渡来僧で、木庵も同じく同国の渡来僧.、寺院は将軍家から重んじられました。

うろ覚えそのもので全く自信がありませんが、母校高田高等学校の講堂(体育館?)の舞台右壁に「第一義」の額があり、入学式に小和田校長がそれについて力説をした記憶がかすかにあるのです。

どなたか覚えている方いらっしゃれば教えて下さい。

さて万福寺を書き始めましたら書き出しで長くなってしまいました。申し訳ありません、万福寺は総門でお終いにし続きは次回にさせてください。

机上メモの取り替え。

2024年1月9日(火曜日)

普段使っている机にA3よりも一回り大きいメモが乗っている。ブログをみると2019年夏から始めているようなので4年半くらいは続けている自己流の机上メモです。

大抵は終わったカレンダーの裏を用いて、書き物や調べ物でチョッチョッとメモる紙です。およそ4,5ヶ月から半年くらいで一杯になりますので替えますが、この度は昨年8月のを終わりとしました。。

以前はコロナ関係の記載が目立っていましたが、この度はスマートフォンの使い方、行事予定、美術関係、昨秋購入のプロジェクターほか買い物予定、気になった英語、ブログ向けの調べなど雑多で、キリスト教のメモも見られ懐かしさを覚えました。

主にボールペンで書き、必要度の高いものは赤で、時には一度書いた上にマーカーで書くなどかなり徹底して使いました。

使い古したメモ。

この度はやや小さな紙に替え、
しゃんとした気持になりました。
最初のメモはなんでしょうか。

さて本日夕ご飯前、スマホがぶーぶー、ぶーぶーと鳴り緊急地震速報が知らされた。すぐにぐらぐらと来ましたがじきに止みました。震源が佐渡付近、当地の震度は4でした。佐渡、能登半島北部、上越市の位置関係はほぼ二等辺三角形を描きますので不安です。

昨日から雪が降りました。

昨日の降雪。

上掲写真は昨日仕事場から潟町駅に向かう道路。一応消雪パイプが通っていますので助かります。本日はほぼ止み、積雪は15センチほどです。

次回の本欄は正月旅行2日目、平等院に続き同じ宇治の黄檗宗万福寺を書かせて頂く予定です。

長きあこがれ宇治平等院で。

2024年1月8日(月曜日)

正月は8日となり本日月曜は成人の日。
かっての自分のその日は東京で浪人中で、受験を控え式の意識は皆無だったのではなかったか。

その60年前に夢想だにしなかった今年正月の短い西国旅行。本日は去る1月2日、幼少からの憧れ宇治平等院行きを記したい。
小学時代の高学年、切手を集め始めていた。安くても手に入る記念切手に混じって国立公園などの名所切手をあこがれとともに眺めていた。
中でも特に気に入っていたのが錦帯橋と宇治平等院だった。錦帯橋は2012年母の遺影をリュックに佐賀県の菩提寺を訪ねた帰路岩国に寄って念願を叶えた。

錦帯橋
昭和28年発行の観光地百選切手

そしてこのたび1月2日午前早く、80過ぎて初めて平等院を訪ねた。

平等院鳳凰堂
昭和25年発行国宝シリーズ切手
いずれの切手も今は手許にありません。

 

初めてこの目で見る平等院鳳凰堂は
想像を遙かに超えて素晴らしかった。

 浄土か来迎か
「平等院雲中供養菩薩」の図録表紙

地下の鳳翔館の壁や美しいガラスケースで観た雲中供養菩薩像群には有り難くて言葉も無かった。展示されて20躯を越える菩薩はそれぞれ細い輪光を負い法衣をなびかせ、麗しい雲に乗って合掌し、楽器を奏で、法物を手にするなどして天から軽やかに降りてくる風だった。

鳳凰堂と庭園は浄土を表すようだが、雲中供養菩薩は一つに浄土の表象でああろうが、死を迎えようとする者を来迎し供養するために降りてくる大事な役割を負っているのではないかと写った。
これまで800例前後の看とりを経験したが、それぞれの場面は全く様々で、その都度“ああ今この人は自らの苦楽を終えられ冥界に入られた”と胸に刻み合掌してきた。多くの人でそうだったが、父、母の時は加えて人生のあまりの「はかなさ」に涙が止まらなかった。

しかし平等院で多くの慈悲に満ちた菩薩の来迎する様を見て少々考えが変わった。
老いや病でお終いの喘ぎの際に、どこからともなく漂い集まる菩薩たち。私達にはそれが見えないし聞こえない。だが見えも聞こえもしないゆえ余計に尊いのだろう。長く苦しんだ人も突然の人もそれこそ「平等に」そっと慈しみを受け供養される。

しかし私にはその後死者はどこへ導かれるのかはまったく分からない。
もう50年近く前のことある先人に尋ねた、私の祖先だけでも何千何万人もいて挨拶回りでけで明け暮れするかもしれない。まして全人口ときたら何億何兆の不死の先祖であの世はぎゅうぎゅうだろう、たとえ極楽でも、と。

日頃、死はただ一点、生命の終息現象であり、あの世は多分無く、この世で全てが完結していると思っている。そしてこの度の平等院の雲中供養菩薩をみて、死の床で最後に苦しむ者に対して、様々に麗しい菩薩たちがやってきて、経を唱え音楽を奏で苦楽の生涯を祝福(供養)し救済するイメージをこの胸に仕舞った。

臨終で死後数十分するとおよそ皆それまで見たことが無いような穏やかな顔になる。もしかしたらその間に諸菩薩が心込めて慰め供養してくれからではないのか。
その後を問うのは自由だが、少なくとも何千何億という人々の精一杯の苦楽や修行の末に生まれたであろう雲中供養菩薩の姿と振る舞いは人生の終末にまつわる形而上の曖昧さに対する一つの正解かもしれない。

※生前、諸菩薩に癒やされ励まされるのは勿論ですし、より安寧な死後世界があるとする考えも真っ当だろうと思っています。

正月の西国旅行 一日目京都。

2024年1月7日(日曜日)

昨年正月は隣県長野の別所温泉の一泊旅行をした。安楽寺の国宝三重の塔は静寂の中、夜半に降った僅かな雪で各層の縁が白く染まり、それは美しかった。

今年はせっかくだから温かい地方へということで、京都、倉敷、高松に一泊ずつして西へ向かい、4日午後最後に備中玉島へ赴き、江戸時代に若き良寛さんが修行した円通寺を訪ね、何とか無事な正月旅行を終えた。
一日目の午後京都で知った能登半島地震。終始気をもみながらの旅だったが、間もなく82才を迎える旅行記念として本欄上に拙い足跡を残すことにしました。

午前11時半ころ金沢駅で、
車椅子の方を待つ駅員さん。

京都の宿は駅に繋がったホテルで移動には便利だった。

元旦らしくスタッフは着物姿。

早速のめあてを訪ねる
「泉涌寺(せんにゅうじ)」の長い参道。

同寺は数ケ寺の塔頭を有する皇室の菩提寺。

初めに左手前の「戒光寺」
寺院の正月花はいずれも見事だった。


大きさと美しさに圧倒された
「戒光寺」の「丈六釈迦如来立像」
運慶・湛慶親子の作とされる。

戒光寺を出て長い参道を歩くと深閑とした山あいに「御寺 泉涌寺(みてら せんにゅうじ)」の大きな伽藍が現れる。

宗代の「楊貴妃観音菩薩」
異国情緒の表情と宝冠。
(絵はがきより)

立派な浴室。
当時は蒸し風呂の形式。

泉涌寺の水源である「泉湧水屋形」。
左手に清少納言の歌碑があった。

歌「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも、よに逢坂の関はゆるさじ」は百人一首に。

壮大で格調高い伽藍。

 

皇族方の陵墓である、
月輪陵(つきのわのみささぎ)を望む。

寺院の随所に菊のご紋章。

 

泉涌寺を出て歩くと右側に「即成寺(そくじょうじ)」。境内裏手に那須与一の大きな墳墓があった。
数日後、高松往復の海上で源平合戦の那須与一にまつわる屋島が繰り返し見え隠れし、旅情を誘われた。

即成寺の高札を観ているときに頭がくらくらとして、何か発作が起きたと思った。間もなく東京の長男から電話があり、能登地震を知らされた。
京都は泉涌寺とその塔頭二ケ寺を回った。

 

ホテルから見た京都タワー。

本日1月7日午後、上下浜は坂田池付近の雪。

雪はこの程度にしてもらいたい。

正月のこと 地震と旅行。

2024年1月4日(木曜日)

拙ブログの読者の方々、ただいま帰りました。
実は正月1日午前、かねて計画していた3泊の旅行にでかけ、本日4日夜、先ほど11時に帰って来ました。

地震を初めて知ったのは京都でした。到着後に訪ねた寺院から出て間もなく、東京の長男から「地震大丈夫?」という電話でした。私達が上越にいるものと思って掛けてきて、私の反応は「地震て何?」でした。
電話の直前、寺院から表に出て、あらためて高札を読んでいると急に頭がふらふらとなり、2年前に心臓発作を起こした時に最初に襲われた症状に似た感覚がしていたのです。当日のことが脳裡をよぎり強い不安を覚えましたが、これが京都に波及した地震の揺れだったのです。

長男からの第一報を聞き、上越に戻ることも考えましたが、宿に帰ってテレビで観た被害と遮断された交通からとても帰れるものでは無いことを知りました。また家の近くの甥が見回ってくれた大潟区の仕事場と頸城区の美術館の状況が深刻ではないことが分かり旅を続けることにしました。

お陰様で京都、倉敷、高松と泊まり、本日備中玉島の円通寺を訪ねたのを最後に帰宅したという次第です。
夜遅く帰宅、散らばった本やCDを片付けるとお腹が空き、今ほど夜食を食べながらとりあえず本日分を記載しているところです。

1日と3日の記事は出かける前に予定投稿をしましたので、特に3日の「ノンアルに酔う」は地震と無関係なもので、ご不審をお掛けしてしまいました。

申し分けありませんが、本日は遅くなりましたのでこれでお終いにいたします。
後日旅の事などご報告出来ればと考えています。

中心被災地の皆さまには心からお見舞い申し上げます。
二次的な生命と健康被害は今後さらに深刻さを増す事が想像されます。支援として自分に何ができるかあらためて考えたいと思っています。

一日1万歩は歩いた旅でしたが、妻共々元気に帰った事を報告させてください。
今年もこれに懲りず、どうか宜しくお願い申し上げます。

ノンアルで酔う。

2024年1月3日(水曜日)

年末年始はお酒の季節です。過日のこと、初めての方を交えた食事の席で少々変わった事が起りました。

総勢5人の夕食会、普段アルコールを口にしませんので私一人メニューのノンアルにあった巨峰の葡萄ジュースを頼みました。初めてお会いする人もいて緊張も楽しみもあり、巨峰ジュースもとても美味しかったのです。

時経るに従い一同和気藹々となりました。若き日のこと、趣味、文化芸術など話が弾みます。ところがどうでしょう、座が興じるにつれ私の胸は高鳴り、顔が火照るのを感じましす。
たまにはこんなことがあったかも、と思いながら、あるいは皆さんのアルコールが漂い、なにかしら私にも効いているのでしょうか、酔い心地のような気分を覚えるのでした。

「私、赤くなってない」と傍らの妻に訊きました。
「あら、真っ赤よ」と妻は言い、皆さんも口々に「赤くなっている」と言いました。
ほっぺたを触ると熱く感じます。これはノンアルでは無いと確信し、お店の人にグラスを渡し、確かめてと言いました。
ややあってその方が来ました。
「済みません、注文されたジュースの隣のアルコール入りをお持ちしてしまいました、本当に申し分けありません」
と言って別のグラスを持参されました。
同じ赤色でしたが、ずっと薄い色になっていました。
だがそれも冷たくシンプルでとても美味しく、今度は安心とばかりゴクゴクと飲みました。

こんなことがあるんだね、と話が盛り上がり、宵を薄めるため水も沢山飲みました。時間が経つと顔のほてりが薄らぎ気分は次第に元に戻りました。
楽しい食事が終わると帰宅です。店の方は、私達の責任ですからと仰り、車を二台用意し店の人が代行運転をして家に送り届けて下さって一件落着となりました。

以上ですが、私はアルコール検知器のように正直に反応すること、葡萄ジュースはアルコールが入るととても美味しくなることが良く分かりました。

ところで今どきの若い人や外国人の中には食事でアルコールを飲まず、水にする人が時々います。外食なら妻はビールなどを少し飲みますので、飲まない私は喜んで行き帰りの運転手をします。
但し記念の祝賀会などの宴席では、水だけだとどうしても居心地が悪く、落ち着きません。
宴会は酔ってのんぼのものですから、しらふだと時間とともに興ざめし、相手の方にも申し分けなく恐縮至極の気持を否めません。初対面の方にはなおさらです。

そもそも私はADHDといってアルコール分解酵素がほとんど無い体質です。アルコールが強く悪く作用するのです。その結果食道癌発生率が通常の70~150倍も高いのです。そのためでしょう、6,7年前に食道に前癌状態の小さな異常が発見され経過観察となりました。また21年の心筋梗塞ではビールを飲んでいる最中に動悸とともに失神して倒れました。

それでは宴会はどうすれば良いのでしょう。一つは、親しい人たちや仲間の会ではノンアルを飲む。もう一つ、知らない人が混じる会、特に祝賀会・宴会は欠席することです。もう年ですから十分ですということも理由として通りはしないかと思っています。
ちなみに、
「少しいかがですか」
「済みません、車で来ましたので」
「いいじゃないですか、代行を頼めば」
ここで体のことなど持ち出せば興ざめですし、ただ「申し分けありません」としか言いようがないのです。

宴会で飲まないのも困りますが、飲まなければ楽しくないのは困りませんか。

 

新たな年になって。

2024年1月1日(月曜日)

 

2024年になりました。

 


正直者や弱い立場の者が報われる世の中に近づきますように。

このことは政治と社会の第一の課題として、何度でも何度でも繰り返し取り組まれるべき問題ではないでしょうか。

何度でも 何度でも 何度でも。

“個々人の幸せこそが国を愛し国を強くする底力となるのではないでしょうか”

今年を振り返る。

2023年12月31日(日曜日)

本日大晦日。ますます月日は早くなりますが、どうしようもありません。それについては深く考えず、ぼかかしながら身を任せるのでいいのではないでしょうか。そのなかで何か新しめいたことや、人の情けに出会うことがあれば喜ぶ、そんな毎日と一年でした。

本日はざっと一年を振り返りました。

美術館の催事としまして、3月15日「齋藤三郎の壺点」「倉石隆のお嬢さん展」から開館し、途中から上越市小林古径記念美術館で「齋藤三郎生誕110年展」があり、当館から30点近く出品しました。そのこともあって陶芸ホールでは「洋食器展」、「館長の写真展」、「館長の絵画展」、「篠崎正喜展」、「絵付け陶芸三人展」を次々に開催しました。

めまぐるしかった企画展。消耗もしましたが結果として無事開催させて頂きました。お世話になった皆さま、ご来場の方々には心から御礼申し上げます。

「齋藤三郎の壺展」

「倉石隆のお嬢さん展」から

「洋食器展」から

「館長の写真展」から

「館長の絵画展」

「篠崎正喜展」から

「絵付け陶芸三人展」から

そのほか何かと忙しい年でした。

3月、「裏千家今日庵新潟支部総会」
総会後茶会の有沢先生のお席
この日何か表彰を受けた。

9月、髙田文化協会60周年記念祝賀会
特別講演された堀口すみれ子に花束

9月、齋藤三郎生誕110年展で
ギャラリートーク

齋藤尚明作陶50周年記念祝賀会で

今年は何度か記念の会があり挨拶などをさせられました。81才になり賞味期限が過ぎた証しにほかなりません。

当館の催事では10月の篠崎正喜さんによる「生成AIと美術」の講演会を致しました。篠崎さんらしい独自の感性とトレンドに対する的確な指摘は大変に有益でした。

個人的には

正月に別所温泉の一泊旅行で始まりました。初めて訪ねる信州塩田平は清々しい場所でした。

5月に随分久し振りに軽井沢で友人と、春秋の2回タッフのご主人とルフをしました。8月は患者さんの倅さんが出たこんにゃく座の二人芝居を観て、婚約者を連れた甥っ子と食事、10月は上京し六義園と護国寺を訪ね東京芸術劇場で同郷の先人汐澤安彦氏指揮の白金フィルを聴き、大潟区でチェコ在住の吉川区出身ピアニスト市村幸恵さんとチェコフィルのコンマス・バイオリニストとオーボエ奏者のアンサンブルを聴き、10月にある医師の開業20年コンサートを聴きました。今年春・夏に木村茶道美術館でお茶を飲み、そちらのスタッフさんからも当館へ訪ねて頂きました。

鳥では冬の田で沢山ハクガンを撮り、柿崎のシロチドリに接し、くびき憩いの森でなんとかエナガを撮り、先日は今年初ハクガンの大きな群と出会い幸運でした。

医療では軽症化し5類になったコロナの例数は減らず、一方インフルエンザが紛らわしく混じった。在宅と施設で6人の看取りもあり夜間や深夜に出かけた。お一人は不在にしたため他の先生のお世話になり本当に申し分けなく思っています。

買い物では初めて百均とユニクロに行きとても新鮮でした。

知人友人に闘病する人が何人かいます。懸命な取り組みによって良好な状態ですが、心から応援をしています。

一年間お世話になったお客様患者様、当院、当館のスタッフ、心から感謝申し上げます。
沢山お世話になった上越市立小林古径記念美術館館長さんとスタッフの皆さまに深く御礼申し上げます。

昨日雪中クリスマスローズ

どうか良い年をお迎え下さい。

びっしりの電線雀、変わった発信器を付けたコハクチョウ、突然現れたハクガンの大群。

2023年12月29日(金曜日)

昨日木曜日は仕事休みの日。午前から午後のいっとき、年賀状を仕上げ、手紙を1本書き、読書(海辺のカフカの再読開始)をしました。年賀状は以前医師会の仕事をしていた頃に350枚もあったのが減り続けて今年は180枚でした。

気持ち良く晴れた昨日、白鳥を探しに車を走らせました。目的地の前に気になった場所へ寄り道をしました。田んぼに4,50羽のコハクチョウの群が二つ見られました。
車を止めた所の電線に今どき珍しくビッシリ雀が並んでいました。長く数を減らし続ける雀がこんなにいるのは非常に珍しく、昔のようでありほっとしました。

ビッシリ並んだスズメ。
電線と田を往き来してました。

コハクチョウを撮りながらふと見たモニターの個体の首にバンドと変わった物体が付いている事が分かりました。足環なら分かりますが、カメラ?のようにも見えます。何でしょうか、初めて見ました。

 

 

イヤがっているようで
外そうとしている様子です。

バンドが回り、拡大すると
41という数字が書かれていました。

驚いた事にもう一羽、
同じ首輪をした個体がいました。

初めて見た機器に最初はカメラかと思いました。ふる里シベリア(ロシア)の機関による飛翔先や経路などの生態調査でしょうがカメラなら満一軍事目的かもと心配しました。
調べてみるとやはりロシアの調査機関がつけている太陽電池による位置情報の発信器らしいことが分かりました。

白鳥は首の発信器を嫌っているように見えました。調査研究とはいえ度を越えた過重な負荷が掛かっていないでしょうか。見ていて可哀想に思いました。

そうこうしていると、突然遠くから盛大な鳴き声とともに雁の群がやってきました。午後3時すぎですので朝日池に帰っても良い時刻ですが、大挙して反対のこちらに向かってきます。

大編隊を組んで高らかに鳴きながらやって来ます。通過するかと思われたのが、頭上で何度も旋回を始めました。

近くに来た雁は白く、ハクガンではありませんか。年明けてから、もしかしたら来ないかも、と思っていたのが突然現れたました。しかも私自身見たことが無いほど大きな群です。

翼の両端が黒く、とてもきれいです。

2回3回と頭上を旋回しながら降りて来る。

旋回するたびに一部が舞い降りる。
美しい花びらのようだ。

全てが降り、しばらく賑やかに
鳴き交わす。

落ち着くと餌を漁り始める。

今年生まれの若鳥が混じる。

首輪のコハクチョウと一緒に食餌。

ああまさか、まさか、予期せぬ鳥が予期せぬ時に、しかも大挙して目の前にやってきた。なんという幸運だろう、胸は高鳴りレンズから目を離すことが出来なかった。

本日はここでびっしりの電線雀、変わった首輪発信器をつけた二羽のコハクチョウ、予期せぬハクガンの大群に出会った。何か罰でも当たらなければ良いがと、用心しながら帰ってきた。

それにしてもハクガンは何時飛来したのだろう、ほかにも群は来ているのだろうか。

何十年も前、愛鳥家たちはたった一羽で飛来したハクガンに大騒ぎした。それが今日大きな群となって現れるまでなった。関係する国々の研究者の長い保護活動の成果にちがいない。

日本を、この地を忘れずに飛来することがとても嬉しい。

雪と白鳥たち。

2023年12月27日(水曜日)

12月21日から降った雪は人間の交通とともにコハクチョウたちにも影響を与えた。雪は地面ばかりでなく湖面にも積もる。そのため白鳥がねぐらとしている朝日池は1週間ほど雪に被われ水面を見る事が出来なかった。
こんな場合彼らは近隣に散らばり髙田のお掘、とくに南堀などへもねぐらを移す。南堀は関川からの水流があるらしくよほどでないと積雪しない。そのため2021年の豪雪時は相当数が移動し難を逃れていた。

本日の上越タイムスに南堀の白鳥が掲載された。写真の提供者は知人のHさんだった。毎年彼女は南堀の白鳥を楽しみにして観察されている。鳥は雪の状況によって朝日池を往き来するのか、掘を定住としているのか。いずれにしても住宅が近いお堀の白鳥は、より優雅に見える事だろう。

上越タイムスの白鳥。
とても良く撮れている。

さて本日午後は今年最後のA特養の回診。常に重篤な方あるいは問題を生じている人がいる。そのうちのお一人について医師会にお願いして胸部と腹部のX線撮影をしてもらった。医師会検査センターでは施設や在宅へポータブル撮影機を搬入して撮ってくれる。

回診の後、診療時間まで新柿線を走り白鳥を探した。柿崎に入った所にかなりの数の群がいた。一面の雪だった田んぼはこの所の雨と気温上昇でかなり融雪しているので白鳥には食餌しやすくなっていることだろう。

雪の田で白鳥を見るのは久し振り。

この群は灰色の若鳥が少なく、
群が雪のように見える。

群の端っこにいた二羽の若鳥。
灰色なりに優雅だ。

夕刻には医師会から撮影されたX線写真のディスクが届き、心配した所見は無く胸を撫で下ろした。

以下拙夕食料理です。

マカロニグラタン

 春菊とタコのサラダ。

 頂き物で、ご自作のクリキントン。
この方の料理とお菓子は抜群。

一先ず峠を越えた雪 土井先生のチキン ホワイトクリスマス。

2023年12月24日(日曜日)

一昨日当欄でドカ雪ぶりを記したが、どうやらその日がピークだったようだ。予報ではしばらくの間、さほどの寒波(降り)はなさそうだ。

当地は昨夜から雨風交じりとなった。風も雨も雪を減らすので50センチ前後あった積雪は半分近くになった。

 

午後の美術館。

以下は本日一時陽が射した近隣です。

近隣の田と道。

真ん中に焼山、左が火打山、
右の遠方は糸魚川方面の山々。

土井善晴さん風のチキン。
妻は簡単で美味しい土井先生ファン。


ホワイトクリスマス。

昔の若者にはクリスマスソングと言えばこれくらいしか無かった。その後のクリスマスソングは具体的でややこしく、あまりholyな感じを受けない(爺まる出しでした)。

昨夜からの本降りはドカ雪?

2023年12月22日(金曜日)

夜半から本降りになった雪は上越地方一帯に降り、当地でも4,50センチの積雪になった。日中止むこと無く降り続く様は恐怖感があり、今夜の降り方次第では災害級となるドカ雪の気配となった。

午後所用があり美術館を往復したが、国道以外の枝道は一定の幅はあってもひどく凸凹しておりハンドルを取られて怖い。また国道に出る細い市道を進んだ車が国道脇に積まれた除雪塊に阻まれて動けず、ドライバーさんがスコップを振るって脱出を試みていた。とても可哀想だったがいつ自分がそんな目に遭うかも知れない。
そんなことから本日二件の在宅訪問の予定をご本人に変わり無いことを確かめて延期させてもらった。

ところで本日昼、所用があり上越市髙田の脳外科医に電話をしたところ、午後から10件の訪問や往診の予定があるという。20年も前なら在宅医療の取り組み熱が高く、私にも月に5、60人の対象者さんがいて、雪の日も大勢回っていた。
今日施設入所と病院医療に移行される在宅患者さんが増えたが、今まだ訪問日に10件もの用件を引き受け実施される医師の熱意に畏敬を覚えた。

本日昼駐車場の妻の車。

以下久し振りの本日の夕食写真です。

 肉うどん。

鶏肉と白菜の煮込み。

夜になり風が吹いてきた。風はイヤだが吹くほど積雪は減る。予報では明日も雪が続くと言われている。出てきた風が積雪を妨げてくれれば良いが。

4,5年前ならこの程度の雪に怖れをなすことは無かった。それが何かと怖じ気づいてしまうのは年のせいであろう。

今年二つめの初店舗 痛みの少ない注射。

2023年12月20日(水曜日)

この年になって今年初めて入った店舗が二つある。一つは「百均」でもう一つは本日の「ユニクロ」だった。
いずれも大変よく耳にする店だが、もう私には縁が無いものと思っていた。しかるに百均は4月に美術館用の文房具、6月は拙写真展のためのミニイーゼルの用事だった。
望み通りの品があるか心配したが、あるある。そのうえ2回ともとても安くて驚いた。店内は明るく、家族連れや若い男女で賑わっていた。

そして本日のユニクロ。黒と白のスラックスを買いに行ったのだが、種類サイズなど品揃えが親切で選びやすく、サイフにも優しい価格だった。これまで必要に迫られてしか買わなかった服装品だが、館内は爽やかで買いものを楽しむ場所でもあるかと思った。

 本日ユニクロの駐車場の雪。

明日21日木曜日は強い寒波の予報。そのため敢えて本日外出した人が多かったのでは。診療所にもそのような人が少なからず来られた。

そのうちの一人、3才の女の子さんはインフルエンザのワクチンだった。ワクチンでよく泣き騒ぐ年令だが、このお子さんは落ち着いた
目をして構え、表情ひとつ変えずに終えた。「我慢強い」というよりむやみに騒がない「賢い子だなあ」と思った。

注射の痛みでいえば、そもそも針はごく小さいため射す痛みはまず無い。痛みは薬液を押す時に生じるが、ごくゆっくり注入すると痛みは軽減(時にはほとんど痛くない)する。
薬液0,5ccだと8から10秒かける。この場合、痛くてもすぐ終わるのが良いか、時間をかけても痛みが少ない方が良いのかは問題だ。だが子どもさんにはもう一回することが多いので、2回目の恐怖心を和らげる意味でも前者が良いのではと思っている。

直前に「優しくしましょう」とか「そっとやるからね」と言うが、大人にも言うことがある。

念のためですが、上記の方法は普通一定の痛みを伴う皮下注によるインフルエンザワクチンの場合です。

明日の雪は果たしてどんなでしょうか。

初雪となって 今日の冬鳥。

2023年12月19日(火曜日)

昨日髙田で6㎝の初雪、当地域にもちょっぴり降った。アラレならすでに何度も降っているが「雪」だったことが大事で、これで冬になったと知らさせる。
美術館周辺の雪は昼には跡形も無く消えてしまい、冬将軍が覗き見をした程度だった。

以下写真は頸城区下柳町付近の白鳥とマガンです。

白鳥の群は大きくはなかったが
マガンは数多くいた。

私の狭い観察範囲では賓客ハクガンの姿はまだ無い。例年積雪してからやって来ていたが、そろそろ現れるのだろうか。

この先明後日から相当の寒波に見舞われ、10年に一度レベルという予報があった。当地は少ない方だがドカ雪は別。およそ三ヶ月間、上越地方の生活に雪は深く関わってくる。ハクガンはまだか、などと言ってると笑われかねない。

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